第2章 秋天の風

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 早めの昼食を食べ終わると、木村が子供の頭ほどの大きさがある土瓶に茶を淹れて持ってきてくれた。  今、羽代藩は茶の専売に力を入れ始めているという。農家からの買い上げを積極的に行っているのだが、その中でどうしても売り物にならないものをこうして我々が有難く頂いているのだ、と、木村は半ばおどけた口調でそう言うが、このように飲む分にはいっこうに差し支えない風味であると修之輔には感じられた。 「もうすこし香りがどうにかならんかな」  それでも木村は何やらぶつぶつ言いながら飲んでいる。茶にはうるさいようだ。  茶を飲みながらの食休みも、しばらくすると昼時に掛かって、次第に座敷に人が集まってきた。修之輔たちと同じ着物を着ている住み込みの者の他に、通い勤務の者もいて、こちらは黒い羽織を着ているのですぐわかる。 「そろそろ退散するか」  そう云って木村が次に修之輔を案内したのは、二の丸から北の丸に至る門で、ふと疑問に思って聞いてみた。 「天守のある本丸には行けないのか」 「ああ。本丸には二の丸御殿の藩主様専用の出入り口からしか行けない。今は公務には使われていないからな、掃除なども含めて全部、奥勤めの者が管理している」  仕事の分担はいいことだ、と木村が自分で言った言葉にひとりで頷いている。そうなるとこの間、弘紀が待つ天守観月楼を訪れた時は、その藩主専用の通路を通ったのだろうか。今更ながらあの”烏”を名乗る加ヶ里の幻燈に惑わされた心地がした。  北の丸に入るとすぐに(うまや)があった。北の丸とはいってもこの辺りは城の南端に面していて風通し良く日も当たる。俺らよりもいい場所にいるよなあ、とぼやく木村の目線の先、見覚えのある馬が厩から顔を出している。  鹿毛の馬体に白い星。弘紀の乗馬、松風だ。他にも数頭いるが、これで厩の半分も埋まっていない。 「馬の世話は、これを専属にしている者達がしている。獣の世話とはいっても、調教や病気まで診て治してやっているから、腕は大したものだ」  飼葉の運搬は時々頼まれるから、その時はここまで運んでくるんだぞ、という木村の言葉を聞きながら、誰にも咎められないのを良い事に松風の額に手を伸ばしてみた。  松風の目がこちらを見て、何か思い出すように瞬く。自分のことを憶えているのかと、修之輔は前にしてやったように額を手の平で撫でてやると、もっと撫でろと額を押し付けてきた。これではこちらを憶えているのか、額がかゆいだけなのか、どちらか分からない。  松風の気が済むまでひとしきり撫でてやって振り返ると、木村が怯えた目でこちらを見ていた。 「なにか」 「いや、秋生、その馬、人のことを躊躇なく噛むから気をつけろよ」  やはり松風の評価はここでも、隙あらば人を噛む馬、のようだった。  厩の他、北の丸にある建物はほとんど倉庫や物置きで、かといって大事な物は二の丸に、良く使うものは三の丸にあるので、ここにあるのはほとんどガラクタだという。今日はここまでにしてまた機会があったらな、と木村に言われ、午後の仕事に備えるために一度部屋に戻ることにした。  午後は早速、先ほどまで梅部屋の者が働いていた二の丸御殿の入り口近くの部屋で働くことになった。  午後これから帰宅する者、午後から出仕してくる者の名前を名簿で確認して、太刀を預かり、人の流れが途絶えると今度は庭の掃除、さらに船着き場に荷が入ったと呼び出されて城内への荷の運び入れなど、あちらこちらの仕事に駆り出されて初日がどうにか終わり、部屋に戻るころには相部屋の不慣れさも気にならないほど疲れ果てていて、修之輔はすぐに眠りに落ちた。  その様な日々が休む間もなく十日ほど続き、途中あった半日の休みも滞りがちだった身の回りの整理だけで慌ただしく過ぎてしまった。  なので今日、二の丸御殿の庭から弘紀の姿を見たのは初日以来、久しぶりのことだった。  二の丸御殿は執務と藩主の公邸を兼ねているので、その気になれば弘紀は全く外に出ることなく執務を行うことが可能である。