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1.異世界から現世に戻る
私立D大学テニス部の夏合宿が最終日の夜を迎え、部員たちが宿舎の大浴場で汗をサッパリと流した後、一堂が集合した食堂は宴会場と化した。
皆は、昼間にエネルギーを消耗した反動で、大いに食べ、大いに飲む。
それから、席を移動し、気の合う仲間同士や師匠と弟子で固まり、別々の話題で小グループの談笑が始まる。
こうなると、隣の席同士でないと会話が聞き取れないほど騒々しいので、輪をかけて声が大きくなり、食堂は大声と哄笑で混沌さを増した。
トレーニングをきっちりこなし、炎天下での白熱した練習試合も終わったので、達成感と開放感に包まれた彼らの宴は、ボルテージが盛り上がる一方だ。
しかし、三年生で幹事のカズオは、皆が時を経つのも忘れて進行するカオスな宴会でも冷静さを失わない。
彼は、壁掛け時計に目をやり、腕時計まで確認してから、大きく三度拍手をし、「さて、宴もたけなわですが、ここでお開きの時間となりました」と口上を述べるが、自分に目を向ける者は片手もおらず、逆に彼の声が飲み込まれるほどの爆笑が起きたので苦笑する。
その時、テーブルの中央にいた三年生のケントが、「はいはーい!!」と大声をあげて挙手をし、さらに、カズオを真似た――ただし、倍の速度で――拍手をした。カズオは、ケントが「幹事の言うことを聞きなさい」とでも言ってくれるのかと思っていると、ケントは挙手をして、周囲を見渡した。
「みんな、聞いて! 突然だけど、ナイトウォークやらない!?」
もう社会人としてバリバリ働いていると思わせるほど年齢が上に見えるカズオと違って、茶目っ気があって、やんちゃな高校生に見えるケントの方が、日頃面白いアイデアを出す人気者。そんな彼の唐突な提案が皆の気を惹いたらしく、潮を引くように静かになっていった。
誰もが、単語から「肝試し」を連想したが、近くに墓地はなし、林もないので脅かし役が隠れる場所もなし。ならば、満月が一際美しい夜空の下で、心地よい夜風に吹かれながら散歩でもやるのかと互いに顔を見合わせていると、
「コートへ行く道の先に展望台があって、そこに小さな鐘があるの知ってるよね? あそこまで男女のペアで行って、鐘を鳴らして帰ってくるって、どう?」
小さな鐘とは、最近、鳴らすと幸せになるとSNSで広まった物で、大方は彼の意図を察して口元が綻んだ。
ケントが参加希望者に挙手を求めたところ、彼自身を含む男五人と女四人が手を上げた。
あと女性一名の参加が欲しい彼は、疲労感が半端ない下級生や、歩かせるのが不安なほど酔っ払った同輩たちを除いて、手を上げていない女性三人に目星を付け、順番に参加を勧める。
しかし、二人とも「パス」と手を振って不参加を表明。ならばと、彼は、テーブルの右端に座って目を合わせない三年生の日奈松リコに声をかける。
「ヒナ、行かない?」
「…………」
「ヒナ?」
「…………」
呼びかけても石像のように動かないリコを不審に思ったケントは、彼女の座っている席へ近づき、横から右手でリコの右肩を叩くと、硬直したかのように筋肉が固いので目を丸くする。
前後に揺すってみたものの、ショートボブの黒髪は少し揺れたが、幼さが残る顔はピクリともせず、背筋を伸ばした身体は椅子の座板に張り付いた座像のように重い。動かないよう、体に力を入れているにしては、様子が変だ。
彼は、尋常ならざる事態に悪寒が走り、不安を払拭したくて、なおも彼女の体を揺らそうとし、声をかける。
「おい」
「…………」
「おいってば!」
ケントが大声を出した瞬間、リコは呪縛でも解けたのか、体をビクッとさせて彼の方へ振り向き、目をぱちくりさせた。
「大丈夫か?」
「……えっ?」
「大丈夫かって」
「…………何で?」
「何、そのリアクション?」
途端に、食堂は笑いに包まれる。
リコは、ケントの不機嫌な顔を余所に、自分が何故ここにいるのか、驚きを隠せない。
事実、つい先ほどまで、自分は異世界のギュンツェンハウゼン伯爵の令嬢エスカで、囚われの身だったのだ。
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