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湯に交わりて
およそ数十メートル先に、燦然と輝く「男」の文字。
「嘘だろ……」
おしゃれよりもその品質で戦っているのだろう。無骨な字面に込められた真っ白な男の力強さ。
俺には足りないものばかり。あと物理的な、脚力とか体力とか、そういう「らしさ」に込められたあれやこれやを突きつけられているように思えてしまって、一瞬で疲労度が最高値まで上がったように思う。
絨毯の毛足が見えそうなほど、前屈をしたところで、後頭部の方から聞き慣れた声がした。
「おーい、隆人。遅いぞー」
「うるせえよ……」
その内側から現れたのは、息一つ切らしていない康太だ。絞り出した声にも我関せず、そんなに声でかくねえよ、と呟いたのは聞こえた。
そういうことじゃねえ。
でも、言えないことは、あった。
単純に運があったというか、なかったというか。
正直目の前の男に追いつけるかどうかはギリギリのところだった。もちろん敗因は自分が足を止めたことに起因するのだが、最後まで走りきるのをやめたのは、なにも自分の負けを認めたからでも、スリッパで足をくじいたからでもない。
テンプレのような、しあわせな家族、を見てしまったからである。
たぶん五分にも満たない時間。肩越しに揺れ動く布の束一式を制御しながら走り抜いたその先にいたのは、ちょうどその大浴場から出たであろう、家族連れだった。
小学生くらいだろうか。少年と、抱き上げられている幼児と、夫婦。夫と、妻。男と女。きれいに二等分された彼らを見た瞬間、自分はふと、己の感情を恥ずかしく思ってしまったのだ。
これから先、どれだけ、康太と二人で居られるのか。居られたとして、どのくらいの期間「普通」であれるのだろうか。
その時点で足は止まっていた。勝負は決した。それでよかったようにも、思った。何も、単純な徒競走に負けただけではない。
この廊下で、この建物で、この施設で、俺のような人間がどれだけ頑張ったところで、彼らが楽しむ余暇と、未来の俺の世界は重ならないということ。俺は見た目だけでも、平々凡々ないち市民であるほうが、いい。
でも、この感情を封じ込められるほど、できた人間で居られるのか。
――いられるわけがないだろう。
彼らがいなくなった瞬間、母趾球にぐっと力を込めた。脱げそうなそれらを引きずって、冷えた胃の中の食料と、それらが含まれた内臓ごと抱えて、走った。
ただ負けるのは癪だ。そう思って最後のウン十メートル、直線を走った。結果がこのザマである。
「また、へんな顔してんな、おまえ」
汗のにじんだ顔を見て、康太は率直な感想を述べた。本当に、思ったから言った、というやつで、この男に悪気はない。
元々、こういう奴で。だというのに、営業だからとできるだけ一から十までカンペをつくって演じきるような男なのだ。
だから、おまえには、かなわない。
「……走り疲れただけだ」
「まあいいや。おまえがちゃーんとおごってくれるって事だからな」
ただのビールじゃなくて海外のにするかなー、なんてのんきなことを言っている男の背を見て、思う。
康太のいまいる世界、これから進む未来。
そこから自分がいなくなる可能性を、少しでも減らしたいと思った。彼らは何も悪いことをしているわけではない。
だが、発破をかけられた。勝手に起爆した。爆ぜた。
負けてたまるか、のラストスパート。
ガキのように全速力で走り抜いた俺を待っていたのは、だれもいない無音の空間だった。
響くのは、俺の呼吸音だけ。
と思っていたのは、先ほどまでの話なのだが。
「……っ、ああ、もう」
「っし、俺の勝ち! 幸先いいわー」
堂々と俺の前でガッツポーズをした男のことを、本当に意識しているのかすら、不安になるほどのテンションだった。
「なんの幸先だよ……」
