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「ここで俺が騒いでも仕方ないだろ」
康太はそう言って俺の手を引いてゆっくりと歩き始めた。思っていた以上に冷たい指先。緊張でもしていたのだろうか。
この男が? とも思う。
足早に連れて行かれたのはエレベーターホール手前の、待合エリアだった。ほどよく人は来ないし、来たとしてもそれほど大きい声を出さなければ俺達の存在ごとスルーされる。間違いない場所。
あまり知識がない自分でもわかる曲は間違いなくクラシック。それ以上でもそれ以下でもない。
数分前までいた場所とは、隔絶されたように思えた。その場でぱっと手を離され、康太は横並びのソファの真ん中に腰掛けた。そうして俺に、隣に座るよう指示した。
なんとなく、袷がはだけそうに見えて、膝のつかない距離に離れて座った。
「さっきのはなしだけど」
「あ、ああ」
座って早々、康太はそう切り出した。
「おまえの名前出すのなんて、当然だろ」
「だって、お前……」
まずもって、ああいうかたちで名前を出すんだったら、普通、本人に言うものじゃないのか。
そういうことを言おうとしていたけれど、康太のほうはどうやら違う意図に取ったらしく、さらに膝を寄せてこちらに言う。
「事実だろ。社長、プレゼンの内容も全く見てなかったから、さっき山内さんと二人でばらした。俺ひとりじゃどうせわかってもらえないし、あの仕組み教わった人間連れてく方が早いだろ」
確かに、俺は山内さんの教育係もしていた、というか今年の新人の教育担当にあたってしまっただけで、彼女ひとりに教えていたわけではない。
なのに康太は彼女を選んだ。康太の読みは正しい。だからこそ怖かった。
康太が売り込んだ商品の試作を作っている段階で、新人指導に充てられた。その制作を補助してもらったのは、彼女ともう一人。教育の一環として、開発段階の物品について忌憚なき意見を言うように。それが新人らへの課題だった。
製造工程でも、売り方でも、なんならプレゼンの仕方ひとつでもいい。とにかくなにかひとつ「ダメ出し」をしろ。それで単なる年齢や入社年の上下だけではなく、技術を売り込む側としてのプライドをもって仕事ができるようにする。それが狙いだかなんだか、って言われていた気がする。
そうして彼女は的確にいわゆる「よくわからない」仕様にツッコんできた。主に課長による、カッコよさのためにつけたちょっとした機構について、量産するためのコストがかかりすぎるように思うのですが、と。
――係長が青くなるほどの辛辣さである。
俺も近い内容を課長に言ったことがある。が、お前も男ならわかるだろう、ロマンはわからんのか、で押し付けられたものをぎりぎりまで削った。が、ゼロにはできなかった部分のひとつだった。
だから彼女の意見を裏付けとして採用した。若い子だし、男では気付かない部分として提案した。ついでにより安価で安全にできるよう製造工程と出荷工程を一部見直すことで製品化のゴーが出た。
つまり、彼女はある種、俺の恩人でもある。
が、その一連の流れではなく、俺が作ったことにしぼってプレゼンをしていた。
事実そうだったとしても、無許可でプレゼンに載せていい理由にはならない。そういう、一足飛びになんでもできてしまうところに、どれだけの人間が憧れて、妬んでるのか、康太は知っているのだろうか。
「どうしてそんなことするんだよ……」
嫌味にしては手が込みすぎだよな。そう確認の意味を含めた言葉は、康太の中ではなんの意味ももたらさなかったようだった。
「おまえの仕事が好きだから」
「は?」
意味がわかんねえなら、教えてやる。
そう聞こえたときには俺の胸ぐらはしっかりと康太に掴まれていた。
「おまえの手がけてる仕事が好きだから。だから、こっちも本気で営業してんだよ」
こっちだってお遊びで仕事してねえんだ、冗談じゃねえ。
口から零されたのは、もしかしたら康太の本音だったのかもしれないなと、思った。
「……っ、」
「隆人、おまえ……自分の作ったものが売れたら嬉しくないのか」
「そんなこと、」
嬉しいに決まってる。当然、嬉しい。
自社製品の名前に載るのはどちらかと言えば避けたいくらいだが、売上という実績は技術者として一定の値で認められた気がするのだ。もちろんそれが永続的に使われたり、故障等のトラブルがあっても切り抜けられたり、という前提のもとでだが。
どうせなら俺が自分で売り込んでもいい、手前味噌でもなんでも、課長が適当に投げた案件だ、好きに使わせて貰わなければ損だろう。そんなやさぐれた気持ちを押し殺して製品化したものだ。
