第1章 天守の月影

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 先月の中ごろ、修之輔は自分が生まれてから二十三年の歳月を過ごしてきた黒河藩を出立し、羽代藩の新しい藩主の座に就いた弘紀や、その家臣の田崎らとともに羽代藩に入った。  城下町に入る手前、小さな番所で一行はいったん止まり、城から迎えに来た者たちとの調整が行われた。弘紀の今回の黒河への遠出は非公式だったということで、このまま城に帰還するのは城下町の警備や衆目の面からも避けたいという田崎の思惑があったためだ。  結局、何人かずつに別れて城下町に入ることになり、指示に従うよりほかに選択肢のない修之輔がその場に待機していると、田崎から声を掛けられた。 「秋生」  そう呼び掛けてきた田崎は、羽代では名字で相手を呼ぶのが習わしと、黒河とは異なる風習を修之輔に教えて寄越した後、元々城下の剣道場に向かう筈だったと聞いているが、と尋ねてきた。 「はい、今もそのつもりでいるのですが」  少し離れた場所で、弘紀がこれまで乗ってきた松風の背から降りてその首筋を撫でている。あの松風がおとなしく撫でられているのは弘紀を主人と認めているからだろう。なるべく目立たないようにする、ということは、松風への騎乗はここまでで、城下町の移動は徒歩か駕籠を使うのだろうか。  修之輔の目線の先を田崎は察している。 「では秋生、ここから予定通り、その道場へ向かって欲しい」  唐突に聞こえるが、田崎がこれを告げる時機を充分に見計らっていたことが落ち着いたその口調から察せられた。修之輔に拒否する余地はない、それは命令だった。 「弘紀、様はそれをご承知でしょうか」  黒河ではずっと名だけを呼んでいたので、まだその敬称に慣れていない口が滞る。 「おそらく聞いても承知しないからこそ、まずそなたに声を掛けた」  未だ修之輔の藩籍は黒河のままで、確かにこのまま他藩の城中に入るわけにはいかないが、弘紀がその道理を無視して修之輔を城中に引き入れようとするのもほぼ確実で、その懸念は修之輔も田崎と共有している。藩主である弘紀がその権限で命令すれば誰も逆らえないが、周囲のわだかまりも避けられないだろう。 「なるべく余計な軋轢無しにそなたを城中に迎え入れたいので、手順はしっかりと踏襲したいのだ」  その田崎の言葉は合理的で、修之輔も首肯できる。だが弘紀に何も言わずにこの場を去ることには躊躇があった。もう一度、弘紀の姿を視界に入れる。旅装を解いて目立たない小袖袴に着替えても、その姿勢の良さ、目を惹く華やかさは明らかに見て取れる。  次に会う時、互いの立場は主君と臣下として明確な隔たりがあるだろう。肩を並べて歩くことができたこれまでとは状況は大きく異なる。だが修之輔が弘紀の側にいるためには、弘紀の臣下につくこと、それが唯一の手段だった。  これから共に歩むであろう年月を思えば、ここでの修之輔の振る舞いが原因となって弘紀に瑕疵を負わせるようなことになってはならないと、そう思った。  あの体に触れた温度や感触の記憶は、まだ自分の指先に残っている。声も、この体に触れた弘紀の指の感覚も。    修之輔は田崎に返答した。 「わかりました。ではこれから道場の方へ向かいます」  その返事に田崎は満足した様子で頷いた。 「虎道場に先触れは必要か」 「必要ありません」 「では今、城下に入るあの者たちと共に行け。弘紀様はどうにか儂がごまかしておく」 「はい」  その後に、お願いいたしますと続けようとして、それが適切な言葉か迷い、結局口にするのをやめた。だが修之輔の行方を聞いた弘紀がそのまま黙っているとは思えず、これからの田崎の心労が察せられた。 「まずは黒河藩の藩籍離脱の証書を儂の下に届けてほしい。そなたの任命の手続きはそれから直ぐに行う。証書の手配に時間がかかるようなら、それこそ弘紀様に直接黒河に話を通すようお願いするから、その旨を知らせるように」  田崎はそう言って、承諾の一礼をした修之輔が顔を上げる前に、その場から去った。    