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殿下は死なない
「あら、ごめんなさい。恋愛のジャンルの殿下ですものね。こういう暗殺とか謀略とかのジャンルで人気のある筋書きなんて、わからないわよね」
「クミ、そういう問題じゃないんだ。それは、ぼくもわかっている。だけど、リアルに命を狙われたり殺されたりする身になってほしいな」
アレックスの形のいい口角は、少しだけ上がっている。
苦笑するにもカッコつけるのね。さすがはスケコマシだわ。
「殿下、大丈夫」
テーブルに身を乗りだし、手を彼の右手に重ねた。
こういうシーンで、女性が男性に、あるいは男性が女性にかならずといっていいほどする仕草である。
「大丈夫だって?クミ、いったいどういう根拠でそう断言するんだい」
彼の声が大きすぎた。
周囲のテーブルで食後の紅茶を楽しんでいる街のおじいちゃんやおばあちゃんたちが、こちらへ視線を向けてきた。
「こういうところでは、殿下って呼ばない方がいいわよね」
「えっ、いまさら?まぁ、そうかもしれないけれど……。だが、ここいる人たちは「殿下」というのはぼくのニックネームか何かと思っているんじゃないかな」
たしかに、そうかもしれないわね。
殿下っていっても、ピンきりでしょうから。
前夫の屋敷の隣は、伯爵家である。その伯爵家には飼い犬が二頭いて、オスの名が「殿下」、メスの名が「妃殿下」だった。
アレックスだって、おなじようなものよね。
「殿下がこの話の主人公だったら、死なないわ。わたしは、基本的にはハッピーエンドが好きなの。だから、主人公が死ぬなんてまずかんがえられない」
「こいつは笑える。いまの一連の出来事ってクミの筋書きなんだ」
「お嬢様の好きそうなジャンルですものね。でしたら、これからどんどんハードになりますね」
「カルラ、そんなの当然じゃない。谷に落とされるとか、大剣で心臓を刺されるとか。いいえ。そんなのはまだまだ序の口ね。もっとすごい殺され方をしたいわね。でもまぁ、いずれにしても主人公だから死なないっていうビックリな展開よ」
「おっと、それはホラーな展開だな。面白そうだ。「黒バラの葬送」シリーズと同時進行で執筆してみるか?」
「それはどうかしら、アニバル。それは、さすがに厳しそうだわ」
「いや、ちょっと待ってくれ」
アレックスも自分自身の殺され方に興味があるのね。だけど恋愛系の彼より、バイオレンスやハードボイルド系のわたしの方が、スムーズに殺す方法をかんがえられるはずよ。
「殿下、待てませんよ。こういうのは勢いなんです。小説は、勢いやスピーディーさが求められるんです。ダラダラしていてはダメ。さっさとスリリングな展開に持っていかないと。読者が飽きてしまうわ」
「だから、それはぼくだろう?ぼくが谷に落とされたり心臓を刺されてりするんだよね?」
「当然」
「当然だわ」
「当然ですわ」
アレックスの問いに、アニバルとカルラと三人で即座に肯定した。
ロボは、わたしの右肩上で眠っている。
「……」
アレックスったら、主人公である自分自身にかかっている期待に言葉もないみたい。
「どうせなら、もっと平穏で平和的な筋書きがいいんだけど……」
「なんですって?」
アレックスがつぶやいた。
「レディ。悪いけど、こんなマズいものに銅貨は払えないっていうことだよ」
だけど、彼のそのつぶやきは向こうの方のテーブルでのやり取りの声にかき消されてしまった。
その怒鳴り声の方に視線を向けると、砂塵にまみれた汚らしいフード付きのマントを羽織った背の高い男と、この食堂の店員が言い争っている。
「へー。食い逃げしようなんて、いまどきめずらしいな」
アニバルが面白そうに言った。
「お客さん、困ります。マズかろうが美味しかろうが、食べたものの対価は当然支払ってもらわないと」
「レディ、それは違うな。マズいものにどうして支払う必要があるんだ?」
んんんんんん?
食い逃げ犯の声にきき覚えがあるような気がした。向こうの方の席ということと、フードをかぶっているので顔がわからない。
「というわけで、このまま失敬させてもらうよ」
「ですから、困ります。銅貨二枚、支払ってください。二人分も食べているんですよ。そもそも、マズかったらそんなに食べられるわけないでしょう?」
「人間、腹が減りすぎていたらマズすぎても食べれるんだよ」
なんてことなの。ずいぶんと理屈を言うのね。
っていうか、無銭飲食もあそこまでいったら救いようがないわよね。
「お嬢様。あの声、きいたことがあるんですけど」
「カルラ、あなたも?わたしもおなじことをかんがえていたの」
カルラと顔を見合わせてしまった。
男性の知り合いって、わたしにしろ彼女にしろそう多くはない。
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