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温泉に関する正しい作法、とやらはわからないが、俺達の入浴方法はどうやらそれぞれ違っていたらしい。
今回に限って言えばそれがちょうどよかったのだと思う。
俺はざっくりシャワーを浴びて風呂に入り、暑くなったところで再度体を洗うタイプで、康太は念入りに体を洗ってからじっくり入浴をするタイプだった。とはいえすでに一度風呂には入っているからお互い多少は省略されたらしい。腰にあてがうタオルの役目も、正直なくてほっとした。
一足先にカラカラと風情のある音が響いたのを聞いて、俺はその後を追うことにした。足下に届いた少し冷えた空気と、向こう側との寒暖差で姿が見えなくなったため、きょろきょろと辺りを見渡す。
数個の浴槽が並んでいるが、果たして、どこに。
「こっちだ」
響いた先に足を進めると、どうやら湯気が一番少ない湯船のなかに康太はいた。視力はそれほど悪いわけではないが、緊張しているのかもしれないなと、自嘲した。
「悪い。遅かったか」
「いや、いま入ったところだし……べつにそんな」
喧噪が遠く、BGMのように森のさざめきが聞こえてくるくらいのしんとした環境が心地良い。夜も更けてきたせいか、まったくといっていいほど無音で、彼の押さえた調子の声もよくこちらに届く。
こんないい雰囲気の中で、ネタのような恋バナなんてできるか、と思ったのは康太も同じだったようで、入浴中の彼はなんとなくばつの悪そうな顔をしていた。
「……いまさらだけど、よかったのか」
俺とふたりで、抜け駆けで露天なんて。
そうぶつぶつと呟いた康太は、不思議と幼く見えた。興味はあったけれど、それほどではない。先ほどまで上がっていたテンションは、もしかしたら宴会の空気に酔わされただけなのかもしれない。俺はうーん、と体を伸ばして、つぶやく。
「よかったんだよ」
気にするな、そういうつもりでぺし、と背中を叩いた。
思ったよりも優しく触ってしまったらしく、ぺしょんとしょうもない音が出たのが、本当に
「うん、いやでもやっぱり」
彼の言葉を遮るように肩まで浸かる。
こちらもあちらも肌色が見えない湯の色はこの温泉特有のものらしい。
広めの木枠でできた湯船に二人、だらりと浸かる。乳白色がお互いの体を隠してくれていることに何か安心感を覚えているのは、なにも下心のせいだけではないだろう。首の後ろにタオルを回し、浴槽の縁に首をかけた。
入り口すぐの源泉掛け流し! と銘打つ、見るからに熱そうな湯船も正直気にはなっていたが、そちらに入るには少々勇気がいる。たぶん、今はそういう空気ではない。なにより一人用だったのがよくない。
結果的に、これでよかったのだ。
ふう、と吐いた息も、ぼんやりと白く濁って拡散するほどの暖かさが、心地良い。康太にそっと話しかける。
「本気だったから、いい。正直こんな時じゃないと、だろ」
「……そう、そうだな」
諦めた康太が、会社の金サイコー! なんて叫ぶから情緒消すのが本当に上手いなこいつ、なんて思った。切り替えの早さは営業には大事だ。正直、今後こういうところに行く機会もなくなるのかもしれないのだ。気にしていても仕方がない。
何より今、俺は酔っている。俺は酔っているのだ。何かあってはいけないし、何がなくてもいけない。この好機を逃したくない自分と、この空気を大事にしたい自分が、天秤を揺らし続けている。
「康太はさ、」
「うん」
「営業たのしいか」
当たり障りのない話題、と思うとこれくらいしか思いつかなかった。
「なんだよそれ、田舎の親父かよ」
康太はケタケタ笑いながら、俺の方に、少しだけ近付いてきた。波打つ湯に、体がそわそわする。
「正直、な」
「おう」
近いんだが。真剣に話そうとしている彼に対して、そう言いかけた。が、ちがうちがうと頭を振った。怪訝そうにこちらを向く彼に、続けろ、と伝えると、あのさあ、と同じように空を見上げて、彼は呟いた。
「俺はずーっと、おまえみたいに準備なしじゃプレゼンできなかったから、最初うらやましいしむかついたこともあった」
出来ないことを認めるのも嫌だった。正直、なんでこんな見た目もフツーの奴にって、思った。
淡々と言う男の言葉を噛みしめる。
めちゃくちゃ悪口じゃねえか、と思いながらも、言い方のニュアンス的に、どうやらそういう、面と向かっての悪口ではないように思えてそのまま続きを待つ。
「でも、おまえの方がこういうの向いているのもわかったし、これで一仕事終わったっていうか……正直、企画外されてほっとしてる」
「どういう……企画?」
向いている? 俺が?
