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声優
浦和の保育園からの帰り道、かなでは普段では立ち寄らない駅中の、ちいさな花屋で赤いガーベラを2本買った。
一輪挿しにしなかったのは、頼りない長い茎が不安定で、それなら支えが必要だろうと考えてのことだ。
まるで自分達みたいだと思うと、かなでの気分は幾分か和らいだ。
店頭に並んだポインセチアやクリスマスローズには目もくれず、レジ横にひっそりと並んだガーベラを購入したのには理由があった。
木山凛子は、クリスマスになると赤いガーベラを好んで飾っていたのだ。
かなでは凛子に近付きたい一心で、その生き様を探し、彼女が残した言葉をノートに書き記していた。
保育園に出向いたのもその為で、お遊戯会や卒園式の録画に映る木山家の姿ーとりわけ、凛子が発した言葉を拾い上げ、彼女の生きた証を文字に認めるーかなでの役作りは、地図のない航海と似ていた。
スマホにインストールした凛子の声を、かなでは電車の中や入浴剤中でも聴いて、会ったこともない、ただ声だけが似ている女性の人物像を、来る日も来る日も想像した。
しかし、日が経つに連れてかなでは憂鬱になった。
「ただのモノマネ」
かなでは、疑心暗鬼に苛まれていた。
一方で、矢島は協力的だった。
言葉使いやイントネーション、独特なブレスの位置。
「あははー」
と、笑う癖や、言葉尻のわずかの間を、演出家さながらに指導した。
それでもかなでの不安は募り、ある時とうとう泣き出してしまった。
矢島の胸に顔を埋めると、逞しい鼓動が肌に伝わって生命を実感できた。
翌日。
ノートを片手に、かなでは野沢の元を訪れていた。
心の闇を聞いて欲しい。それだけだった。
「はい~銀杏お待ちどおさま~」
炭火と、タバコの煙が充満する焼き鳥屋のカウンターに、かなではちょこんと座らされていた。
野沢に相談しようと事務所を訪ねてすぐさま、強引に連れられた店内は客でごった返していた。
野沢は、煙草を吹かしながら。
「カワとカシラ、塩でお願い。あ、あとホッピー黒ね」
と、上機嫌に言って続けた。
「で、なんだっけ?」
かなでは、ノートを取り出しながら。
「ですから、ちょっと行き詰まってるんです」
と、それを野沢に差し出した。
「行き詰まっちゃったの?」
野沢は、ノートをパラパラとめくりながら呟いた。
かなでも生ビールを飲み干した。
久々のアルコールで身体が火照っている。
帰ったら矢島に謝らなくてはならないと、自分の決断を少し後悔した。
野沢はノートをかなでに返して、銀杏を食べ始めた。かなでは怒り顔で。
「見てないですよね!?」
「うん、見てない」
「なんで!?」
「だってさ、酔うじゃん。それとさ、居酒屋で文字見るなんて尚更酔っちゃうよ」
野沢は豪快に笑った。
客が一斉にこちらを振り返る。
国民的アニメのキャラクターを想像し、囁き始めているのがわかった。
かなでは不意に。
「野沢さん?」
「ん?」
「なんで、声優を引退しちゃったんですか?」
「俺?」
「他に誰もいないですよね」
「えっとね…」
「はい」
「俺、声優じゃないんだよね」
「はい?」
「俺さ、あのさ」
かなでは笑った。
頬を赤らめた野沢が面白かった。
ホッピーがカウンターに差し出されると、ふたりでもう一度乾杯をして飲み始めた。
すっかり冷めた焼き鳥も、たいして気にはならなかった。
ほろ酔いの野沢が、深呼吸をして語り出した。
「あのさ望月。俺、声優である前に役者なんだなあ。俳優って言えばカッコイイけどさあ。ああ、役者ってよりもアレだな。舞台人ってヤツかい?」
「舞台人?」
「そ、そ、そ、そうだそうだ」
「舞台かあ…」
「うんうん」
「ですよね…」
「んでな望月! 声ってのはな。バレやすいんだぞ。上っ面てのがな、すぐ出ちまう。分かるだろ? うん。望月なら分かる!」
かなでは、見透かされているような気がした。
野沢は言った。
「俺たちゃな、役者だぜ!」
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