熱漢監督

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『映画は監督のもの』なる言葉がある。監督は、立場的にプロデューサーの下にあり、いわゆる筆頭に位置するものではない。が、作品の個性や演出を統括し、その監督があればこそ、その映画はその映画となるのだ。たとえ同じ役者と脚本を並べても、別の監督が指揮を()れば映画は別の個性を持つ。それだけ監督の力量が作品を決定づけるということだ。  しかし、名優と()ばれた役者たちは知っている。  監督の下にあって、監督を従える影の監督の存在を──。  彼は昭和が始まった一九二六年十二月二十五日に生を受け、大戦や恐慌、GHQによる占領等で多くを学び、昭和元禄と呼ばれる昭和三十年代から映像の世界へ入った。複数の映画を手掛けたが、結果は鳴かず飛ばず。そして無能の烙印を押され、以降監督としての依頼はこなくなった。  一説によると、彼は服役したり、()()を着て放浪したり、時には富豪になったり、時には(かっ)(ぷく)してみたりした。そうして演技の感性を極限まで高め、昭和五十年に公開された某映画に参加し、演技指導に特化した助監督という肩書で現場に復帰した。
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