実は藩籍離脱の願いの書状は黒河藩を出る前に既に用意してあり、これまで世話になっていた剣道場の師範に預けてあった。今日これから直ぐにでも黒河に知らせを出せば、預けた書状を師範がそのまま上に上げてくれることになっている。半月はかからないはずだ。認め状が届けばそれを田崎に知らせて、早ければひと月ほどで手続きは終わるだろうが、見方を変えればひと月ほど弘紀に会えないことになる。  逡巡がないと言えば嘘になる。もう一度弘紀の姿を目に入れた。役人からの報告を受けているその横顔に、年若くても紛うことない君主の風格が漂う。自分の視線に気づかれる前に、振り切って弘紀の姿に背を向けて、その日はそのまま寅丸の運営する道場へ向かった。  事前に手紙をやり取りしていたので、道場の門前に現れた修之輔を寅丸は歓待してくれた。 「どうする、直ぐにでも打ち合うか」 そう笑ってよこす寅丸に、まずはひと月ほど、どこか借りられる長屋はないかと聞いてみた。寅丸は、それならここ二、三日のうちに用意させよう、それまではこの部屋を使ってくれと道場の脇の部屋まで貸してくれた。有難い申し出をそのまま受け入れて、その日の内から道場での稽古に参加してみたのだが。 「まあ、羽代の夏は暑いからなあ。しばらく休んだほうがいいぞ、秋生」  今日の夕方、用意ができたという長屋の様子を見に行こうと虎丸に誘われたのだが、頭痛と、しつこい体のだるさに一度横になったら起き上がれなくなり、寅丸に呼んでもらった医者の見立ては暑さに負けた暑気あたり、ということだった。 「ほんとうにすまない。住むところをせっかく手配してくれたのに」 「いやいや、こればっかりは仕方がない。気にするな」  羽代の城下町は海辺にあって、常に湿り気を帯びた夏の暑気は山間の黒河に生まれ育った修之輔の身には堪えた。黒河の地は、夜になれば真夏でも肌寒いほどに気温が下がることもあったが、羽代は一日中蒸し暑い。辺りに茂る草木の勢いも黒河より強く、人の手が入らなければ家屋であっても繁茂する葉に覆われ、蔓や根に締め折られそうで、現にそうして廃屋が朽ちている様子を町はずれで数軒、目にした。 「この道場もな、そうして朽ち果てそうなところを儂が手に入れたのだ」  体が弱っているときは煩いだろうからと、寅丸は自分の居室近くの座敷を修之輔のために用意してくれた。一日寝付いて、二日目の夕方にようやく体温が下がり、もうこれなら大丈夫だろう床を上げたところで寅丸が様子を見に来て、その時交わした会話でこの道場の由来を聞いた。  そしてまず、この道場に師範はいない、流派もない、という実情に驚いた。 「では指導は誰が」 「強いものが弱いものを、年長の者が年少の者を、各自の自主に任せて指導させている。道場破りのつもりでよそから来た者が、破るものがなくて結局皆と打ち合う羽目になるのが面白い」  そうしてこの地にない技術をどんどん取り込んでいけるのが流派がないことの強みだな、などと寅丸が気楽に笑う。  この道場の建物もしばらく打ち捨てられていたものを寅丸が二束三文で買い入れて、荒れ屋に住み着いていた二匹の虎猫にちなんで虎道場と名付けたという。庭も家屋の中も関係なく、きままに行き来する猫の姿を何度も見たが、あれがその虎猫かと思った。この座敷にも時折顔を出す。 「今のうちにいっておくが、実は寅丸という儂の名前も通名でな。本名は捨てた」  士分でありながら本名を捨て、仕官せずに城下の街外れに流派のない道場を立てるという寅丸の行状は随分と破天荒で、それは、と修之輔は言葉に迷った。 「呆れるなよ、秋生。よく考えてみろ、儂とおぬし、そうそう境遇は変わらんぞ」  そう寅丸に言われて自分を顧みると、確かに黒河藩籍を捨てて身一つで、傍目にはなんの所縁もない羽代に来た自分も同じ様に見えるだろう。一度納得すれば、身分の上下なく、剣の技術だけで競えるこの虎道場の気風は剣術の研鑽には格好の環境であって、実際、修之輔は自分の身の上を詮索されることなく一日中打ち合えるこの状況をとても好ましく、有意義にさえ思った。
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