我空

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 農林水産畜産建築土木鉱業など仕事は山ほどあるのに3Kだからとやろうとしない若者たち。そもそも基本的に温室育ちでハングリー精神もバイタリティも胆力も膂力も養われずに不景気の中を只管歩んで来た所為か、働く意欲がない。徒でさえ少子高齢化に加えロングコビットの所為で働けない人や自殺者が増加し、スタグフレーションによっても自殺者が増加し、円安の影響で日本へ出稼ぎに来る外国人労働者が減少しているのにこれでは人手不足、後継者不足が益々深刻な問題となり、日本の将来を危惧せざるを得ない。ま、コロナ禍にあってコロナ禍前の当たり前の生活に戻りたいと望む事自体、全くの見当違いで無常の世に於いて当たり前の生活なぞないのであって人口減少に拍車がかかった日本は、今の趨勢から鑑みて滅びモードに入ったのかもしれない。少なくともノブレスオブリージュの精神を持ったクリーンでクールな政権の誕生や農業DX化など各業界にイノベーションが起きない限り悪いモードから抜け出すべくもないが、今時の若者たちに日本の未来を託すのは、安倍の負のレガシーによってダメダメになった日本を何とかしろと軟弱者たちに無理強いするようなもので屈強な若者が揃っていても無理難題なのに途轍もなく酷であり、無謀なことと言えるだろう。  御多分に漏れず我空もまた今時の若者の一人で、惰眠を貪ろうと護岸のコンクリートに腰を下ろし、川をぼんやり眺めていた。名前は僧侶みたいだが、彼の心は大抵、劣情に侵され、清冽な川の流れとは裏腹で言うなれば、情欲や欲求不満の負のエネルギーによってぐつぐつと沸騰したように熱く濁っていた。  ふと顔を上げると、一衣帯水をなしている向こう岸の堤防の上を歩く女に目が留まった。帽子から靴まで白を基調とし、アンサンブルな出で立ちで見るからに春の爽やかで麗らかな雰囲気にマッチしている。クローバーの白い花のように幸せそうに笑っているのも分かる。胸に小さな愛犬を抱いている。チワワだ。  それを見て我空は心底チワワが羨ましくなった。嗚呼、俺もあんな女に愛されたいけど、今の身の上ではなあ・・・彼は女が遠ざかって行くに従って希望の光も遠のいてしまう気がして力なく立ち上がり、法面を上がって行った。  我空は自宅へ向かう中でもチワワを羨ましがっていた。チワワになりたい、チワワになりたいと心の中で念ずるように呟きながら横町にふらっと出た時だった。丁度走って来たバイクに気が付く間もなく撥ねられ、勢い電信柱に頭を強打するなり、ぶっ倒れた。  ライダーはばれっこないと言わぬばかりに素知らぬ顔で走り去ってしまった。轢き逃げされた我空は、意識が朦朧とする内にも女の胸に抱かれたチワワを思い浮かべ、意識を失って行くに連れて頭の中のチワワが泡沫のように消え入ってしまった。  気づくと、我空はあの堤防の上を歩いていた。視点がいやに低い。風景の印象がまるで違うので異世界に降り立ったようだ。おまけに四本足で歩いている。ありゃりゃ、一体どうなってんだとちょっとしたパニックに陥っていると、向こうから巨人が歩いて来た。胸に巨大なチワワを抱いている。あの女とチワワをそのままスケールアップしたみたいに我空の目に映った。近づくと、彼女は黄色い歓声を上げた。 「うわあ!かわいい!チワワちゃん!何で独りぼっちで歩いてるの?」  そう問いかけられて我空は普段、転生モノのアニメやゲームやライトノベルに嵌まっているだけにこう悟った。そうか、俺、転生してチワワになっちゃったんだ。 「飼い主さんは何処にいるの?」  飼い主なんかいねえよ。頼むから俺を飼ってくれと我空は切実に言ってみたが、人間の耳にはワンワンとしか聞こえない。 「こんなに可愛いのに捨てるなんてひどーい、かわいそー」と彼女は独り合点すると、放ってはおけなくなり、しゃがんで、おいでおいでと我空を呼び寄せようとした。  それに応えて我空は、尻尾をふりふり喜んで寄って行った。  すると、彼女は抱いていたチワワと一緒に我空を抱き上げた。「うわあ、とっても人懐っこくてかわいい!この子たち兄弟みたい。これはきっと天の配剤だわ」  そう彼女は勝手に決め込んでしまい、即、我空を飼うことに決めてしまった。  我空は念願が叶った気がして幸せ一杯になった。それもその筈で彼女の胸は豊満で、快い女そのものの匂いと温もりと柔らかさに包まれたのだから然もあらん。    我空は彼女の家に行くまで、ずっと彼女の胸に抱かれていた。