それを、康太がやった。
俺のかわりに、俺の好きなやつがやってくれた。
嬉しいに決まってる。
でも内心満場一致で同意できないのは、やっぱり自分で自分が作ったものを売り込みたかっただけのこと。同じ結果が出るかはわからなかったが、挑戦したかった。拳を握って、緩める。気づいてしまった。緊張と怒りでカチカチに強張っていた全身が、ゆるんだ。
なんだ、その程度の話で。
「じゃあいいじゃねえか」
康太はあっけらかんと言うと、俺もなー、と話し続ける。
ちゃんと社内にも名前売ったし、山内さんっていう切札も売り込んだだろー。
康太はやけに嬉しそうだ。まるで、自分の手柄みたいに喜んでいる。俺の成果物に関して、康太が。
それが不思議で仕方がない。なんでここまでするんだよ。喉から出かかったものを飲み込むのに十分な驚きが、きた。
「次が楽しみだな」
「つ、ぎ?」
次の社員旅行? それなら来年のいま時期か。
いやでもどう考えても、そういう流れではないだろう。
む、と顔をしかめたのは、たぶん余計なことを言ってしまった、という部分を隠したかったんだろう。
お互い無言で睨み合い、気を抜いた康太が諦めたように言う。にらめっこには慣れている。たぶん。
「おまえは知らされてると思ってたんだよ……やっちまった」
「何をだよ」
康太は所在なさげに自分のフェイスラインをなぞりながら、言う。ここだけのオフレコな、とめずらしい言い回しで、彼は続けた。
「次の営業先候補ってミナカミ傘下の子会社なんだよ。んでその次がそこの御曹司が社長やってる別の部門だろ、ええとそれから」
「……大手すぎるくらい大手じゃねえか。つうかこんなところで」
「おう、さすが元営業。たたき込まれた関連会社の情報、まるっと覚えてんだな」
「うるせえ」
そんな話会社自体のはなしはどうだっていいんだよ。
その先を聞かせろ、と言えばしぶしぶ続きを言い出した。
「てなわけで、このあと新人の編成会議あるだろ? 営業予定だった山内さんをそっちにやる代わりに、おまえを引き抜きたい、って社長に言ってきたんだよねえ」
「……っ! おま、そういう」
打算にもほどがある。俺を、営業に戻す? 正気か。
確かに、営業マンだけではなく、作った当の本人を出した方が、今後の事業展開についての話は早いだろう。
だがそれまでまったく外に出ていなかった人間を、役職者として抜擢するのは、違う話だ。
「でもなー、だめだったんだよ。コイツは係長にして外回り中心にはさせないって」
ある意味その部分が正常な判断をしてくれる会社でよかったよ、とは思った。あくまで下限だが。
「そりゃあそうだろ。普通に新人以下だろうし。そもそも、俺は毎年異動願い出してないからな」
「なんでだよ」
「いや、ふつうに……来期について言えば、また講師すんのも悪くねえなって」
そういうおまえはどうなんだよ。言いかけた言葉はぶすくれた顔をしている男にかき消された。
「ふーん。そう。そうなんだ」
「んだよ不服か?」
俺には最初しか教えてくれなかったくせに。
康太が言った言葉の意味を取るより早く、彼は続けた。
「係長になったらオンライン会議の参加義務は増えるらしいから、そっちでよろしくな」
俺プレゼン作るの本当に苦手だしテンプレなぞることしか言えないからさ。康太はそう言って膝を広げたまま、天井のシャンデリアの装飾を見ている。
「はあ?」
たぶん、なにも言いたくないからって、この装飾の数を数えている。そのうち、どの部分が欠けてる、とか簡単に言うのだ。それくらい目がよくて、全体から一つ抜け落ちたものを見ることにも適性がある。
だから営業としてやっていけているんだろうなと、思う。
「あー、つっかれた。真面目モードも飽きるんだよなあ」
おまえが仕事に真面目じゃなかったことなんて、ないはずなのにな。
こっちがやきもきする必要なんかなかったんだ。
「つうことで、風呂。露天行こうぜ」
「まだ会はお開きじゃねえだろ、それに」
二次会に行かなかったらどうなるか。
ザ・体育会系の我が社では社長のご機嫌取りが絶対案件。
自らが手をかけた宴会に関して、脱走兵は御法度、逆鱗の中の最たるものだ。
「おまえはそれでいいのか」
「え、」
なんでわかんねえのかな。康太はそう言って、頭を掻く。
「俺はおまえと二人で、腹を割って話したい。このまま……宴会に戻るんだったら、露天の話もナシだ。俺は今から露天風呂に行く」
立ち上がった康太の顔は、さきほどプレゼンで司会をしていたときよりも、ずっと真面目な顔だった。
「おまえは、どうしたい?」
芯のある声が、降り注ぐ。
俺はどうしたいか。
