第1章 天守の月影

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「ん、なんだ」  仕切り直して座も組み換えて、さて今夜これからこそが本番と、また騒がしくなった座敷の入り口、さきほどの店の者が顔を出して寅丸を呼んだ。 「表に客人が来ております。秋生様という方はおられるでしょうか」 「俺だが」  修之輔が座を立って、促されるまま階段を下りて玄関に向かうと、寅丸も気になるからと一緒に下りてきた。  喧騒と物音が頭上の天井から響く料理屋の玄関、窺い見ると外の看板燈籠の前に人影があった。表に出てみても何故かその人影の輪郭ははっきりとせず、地面は照らされていても顔は影のまま、全体がどこか朧で特徴を掴めない。 「何か」 「秋生様でしょうか」  そうだ、と答えると、これより城へ参られますよう、と、まるで夜がそのまま口をきいたような感情のない声が返ってきた。 「仕官は明日からだが」 「あるお方たってのお呼び出しです」  その言葉に不審を覚える。この者はいったい何者か。だが、修之輔のその懸念、相手は折り込みずみであったのだろう、これを、とその手を闇から伸べて何かこちらに差し出した。  しゃらん、と涼やかな金属の音。灯籠の灯りを受けて金の光が煌めいた。  差し出されたのは金細工に珊瑚(さんご)の飾り、夜目にも艶やかな一本足の(かんざし)だった。憶えがある。ある夏の日の夜、修之輔が弘紀に渡した物だった。ならば修之輔を呼び出したその相手は。 「今から行けばよいのか」  人影は修之輔のその声に応諾の意を汲み、具体的な指示を寄越した。 「お支度をして直ぐ、一刻程の内に大手門前にいらしてください」 「わかった」  簪は修之輔の手に渡されて、懐かしさに思わず珊瑚の細工に目をやった、そのわずかな時間に人影は闇に溶けていなくなった。 「おいおい、ずいぶん急だな。本当に城からの使者なのか」 「ああ、それは確かだ。間違いはない」  寅丸が修之輔の手の中の簪に目を落とす。女っ気の無い、と先ほどまで話していたその城中から、艶やかな簪を寄越すものの正体に疑念を持つのも仕方ないが、かといって送り主の名を明かすわけにもいかないだろう。 「せっかく宴を開いてくれたのにすまない」 「それは構わない、儂も皆も、ただ飲みたいだけの口実だ」 「分かっている」  常日頃から集まって騒いでいる連中だ。宴の口実をいつも探している。 「秋生、さっき言ったように、この道場に縁がある者も城の中で働いている。何かあったらそいつらに遠慮なく相談しろよ」 「ああ、それは本当に頼らせてもらいたいのだが、名前は何というのか、まだ思い出せないか」 「お前の噂を聞いているだろうから、あっちから声を掛けてくるだろう、気にするな」  気にするな、という言葉の意味するところを少し考えて、それこそ気にしなくて良い言葉と片づけることにした。 「これまで世話になった。身辺が落ち着いたら、改めて道場に礼を言いに行くから、今夜はこれで」  その足で料理屋を出ることにした修之輔の手に、寅丸が提げ提灯を渡してよこし、そのまま見送ってくれた。  座敷を借りていた寅丸の屋敷は道場の裏手にあって、部屋は既に片づけてある。荷物というほどの荷物もなく、だが支度をして来いと言うのは先日、修之輔宛に届けられたお仕着せの小袖袴を身につけろと言うことだろう。  これからの準備の段取りを頭の中で整理するうちに寅丸の屋敷は目前に、屋敷の門番がうたた寝をしている姿が見えてきた。道場に通いながらも金に困っている貧乏な奴らに少しでも小遣い稼ぎをさせたい、という寅丸の気づかいで雇われているはずなのだが、どうも空回りしている感は否めない。 「通るぞ」  門番の頭上から声を掛けると門番は慌てて起きだした。 「秋生、宴の主役じゃないか、どうしたんだ」 「城から迎えが来た。すぐに出仕する」  やけに急だな、もう、いやまだ夜じゃないかと呆れる声を背中に聞いて、屋敷に入る。折り目正しく寄越された、城中に務めるものに支給される小袖と袴。確認して、着替える前に井戸水を被って身に漂う酒場の匂いを洗い流した。黒河藩にいた年月、長いひとり暮らしで馴れた手際の良さで寄越された着物を手早く身につけて、明日の朝、履くつもりだった新しい草履に足を通した。  急ぎ足に門を出ると、目線の先、夜回り中らしい虎猫が道場の塀の上を歩く姿が見えた。もう一匹の姿は見えなかった。別行動なのだろうか。そういえば二匹一緒にいる姿はほとんど見たことがないと、今更のように思い出しながら歩を速め、途中、その虎猫を追い抜いた。  ここからなら城の大手門まで半刻も要らない。知らず早まる足ならば、もっと速く着くだろう。  羽代の藩主居城は城下町から見上げの角度に、海沿いに並ぶ城郭が月の光に輪郭を映しているのが遠目に見えた。    篝火に浮かぶ大手門が見えてきた辺りで、道の脇から女に声を掛けられた。 