誰と、何を比べてそう言っているのか。
俺にはわからない。企画、といわれて、思いつくのは今回のプレゼンをした先の話だ。
各社に広げていくこと自体は確定路線のようだった。だったら、その次の、ということだろうか。それとも単なる販促か。
康太の呟く言葉の意味を探りながら、彼に頷きで応える。
「ずっと比べられるのも、しんどいから。今回でちょっと肩の荷が下りたっていうか……その、」
「……康太?」
続きがしぼんで消えた先、声をかけた瞬間、康太がこちらに顔を傾けて、言う。
「俺はおまえがうらやましかった」
潤んだ瞳が、空の色を反射している。
「こ、うた……?」
そんなことない。その一言を簡単に言えたら、どれだけよかっただろう。俺はそう思われるほどのことはしていないのだ。だが、彼の言葉はとめどなく流れていく。
「おまえの才能がほしい、って思ったこともあった」
まねしたところで、なんいんも変わらないのに、変えたいって思った。でもわかんねえことばかりで、目の前のことで手いっぱいだし。みんなはできる奴だって言うけど、正直あんな根回しする必要なんてないくらい、完璧なプレゼンができる男だったら、本当は、って、思うこと、たくさんあって。
つらつらと流れていくのは、何も言葉だけではない。
半端に横向きになったことで、ゆるやかにこぼれ落ちる彼の涙まで、見えてしまった。
なんと言えば適切か。体を起こそうとしたが、そのまま聞いててくれ、と言われたので、少しだけ、彼から目をそらして、耳だけをそちらに向ける。
一筋の光が、空を走り抜けていくような、気がした。
「でも、正直……いまこうして、話せてるほうが、ずっといい。才能とかそういうのどうでもよくて、」
仕事とか、そういうのとか抜きにして、普通に、ふつうに話せてるほうがいい。そのほうがずっといい。
だから、今日おまえが抜けてくれて、よかった。
一緒に笑って、走って、ここに来れてよかった。
そう締めると、康太はもうこっち向いても大丈夫だ、と呟いた。ぱしゃぱしゃと聞こえていたのは、多分顔を拭った音だったのだろう。
きれいに上げていた髪が数束、頬に移動していた。
「俺も……そう思う、べつに俺、そんなできた奴じゃねえし。しょうじき、康太がこう、なんつーか……離してくれたの、嬉しかったし」
面と向かって言うのも気恥ずかしい。これは確かに、空に向かって離す方がよかったのかもしれない。ありがとうな、とぽそぽそ言えば、もともと大きめの瞳をがっと開いて、彼は言う。
「隆人も?」
「ああ……」
これなら素直に言える気がする。そう思って、口を開く。
「おまえの営業、まじめに聞いたの久しぶりだったけど、悪い気がしなかった」
最初はいけ好かない奴だった。演技だろ。そういうことも言ったと思う。それくらい、なんか上っ面すぎて、どうにもいけ好かなかった。
その認識はまだ変わらないけれど、俺だけが正しい言い方をしているんだ、という作り物感が大分薄れたように思えたのだった。
きっと彼もきちんと、場数を踏んで大人になったということなのだろう。元々、自分が大事にしていたものを、きちんと丁寧に扱う彼だ。もしかしたら大事にしたいひとでもできたのだろうか。
そういうオッサンじみた感想を浮かべるくらいには、相手の立場に立った、どこに向けても嫌味のないプレゼンは、非常に好感がもてた。
自分のことを言われているのでなければ、もっと素直に賞賛できたのに、と思うほどには、不思議と聞きやすいものだった。
「もっと自社製品を売り込んでもらえると、うれしい」
作り手冥利、ってかんじで、うれしかったし。
雑な感想を告げると、あっち向けよと言わんばかりに肩をぐいと押された。どうやら恥ずかしがっているらしい。
露天の暖かさに負けたのか、彼の頬が赤く染まっている。
「当たり前だろ、おれだって、その」
ごにょ、と言いよどんだ言葉に、ん? と首をかしげると、ああもう、と何かに八つ当たりしたようバシャバシャと水を弾き飛ばす。
「おまえに喜んでもらえねーと、意味ねーんだよ!」
おれ? 俺がどうしたんだ。おっと、見てはいけないものが見える。体を起こして、湯船に長座するように背を向けると、何か勘違いしたのか康太はさらに慌てふためいている。
「いや、だから……あの」
騒いでごめん、風情消した。ぼそぼそと言いながら、ばしゃん、と勢いよく沈み込んだ音がした。振り返ると、水面に顔がつきそうなほど座高が下がっている。湯船の中で膝を抱えたのかもしれない。
うっすら見えてきた肌色を、できるだけ見ないように視線を逸らしつつ、近付いてみる。
「別に怒ってないけど、どうしたんだよ」
「……う、いやその。作り手本人が納得してないもの売り込むのも違うだろ、だから、その」
なんて言えばいいのかわかんねーけど、その、あれだ。自分の好きなやつが褒められてるの、うれしいだろ、だから、ああもう。
とりとめなく要領を得ない彼のつぶやきにふ、と息を吐く。
そういう感じも、悪くはない。むしろ、ありがたいくらいだ。
俺の仕事は、作り上げる素地をつくるところ。それをもって生かされる場所があるのならば、それでいい。
「ありがとな、康太」
はー、と体を伸ばして、もう一度空を見上げる。少し落とした照明の中、多少は見やすくなった星が瞬く。今のが流れ星なら、先ほど見た光の筋もそれだというなら、この先も隣にいられる男でいられるよう、見守っていてください、というところだろうか。
隣の男がどう思っているかは知らないが。
「……おう、隆人もありがと、うな」
変なところで切れた言葉も、なんだか愛おしくて、これが女であれば抱きしめることも容易いというのに。まあ、こうして隣で、星を見ていられるだけで十分だろう。いや、十分過ぎるくらいなのだ。
また一筋、星が流れる。
「いまの、見えたか?」
「たぶん、」
「同じのかはわかんねえけど」
「そんなに目、悪かったっけ」
「いやそういうのじゃないとは、思う」
単純に、自分の座っていたところから見づらいだけだとは思う。かといって、他の浴槽に動いてしまえば角度も変わってしまうだろう。だから、そのおしゃれな木々の合間から康太と二人、しばらく空を見上げて、いた。
たびたび、あ、とか、お、とか、音だけを呟いて、数秒後には見た見てないの話をする。
願いなんて言っている暇がないくらいに、次々とこぼれていく。
もはや同じものを見ているのか、違う星を見ているのかすらわからない。だが、それでいい。
ちらりと見た彼の顔も、至極楽しそうに見えた。
ずっと、こうして眺めていられたら。
星に願うよりも早く、もう叶えてしまったのだと、俺は思ったのだった。
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