なんと幸せなことだろう。正に春が訪れたといった感じで人間の時はこんな幸せは味わえなかった。もう一匹はというと当然、首輪をしていてリードロープで繋がれているし、散歩に連れ出されたのだから途中で歩いたりしていた。  そんな時に彼女は我空に言った。 「私、安孫子美空っていうの。パパは安孫子無我っていうの。ママは安孫子成海っていうの。それでぇ、あの子は私の空とママの海を取って空海って名付けたんだけど、あなたは私の空とパパの我を取って我空って名前に決める事にしたの。分かった?」  えっ!何たる偶然!何たる符合!生まれ変わっても我空かよ、我空って無我とほぼほぼ同じ意味だからな、俺は今は偶々チワワになってるだけで現象に過ぎず実体がないんだと我空は普段、仏教に救いを求めているだけにそう悟ったのだった。  美空の家は中々の豪邸だった。チワワは寒いのが苦手だから当然ながら室内犬として飼ってもらえ、冬もエアコンの効いた部屋で快適に暮らせそうだ。  美空が所謂いいとこのお嬢様と知って我空は益々幸せな気分になった。人間の時は相手にもされなかった類の上質な女と親密に暮らせるのだから然もあらん。  但、美空の愛を独り占めにしたい我空にとって空海が邪魔だった。言わずもがな美空の愛を二分されてしまうからだ。けれども、空海はフレンドリーで邪気がないから良い遊び相手にはなる。で、旅行とか行く時にキャリーバックで運ばれていると、偶に顔が合った際、ニコッと笑いかけられるので人の良い奴、否、犬の良い奴と思うのだ。  食うに困らず何の苦労もない楽チンな日々。人間だといつまでもそうはいかないが、人間と違っていつまでも働かなくても勉強しなくても何も心配しなくてもいいのだ。しかし、好事魔多しである。美空に体を洗ってもらう際、通常はチワワたちだけが素の姿になるのだが、なんと入浴する為、美空も裸になって風呂場でチワワたちは洗われることになったのである。それは好い事じゃないかと男の読者は思うだろうが、我空は興奮の余りチンを出してしまったのである。赤チン状態、即ち人間で言うフル勃起状態になってしまったのである。その時の美空の驚きようったらなかった。 「な、何ー!この子、まさか、私に感じて!やらしぃー!人間に発情するなんて!やだー!空海は絶対こんなことないのにぃー!こうなったら去勢するしかないわ!」  きょ、去勢!宦官じゃあるまいし冗談じゃない!そんなことされたら堪ったもんじゃない!我空は半端なく危ぶみ、懼れ、結局、名残惜しいのを押して美空の家から逃げ出す仕儀になってしまったのである。  夜中だった。とぼとぼと夜道を彷徨う我空。チンチンあっての物種、しかし、人間じゃないと・・・そんなことを痛切に呟いていた時だった。車のヘッドライトに照らし出されたかと思うと、ドカーン!キャイーン!我空は悲鳴と共に撥ね飛ばされてしまった。  彼は道端に横臥し、そのまま死んでしまったのだろうか、ところが、豈図らんや、元の人間の姿に戻っている自分を認めた。今までの出来事は一体、何だったのか・・・と当然ながら不可思議になった我空であったが、独り立ち出来ない今時の若者らしく成人になってからも世話になっていた親元もあり、元の無為徒食の生活に戻ってしまったのだ。ということはバイクに轢かれた事もチワワになってからの事も車に轢かれた事も夢だったのか、幻だったのか、将又異世界の出来事だったのか、そう考えると、何処から何処までが夢なのか現実なのか異世界の出来事なのか、将又全てが幻なのか、訳が分からなくなったが、ある日、同じシチュエーションで空海を抱く美空を我空は目の当たりにした。で、チワワになった経験が現実であったかのように、つまりアポステリオリな知識により空海を羨ましいとは思わなかった。そして美空が欲しくても高嶺の花で、どうしようもない絶望を感じるのだった。嗚呼、空しい我空・・・けれども、少しばかり教養がある我空は、空しくなるばかりではなかった。ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし、と方丈記の冒頭部分を口遊み、あの女の美も儚いものだ。だから一緒になれたとしても、ほんの少しの間しか愛せない。所詮それが世の常だから取っ替え引っ替え全盛期にある風俗の女と付き合ってる方がいい。  今時の若者らしく向上心がなく諦めが早いので我空はそう諦観するに至ったのである。    
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