「秋生様、ここからはご一緒に」  女は一面が板で覆われた下げ燈籠を持っており、聞き覚えのある声音に思わず顔を見ると黒河で弘紀の護衛をしていた女だった。確か加ヶ里という名だったことを思い出し、ふとついさっき、どこかでこの名を聞いたと思った。  大手門に近づくと、こちらの姿に気づいた門番が身構える。その門番の目の前で、加ヶ里は灯籠の板の面を門番に向け、その板を軽く持ち上げた。隠されていたその表には何か紋様が描かれていたが、何が描かれているのか修之輔が確かめる前に板は直ぐに下ろされて、闇がその分、近くなった。  闇に一瞬浮かんだその文様は、黒い鳥の影にも見えた。  修之輔も見逃したその一瞬で、果たして何か分かるものかと訝しく思ったが、門番の顔は夜目にも青ざめて、肩が震えているのが見て取れた。顔を伏せ、目を閉じて、加ヶ里とそして修之輔を見まいとする門番の様子に、もう一人、門の反対側から別の門番が寄ってきた。 「どうした」 「……(からす)だ」  同僚からの問い掛けに、先の門番は低い声でただ一言、そう告げた。聞かされた門番も息を呑み、唾を飲み込むその音が修之輔にも聞こえた。大手門を守る門番二人して肩を震わせすぐに面を伏せ、何も見まい、何も聞くまいと怯えている。  加ヶ里はその二人の門番の様子を事も無げに眺めて、修之輔に歩を進めるよう促した。何の手形も持たないまま、何もとがめられることがないままに、修之輔は加ヶ里の後について城内に入った。足を進めて数歩、気になって肩越しに大手門を振り返れば、門番は先ほどと同じ配置に戻っていた。  まるで何も通らなかったかのように。    砂利が敷き詰められた城内を行く。事前に知った記憶によれば大手門を入ったここは三の丸。背の低い長屋のような建屋がいくつも連なっている。三の丸を過ぎれば二の丸で、この門でも加ヶ里は門番に灯籠を掲げた。  先ほどと同じことが繰り返されて難なくくぐる門の先、今度は大きな建物が黒々と敷地内に聳え立っている。階層自体は一層だから平屋作りではあるのだろうが、なんにせよその大きさ、建屋の向こう角に灯籠の光が届かない。閉じ切られた戸板も柱も頑健で、これだけで城塞と呼べるような建物だった。加ヶ里はさらに歩を進める。しばらく歩くとさすがに建物の先は途切れ、庭園が広がった。月の光に白く照らされて、見慣れない樹木が点々と配置されているのが見える。  植栽の間をあちこちと細かく折れ曲がって歩くうち、方向の感覚があやしくなったその先に、もう一つ、大きくはないがこれまでとは比べ物にならない強固な門が見えてきた。この門番にも灯籠が示されて、だがここの門番はこれまでの者達とは違い、顔色を微塵も変えず加ヶ里の顔形、姿を冷徹な視線で吟味した。加ヶ里の方はむしろ、どこかくだけたような物腰で、もしやこの二人は顔見知りなのかもしれない。    微かに聞こえる波の音、知らず随分と坂を上ってきたようで、覚えに依れば、羽代城の最も高所にあるのは本丸天守閣である。だが、羽代城の天守閣は昔日に焼失して再建はされていないと聞いていた。どうやら修之輔はその天守へと案内されているようで、ならば今はない建物に自分を先導する女は、果たしてこの世のものなのだろうか。  夜の闇が明るいのは、今夜が満月だからだと気がついた。 「この先はどうぞこの灯りを目印に」  そう加ヶ里が足元の小さな灯りを指し示す。そのまま視線を足元から上げていくと、手のひらほどの小さな灯りが点々と闇の中に揺らいでいて、これを辿れということかと振り返ると、既に加ヶ里の姿は消えていた。  月明かりに浮かぶ石畳。波の音がさっきより間近に聞こえる。地面近くにともる灯は海風に抗って消えない健気さで行く先を示し続ける。誘われるように灯りを辿っていった先、建物の影が見えてきた。平屋に見えるが少々棟が高く、開けられた窓の高さから内部は二階建ての二層構造と思われる。先ほどの二の丸の建屋に比べ格段に小さなその建物は、天守の一部が残されたものだろうか。  灯りの先、建物の入り口は戸が開いているらしく微かな光が細長く地面に漏れているのが見えた。光の隙間は手が入るほど、ならばこれはこのまま開けて入れということか。軽くきしむ木戸を開けると簡素な玄関になっていて、その先の磨かれた廊下、部屋の襖が開け放たれている。覚えのある香り。  先程から、いやあの料理屋で簪を渡された時から逸るこの気持ち。この物言わぬ案内の先に待っているのは。    廊下に上がり襖の空いた部屋の前、いったん足を止めて呼吸を整えようとして叶わない。ただ衝動に突き動かされるまま開いた襖のその正面に。灯籠の柔らかな光。いくつか置かれたその照明に、見覚えのある姿が浮かぶ。  葡萄色の地に、鮮やかな染と金糸銀糸で縫い取られた宝尽くしの文様美しい小袖に袴姿、弘紀が華やかな笑顔をその顔に浮かべ、こちらを振り返った。 「お待ちしておりました、修之輔様」
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