朝焼けに月

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朝焼けに月

 気持ちのいい世界だと、思った。  ぼんやりと、世界を認識する。  空が青くて雲が白くて。  足元がおぼつかない気もするけれど、世界の方がふわふわしているようだ。飲み過ぎか、と思ったが、どうやら重力の感覚がない。天地をくるくる、回る。ふかふかの羽毛布団よりも自分の体の方が軽い気がする。  ああ、たぶん、これは夢なのだろう。  しばらくこんな感覚はなかったが、たしかに夢とはこんな感じのように思う。世界から自分が浮き出しているような、どこにも染まれないような感覚があるときは、たいていそうだ。  なにもない空が青空に変わる。  夢だと自覚すると、今自分の前に広がる景色が何かを理解できるようになった。  色濃く、鮮明に見える。見ようとする。自分の脳内世界が何にフォーカスしているのかを、理解しようとする。 「……あれは、」  目の前にはスーツの集団がいた。揃いの黒。ふと手元を見ると、ジャケットの裾から白いシャツが覗いている。時刻は八時を少し過ぎたところ。電車から降り、散り散りになるはずの俺たちは、土台ごとそのまま、ある会社に吸い込まれていく。  順番に名前を呼ばれ、門扉に近づく。  そうして自分もその中のひとりになろうとしていた。そして、目の前にいた、俺に背を向けた男も。一定のリズムで歩く。歩き続ける。  目の端に、ひらひら、チョウチョが飛んだ。彼の後ろ姿に、重なる。重なった生地の背中側。腰に、目を凝らす。  そこにいた俺は、目の前の男に声をかける。 「おまえ、」 「ん?」 「うしろのしつけ糸、取れてないな」  ストライプもない真っ黒なスーツ。腰のあたりに白い糸。  バツマークのようなそれを見続けるのは、あまり好きではなかった。すでにNGをつけられるなんて、そんなはずはない。俺よりもよくできた男が。 「え、嘘。ちょ、え」 「……ちょっと、動くなよ」  ああ、これは記憶だ。  しつけ糸ならすぐ取れるだろ。脱ぐなよ。そう言って目の前にいた彼の腰に触れた。意図して触れた。人肌を、人体の固さを感じた。 「隆人、ごめん」 「……いいよ。ずっと見てたからな、おまえのこと」  ぷつんと切れた糸。俺と彼の縁が切れた音だ。その瞬間感じた体温だけは、やけに覚えている。覚えたくなくても、覚えている。 「頑張れよ、今日が社長面接だろ」 「うん。ありがとう隆人」 「……ああ」  これは入社試験の前、大学生のときにあったことと同じだ。当時の俺は、行為も悪意もちゃんと言うことにしていた。  そう、当時好きだったのは、女の子ではなく彼だった。とくに誰かが好き、というわけではなく、同じ性別の彼を、一番大事な人として捉えていた。そんな他人を、自分の枠の中に入れ込んでおいて、そして、普通の友人同士として接する。慣れていたはずの行為が、あの瞬間だけできなかった。  他人、友人。それ以上はいけない。  そう思っていたのに、近づこうとしていた。おそらく、この先彼と一緒に居続けることはできない。そう感じていたのだと思う。俺は焦っていた。焦って、そういうことをしてしまった。  ひどいやつだった。  だから、俺は。  あの日々を忘れるために、ここに――。  コンベアを降りる。落ちる。闇に沈む。  目の前の男が言う。 「……隆人、おまえ」  ――本当に、ともだちとして、なのか。  ――どうしたんだ。  ――いつものおまえと違うぞ。  振り返る彼が、なぜか康太に重なった。違う。コイツとあったのは、そのあと。入社試験で。  ――どうして。  沈んでいく闇のなか、じわ、と光を感じる。  ん、と起き上がろうとしたが急に重力を感じて、体が重だるく感じ、動きを止めた。このままでいたほうがいいのかもしれない。 「あ、れ……」  ここは、と次の世界を確認する。  見上げた天井の色で、旅先だと理解する。そうだ、今は社員旅行で、ここは自宅ではなく、めったに泊まることのできない高級旅館だ。  ましてや過去自分が住んでいたぼろアパートの天井でもない。  ここは。  そう思い出したところで、俺はふと気付く。  ここの天井は、茶色じゃなかったか。今見えているのは――。  もやのかかった世界を確認すると、ふと、誰かが顔を拭ってきた。しっとりと、ほんのりあたたかい。 「……っ、な」 「あ、ごめん」 「え、あ。何……って、え?」  がばりと体を起こして確認する。  目の前にいたのは、誰だ。 「……ん?」 「ええと」 「康太?」 「……そうだけど? まだ酔ってるのか」 「いや……そういうわけじゃないけど」  康太? さっきみた夢のせいか、康太本人だと認識できているようで、いない気がする。 「まあいいや。おはよ、大丈夫か」  悪い、起こすつもりはなかったんだけど。そう言いながら、先ほどと同じように額を拭われる。先ほどよりやや冷たい。彼に大丈夫か、と言われるとは思わなかった。  なんで、と思ったけれど、気付く。 「あ、」  あの夢か。  最近まったく見なくなったから、忘れていた。  