第2章 秋天の風

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 薪割り姿の弘紀を見送ったその日の昼、木村と二人で二の丸御殿の庭掃除をしていると、御殿の廻り廊下を弘紀が家臣数人と共に歩いてきた。もちろん弘紀は着替えていて髪も結い直し、その華やかな目鼻立ちが顕わになっている。  弘紀が着ている着物は金彩の市松模様が袖にあしらわれた藍の小袖に(あられ)地紋の濃鼠(こいねず)袴で、藩主というその立場としては、その装いはけして華美ではないのだが、その分、弘紀の気品が勝って清廉な容貌が引き立って見える。  修之輔は次第に近づくその姿を目の端に入れ、この若く凛然とした藩主が早朝に襷掛けで風呂の薪割りをしていたことなど周りの家臣は誰も知らないのだろうと、そんなことを思った。  そろそろ跪礼すべき距離だと、膝を折ろうとしてその直前、弘紀が修之輔に気がついて、反射的にぱっと表情を変えるのが遠目にもわかった。木村もそれに気づいて、怪訝な顔でこちらを振り返ってきたので修之輔は適当な言葉を見繕った。 「俺たちの後ろを猫でも通ったんじゃないのか」 「弘紀様は猫好きだったか」 「さあ、俺は知らない」 「なんだよ」  木村との不毛な会話の間に、弘紀が田崎に引っ張られて二の丸御殿の中に連れて行かれるのが見えた。  そうして修之輔が二の丸の庭掃除の手順にも慣れて、ほぼ毎日この仕事をするようになって気づいたのは、弘紀は朝に二の丸御殿大広間での全体の会議の後、いくつかの部門ごとに人を集めて部屋を変え、合議するのがこのところの日課となっている、ということだった。  会議の部屋を替わる度、弘紀が廻り廊下を通るということに気づいたその後は、なんとなく庭を掃く場所と時間を見計らって弘紀の姿を待つようになった。そして弘紀もたまに廊下の途中で足を止め、庭を眺める体裁で修之輔の姿をしばらく見ていくようになった。  弘紀が毎日のように家臣を集めて会議しているのには理由がある。  今、羽代藩の内部では、大きく三つの事案が喫緊の課題となっている。それらはどれかから順番に、ではなく、どれも少しずつ、互いに連携させながら解決すべき問題で、作業に時間と手間がかかる。  問題の一つ目が殖産の検討で、羽代の特産品の中から特に専売とする品を決めて価格を藩で調整しようと試みているのだが、そもそも流通貨幣の量が足りないため、価格決定の妥当性が不明瞭である。  幕府が全国共通の通貨として発行している貨幣は、羽代藩だけでなく他の藩でも恒常的に不足している。この不足を補うため、弘紀の父である先々代の羽代藩主が藩札を発行したのだが、現在、藩中に出回るその藩札は摩耗して使用できなくなっている物が多い。  これは弘紀の兄である先代が、家中の把握に労力を割かれて、内政外政ともに滞って藩札の刷新に至らなかったことが原因である。摩耗したまま刷新されない藩札はそのまま、藩財政の不安定さの顕れでもあった。  専売品の価格決定に弘紀が強力に介入するためには、藩札を刷新してその貨幣価値を高める必要があった。  二つ目の課題がその藩札発行についてで、新たな藩札は、羽代藩の財産のまずは四分の一、最終的に二分の一から三分の二まで発行する計画である。これにはそもそも基本的な羽代藩の財力がどれだけあるのか、この後どれだけ確保できるのかを明らかにする必要がある。これは専売品がどれだけの商品になるかということにもかかっており、一つ目の問題と密接にかかわっている。  三つ目の課題は、その藩札の発行量を決める基本的な羽代藩の財力の脆弱性である。藩主自身の財産はともかく、過日のお家騒動で、藩の財政の収支に不明瞭な個所が生じ、それがそのまま解消されていない。