御殿の建物は、戦時になればここが本陣になるというぐらいに堅固なつくりで、庭に面した南面と東側面に巡らされている廻り廊下には板戸があり、昼間は明けられて屋内に光を入れ、夜は板戸が閉められて外から警備される。  藩主の住まいで執政の中心でもあるから堅牢な守りは当たり前で、そのせいというわけでもないだろうが、これほど弘紀と会えないとは思っていなかった。  それでも二の丸御殿での仕事の時はどこか弘紀の気配を感じる気がして、今日こそ会えるのではないかという期待は毎回あったのだが、その姿を向ないまま、日数ばかりが過ぎていた。  二の丸御殿の庭を箒で掃いていた修之輔は、木村が低い声でこちらを呼ぶのに気が付いた。 「おい、お偉方が来たから一度跪礼だ」  目を上げると複数の人影が御殿の表廊下を歩いているのが見えた。その先頭付近、小柄な背丈でそれと気づきやすい弘紀の姿があった。周囲は田崎を含む数人の重臣で、何か打ち合わせをしながら移動しているようだ。 「秋生」  木村に強めに名を呼ばれた。跪礼に遅れるなという注意だった。城内に住む者は、上位の者が近づけば簡略でも良いとはいえ、膝をつき面は伏せる。修之輔が跪礼の姿勢を取り、視線を下に向けていると、話し声が近くなって弘紀の声が聞きとれるようになった。自分に話しかけるときより硬めだが、いつもどおり耳に心地よく聞き取りやすい声音だった。 「御苦労」  跪礼する二人に気づいた重臣の一人から声が掛けられた。この一言で下の者は中断した仕事を再開して良い事になっている。跪礼を解いた修之輔の腕を木村が引っ張り、一瞬、反射的にその場に踏みとどまったが、木村が重ねて腕を引いた。 「離れるぞ」  木村に付いて足早に数歩、池の(ほとり)まで移動した。略式の礼で良いとはいえ、あまり近くにいるのも無礼だからと木村に諭されたが、目はどうしても弘紀を追う。ちら、とこちらを見た弘紀が足を止めて、取り巻きの重臣たちもその場に留まった。 「また長丁場の会議になるからその前に、少し庭でも見ていこう」  そう云う弘紀の声が聞こえた。この距離ならば視線のその先、察するものはいないだろう。池の端の掃き掃除を続けながら、修之輔はそれとはなしに弘紀の姿を目に入れる。重臣たちと言葉を交わしながらも、ときおり弘紀もこちらを見ている気配があって、だが目を合わせるわけにはいかない。ただ互いに相手の視線が自分を撫でる、その感覚を二人で密やかに共有していると、特に何の感慨も持たない木村が修之輔の脇に寄ってきた。 「秋生、あれが今の羽代で権力を持っているお方たちだ。一番お若い弘紀様は直ぐ分るとして、あの一番年上が田崎様、その隣が加納様だ」  田崎のことは見知っているが、木村が軽く顎で示したその先は、田崎よりは若手の体格の良い家臣がいる。三十代半ばに届いているかいないか。遠目にその容貌は分からない。 「加納様とはどのようなお方か」  木村に倣って目をそちらに向けてはいるが、同じ視界には弘紀の姿が映る。修之輔の視線の先に気づかない木村は、加納について知ることを教えてくれた。 「加納様は羽代藩の若手で、出世頭だな。父親は先々代の藩主に仕えていて、加納様自身はもともと弘紀様の兄上、先代羽代藩主に仕えていた」  お家騒動の時は中立の立場に立って双方を収めようとしたが無理だったんだ、とこれは小声で言う。 「有能な方なんだけど、少々固いというか冷たいところがあってな。中立とは言い様で、どちらからも支持されていなかったというのが現状だ。人望を得るというのは難しいものだな」  やがて他の家臣に促され、廻り廊下から屋内へと弘紀は姿を消した。全く姿を見られないよりはまだましとは思ったが、それでもやはりもっと会いたい、少しでも触れたいと疼く気持ちは強くなる。    夜、菊部屋の他の者は寝静まり、開け放たれたままの障子の向こうから月の光と波の音が入ってくる。一人寝付けない修之輔は床を出て、濡れ縁でしばらく月を眺めた。  弘紀に会いたいというこの気持ちが抑えきれなくなったなら、だが、どうやって会いに行けば良いのだろう。  下弦の月も波音も、答えを返してはくれなかった。  初めての給金が支給された日、修之輔は給金のほとんどをそのまま預かってもらうことにして、必要なだけ小銭で受け取り、三の丸に出入りする商人から紙を買った。