わりと普通のトーンでカミングアウトして、その輪の中から逃げた話。最後まで唯一残っていた、一番大事な彼を、そこで失った。いや、捨てられるように仕向けた。  現実のあの日、俺が見送った会社に彼は受かった、らしい。インターンだか研修だかで、それからまもなく構内でもほぼ会わなくなった。  俺の服も彼の部屋にあった気はするが、二人きりになるのを俺が避けたから、どうなったかはわからない。 「……」  それまで大事にしていたものを、自分が台無しにしたのだ。だから、そこから先、彼のことはしらない。もしかしたら噂話にもなったのかもしれない。もちろん、俺に言い寄られた男としての噂だ。  それすら、どうでもよかったくらい、俺は言うことで満足していた。おまえが好きだ。そう言っただけのこと。  はずなのに、どこかで自分の世界を取り戻そうとしているのだろう。  あれは逃げだと理解している。そうだ。俺は逃げたんだ。  だから決して、同じ場所には戻れない。戻る必要もない。 「うなされてたから、ごめん」 「いや、いい」  康太はなにも悪くない。むしろ気遣うべきは自分ではないのだ。  目を覚まして、改めて時計を探す。壁に備え付けられていた壁掛け時計は午前七時半。普段の俺でいえばちょうど出社時刻を過ぎたころだった。こんなこと、久しぶりだった。  寝不足だったわけではない。  夢は見たが、ぐっすり眠れていたようで、体の方が軽い。 「……昨日、ありがとうな」 「おう、」  昨晩はあのあと、瓶の牛乳を二人で一気飲みして、帰りの廊下にあった自販機で、近所のスーパーの三倍の値段のビールと、高すぎるつまみを買って、それぞれ一本ずつを開けて、寝た。らしい。  机の上には、その残骸がまだ置かれている。話した内容の記憶は、正直あまりない。  焦っていたのかもしれない。康太の距離の詰め方に、今までの自分の行いを省みたのかもしれない。  この会社にとって大事な男が、俺を、と考えることに、恐怖した。  康太はそんなつもりでもなく、いわゆる体育会的な意味で仲良く、と思ったのだろう。ましてや昨日はお互い、知らないことを知れたと和気藹々と話していた。  それだけなのに、心のどこかで、引け目を感じていた。  だから、アルコールを一気に煽って、このザマか。  普段よりもしっとりとした顔を、両手で覆う。切り替える、べきだろうなと思う。 「メシどうするんだ」 「……食う」  顔から手を離し、くう、と自分が言った瞬間、追いかけるように胃が鳴った。  ぐー、なんてどでかい叫びだったらよかったのに、きゅうきゅう、と可愛らしい悲鳴だ。こんな鳴き声を聞かせたかったわけではない。急に恥ずかしくなって顔を背けた。 「おっけー、いこう」  康太の声はどことなく弾んでいたように思う。なかなか見せない俺の弱みを見つけたとでも思ったのだろうか。それでも、まあ、構わないが。  よし、と立ち上がり、掛け布団に空気を送る。ばふんと小気味いい音を立てている布団のしわを伸ばしていると、音がないことに気づき、振り返る。 「ん?」  康太がじっと、俺を見ていた。 「あ、いや」 「……ごめん、ホコリ駄目だったか?」 「いや、そうじゃなくて……起きれるか分からなかったから、」  また後で言う。  それだけ呟いた康太は、手早く身支度を済ませていた。  今日は館内着ではなく、ラフなTシャツにハーフパンツ。  くたびれてもいない姿に見とれていたら、おまえ、着替えていけよな、と館内着を投げつけられる。 「ちょ、おまえ」 「正直着替えたほうがいいと思う」 「え、」 「そこ」  寝汗でぐっしょりと濡れていたことには気付いていたが、康太の指先は俺の腹の方に向いていた。ん、と視線を下に向けると、下着が、湿気っていて、そうして。  朝だもんな、疲れてたもんな。  茶化す声が脳内に響く。そんな状態を康太に見られたのだと、さとった。 「……っ、わ、おまえ、なに見て」 「べつに、朝にもなればふつうだろ。つうかおまえいくつのリアクションだよ。ほら、食いっぱぐれる前に行くんだろ、着替えろ」 「お、う」  結論から言えば、俺の息子は勃っていた。いや、朝だし疲れてたし、別に抜くほど溜まっているわけでもない。  ただただ、母親にそういう場面を見られるくらい、気まずかった。投げつけられたものと入れ替えて、下着も新しいものにした。待っている康太にちょっと顔洗う、と言って時間を作ってもらった。改めて、あたたかいお湯で手を潤し、自分の顔をざぶざぶと洗う。まだ使用していないハンドタオルを取り出し、ふかふかの面を楽しむ余裕もなく、がさつに顔を拭いた。鏡を覗き込む。  痛みで若干赤くなった顔ではあるが、普段よりも健康そうな男が、そこに、いた。  夢のせいではない。案外、乗り越えてしまったのかもしれないなと思う。 「隆人ー」 「今行く!」  タオルかけにそれを戻し、俺は康太の元へと戻る。一目散に現実世界に戻るのだ。  昔好きだった彼はいま、取引先の事務方だったなと、康太の隣で、ふと思い出したのだった。
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