このため、どのような用途にどれだけの金が使われ、そしてその金がどこからきているのか、その出所すら分からず、結果として藩の財政の収支は綱渡りを強いられている。  まずは財政を安定させるために、できるところから収支の見直しと財政の緊縮が進行している。手始めに羽代城内において、今は使われていない奥の縮小や、使用人の人数の削減が行われた。ついで城に務める者の給金の減額も施行されたのだが、財政の収支としてその効果が現れるまで、まだ時間がかかる。だがその効果を待っていては、いつまでも新たな藩札を発行できない。  全ての事を一気に片づけることはできず、できるところから確実に前進させていくためには、日々の調整が欠かせない。これが毎日なんらかの合議が行われる理由で、弘紀はどの部門の会議にも顔を出しているようだった。  殆どが修之輔たちのような末端の者には見えてこない藩政のあれこれではあったが、使用人が着ているお仕着せの着物だけは目に見えて分かる施策の結果であった。  使用人の給金をこれまでより減額する代わりに、制服を支給することで不満を緩和させようという策でもあって、これは城内の警備の面からも強く田崎が推薦したという。  このような話を修之輔は菊部屋で木村や三山に少しずつ聞いた。特に三山が熱を入れて話したのは使用人の着物のことで、以前はこれが自由であったという。 「小姓の中には金襴緞子の振袖でお勤めしたものもいたそうです」  三山の云う小姓などの御殿の奥で仕える者達は、重臣の子弟から選ばれるのが慣例だった。表で働く者は正式なお役目が貰えなかった者や、臨時に雇われた者が多かった。それだけでも貧富の差が出るのだが、さらにそこに家中を分ける争いがあった。  先々代の正室であった弘紀の母と妾、それぞれを筆頭にして二つに分かれた勢力が、互いに仲間を増やそうとする贈賄の金銭を昼夜問わずに行き交わせ、こちらに与すれば身なりが良くなって、さらにこちらに味方をすればこちらからも金銭が、と際限がなくなり、それはそのまま働く者達の着物の豪華さに反映されるようになった。  その様な事態を避けようと、服装の華美さ豪華さなどの余計な事に煩わされることなく、またその出自に関わらず同じ務めに励めるようにとの計らいもあり、使用人には小袖袴が支給されているのだという。    今、修之輔が身に付けているその使用人の小袖、生地は、生成りのように見えて黒の絹糸が微かに織り込まれており、布の陰影を不思議に浮き立たせる。この特徴的な織り方をできる職人は限られていて、城内にしか納入を許していない。生産を厳格に管理することにより、この着物を持つものの身分が保証されることになっている。  袴は黒に近いが濃灰で、城内の針子によって腰板に使用人専用の紋、下がり藤に違い鷹の羽が刺繍されている。  修之輔はこれまで身につけていた自分の着物とそう変わらない色味に不満なく、むしろ良質の絹地に感心していたのだが、三山は一言、地味だと言い切った。だからと云って、単衣の色を山吹色に、帯の色を派手な錦の色合いや鮮やかな紫にするなど、三山のそれはどうも色味がちぐはぐなだけのように思える。  木村は木村で顔がいいと何着ても似合うな、と修之輔を羨ましそうに見た。 「というか、まるで秋生に誂えたような具合だ。秋生、その肌の白さは羽代の出自ではないだろう。儂らのように長年、羽代の日に灼けた奴らが着ると、この黒糸が埃か汚れに見えてくる」  まあこの生地を見立てたのは弘紀様ご本人だから、俺は文句は言わないぞ、と木村が三山を横目で見る。そうして修之輔は、天守跡の観月楼で弘紀と迎えたあの朝に、見立て通りにその着物が似合って良かった、確かにそう云って笑った弘紀のことを思い出した。 「木村、今夜の宿直に欠員ができた。誰か回せるか」  夕飯の後も何やかやと些事に呼ばれて、ようやく部屋に戻ってひと息ついていると山崎がやってきた。