第1章 天守の月影

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第1章 天守の月影

 夏の夜の暑さは海風が吹き過ぎても陸に留まり続けて、昼も夜も暑いなら、お天道様がお休みの夜のうちがまだ過ごしやすいと、日が落ちても羽代(はじろ)藩城下町は不夜城の賑わいである。  いくつかの料理屋が立ち並ぶ一角、ひときわ風格のある、と言えば聞こえはいいが、古い木材が時折あやしげに軋む音を立てる、大きいだけが取り柄の古びた建物の二階座敷を借り切って、まだ日の高い昼過ぎから始まった宴会は、日が落ちても尚賑やかに、人の出入りも尽きようとしない。  畳に置かれた幾つもの灯明の他、天上から吊るされた六間の灯りが、酔って騒ぐ若者たちを照らしだす。彼らが思い思いに座り、陣取る座敷には、大皿大鉢がいくつも並び、盛られた料理がなくなるとすぐに引っ込み、煮物揚げ物、あるいは刺身か、また何か盛られて座敷に現れる。  酒はどうやらいちいち運ぶ方が面倒だと、樽に柄杓が、それも二、三本も突っ込まれて座敷の床の間に鎮座していて、酔ったものが直接柄杓から飲もうとして周りにその柄杓を取り上げられ、本人は取り上げられまいと、いよいよ座は騒々しい。  先月より羽代藩城下の剣道場、通称虎道場に世話になっていた秋生(あきう)修之輔(しゅうのすけ)が、羽代城中に仕官先を得て明日からの出仕を祝う宴会だが、どう見ても宴の中心は修之輔ではなく、虎道場の道場主、寅丸である。 「この夏はだいぶ稼いだから、今日はその金を存分に使うぞ。皆の夏の働きの慰労だ、どんどん食べろ、どんどん飲め、そして秋に備えて英気を養え」 「何を言うか、寅丸。稼いだのはお前ではないだろう」  遠慮のない野次が飛び、さらにそれに同調した声が別の方からも聞こえてくる。 「そうだそうだ、稼いだのはお前ではないし、この宴会の金を出しているのもお前ではないだろう」 「何を言うか、体力も時間も持て余して、金だけはどこを振っても出てこないお前たちに恰好の仕事を紹介してやったのは儂ではないか」 「そりゃあそうだが」  酒が入っている割に真面目に返されて、軽口を仕掛けた相手は面食らう様子だ。 「お前らみたいのが暇にあかせて雁首揃え、侍でございと街の中にのさばっていたら、世間様に面目が立たん。お誂え向きだろうが、農作業で金を貰えて、腕力を鍛えて、剣の腕も上がる。いいことづくめのこの仕事、斡旋してもらっただけでもありがたいと思え」  農作業とは、と、形ばかりの宴の主役、修之輔は、自分の隣で仲間相手に声を荒げる寅丸に聞いてみた。虎道場に世話になっていたとはいえ、その期間はひと月程度、なにもかも目まぐるしく過ぎて、また数日体調も崩していたこともあり、気付かないことは多々あった。 「ああ、この辺りは気候が良いからな、夏なんぞ採っても取っても野菜ができる。どんどん取らないと追いつかない。そこで暇と腕力を持て余している我々が農家の人足に駆り出されるという案配だ」 「芋にカボチャに甜瓜(まくわうり)、どんどん取ってどんどん運び、どんどん売る」  寅丸の説明に、いい気分で酔っている者たちが口々に被せてくる。 「馬や牛より働くぞ」 「但し、うるさく文句を言わない分、馬や牛の方が扱いやすいかも知らんな」  どうやらまさしく今日この当日、話に上がる農作業をしてきたらしい者たちが、日に焼けた顔をさらに酒で赤くして、大きな声で笑い合う。 「そんなことはございませんでしょう、仮にもお武家様でございます」  そこに少々小柄で体つきの貧相な男が間の手を入れてきた。 「おお、そこにいるのは我らが雇い主、吉川村の富吉ではないか。姿が見えないと思ったが、どこの隙間に挟まっていたんだ」  富吉と呼ばれた男は、最初からいたじゃあないですか、と気を悪くしたふうでもなく受け流す。その富吉の肩を掴んだ寅丸が、紹介のつもりだろう、ぐい、っとその痩せた体を振り回す勢いで修之輔の前に富吉を引き寄せた。 「この富吉は農民だが、俺たちの雇い主だ。侍の家が自分の家の三男を養いきれないのに、富吉は上にいる二人の兄貴よりも稼ぎ頭だ」 「なんの、皆さんのおかげです。せっせと力仕事をしていただくだけでなく、このところ近辺に野武士を見かけることが多くて村の女子供が怯えていますから、腕っぷしの強い方たちに来ていただくだけでも、こちらとしては安心ですわ」 その富吉の言葉に寅丸が反応する。 「野武士といったか、なんだそれは時代錯誤だな。戦国の世の幽霊か」 「いやあ最近の話ですわ。どこのお侍だか分からんのですが、十数人から徒党を組んで小屋に集り、剣道場を騙って人数を集めておるのです。女子供ばかりでなく、大の男も一人ではそのあたりに近づけない有様なんで。寅丸様はお聞き及びではないですか」 「いや、今初めて聞いた。聞き捨てならんな。富吉、お前の村の近くか」 「へい、ちょっと街道とは離れていますから、辺りに住んでいる者でないと耳に入らない話かもしれんです」 「おい、だれか番所に出入りしているのはいなかったか」 「ここにいるがおおっぴらに呼ぶなよ、夜番の勤務時間中だ」  なんでここにいるんだよ、と、もはや相手が誰彼かまわず野次が飛ぶのが常態で、言われた方も聞こえているのいないのか、全く気にも留めていない。 「それが寅丸の旦那、問題なのはそれが寺の土地で、役人も手出しできないらしいのです」 「それで番所にまで報告がいかないわけか。だがやはり、お上には一言、御注進としておこう」  取り締まるまでいかなくても一言あってくれますと、こちらとしても有難いんで、と富吉が頭を下げる。どうやらこれが云いたくてずっと宴席に連なっていたらしい。それで胸のつかえがとれたのか、富吉は先ほどまで弄ぶだけだった自分の盃に酒を満たして飲み干した。 「そういや、今、京の都やあちこちで、それこそ文字通り、血気盛んな攘夷の志士なぞもそんな手合いだと聞いているが」 「士分も持たぬ田舎者の寄せ集まりが、いっぱしに武士を名乗ってやりたい放題。武士の誇りなんぞ持ち合わせぬとも」  そう罵っている者こそ飲んだくれの酔っ払いで、自分の身はどこへやら、果たして他人にそのような事を言えるものか、とは誰も野次を飛ばさない。  顔を赤くはしていても酒には強い寅丸が、目線を窓の外に投げながら言葉を纏める。 「物騒なのは遠くの都だけで十分だ。せっかく新たな藩主を迎えて落ち着きつつある羽代で、都の様な騒乱など起こさせたくもない」  不意に出てきた藩主という言葉、それは弘紀(こうき)の公の肩書で、その名を聞くだけで修之輔の身の内はどこか落ち着かなくなる。  弘紀の本名は朝永(ともなが)弘紀といい、朝永の名字は歴代の羽代藩藩主のものである。修之輔は、しばらく弘紀と会っていない。
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