渦中の種

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「……っ、」  確かに康太と山内さんは、社長のところからは、離れた。  が、そのまま社長のところからこちらに向かってくるのは康太だ。ちらりと見てしまった毛先のツヤ感。同じタイミングで出たときに毛先をいじっているようには見えなかったから、おそらく、髪のしめっぽさがまだ取れていないだけの、ちょっとルーズな姿。  こういう飲み会には、きっと慣れている。  ――俺とは大違いだ。  酔いのせいで見えていないふりをして、そのまま瓶入れに空を置き、新しいものに手をかけようとした。 「あれ、隆人」  が、手を冷やす前に、声をかけられてしまった。 「おつかれ、山内さんといたね」 「あー、見てた?」 「うん、まあ」  正直一瞬、あの蟹で指さされたところと、最初に席を立ったときくらいだよ。  言おうか迷って、結局飲み込んだ。 「なんにもねーからな」 「は?」  いらだつ言葉に、俺のトーンもなんだか強くなってしまう。  いま、なんて言った。なんにもない? あれだけ楽しそうに談笑していて?  かわいい女の子を隣に侍らせておいて、なんにもないだと。ついでに言えば、俺があの席でネタにされていたあの瞬間の表情は、忘れられない。  酒のせいか沸騰した心の中で生まれる文句はマグマのように胃の中でぐつぐつと煮えていた。  どうしてかはわからなかった。 「おまえのためだから、」 「は?」  俺のために。  もっと風情のある場所なら、素直に聞けたかもしれない。でも、それをする相手を俺ではなくて、他人の、女子の有望株と社長のところに行って根回しする?  何を言っているのかさっぱりわからない。いや、しごと。仕事の話だということならば。  あえてここで、塩を贈るくらい、なのか。 「早く社長のとこ、行けよ」  これ、飲みたがってたから。ひとつだけ、銘柄違いのビールが並んでいる。確かに、社長はこっちの方が好きだったと聞いたことがある。  康太に言われるまでもなく、これを持って出陣する予定はあったのだが。 「康太、なんでキレてんの」  むくれた顔の男が目の前に居て、正直そっちの方が気がかりだった。 「……いいから、さっさと行かないと気が変わるぞ」 「あ、うん……ありがと、」  気落ちしている? キレてる?  どちらにしてもよくわからないが、今は彼の言う通り、社長のところに行ったほうがいいだろう。そそくさと待機列に並び、前の社員が抜けて、俺が目の前に来た途端、社長が景気よく笑い出した。 「おお! そうか、その気になったか」 「ええと、あの……」 「なんだ、さっき康太にも言ったんだがな、めでたく昇進だ」 「……はい?」  その後社長に何を言われたかは、正直覚えていない。  来期の主任に抜擢、までは、覚えている。  主任? まだたかだか数年の俺が? ふわふわと疑問が浮かんでくるものの、正直何の話をされているかさえ、わからない。この円卓の向こうに座っている係長がニヤニヤこっちを見ているのはそれか。携帯向けんな畜生。 「話がまったく、読めて、」 「いいんだ、ちょうどこの宴会で発表しようと思ってたところだ。おまえの方から来てくれて手間が省けた」 「あの」  さっきまで相川さんと和田さんに挟まれていたときのことを思い出した。役職。そんな話もネタにされてたけど。そういや人事のお局様とも仲良かったっけ。  目の前でギラギラのオーラを隠そうともしない社長が、俺を、ずっと見ている。答えを間違えれば、即退場、にもなるだろう。  ああ、でも。これは受けると言わなければならないんだろうな。気が重い。上機嫌な会社のトップさまの機嫌を損ねるわけにはいかない。 「ええと、俺なんかで」 「なんかとはなんだ」 「あ、いえ……その、まだ実感が」 「そろそろ上げてやろうと思ったら、アイツが、お前がいないとなんて言うから不思議だったんだが」 「アイツ?」 「康太だ」  でもまあ、実感なんてあとでついてくるんだよ。  だからおまえは大船にのったつもりでいればいい。  社長の話は右から左にびゅんと通り抜け続ける。  これはもう、仕方のないことだ。入社前からこんなノリなのだ。  入社試験のときですら、俺は営業マンにはなれん、内勤からやれ、なんて言われて終わったことを今でも夢にみて、スーツを捨てたことを思い出す。  完全にそれで落ちたかと思いきや、本当に内勤で採用通知が来たのだから、最後通牒のように俺はそのまま、この会社に入った。入りさえすれば、きっと部課を変わることだってできるはずだ、との期待は裏切られ、結局二足のわらじすら履かせてもらえないままひたすら内勤。そのうえ役職ときた。  だから苦手なのだ、この人のワンマンぶりが。  それがただしく作用しているとしても、だ。ぐっと拳を握ったところで、社長がぽつりと言った。 「ミナカミのパーツ、あれお前が設計したんだって?」 「……いえ、あれは課長が」  押し付けてきたんです、なんて言えるかよ。そうそう、その課長から聞いたんだよ、なんて社長は上機嫌で言う。  大方俺の今この瞬間ぐずついていたことは無くなっているのだろう。承諾もしていないのに、役職。誰かの上に立つ。勘弁してくれ。  そう思いながら適当に相槌を打っていた。 「あれでうちの売上が伸びたんだ、寸志は弾むがそれ以上に」 「大丈夫です社長。俺は独立とか考えてないんで」  出て行くな、ということだろう。この業界は出入りが激しい。寸志が出るだけありがたい、むしろもらいすぎなのかも、なんて思ったくらいですよ。  そう言いたかったのに、社長の目が本気で、冗談を言えるような状態ではなかった。 「その言葉、今は信じるがな」  信じるも何も、と思う。  とにかく内勤としてやったことは事実だが、とよくわからないまま頭を下げた。この社長、ワンマンすぎて何が正解かわからない。 「期待しているぞ」 「っ、」  ばしんと強かに打ち付けられた背中が、痛い。しかもさっきまで和田さんに叩かれていたところ。 「あ、りがとう、ございます……」  痛みに負けないよう、口を開いた。小一時間前の緊張とはまた違う汗が背中をじとじと湿らせている。やはり、風呂にいかなければ。  カシャ、と響いた方向を振り返ると、やはりそこにいた係長がニヤニヤ、俺をとらえていた。振り返った瞬間にもフラッシュが俺の目を襲った。 「ちょ、」 「社員のみなさんおつかれさまでーす、宴もたけなわ! ということでそろそろ発表会を始めまーす。発表担当のひとは、司会側にお集まりくださーい!」  営業の幹事がマイクを使って呼びかけた声で、俺の反論はかき消えた。  それを聞いてみなそれぞれの動きが、少しだけ緩慢になる。俺の後ろに並んでいたのは、この円卓のひとだったようで、特に何があるでもなさそうだった。 「おお、そろそろか」 「あ、はい。では失礼します」 「まあ、気楽にな」 「……はあ」  なにをどうすれば気楽でいられるんだろう。自分の席に戻ったが、まだそこには手つかずの肉料理が鎮座していて、慌てて切り分け、食べ始めた。  ちら、と康太の方を伺ったがその席にはいない。あ、と司会の方を見ると、彼は確かに、そこにいた。真剣に準備をしている姿を見て安心しているなんて、俺も相当、と思ったところで冷静になる。  この先はひどくまじめなプレゼン大会。ここで食いっぱぐれたら終わりだ。働き出した脳に栄養を送るためにも、わずかばかりの休息で、俺の胃腸をフル稼働させることに決めたのだった。
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