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2.おはよう!
また、嫌なことを思い出してしまった。
あれから東京の男子校に通って、
円満に卒業できたというのに。
それでもまだ、僕の心の傷は癒えていない。
念願の最難関大に通うことになり、
心は晴れ晴れするはずが、
他人と深い関係を築くのがとても怖く、
信用することができずにいた。
祖母の住む家に居候させてもらってから
2年半が経ったが、
実家はここだと思い、生活してきた。
僕は、あの日に死んだのだ。
川瀬由貴に朝の王子駅で出逢ったのは、
大学に入学して2ヶ月経った、
6月17日のこと。
「おはよう!」
聞き覚えのある少しハスキーな声に
振り返り、やはり川瀬だと思って、
僕は小さく息を吐いた。
入学早々、川瀬は文句なしの美貌で
学内での有名人になった。
明るく爽やかな笑顔の持ち主で、
プラス優しくて気さくな性格だと
わかるのもすぐのことで、
男女問わず多くの取り巻きができた。
そんな陽キャ代表の川瀬が、
陰キャ代表みたいなぼっちの僕を認識し、
挨拶をしてくるのか理解に苦しんだ。
とはいえ、黙っているのも申し訳ないので、
「おはよう」
と蚊の鳴くような声で挨拶を返した。
「もしかして、最寄駅ってこの駅なの?」
「そうだよ」
川瀬と会話が始まりかけていることに
気後れしながら、頷いた。
「1時限目の民法の講義、出るの?」
「出るよ」
川瀬の問いかけに対して短く答えるという
感じで始まった会話は、予想に反して
意外と長く続くことになった。
「じゃあ、一緒に行こう」
「あ、うん」
右肩のトートバッグを掛け直した。
「岸野くんとは、初めて話すね」
「そうだね」
「仲のいい人っている?」
「佐橋くらいかな、話すのは」
「あいつか。明るくて面白い奴だよね」
「うん」
佐橋雄大は、同じ学部の川瀬と
人気を二分するアイドル的な人気者。
誰とでも打ち解けられる魅力の持ち主だ。
たまに声をかけられて話すが、
オタク要素を持つ佐橋とは話が合った。
「今度、佐橋と秋津でメシに行くよ。
もし良ければ、岸野くんもどう?」
「時間が合えばね」
陽キャ3人と陰キャ1人の組み合わせ、
もし叶ったらどんな時間になるんだろうか。
川瀬に返した塩に近い対応とは裏腹に、
一瞬だけ想像力を働かせてみた。
「岸野くん」
「え?」
「学校着いたら、連絡先教えてくれる?」
「ごはんに行くかもだから?」
「そうそう」
「‥‥別にいいけど」
「ホント?嬉しいなあ」
川瀬の爽やかでまっすぐな微笑みに触れ、
思わず目を逸らした。
「ごめん。音楽聴いてたの?」
手の中のワイヤレスイヤホンを指差して、
川瀬が言った。
「大丈夫。もう止めてる」
イヤホンをゆっくり
トートバッグのポケットにしまい、
川瀬に向き合った。
「来月初めての試験だけど、勉強してる?」
初めて、川瀬に僕から話を振ってみた。
「まあまあかな」
「川瀬なら大丈夫だろうけど」
「岸野くんこそ」
「結構、僕たち選択科目被ってるみたい」
「そうみたいだね」
「ノート、ちゃんと取れてる?」
「うん。たぶん大丈夫」
「足りなかったら言って。今のところ全部
講義は出てるから」
「ありがとう。優しいね」
川瀬に言われて、自分でも驚いた。
怖くて他人と深く関わることはもうしない、
そのつもりだったのに。
僕が川瀬を見つめたまま言葉を失ったのを
見て、川瀬は首を傾げた。
「どうしたの」
「いや、何でもないよ」
我に返り、首を振った。
こんなに他人と話したのは、久しぶりだ。
とても話しやすいと思った。
さすが、取り巻きの多い人気者なだけある。
大学の最寄駅に着き、電車を降りたら、
偶然ホームで佐橋と川瀬の取り巻きの秋津が
話していた。
「おはよう、珍しいね」
驚きの表情で秋津が川瀬の肩を抱き、
佐橋が僕に微笑みかけた。
「おはよう。岸野くんと最寄駅同じだった」
「じゃあいっそ、月曜日も一緒に来れば?」
「うん。講義開始時刻が被れば、一緒に
行きたいかも」
「えっ」
動揺する僕に、川瀬がダメなの?と
畳み掛けてきた。
「ダメじゃないけど」
「ふ。じゃあ、岸野くんの講義開始時刻が
早い時と、同じ時は一緒に行こう」
「あ、うん」
川瀬も佐橋も秋津も、僕に笑顔を向ける。
邪心のないその自然な笑顔に、
傷ついたあの日以前の自分にも他人にも
大らかだった時を思い出した。
凍りついた時間が、ゆっくり溶け出す。
「俺、岸野くんと連絡先交換したい!」
秋津が言うと、佐橋は勝ち誇ったように、
「もうオレは、LINEと携帯番号知ってる」
と言った。
「そうなの?岸野くんといつの間に」
「秋津、僕が先だよ。さっき予約した」
3人がわちゃわちゃしているのを見て、
僕はこっそり涙を拭った。
川瀬に「おはよう!」と声をかけられたのを
きっかけに、少しずつ自分を取り戻す日々が
始まった。
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