勝ち負けとか、って言いかけてこいつ、勝てない勝負はしないんだなと思った。
そして、自分よりも数分、もって五分と違わないはずなのに、飄々としている男を見てため息をついた。
「……なんで息切れ、して、ねえんだよ」
「普段の行い、ってやつだよ。ざーんねん」
へへん、と胸を張っている康太を見て、なんだか気が緩んでしまった。いくつになってもガキはガキだし、俺もおまえもたぶん、もう変わらない。
変わったところすら、愛おしい。
「んで、一応ロッカー確保しようかと思ったんだけど」
「……ぜんぜん必要なさそうだな」
「だろ? だからおまえが来るまでずーっとうろうろしてたってわけ」
「不審者だろ」
「いやー、結構いいお兄さんやってたと思うぞ」
さっきかわいい女の子いたんだよ、お父さんから離れないめちゃくちゃくりくりおめめの子と目が合ってさー。
康太が言っていたのは、先ほどの家族連れのことを指しているのだろうか。そうでなくても、二組程度の客入りで、このサイズ感。
「……ちなみに」
「おう」
「なんで扉の前に、うちの会社ご一行様、なんだろうな」
「……言うなよ、考えないようにしてたんだから」
ちょうど宴会の時間帯であるということを差し置いても、このセッティングは怖すぎる。まるで、ある程度はこの温泉に惹かれて宴会を抜け出すと想定されていたということではないか。何より。
「まさか社長が貸し切りレベルで金持ってるとは思わなかった」
「それな」
適当に距離をとり、二人、同じ向きのロッカーを確保して、着替えやタオルをそこに放りこんでいく。
いつもなら聞こえないはずの、布同士の擦れ合う音が聞こえるのを、必死でやり過ごす。
慣れている。こういうシチュエーションになるべくしてなったじゃないか。
何を、今更。
「……」
「……」
ほぼ人がいない。
康太と二人きり。ふたり、だけ。
今更恥ずかしがったってしかたがない。
「……なんだよ」
「いやあ、楽しみだなって」
残りはインナー代わりのTシャツ一枚になった康太が言う。ちょっとにやついた顔が、あやしい。正直ビールも好きじゃねえだろおまえ。
ちょっとだぼっとしたフォルムがおまえっぽいな、なんて言えるか。言わねえぞ俺は。対して俺は、自分の体にフィットされるのが嫌すぎてLサイズを諦めた男だが。
「なにが」
「えー、決まってんじゃん。恋バナだよ、こういうのにつきもんだろうが」
「正直なんにもネタはないんだよ」
おまえに言えるようなネタは、という枕詞がつくのだが、それにコイツは気付いているのだろうか。
「そういうことなら俺にも考えがある」
「んだよ」
「俺の初恋の話をする、それでいいだろ」
はつこい。
気になる。気にならないわけがない。
だが、現在の俺の恋バナを聞きたくて出すネタにしては、しょうもなさすぎるのではなかろうか。
「いまどき……初恋って」
高卒の女子でもいわねえよ。冷たくあしらえば、ムキになった康太がこっちに向かってきゃんきゃん吠える。
「う、うっせーな! いいだろ、高校のとき、隣の席のミヨちゃん、とかいうネタじゃねえんだから!」
「どっから出てきたミヨちゃん。設定古くね?」
「うるせーって! ほら、早く! 風呂!」
ああ、こういうのでいい。
こういうくらいで、いい。
頭の片隅がちりちり痛む。先ほど揺らした胃も、またきりきりと歌い出す。
他人の金、もとい自分の給料から湧き上がる温泉を堪能しよう。体を緩めて、心を整えて。
鏡のないエリアで、まじまじと彼の背中をみた。
彼のごくごく平均的な、期待でぱんぱんに膨れた肩周りを見て、思う。
俺は、彼の親愛なる〝同僚〟で、よかったと。
そう思いでもしなければ、俺はこの場所から今すぐ逃げ出すか、はたまた彼を押し倒して既成事実を作るかしてしまいそうだったのだ。
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