星を見上げる俺は、いま

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星を見上げる俺は、いま

 余暇の時間はあっという間に過ぎていった。  社員旅行なんて行事は金輪際にしてほしいと都度思うのだが、こう、当日の楽しさと積み立てた額のことを考えると、やってよかった、とは思う。体力とか、そういう物理的なものは丸無視して。 「はー……」  疲れた体をオフィスチェアに体を預け、うんとひと伸びする。腰骨が鈍い音を立てる。筋緊張が一時的にだがほぐれている気がする。そんな気分を維持したいと、時計を見たが、休憩時間まではあと一時間。  残念ながら仕事の休憩でもないのに、吸わないたばこを吸った体で席を外すような人間ではないと自負している。せいぜいトイレに行くくらいだが、それも頻度が高ければ各方面にいらぬ心配をかける。  故に、デスクから俺は動けない。  ふわ、とあくびをかみ殺して、俺はパソコンに向かい、図面とにらみ合いを再開した。数字を追いながら、頭のどこかでは昨日連れ出された役職限定飲み会のことを思い出していた。  いつもながら、営業系の宴会はハードだ。しかも、役職のついた人間同士の接待になっていたのだから、正直どうにも逃げ場がなかった。  飲めと言われればそちらへ行き、一気。食えと言われれば腹一杯を超えても食う。うちはまだ、一昔前の日常茶飯事が、程度は落ちても健在な会社である。きゅう、と胃が縮まる音がした。朝に飲んだ胃腸薬がやっと体にしみこんできたのだろうか。  ぼんやりとしたまま、かちゃりかちゃりと、キーボードをたたく。 「おまえも来るよな」 「なんでしょう」 「いい加減、係長なんだから、出たほうがいいぞ」 「……いやべつに俺は」 「今回は営業も間に合うらしいから、出といた方が良い」 「わかりました……」  これまで、事務方の一般社員ですからと避けに避け続けていたが、役職についたのだからと上司から連れ回されるようになってしまった。レアキャラ認定してくれたらよかったものの、出席前提で話されている内容の腰を折るのは気が引ける。昨日も出席簿にはマルがついたらしい。  ただそういう「深夜残業」に関しても、適宜帰宅を促されたり、三次会の流れをゆるやかにカットしてもらったりしているので、須く宴会自体がノーとは言えないのがつらいところである。とはいえ、帰宅と次の仕事までの時間帯だけはきっちりしていて、繁忙期ならこのくらい、今週余裕がある、となったら少々遅く、年配の人間からタクシー代まで渡されるという徹底っぷりである。  そういう、翌日の仕事に響かないようにはしてくれているので、その点だけは感謝したいが、だからといって二時間以上の睡眠不足を回収できるはずもなく、俺は今日も増えたパソコン作業で肩を鳴らすようになる。  仕事以外で変わったことなどなにもない。  今日はまだ月がまぶしいだとか、天の川のようなものが見える公園を見つけただとか、そういうのも、きっと今までだって同じようにやっていた。  だが、意識をしてしまうようにはなった。  特に、帰路につく頃合い。  街から明かりが消える頃。  自分が空を見上げていると、気付いた。  ――夜空を見上げるのは、きっと、あの夜を思い出すから。  康太は、それからも〝ふつう〟だった。  あれほど近付いたはずなのに遠ざかる。見た目では近づけたと思ったら、距離の換算すらできないほど遠くに、あいつがいるような気がする。  夜に見えたり消えたりする天体と同じだ。  モノで遮られれば、見えなくなる。  太陽の周りをぐるぐる回る俺達が、近づける部分は限られている。近付きすぎれば、きっとそのまま衝突しておじゃんだ。  だが、それはそれとして、康太とあの場で話せてよかったと、思っている。露天でなければあの空気感はできなかったし、多分、お互いちゃんと話すことができていなかった。  やはり話せてよかったと思う。自分の手のひらを見て、握って、開く。じわじわと指先に血流を送り込む。暖まる指先。  そう、彼が触れた温度だって、残念ながら覚えている。覚えてしまっているが、それはそれでいいと俺自身は思っている。  社員旅行の日から、俺はそこまで変わっていない。  多分。きっと。  残念ながら社長にたたきつける退職届など書けなかったし、当日の宴会脱走の処罰もなかった。その代わりに、逃げようとしていた仕事からは逃れられない場所まで持ち上げられてしまった。  心配されるようなことは特になかった。  だからこそ、仕事自体には打ち込めるのだが。 「はあ……」  ぴこん、と画面端の通知を見て、ため息をつく。営業マンの出先からくるメールを見るのは、普通に憂鬱だ。内々では多少融通のきく営業マンたちでも、結局取引相手の提示する納期には逆らえない。  だからこそ、早く確認すべきだとは思うのだが、こちらも後進の指導もある。  つまるところが、後回しに次ぐ後回し。もちろん当日にちゃんと確認はして、納期の調整が必要な場合もあるのだから、その余力はきちんと蓄えている。だからこそ、本当に超特急で仕上げる場合はそれなりの手でこちらに連絡がくるシステムにはなっている。  ゆえに、そういうことが成立しているのだが。 「よう、係長? うちの営業ちゃんが送ったメール、ちゃんと確認したか?」  件の男が、やってきた。  最近つける香水変えたなこいつ、とは言わなかった。  自分が廉価版の、それっぽい香りがドラッグストアで買える! の記事を見て買った案件だとは言えない。言わない。むしろ職場につけてきていないから許してほしい。気付いたのだったら、それはそれで怖い。 「今見る。おまえも役職は係長だろうが」 「おう、コータ先輩からは卒業だ」  結構気に入ってたんだけどな、先輩呼び。