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プレゼントをあなたへ
型落ちした固定電話の「再生」ボタンは、翔太が毎日触れていた証拠に、すっかり色褪せていて、死んだママの声にもノイズが入っていた。
隣のスピーカーボタンが、茜色に点灯しているクリスマスイヴの夜、
そこから流れ出る透明なママの声に、その場にいた全員が驚愕し、聞き入っていた。
可愛い歌声が、部屋の中に響いている。
生身の声が木霊して、躍動している。
「あわてんぼうの、サンタクロース~♫」
キャンドルの炎が揺らめくリビングに、かなでのやわらかな歌声がスピーカーを通して聴こえる。
息を吸い込む際の呼吸音は、鼻炎に悩まされていた凛子が、口呼吸をする時の癖だ。
愛おしい響きは、正博の心をかすめ、あたたかな響きは、翔太の想いでを包み込んでいった。
「あわてんぼうの、サンタクロース。クリスマスまえに、やってきた~♫」
翔太がもっと幼い頃、凛子はクリスマスにこの歌を好んで歌っていた。
慌てん坊なのが、自分と似ていると言っていた。
翔太の頭を撫でながら、柔和に微笑むその表情が、正博の脳裏に浮かんでは消える。
忘れたくても忘れられない、蓮の花の隙間に浮かぶ枯葉のようにー。
翔太は涙を堪えながら、口元を固く閉ざしていた。
「翔太は強い子なんだぞ!」
生前の、凛子の言葉を裏切りたくはなかったから、そうしていた。
野沢は、翔太を抱いたまま、歌声に合わせて身体を揺らした。
「いそいでリンリンリン。いそいでリンリンリン。鳴らしておくれよ鐘を〜♫リンリンリン。リンリンリン。リンリンリン♪」
凛子は今、この場に存在している。
匂いも体温も、記憶の全ても、この場に居合わせたひとりひとりに存在している。
それは、生きているのと変わらなかった。
「翔太ぁ~」
翔太は野沢の胸に顔を埋めながら、ちいさく返事をした。
涙を見せたくはなかった。
「ぅん」
「翔太ぁ~」
「ン…」
野沢の胸元が、翔太の涙で熱く濡れていった。
じんわりと、ゆっくりと広がる涙に野沢は耐えられずに。
「ほら、翔太くん、ママだよ!」
「ぅん…」
「ほら、顔をあげて…」
「…クリスマスじゃないもん…」
「え?」
「今日はママの誕生日だもん…」
「…」
翔太は鼻を啜りながら言った。
大人たちの静寂を、やさしい声が拭い去る。
「翔太ぁ〜、ありがとう」
「ぅン…」
「そこにいるサンタさんにね、お願いしたんだよ翔太ぁ~、ずぅっとがんばってくれたんだよね〜」
「ぅん…」
「だからね。神様がね。ごほうびくれたんだよ翔太ぁ〜、だってさ、クリスマスなんだもん」
翔太は顔をあげた。
「ママはどこにいるの?」
「翔太を見ているんだよ。おそらと、くもさんのまんなかかな」
「そこにいるの?」
「そうだよ。ママの夢を叶えてくれるお店やさんがあるんだ。そこから翔太を見ているんだよ」
お店やさんという表現は、翔太がついこの前まで使っていた言葉だった。
かなではそのことを、保育士から聞いていた。
「ママねえ。翔太のおかあさんに生まれて、とーってもしあわせだったなあって思っているの。いつかきっと、また生まれかわれるなら、翔太のおかあさんで生まれたいなって思っているんだよ」
「ぅん、でも…」
「でも…?」
「急に居なくならないでよ…」
「…」
「居なくならないでよ…」
「うん、ごめんね、翔太ぁ…」
「ンん…」
「翔太ぁ…」
「ンん」
「やさしい翔太のままでいてね。そして時々でいいの。ママのことを思い出して欲しいな」
「ンん」
翔太は、腫れ上がった瞼を何度も擦った。
野沢は翔太を床に降ろし、その逞しい背中を撫でながら言葉をかけた。
あまり長い時間を費やしてはいけないと、とっさに思ったのだ。
「翔太くん。ママに言わなくちゃ!」
翔太はこくりとうなずいて大声で叫んだ。
抑えきれない感情と、これまでの想い出全てを言葉に詰め込んだ。
「ママあああああ!」
翔太は思いきり深呼吸をした。
頬が丸く膨らんだ瞬間、翔太の想いは弾け飛んだ。
「ハッピーバースデー!」
穏やかな時間が流れてゆく。
ひとが存在しなくなる時期は、想い出が完全に消えた時 。
それは、その人と関わった沢山の人間が、命を全うした瞬間だということなのだ。
そう感じた正博も、思わず叫んでいた。
「凛子!」
正博は震えていた。
容赦無く涙が溢れ出る。
ずっと我慢をしていたのは正博も同じで、心は限界だったのだ。
想いの全てを言葉に詰め込んだ。
「凛子…」
「正博さん…」
「これまでも、これからもずっと…」
正博はその先を言えなかった。
現実に戻ってしまったからだ。
この声は演じられたモノ。
それでも、あたたかな気持ちになれた。
照れくさそうに。
「メリークリスマスイヴ」
と、だけ笑うと、凛子の声がハッキリと聴こえた。
「あははー。メリークリスマスイヴ。正博さん」
凛子は生きていた。
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