木山正博の苦悩

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木山正博の苦悩

日に日に募る孤独感と、どうしようもない淋しさ。 心の亀裂に、容赦なく吹きすさむ空っぽの風は、友人や同僚らの心配をよそに、木山正博の精神を蝕んでいった。 日曜日の昼間に、近所のスーパーで買い物をしている自分の姿を、数年前は想像も出来なかっただろう。 意味も無くフードコートの端の席で休み、同世代の家族を眺めながらコーヒーを啜ると、理由もわからないままに涙が零れていた。 だが、深く考えたりはしない。 正博の防衛本能がそうさせた。 妻の凛子が胆嚢癌で他界して一年。 蘇る想い出と葛藤しながら、食品売り場を歩く。 肩にぶら下げたマイバックは、凛子の好きなうさぎの絵柄がプリントされていて、食パンを買う毎に集めていたスタンプを、応募はがきに貼り付けていた横顔はなんとも愛らしかった。 正博は時々思うことがある。 いつも傍にあったあたたかい身体を、どうしてぎゅっと抱きしめられなかったのだろうと。 何故、素直な気持ちを言葉にせずに、拒み続けたのだろう。 凛子に遭いたい。 凛子に触れたい。 凛子と話がしたい。 「君は、俺を・・・」 その先の言葉をしまい込んだまま、時間だけが虚しく過ぎていく。 それでも、凛子が残してくれた「お助けノート」のお陰で、家事をそつなくこなせるようにもなっていた。 料理の腕もあがり、洗濯には柔軟剤を使うようになった。 ノートの最後には。 「辛くなったら、誰かに助けを求めてね。ごめんね」 正博は、らしくない凛子の乱れ文字を指でなぞりながら、いつも泣いていた。 ひとり息子の翔太には、絶対に見せられない姿だった。 「これじゃあいけない」 と、自分に言い聞かせて食材をカゴに詰める。 今日の夕食は、手羽元とじゃがいものトマト煮込み。 そして栄養価も考えて、シーザーサラダとたまごスープに決めた。 翔太の為に、好物のプリンも買った。 自分用にと、発泡酒も一本つけて会計へ向かう。 セルフレジに戸惑いながら辺りを見渡すと、店内は多くの買い物客らで賑わっていた。 生きていたら、来月のクリスマスイヴに33歳の誕生日を迎えるはずだった凛子…。 哀しみも癒えぬ間に、過ぎゆく時間の恐ろしさを痛感しながら、仕合わせそうな家族連れを目で追って。 「これじゃあいけない」 と、自分のもろさを振り払い、翔太の気持ちを考える。 自宅の固定電話に残された凛子の声を、翔太は毎日聴いているのだ。 誰にも迷惑をかけまいと、翔太は何も語らない。 「父親として、今、何をすべきなのだろう?」 正博は自問しながらも、店内に響く心地よい女性のアナウンスに耳を傾けた。 「1階フロア。サイクルコーナーでは、通勤通学にぴったりの自転車を多数取り揃えております。地下フロア。寒い季節にぴったりのー」 微かに鼻から抜ける声。 息継ぎのほんの些細な間。 「さあ。もうすぐクリスマス。きっとー」 正博の心は掻き乱された。 どうにもならない苦しみに、鼓動が激しく高鳴っていた。 何故ならその声は、偶然とは思えない程、凛子に似ているからだ。 正博は、もう一度聞いてから帰ろうかと悩みつつも、そんな愚かさを戒めることが出来た。 「これじゃあいけない」 正博が、さいたま市桜区の住宅街にマイホームを構えたのは22歳の頃で、大学を中退し、アルバイト先のイタリアンレストランに就職した時期だった。 凛子も当時、同じ店で働いていた。 互いに惹かれ合い、交際を経て結婚し翔太が産まれた。 ありきたりの幸せな家族とマイホームは、笑顔のなくなった父子家庭と、辛い記憶の大きな箱になってしまった。 正博は門の前で頬を叩き、深呼吸をして玄関へ向かった。 その頃翔太は、リビングの大き過ぎるテーブルに肘をついて『声』を聴いていた。 入院していた病院や、ホスピスから声を聴かせてくれたママ。 いないことは知っていた。 だけど、ママを忘れたくはなかったから、毎日声を聴いていた。 『翔太ぁ、友だちとは仲よくしてる? 今日ママね、ちょっとだけおさんぽしたの。ネコちゃん見たよ。まっしろなやつ。ママね、もうすぐ帰るからね』 日に日に弱々しくなるママの声。 それでも翔太には充分だった。 すぐ近くにママがいる。 そんな気がした。 『翔太の元気な顔みれたからママも元気になったよ。おみまいありがとね。ちゃんとはいしゃさんいくんだよ、翔太は男の子だもんね』 この電話があった日から毎日、翔太は歯磨きをするようになった。 約束を守る事で、ママが元気になると信じていた。 『翔太ぁ、ママね、もうちょっとだからね。そしたらパパと、翔太とディズニーランド、いこうね』 このメッセージから1週間後に、凛子はこの世を去った。 翔太は悔しかった。 「ボク、約束守ったもん…ママも約束守ってよ…」 時計の針が、カチカチ、コチコチと音を刻んでいる。 玄関の扉が開く音がする。 翔太は電話機のスピーカーボタンを切った。 「今日はチキンのトマト煮だぞー! 腹ペコだあ!」 正博の明るい声が、翔太にはとても辛かった。 「パパはママのこと、もう忘れちゃったの?」 夜 凛子を驚かすために買ったダブルベッド。 そのベッドを凛子は見ていない。 隣でスヤスヤ寝息をたてている翔太の頭を撫でながら、正博は目覚まし時計をセットした。 『6:00』 翔太の弁当は、トマト煮をたまごで包んでオムライスにした。 仕事は無理を言って17時退社にしてもらっていたが、いつまで続けられるかは解らなかった。 日曜日の夜になると、決まって不安になる。 正博は、ため息をついて翔太の頬を撫でた。 プリンのように柔らかいほっぺたは、生暖かい涙で濡れていた。 それでも翔太は眠っている。 正博は、翔太のからだをそっと抱き寄せた。 凛子がよくやっていた仕草だった。 ふと、スーパーで耳にしたあの声が気になった。 凛子にそっくりの『声』が、正博の心から離れないでいる。 スーパーの店長と正博は、高校時代の同級生で部活も同じサッカー部だった。 正博は、翔太の温もりを感じながら。 「凛子の声を、翔太にもう一度聴かせてやりたい」 と、考えていた。
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