このチャンスを、逃したくはない。
「俺は……」
正直、どうしたい。どうすべきだろうか。
康太と一緒に一晩でもいられるのであれば願ったり叶ったりだ。打算というか、そういうやましい欲求というか、は、めちゃくちゃある。
しかし、リスクに関してはどうか。この職場聞けば縁故ボーナスがあるとかないとか。月給もその限りではないとか、という古い体質の会社だということは皆知っているところである。つまり、どこかだれかが増えたら、その分は社長から見切りを付けられた人間が減俸される代わり、というのがもっぱらの噂だ。
今後自分がそちら側で仕事を続けていくべきかどうかも悩むところだ。
正直俺の代わりはいくらでもいるし、業界的にも、仕事的にも外の会社に出ることは可能だ。ましてやさきほど大々的に康太がプレゼンしたのだ。それを活用させてもらえば、まあ、なんとか出来る気がしてきた。
まあ親にはどやされるだろうが、これを機会に新しいシステムの勉強でもすりゃあ、もうちょっと良い待遇も得られるだろう。
なにより、と彼の顔を見る。
きっと職場をやめても、彼と会うことはできるだろう。
けれど、こうして、同じ目線でものを言えるタイミングは、きっと、今しかない。
「……わかったよ、一緒に減給だな」
はー、と息をはく。と、なぜか上からも、よかったー、なんて聞こえてくるから思わず顔を上げた。
「え、ああ……さんきゅー」
そうこなくっちゃ。これで行かねーとか言われたらどうしようかと思った。
横の男はそう言って、一人がけのソファでうんとひと伸びした。
「康太はすごいわ」
俺のできないことはさらっとやって、しっかりと実績を上げているし、かと思えば冗談じゃなく根回しとか、そういう方面での仕事もできる。
同期のよしみでも、普通そんなことしないだろ。
そんなことをぶつぶつと言ったら、康太はニヤニヤとこっちを向いていた。へんな顔をしていたなと、ガラスに映り込む俺達をみた。
今日は俺の方が小さく見える。それもそのはず、普段はワックスで上げている頭頂部の毛が、汗やら何やらでへたっている。
やはり、俺の方が背が低い。物理的にどうにも出来ないところを考えていたら、康太はふふ、と笑い出した。
「隆人くんほどではありませんな」
「俺? おま……え、ええ?」
おまえの方がすごいにきまってんだろ。
なんてことを言いかけたが、やっている仕草がひどすぎた。
康太は自分の右人差し指で、右の下まぶたを引っかけて、真っ赤な舌をこちらに見せつけている。
完全に、悪ガキみたいなあっかんべー。舌に白い部分がないところが健康なのだなと、改めて思った。
思ったことで、反撃のタイミングは完全に失われてしまったのだ。
「そうだよ、お間抜け野郎! ちなみに、先に風呂場についたやつがビールとつまみ一杯おごりな!」
「あ、こら待て!」
タイミングよく上層階行きのエレベーターが到着し、扉が開いた瞬間、康太はするりとそれに乗り込んでしまった。憎たらしい二度目のあっかんべー、まで添えて。
クソ、と舌打ちしながらシミュレーションを行う。
早く部屋戻って着替え、は最悪なくてもいい。貴重品も手元にある。がきっと康太のことだ、そこからリスタートもありえる。直接大浴場なんて卑怯な手で勝ちたくはない。
だから、きちんと着替えは持って行くべきだ。ちょうど入れ違いに下層へ向かって降りてきているハコがある。徐々に減る数字。ハンデは三分、いや五分か。
アルコールの影響なんて気にしていられない。俺達はそれぞれ、館内用のスリッパを擦りながら走ることになるだろう。競歩なんて器用なことはきっと、お互いしていないはずだ。
普段の出先なら、まずしていない行為だ。旅行中だから? 彼とふたりだけのお遊びだからか?
俄然やる気の出てしまった俺は、館内着の袖を肩までまくった。目の前で扉が再度開く。ランプは上層階行きを示している。あいにく誰も、乗っていない。
「内勤なめんじゃねーよ」
床に敷き詰められているふかふかの絨毯ともつれあいながら、自室を経由し、別棟へ向かう。ルートはだいたい想像がついている。いける。
アイツがカートゲームのように、何かしらの武器防具を携えていなければ、たぶん。
何年ぶりに、こんなしょうもない話をしているのだろう。
入社以来? それとも新年会か忘年会か。
思い出せないが、今はそれどころではない。やはり、康太に対して、と思うと、不思議と心が躍るのだ。
扉が再度開く。静かなベルの音を号砲にして、俺は自室へと走り抜けようと一歩踏み出したのだった。
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