13 生まれたときから側にいたから

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13 生まれたときから側にいたから

 私は窓の外をみつめてる。  誰も居ない、吊り広告もない、ゆらゆら揺れる白い列車の中で。  列車は止まらないんだ。だって出発駅もなければ、終着駅もない、線路がない無為なものだから。動かす人すらいないから、列車は揺れるだけで前に進むこともない。  だけど、ナイナイ尽くしの列車にも良いところはあってね。それは宙に浮かんでるってことなんだ。空の遥か高くから、何でもある下の世界を、私はどこまでも見渡すことができるんだよ。  笑ってる人や、泣いてる人、走ってる人や止まってる人、そういうのを、私はぼんやりみつめてる。 ――本当か?  問いかけられて、私は口をつぐむ。 ――お前は座ってるだけだろう。それでどうやって、遥か高くから見下ろせるっていうんだ?  その私を嘲笑うような質問は、私の胸の中をにわかにざわめかせた。    でも、見えるんだ。  だって、私は地上にも立っている。笑ったり、泣いたり、走ったり止まったりしながら、どうしようもない人間として、そこに生きている。  いろんな出来事にぶつかって転んで、でも確かに前進したんだよ。 ――ふうん。じゃあ、電車から地上を見てるのはお前じゃないのか?  低く這うような男の声に、私は黙る。 ――目的地に着いて、地上に降りることができたのか?  意識がゆっくりと遠のいていくような気分だった。  あなたの言うことも、間違ってない。  私は地面を這いながら、同時に空にも浮いている。  星の数ほどもあるつまらない悩みや、引き裂かれるような悲しみに何度も転びながら、けれどそれをうつろう心で見ている自分がいる。  確かに、私はずっと座ったままだった。目的地に、未だ辿り着くことなく。  それは、夢じゃなかった。  なじんだ振動を耳ではなく全身で感じ取って、私は目を開く。  視界に映るのは白けた光に照らされた吊り広告と、鈍色に輝く窓枠の向こうに広がる漆黒の闇だった。  私以外誰もいない夜の車両にいる。それを確認して、私はたった今まで自分がうたたねをしていたことに気づいた。  泊まっていったらと入谷君に言われて、私はお風呂に入って彼のマンションで眠りにつこうとしていた。まだ時間は早かったけど、一日中歩き回った足は棒のようで、すぐにでも寝付けそうだった。  けれど入れ違いに入谷君がシャワーを浴びに部屋を離れた時、私はふらりとマンションを抜け出した。  どうしてそんなことをしたのかはわからない。  とにかく足早に、何かに憑かれたように駅に向かって、行き先を決めずに電車に乗った。  クリスマスイブの夜だからか、終電近くなのに車両はどこも満員だった。何度か乗り換えながら、私はぼんやりと壁際に立って外を眺めていた。  どこへ行くと決めたわけじゃなかったのに、無意識に東京から出ることはなかった。もしかしたら同じ駅を、何度も回ったかもしれない。そんな無意味なことをしていた。  特別なダイヤで回っていたらしく、途切れることなく列車は繋がっていた。どこまでも行きそうで、大して広くない街をぐるぐると走り続けた。  最初は人に押しつぶされそうに壁際で、その内に大きな駅で人がどっと流れ出てからはシートの近くで、やがて空いてきたのを見計らって席に腰を下ろした。  ……後は、記憶にない。  列車は揺れる。濁った黄色の光で満ちた車両が、右へ左へ。 「何してんだか」  ぼんやりと呟いても、聞いてくれる人はいない。  しばらく私は鞄を抱えたまま、座席に身を沈めたままうずくまっていた。何を考えるということもなく、鞄を手で弄ぶ。  やがて何だか熱いなと気づいて顔を上げた。暖房が効きすぎているのかと思って辺りを見回すけど、それと同時に背筋をすっと指先で撫でるような悪寒を感じる。  体の外側は火にかけられたように熱いのに、体の芯にはべったりと氷を貼り付けているような感触だった。  どうも熱があるらしい。  薄着で歩き回った挙句、無計画に初体験なんてしたからかもしれない。自業自得だなと私は脱力しながら思う。  入谷君、心配してるだろうか。置手紙もせずに、勝手に出てきてしまったし。  千夏ちゃんや浅間君も、私が寮に帰っていないと知ったら焦るかもしれない。私には前科があるし、ショックなことが起こると何をしでかすかわからないと二人はよく知っている。  鞄の外ポケットから携帯を取り出してみる。案の定そこにはメールと着信を知らせる表示が光っていた。たぶんというか、間違いなく入谷君たちの誰か、もしかしたら全員からのものだろう。  私はその携帯を手の上に乗せて、また外をみつめる。 ――それで、どうする?  自分に、頭の中の別の自分が問いかける。 ――とりあえず、無事を知らせるメールだけでも送らないと。  