かかりちょー、なんて長いしなあ。  彼はそう笑い飛ばすが、俺にも同意を求めてくるあたり、まだまだその役割になじんでいないのだと理解する。 「まあ、うん」  もちろん、俺もそれは同じである。どうしたって、自分の見てほしい部分は見てもらえないし、かといって、役割分の負担はくる。以前ならば最悪役職のひとたちがなんとかしてくれる、と逃げられた業務も、当然、降っては沸いて、飛び散ってどこかにはいってくれない。  つまり、休みがないということである。 「また行こうな、」  どこに、とは聞かなかった。二人ともが休める日取りなどそうないと分かっているはずなのに、彼はそれを求めてくる。大丈夫。自分は、ただただ、一緒にいたいと言う彼を甘やかしたいだけなのだ。 「次はおまえが金だせよ」 「おい、役職一緒なら割り勘だろー、隆人係長」 「下の名前に係長は鬱陶しいだろ、康太係長。営業手当ついてんだからおまえのほうがあるだろ、金」 「おまえは残業代つくだろ。俺は手当でごまかされてんだ」  そんなわけで今度はお前のおごりだからな、と言い含められてしまった。クソ。 「俺の商品、売り込んだ分だけ考えてやる」 「乗った、見てろよ」  おまえの商品、受注生産だなんて言わないからな! と捨て台詞を吐いて出て行った。くそ、それは困る。主に嬉しい悲鳴で困る。  ああ、でも納期、納期なあ……。今日残ってくれる人間、いただろうか。今日に限ってノー残業にしろとか言われてた日だしなあ。 「……無理、俺がやるか、いやでも……」  頭を抱えていると、隣にすっと影が落ちる。メールチェックに来ているだれかか、と腰を動かすと、くすりと笑い声が聞こえた。  あ、と顔を上げると、そこにはかわいらしい女子がいた。 「……ええと」 「係長、いいんですか」 「あ……、山内さん。ごめんねうるさくて」  この前の宴会から、やたらと俺たちの間に入ってくれるようになったのが山内さんだ。気が利く、仕事が出来る、かつ素直でへこたれない。見た目以上にそのきっちりとした仕事ぶりに、俺たちは彼女への昇給を本気で望んでいる人間の一部だ。  こほんと咳払いをした彼女は、やはりどこか楽しげな様子であった。ちら、と彼女が見たのは、おそらく康太の消えた扉の方向だ。 「いえ、でもあの」  あの調子だと、康太係長、本気でやりかねませんよ。彼女はくすくすと笑いながら言う。  恥ずかしいやつだ、本当に。  俺は彼女には緩んだ姿を見せてしまう。  くやしいなんて思わないけれど、 「どうせ売り込んだ分だけこっちの運営は忙しくなるんだ。どうせ俺がおごることになる」  それでいいだろう。どや顔を見せてきた男を否定するわけでも、肯定するわけでもなく、俺は俺の仕事をするだけだ。その他の割り振りを考えて、休憩明けの段取りを検討するために、机上の分厚いノートを開いた。ペン立てから一番手前にあったボールペンをとり、ペンを走らせる。 「私も……」 「え?」  すると彼女は、ぽつ、とひとこと呟いた。 「わたしも、えっちゃんと仲良くしてこないとなあ、と思いまして」 「えっちゃん……」  そんな名前の人、いただろうか。というかもしかすると職場の人ではないのかもしれない。という想像はすぐにかき消されてしまった。 「あ。和田さんですね。おばさん、下の名前がえつこさんなんです。母に合わせてえっちゃんと、呼んでまして……職場では気をつけて居たんですが」  申し訳ありません、と腰を直角に傾けた彼女に、いやいや、俺のほうがたいして偉くもないから大丈夫、と頭を上げさせた。  新情報。動揺したために、強い直線がノートを横切った。  いや人事は知ってたんだろうけど、初耳。なんだそれ。ばしばしとたたかれた背中の痛みを思い出す。  多少はあの人の血が入っている可能性があるとか、知りたくなかった。 「ああ、そ、そうなんだ。親戚の人が一緒の職場だなんて、心強いね」  はい! とにこにこと笑う彼女に、ちょっとだけ引いた。  これから気をつけておかないと、いつなんどき、お噂はかねがね、状態になるかわからないという事だ。  ひやりと背筋を流れていったのは、たぶん汗だ。決して、生き霊なんかじゃなく。  ――ああはならないでほしい。  彼女の背中を目で追って、お辞儀に首で応えると、先ほど一瞬飛んでしまったシフト内容を整理するために、ノートのマス目に戻った。  書き味も普通。インクの濃さも普通。  よくインクは飛ぶしひっかかりだってあるこのボールペンは、しばらく前から、よく使い続けている。なめらかに滑るものはきちんと手元にあるというのに、だ。軸には、温泉旅館の名前が入っている。  じっと、その軸を見る。濃淡二色でどちらがいい、と聞かれたので、渋い色のほうがかっこいいだろ、と言って二人でそれを選んだ。  あいつの胸ポケットの中に入っているものと、同じものだと、誰かに気づかれるだろうか。気付かれたところで、酒の勢いで買った土産だからと一笑されて終わりだ。  ひとりは商談のネタとして、だろう。  俺はそれを確かめる気もない。  お互い、触れずに仕舞ってある感情を、いつかきちんとかたちにすることが、できるだろうか。  手を止め、俺は意味もなくLEDの光に透かしてみた。  木軸が光を透過するわけもなく、一本の影だけが、そこに見えている。  その端でちらちらと古典的な箔押しのロゴが輝いている。 「……」  ふう、と息をつき、俺は本来の仕事へと戻るために、俺はそのボールペンをペン立てに戻した。緩めたボタンも締め直す。これから、また戦いだ。  宿のロゴは、流れ星のように、きらきらと輝いていた。
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