第1章 天守の月影

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 比較的風通し良く、静かな奥の座敷で休ませてもらったのが良かったのか、修之輔の暑気あたりは翌々日には回復し、次の日の朝、修之輔に宛てて立派な真桑瓜が届けられた。  差出人の名は明らかではなかったが、青海波の透かし入りの上質な和紙に書かれた自分の名前、その筆跡は明らかに弘紀のものだった。  浮き立つ心は別にしても、これはいったいどうしたらいいのだろうと修之輔が迷っていたところ、道場の者が井戸水で冷やした方が旨いぞと教えてくれた。その助言に従って井戸脇に水を流して漬けて置き、昼になってから座敷で割って一口食べてみると、瓜の果肉の甘さ、冷たさが、病み上がりの身に沁みるような旨さだった。  一緒に道場から戻った寅丸がその宛名書きを何度もひっくり返しながらしげしげ見ているので、切り開いた真桑瓜を進めた。躊躇なく手を伸ばす寅丸は、暑気あたりにはこれが効くんだ、という。 「それにしても旨いな、これは。儂らが収穫している、土手で勝手に伸びて成ったものとは出来が違う」  弘紀が寄こした物ならばその品に間違いはないはずで、一切れ二切れと無言で食べたその後に、寅丸がようやく口を開いた。   「なあ秋生、ちょっと聞いていいか」 「かまわないが、なんだ」 「秋生、お前、誰か決まった相手はいるのか。黒河に許嫁がいるとか、まあ、そんな類の」  何を聞くのが目的か、唐突に寄越されたその問いかけに、思わず胡乱な表情がそのまま表に出てしまったらしく、寅丸が慌てたように手を振った。 「いや、俺がどうこう言う話じゃない。俺は生粋の女好きだからな」 「そこまで好色漢には見えないが」  どうやら思いつきの話というわけでもなさそうなので、修之輔は一度真桑瓜の皿を横に退けた。案の定、やや話しにくそうに寅丸が云う。 「実はおまえが倒れたときいて、この道場に通う者、数人が看病を申し出たのは良いが、どうも下心がありそうでなあ。その時は追い返したんだが、このまま長屋に住みかを移せば、秋生、どうもおちおち寝てもいられなそうだぞ」  決まった相手がいないのならそいつらの中から誰か選べと言いたいところだが、と、そこで修之輔の表情を見て、さすがの寅丸も言葉に困った顔だ。 「秋生が何もしなくても、その気がなくても、どうも周囲がざわつくのだよな。美しい顔に生まれつくというのもただ手放しで喜べないものだな。どうするかと思ってな」  どうする、と言われても、好きでこの顔に生まれついたわけではないし、これまで黒河では、と思い返して、そういえば幼馴染の大膳が何かと庇っていてくれたことに今更ながら思い至った。その顔を思い浮かべたついで、書いて寄越せと言われた手紙をまだ書いていないことも思い出しながら、寅丸に返答した。 「そんなことより、まずはせっかく仕官が決まったのだから、そちらの務めに備えたい。羽代家中、羽代城中に詳しいものがこの道場にいるのなら紹介してほしい」 「なんだ秋生はお役目で頭が一杯か。これは藩主様一筋、というところかな」  何の気なしの寅丸の言葉が思いがけずにそのままなので、修之輔は素直に頷いた。寅丸は、そうか、と自分なりに話の落とし所をこの辺りと決めたらしい。話の本題にようやく入った。 「実は」  この真桑瓜とともに寅丸宛にも書状が届いたという。  その書状は羽代城下の町奉行が差出人となっていて、金銭が添えられていた。名目は秋生修之輔の身上預かり料ということで、だから秋生さえ良ければ、しばらくここにいていいぞ、と寅丸が云う。 「秋生は静かだから特に邪魔には感じない。この座敷をこのまま使えばいい。しかし、秋生、おぬしにはどういう伝手があるのだ」 「仕官の予定はあるから、その関係ではないのか」  俺もどうなっているのか良く分からない、そう返した言葉はまったくの真実で、寅丸もそれ以上は何も聞いてこず、修之輔は真桑瓜の皿を手元に戻して残りを寅丸と二人で食べきった。  寅丸が女好きである、というその会話の時に聞いた自己申告も嘘ではないようで、料理屋の宴席、今も虎丸の左右には女が侍っている。