別の自分が冷静に判断してくれて、私を促す。  けどそんな正気の私は宙を漂うように儚く心の中を掠めただけで、すぐに消えてしまった。 ――何してるの?  また自分で自分に問いかけてみる。 ――行き先、決めないと。ほら、立ち上がって。  うん、それはわかってる。  わかってるんだけど、動けないんだ。  ……どこへ向かおうとしていたのか、どうしても思い出せなくて。  朦朧とする意識の中、私は呆けたように座り込んでいた。ただ人形のように列車の振動に揺られ続ける。  動いてるのかな、この列車。  私は本当に、進んでるのかな。どこかへ辿り着こうとしてるのかな。  そんなことを霞のように頭の中に浮かべては消して、目を伏せる。  ああ、動けない。  眠くないのに、だるくて、疲れて、どうしようもなく力が湧いてこない。  千夏ちゃんも浅間君も入谷君も、皆で私を励ましてくれた。それなのにどうして私はまた深海の底にいるような陰鬱な気分でいるんだろう。  浮かばなきゃ、飛び出さなきゃ。  でも、それはどうやって?  ……わからない。  何度目かの結論に、目を伏せる。痺れた頭を停止させる。  体中のすべての力を、諦めと共に抜いた時だった。  ふいに手の中の携帯が震え始めた。  私はちらりとそれを眺める。閉じたままの携帯の上で、小さな液晶画面が光る。  そこに刻まれた短い単語に、私はゆっくりと手を動かして携帯を耳に押し当てた。 『もしもし?』  女性の声がその向こうから聞こえた。  私は黙りこくって、夢を見ているんだと思った。  柔らかな、穏やかな、高くて甘い女性の声だった。  ……それを私は何度も思い描いて、その度に二度と聞けないと気づいたのだから。 『さっちゃん?』  私は目を閉じる。  できるなら、今私が感じている天にも昇るような夢心地を、一秒でも長引かせたかった。  クリスマスイブの夜に、奇跡の起こる特別な日に、彼女がもう一度私に声を聞かせてくれたなら。私はその瞬間に死んでもいいと、半ば本気で考えていたから。  ねぇ、熱に浮かされた幻聴でも、いっそただの夢でもいいよ。  ……会いたいよ、美幸ちゃん。  そう思った途端、私の頭は冷えていく。  現実を見ろと、もう戻らないものにいつまで縋っているんだと叱責する声が頭の中を駆け巡る。  一度きつく目を閉じて、私は乾いた喉を無理やり奮い立たせる。 「……お母さん」 『そうよ。どうしたの、さっちゃん』  母の声は心配が滲み出ていた。それに硬い口調でしか返せなかった自分に、ちくりとした罪悪感がこみ上げる。 『浅間君がね、こっちにさっちゃんが来てないかって電話してきたの。さっちゃん、まだ寮に帰ってないの?』  責める口調じゃなかったのに、私は焦燥感で目をさまよわせる。  黙ってしまった私に、母は不思議そうに問いかけた。 『友達と喧嘩でもしたの?』 「ううん」 『何か面白くないことがあった?』 「そんなことないよ」  楽しかったとは言えなかった。その感情は胸に辿り着く前に、すっと地面に落ちてしまったから。 「何にもないよ。お母さん」  そう言った自分の声に感情の色がまるでないことを気づいていた。ただ無意識に、口から零しただけの意味のない言葉だった。 「……でも」  体中のすべてがまともに役割を果たしてくれなくて、それは思考回路も同じだった。 「何もしたいことが思いつかない」  いったい私が舌に乗せている言葉が何なのか。それすら、遠い出来事のようだった。 「この一年、何を必死に頑張ろうとしてたのか、思い出せないんだ」  漆黒の闇をみつめながら、私は呟く。 「わからなくて、それが……」  それが、どうなんだろう。  何の感情を当てはめればいいのか、鈍った頭ではまとまらない。 「それが……」  私は黙る。今度は、電話の向こうで母が聞いていることすら忘れていた。  ここがどこで、私は何をしていて、どんなことを考えていたのか。凪に出遭った小船のように、私はただ呆然と空を眺める。 『さっちゃん』  それを母はどうして声だけで察することができたのか、私にはきっと何年経っても理解することはできないだろう。  母は一度小さく息を漏らして、どこまでも優しい声で言った。 『もういいから。帰ってらっしゃい』  ……帰る?  その言葉が胸の奥底にあった何かの感情の弦を、確かに弾く。  ごくりと息を呑んだ私が見えているかのように、母は言葉を紡ぐ。 『疲れたんでしょう。頑張りすぎて、どうすればいいかわからないんでしょう』  幼い頃からずっと私にしてくれたように、母が私の頭を抱きしめるような錯覚があった。 『だからね』  心が大きく軋む。抗いきれない力に、私の胸の奥が潰れるくらいに締め付けられる。 『我慢しないで、帰ってらっしゃい』  その瞬間、私の両目から堰を切ったように涙が零れ落ちた。 「お、かあさ……」  ぽたぽたっと大粒の雫が私の膝へと落ちていく。