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 あれは、私が専門学校を卒業して社会人となったばかりの、初夏の頃のことだ。  締め切ったカーテンを縁取るように、夜明けの始まりを予見させる、極々ぼんやりとした薄明かりが漏れ始めた。  部屋の壁時計が示すのは、午前四時三十分───。  結局、一晩中寝付かれないまま、あきらめて起き出し、何となく早朝の空気を吸いたくなって、部屋着のまま外へ出、近所の公園へ向かった。  公園に誰も居ないことを確認し、真っ直ぐブランコに向かう。そして、ただブランコを揺らしながら、少しずつ明るさを増していく空を眺めていた。  静かだった。何羽かの雀の声と、ブランコを漕ぐ錆びた音だけが、朝の冴え冴えとした空気に振動を与えていた。  もし今、自分以外の全ての人間がこの地上から消えていたとしたら、こんな感じだろうか。目を瞑って、風の音だけを聞いてみる。誰の気配も感じない。仮想世界を体験しているような気がしてきて、楽しくなった。  またしばらくブランコを揺らす。太陽は薄青い空に完全に昇り、目を刺すほどの陽光は、すでに公園の隅々まで充分に行き渡っていた。  そうして地表が目覚めてしまうと、私は何だかつまらなくなり、そろそろ帰ろうか、という気になってきた。  とその時、新たに公園に入って来る者があった。こんな早朝に、詰襟の学生服を着た少年である。しかしこの春越してきたばかりの私には、どこの学生であるかは分からなかった。  他人が来てすぐに去るのも、わざとらしくて躊躇われた。立ち上がるタイミングを逃した私は、どうせ通り抜けるだけだろうと、一先ず様子を見、その人が過ぎるまで一時待つことにした。  知らぬ顔をして足音だけに耳をそばだてる。足音は、私の横を過ぎ、そのまま後方へと移っていく。と、その音が止まった。 「何してるの?」  しばしの空白ののち、足音の主が口を利いた。 「………何も」  実際に、何をしているつもりもない私は、そう答える以外無かった。 「ねえ、死のうとしてたりしないよね?」  思いもかけない質問に、私は面食らった。 「いや、まさか」 「良かった。こんな朝早くに、一人でブランコなんか乗ってるから、何か思い詰めてるんじゃないかと思った」 「いや、そういう訳じゃ………」  成程と思いながら、愛想笑いと共に否定する。しかし彼の疑念は完全には消えていないようだ。本当に大丈夫かといつまでも疑っている。私は、そのように映っているのだろうか。 「俺もう行かなきゃいけないんだけど………もし何か話したいこととかあったら連絡して! 俺のアドレス書いておくから」  そう言うと彼は小石を拾って、おもむろに地面にでかでかとメールアドレスを書いた。 「本当に連絡していいから。───あ、これはあとで消しておいてよ? じゃあ」  彼は途中一、二度振り返り、そして建物の角で見えなくなった。  少年が戻って来ないか暫く様子を窺ってから、さて───、と私は立ち上がった。そして、地面に書かれたアドレスを、足で丁寧に消した。消した跡すら分からないよう、丁寧に地をならし、消した。  少し、心が痛まないこともなかった。しかし、あの少年と関わることは二度とないのだ。  誰かに話したいことなど、何も無い。そのアドレスは、私には必要の無いものだった。     了
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