筆と墨は部屋で自由に使わせてもらえる。菊部屋の隅にあった文机を借りて、その日から日記をつけることにした。  羽代城の使用人が風呂を使えるのは朝の勤務前で、部屋ごとに時間が決められている。なので、朝早く起きてしまっても、それまでは少々時間を持て余す。修之輔は仕事には慣れてきてはいるのだが、いろいろ考えて眠りが浅い時などは、どうしても早くに目覚めがちになる。  その日の朝もまだ日が昇ったばかりに目が覚めた。目を閉じてもう少し眠れないかと試してはみたものの、外から聞こえてくる薪割りの音が気になった。風呂焚きの役目の者は若くはないのに、このところやけに軽快な音がする時がある。眠れないなら起きるしかないと、修之輔は部屋着の小袖に袴をつけて外に出た。好奇心もあって、平屋をぐるりと回り、風呂焚きの火淹れ口がある裏手を覗いて見た、その先に。  軽快な音を規則正しく響かせながら薪を割っているのは、見覚えのある小柄な背中。あまりに意表を突かれて一瞬、頭の中が白くなった。地面に転がる割れた薪を拾って一呼吸おき、呼びかけた。 「弘紀」  使用人のお仕着せの着物をちゃっかり着ている弘紀が振り返って華やかに笑んだ。 「ああ、おはようございます、修之輔様」  着物は袂を襷掛け、髪を結っている位置もいつもより少し下にして、多めに下りている前髪は顔を隠すためだろうが、額の汗を拭っている今はその目鼻立ちがはっきり見て取れる。 「何をしているんだ」 「体を鍛えているのです」  そういえばこの間、その様な話を寝物語にしていたかと思い出す。 「修之輔様になかなか会えないので、ちょっとだけでも会えないかなあと」  そう思って公務の始まる前にこの格好で三の丸付近をウロウロしていたら、薪割りの親仁(おやじ)につかまって、朝っぱらから油を売ってる暇があるなら手伝え、と言われたらしい。 「体を鍛えるのにはちょうど良いようで、それから時々こうして手伝っています。あとここから修之輔様が見えますので、こっちもちょうど良いですね」  そう云って弘紀が風呂の壁の下の方にある小窓を指す。そういえば入浴中、この窓に向かって、湯が熱いとかぬるいとか言っている者がいたが、それは風呂焚きの親仁への注文だったか。  覗くと今は誰もいない風呂場の洗い場と湯船が見えた。 「湯を沸かしている時は湯気でほとんど見えないのです。修之輔様はあまり喋らないから声も聞こえないし」 「だがよくそれで俺だと分かるな」  弘紀が、それはまあ、見慣れてますし、と語尾をごにょごにょとごまかして、そのまま修之輔に抱き着いてきた。 「でも直接お会いできる方が全然良いのです」  胸に押し付けられた弘紀の艶やかな髪を梳くように撫で、その肩に腕を回そうとして、こちらに近付いてくる足音に気が付いた。建物の角を曲がって、薪を担いだ年配の者がやってくる。弘紀が修之輔から体を離し、おはようございます、と慣れたように声を掛けた。これが(くだん)の薪割りの親仁で、この様子であれば弘紀は自分が藩主であると明かしていないのは確実だった。  親仁は薪を降ろし、弘紀の傍らに立つ修之輔を見て、なんだこっちも新入りか、と鷹揚に挨拶を寄越した。 「おい、小さいの、今朝の薪割りはもういいぞ。釜に火が入ったから俺は朝飯を食ってくる」 「ではこっちの薪を二の丸御殿の方に持っていってもいいでしょうか」 「ああ、お前が自分で持って行く分には構わねえよ、持って行け」  そう言うだけ言って、親仁はその場からいなくなった。弘紀は早速(たすき)の紐を解いて、くるくると器用に薪を束ね始めた。 「こっちは私の風呂の足しにするのです」  藩主用の風呂は二の丸御殿にあるらしい。修之輔が手を貸す隙もない手際の良さで薪の束を担いだ弘紀は、これから二の丸に戻るという。 「会えて良かったです。また近いうちにお会いできるかと」  それでは、と、足取り軽く門に向かう弘紀の後ろ姿を、修之輔は呆気にとられたまま見送った。弘紀は門番に見とがめられることなく難なく門をくぐっていく。藩主だから当然と言えばそうなのだが、あの様子はただの薪運びで、絶対に藩主には見えなかった。
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