ただその女も次々に入れ替わり、商売女はともかく、近辺のれっきとした大店に務める女がお相伴に与るためだけに来ていたりして、男たちに酌をして回ると思いきや、一杯酌をするたびに自分は二杯飲むという、これでは女といえども酒好きが、ただ酒飲みのための方便にしているだけだろう。  先ほどは稽古がはけた三味線の師匠がきて何曲か披露して行き、酔いの回った調子者が音色に合わせて適当な踊りまで披露した。唄いの師匠も後から顔を出すと言っておりましたよ、とやんわり笑んで、踊りができる娘もつれてくるとの伝言に、蛸踊りで目が腐れた、これでようやく眼福だと座の一角が盛り上がる。    寅丸は道場の仕切りが本業だが、このあたりの揉め事も一手に引き受けているらしい。仕官せずとも身分は武士で、道場に出入りする者の多さから云っても顔が効く。手に余る分はそのまま藩の役人に引き渡すことも明言しているから、城下に何かあった時、とりあえず役人は寅丸を訪れてこうこうこの事について何か知っているかと尋ねる気安さだ。  武士でなくとも町人百姓、直ちに番所に申し出るのは敷居が高いと、まずは虎丸に相談しがちで、女郎屋などはお得意様だという。ならばそれこそ女に不自由はしていないだろうが。 「最近、ここで働き始めた女中にちょっといい女がいてな」  あら、と脇に侍る女が寅丸の腕を抓る。その女の抜かれた襟の具合がいかにも玄人で、だが寅丸はその漏れる色気にあてられないほどに女の扱いに慣れているのか、別の女の話題を出して遠慮がない。 「今日はあいつはいないのか」  ちょうど酒樽の残り酒の様子を見に来た店の者に寅丸は問いかける。 「加ヶ里でしたらついさっき、用事ができたと上がっちまいました」 「何だ残念、儂はまだ一度もあやつに酌をして貰えておらん」 「本人、自分は酌婦じゃないと言っておりますからなあ。旦那が来たことは伝えておきますよ」  俺はああいう女は苦手だ、という声がする。だんだん悪酔いしてきている者がいるようだが寅丸は気にせず言葉を返している。 「そうか、俺はあそこまではきはき物を言う女の方が好みだな」 「寅丸の好みは広すぎて分からん。嫌いな女を聞いた方が早いんじゃないか」  修之輔はほとんど口を開かずに、ただ皆の話を聞くだけ、様子を見るだけで十分楽しんではいるのだが、寅丸が気を利かせて話を振ってきた。 「秋生も城に住み込みともなれば、女っ気なんぞ皆無だぞ」  そうそう、とまわりの者たちも同調する。 「奥があればな、女中もそれなりにいた筈なんだが」 「隠居されたばかりの先代の奥方は、亭主が改易されたと聞いてさっさと御実家にお戻りだ。今の藩主様は奥を持つにはまだ若いだろう」 「どうやら幕府から奥を持つことを禁じられていると聞いている」 「それでは世継ぎはどうするのだ、世継ぎを巡るごたごたはもう勘弁してほしいが」  その言葉に宴席にすっと影が差した気配がして、一瞬静まるその空気にわざとらしくも朗らかに響いたのは寅丸の声だ。 「なんにせよ、どうにも城勤めがつまらなくなったら秋生は道場に遊びに来ればよい。道場門下にも確か住み込みで働いていた者がいたと思うが」  さて誰だったかと、寅丸もその名を思い出せない様子に、周囲から助け舟が出る。 「佐藤ではなかったか」 「俺は今ここにいるぞ」 「じゃあ山下か」 「あいつは明日、夜明け前から畑仕事だといってさっき家に帰った。富吉、お前の口入れだろう。お前は行かなくて良いのか」 「山下様はもうあの辺りの百姓とは顔見知りで。わたしなんぞもう要りませんので」 「あいつは武士なのか百姓なのか、もう何がなんだか分からんな。まあいい、すまない秋生、誰だったか名前を思い出せないが、城に行けばわかるだろう」 「いや、寅丸の知己がいるということが知れただけでも十分心強い。ありがたい」  頼りになるのかならないのか、さっぱり分からない寅丸の言葉だったが、厚意は十分に感じられたので修之輔は寅丸に礼を言った。
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