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キメて去る
「これは、コメディ小説か?笑いすぎて腹が痛いよ」
「アニバル様、笑いすぎです。殿下もお嬢様も真剣に違いありません」
「カルラ、だからこそ笑えるんだ。そういうきみだって、ほら、目尻に涙がたまっているぞ」
「まぁアニバル様、イヤですわ。指先で涙を拭ってくれるなんて、照れくさいです」
いったい、なんなの?
アニバルとカルラったら、こんな緊迫のシーンでいちゃいちゃしちゃって……。
もっと真剣に、緊張感を持って敵に立ち向かうべきでしょう?
「とにかく、話はそれからよ」
アニバルとカルラのことがちょっとだけうらやましく、ではなくって不謹慎だとプリプリしながらベレー帽の男に言った。
「はああああ?それからって、どういう意味だ……」
ベレー帽の男がすっとぼけたことを言いきる前に、言葉を続ける。
「決まっているでしょう?ちゃんと自分の任務というものを見つめ直してちょうだい。すべては、それからよ。色欲に目がくらんでいる間は、まともに任務をこなすことは出来ない。それが、小説のセオリーよ」
カッコよくキメてみた。
それから、ベレー帽の男とその手下たちに背を向け歩きはじめた。
「また会えるのを楽しみしているわ。つぎこそは決着をつけましょう」
すでにアニバルとカルラは馬車に乗っている。
アレックスに合図を送り、同時に馬に跨った。
「さようなら、使い捨ての駒さん」
最後にもう一度顔だけうしろへ向け、心をこめて別れの挨拶をした。
そうして、わたしたちは颯爽とこの場を去った。
脇道にわらわらと群がっているベレー帽の男側の兵士たちは、両脇に飛びのいて快く道をあけてくれた。
脇道から通りに出て、そのまま湖の方へと戻り始めた。
だーれも追ってはこなかった。
無血作戦は成功、よね。
「ああああああっ!」
ほくそ笑んだ瞬間、とんでもないことを思い出した。
「ひいいいっ」
「うわっ」
「きゃあっ」
「キュキュッ」
「ヒヒン」
「ヒヒーン」
わたしのささやき声に驚いたのは、人だけではない。馬たちも驚きの鳴き声をあげた。
「いったい、なんだっていうんだ?」
「お嬢様、心臓が止まるかと思いました」
「キュッキュッキュッ」
アニバルとカルラとロボは、なぜか怒っている。
「クミ、どこかケガでもしたのかい?」
そして、アレックスは見当違いの心配をしている。
「忘れていたわ。原稿よ。「白ユリの楽士」シリーズの八巻の原稿と、九巻のプロット。殿下、ほんとうにごめんなさい。わたしったら、うっかりしていたわ」
「そんなこと?いや、それはいいんだよ。クミ、きみが無事だった。ぼくらも無事だ。原稿なんて、どうにでもなる。元原稿は、王都の出版社の金庫の中にあるしね。プロットだって、ちゃんと頭の中に入っている」
「ほんとうに?殿下、大丈夫なのね?」
「ああ、無事に危険を脱したことの方がずっといい」
アレックスは、馬をよせてきた。左手をわたしへ伸ばしてくる。
「クミ、ほんとうにありがとう」
彼の美貌にやさしい笑みが浮かんでいる。
この美貌にだまされている女性は、いったいどの位いるのかしら?
やっぱり、彼のスケコマシ疑惑は拭いきれない。
「いいのよ。いざ、モリーナ王国へ、ね」
彼の左手が、わたしの右肘あたりで彷徨っている。
「ロータッチね」
この高さならハイタッチならぬロータッチになるわよね。そんなタッチがあるかどうかは知らないけれど。
右手で彼の左手を思いっきりタッチした。
「パチンッ!」
思いのほかキマッた。
暮れかかって真っ赤に染まっている通りに、小気味よい音が思いっきり響き渡った。
「イタタタタタ」
アレックスったら、大げさね。最最弱でも、一応剣士なんでしょう?
左手を右手で抑えつつ、馬上で前屈みになっている彼の横顔を見、微笑ましくもちょっとだけ残念だと思った。
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