顔を合わせるのは初日に案内されて以来だが、仕事の合間に行き交うこともあったし、木村たちの話の端々から山崎が住み込みの者達を纏める存在であることが分かっている。  山崎の質問を聞いて、木村よりも先に三山がぶんぶんと頭を横に振った。強く嫌がっている。 「菊部屋はこの二日前、儂と三山が宿直だったが」 「通いの者が家族に病人が出て、どうしても今夜は出てこれないというのだ」  そう言いながら修之輔の方を見る。 「秋生はその二日前の宿直には出ていないのだろう」 「だが秋生はまだここにきてひと月経っていない。いいのか」 「いずれ任される仕事だ、早く覚えてもらうに越したことは無い。菊部屋の後一人、原と二人で今夜の宿直に入ってくれ」  断る話ではないと思い、修之輔が承諾すると山崎が、頼んだぞ、と頷いた。 「次の鐘が鳴ったら二の丸御殿の控えの間に来るように。木村、簡単に説明してやっておいてくれ」  そう言い残して山崎が去り、木村は三山に、姿の見えない原を探して来いと言い渡した。 「どこにいるんでしょうねえ、原殿は」  やる気なさそうに三山が部屋を出て行き、その間に、と木村は宿直の仕事の説明を始めた。 「宿直は城の夜の警備が主な仕事だ。住み込みの者達は鶴亀松に梅と菊の部屋ごと、つまり五日に一度の頻度で当番が回ってくるが、まあなんとなく分かっているよな」  修之輔はまだここにきて日が浅いので宿直当番が免除されていたのだが、修之輔を除く菊部屋の三人が持ち回りでその当番にあたっているのは生活を共にしているので分かっていた。  通いで勤務する者が宿直にあたる頻度は住み込みの者より低いのだが、住み込みの者たちは必ず二名、当夜に配置される上、通いの者に急用ができた場合の穴埋めにも呼ばれる。 「ほんとうに儂らの仕事は雑用の極地だ」  秋生が入ってきてくれて良かったと、大げさに感謝されたが、その分、宿直の仕事の内容に不安も覚える。そんなに大変な仕事なのだろうか。    木村が簡単な城の見取り図を持ってきてそれを指しながら説明してくれた。 「宿直は夜中、城の中と外を見て回る廻り当番と、門に詰める門番に割り振られる。この配置は当日、勤務開始になってから聞かされるから注意しろよ」  廻り当番も門番も、子の刻の前と後ろで交代する。 「子の前の勤務を前番、と呼んでいるんだが、この前番が終わっても控え部屋で待機だ。何かあった時に駆けつけられるようにな」  同様に、子の刻の後を後番といい、前番の勤務の間はこちらが待機していることになる。仮眠は控え部屋で取ってもいいことになっているが、と木村はこちらを見る。 「新参はなかなか、先輩らを前にぐうぐうと寝るわけにはいかないよな。せめて秋生、今夜ばかりはちょっとばかり楽な前番だといいな」  気遣う顔の木村に見送られて長屋を出ると、ちょうど三山が戻ってきたところだった。原を見つけて宿直のことを伝えたら、原はそのまま直接向かったらしい。修之輔も宿直の当番が集まるという二の丸御殿の控えの間に向かった。  夜通しの番は確かに大変だが、二の丸御殿の中ならば、もしかしたら少しでも弘紀に会えるのではないかという期待が覗いて、どこか気持ちが浮き立った。  宿直の控え部屋に使われる御殿控えの間では、既に今夜の配属先が紙に書かれ貼りだされていた。三の丸巡廻前番、と書かれた横に原と修之輔の名前がある。  時の鐘が鳴るたびに三の丸の敷地内を巡回警備する役目で、よくよく見て回っても半刻もかからない。だが、その刻の巡廻が終わってもちょっと自室に戻る、ということは許されておらず、控え部屋に戻り待機することになっている。  そんなことを原が修之輔に教えて寄越した。感情の掴めない平らな声で、ぶっきらぼうにも聞こえるが、案外親切なのかもしれない、そう思った。
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