どうしようもなくて、耐え切れない嗚咽が口から漏れる。 「か、帰っても……いいの?」  いったいどうして今まで、私はこの涙を堪えることができたんだろう。 『駄目なんて、お母さんがいつ言ったの』  この胸に迫る思いを、どうして私は零さずにいられたんだろう。 『上京する前に、道に迷ったら帰ってこればいいって、言ったじゃないの』  ……だって、こんなに私は悲しい。  悲しい、苦しい、痛い、辛い。  感情が急速に、私の体の中を駆け巡って溢れ出す。もう決して、私の力じゃ抑えることなんてできない。 「お、かあさ……ん。なん、で……みゆきちゃん……」  どうして美幸ちゃんは死んじゃったの。あんなに綺麗で温かくて優しくて、ずっと憧れだったのに、どうして。 「わ、わたし……けっきょく、なんにも……あげられな……っ」  涙は止まらない。後悔が絶望に変わって、頭をぎりぎりと圧迫してくる。  いやだよ。ずっと側にいてほしかった。  何を犠牲にしても、どんなに苦しくてもいいから、生きていてほしかった。 「これから、わたし……どうして、いいか……わかん、ない……よ……っ」  時を戻したい。一年前の、クリスマスに。  千夏ちゃんとも浅間君とも入谷君とも、親しくなれる前だけど。彼女らが側にいてくれない夜だけど、それでもいい。 「かえり、たい……よぉ……!」  家族に囲まれて、美幸ちゃんに微笑んでもらえた、あの幸せな誕生日に。  顔をくしゃくしゃにして、みっともなく泣き喚いた。誰も居ない列車の中に、自分の嗚咽だけが聞こえていた。 『今、電車なの?』  振動音を聞き取ったのか、母がそっと問いかけてくる。 「うん……。でも、どこかわかんない」  それに私が幼い声で返事をすると、彼女はためらいなく言った。 『じゃあ、次の駅で降りなさい。そこで、待ってなさい』  私を生まれる前から包み込んでいた、その温かさで母は私に諭す。 『どこにいてもちゃんと、お母さんが迎えにいってあげるから。世界の裏側にいても、絶対みつけてあげる』  うん、うん、と私は喉を詰まらせて何度も頷く。  もう意地を張るのはやめよう。母に、私を生み育てた人に、そんなもの何の役にも立ちはしない。 「帰るよ……大丈夫、自分で家まで帰る……」 『できる?』 「うん……」  かろうじてそれだけ答えて、私は通話を切る。  ぐすぐすと鼻をすすった。真っ白なマフラーも、手袋も、涙でぐっしょりと濡れてしまっていた。  ごめんね、ごめん。美幸ちゃん、私、泣くことしかできない。  それ以外に、今はどうやって悲しみを表すのかわからないんだ。  私はぽとぽとと涙を零して、嗚咽を漏らして、幼い子供みたいにひたすら泣きじゃくっていた。  どれくらい時間が経っただろう。  私は岩のように固まっていた瞼をゆっくりとこじ開けて、漆黒の車窓を目に映した。  アナウンスが聞こえて、ブレーキが掛かる。どうやらずいぶんと長い間走っていたらしいこの列車も、そろそろ止まる時が来たようだ。  目は滲んだままだったけど、涙は乾いていた。何度も拭ったせいで目尻はひりひりして、頬は皮膚が引きつって痛かった。  列車がゆっくりとスピードを落としていく。人の姿もまばらな、そんな駅へと入っていく。 「あ……」  その停車の動きの中で、私は喉を引きつらせていた。  駅名が書かれたプレートの下で、柱にもたれながら腕組みをして立っていた誰かが、列車の中にいる私を確かに目で捉える。  スローモーションのように、私はその光景に目を見開いた。  ……見上げるほどの長身で、漆黒のコートを着込んだ、闇夜に溶けそうなほど浅黒い輪郭の誰かがそこに立っていた。  甲高い音を上げて、ブレーキが掛かる。それで一瞬見えたはずのその人の姿は視界から外れて、列車は数十メートル進んだところで止まる。 『東京―、東京―』  けだるいアナウンスが、車内に反響する。  私はまだ座っていた。いや、立ち上がることができなかった。  どうしてと思う。こんな場所に、こんな時間に、彼がここにいるはずがないのにと。  ちょうどホームの柱に立つ時計が、夜の十二時を指した時だった。  その人が静かに列車の出口に現れる。  私は信じられないものを見る思いで、呆然と出口に立つ彼をみつめた。  誰に私の場所を聞いたのかわからない。母かもしれないし、浅間君かもしれない。それとも、友達に聞いて先回りしたのかもしれない。  けど、だからといってこんな偶然が、あっていいはずがない。  ……私の誕生日が始まる時、一番最初に側にいる人が、彼だなんて。  彼は無言でそこに立っていた。中に踏み込むことはなく、ただその灰色の瞳でじっと私をみつめる。 「沙世」  その呼び方は、たった一人だけのもの。 「降りてこい。迎えに来たから」  そう言えるのは、私にとって唯一の存在。  元に戻した見慣れない金髪でも、灰色の瞳でも、ピアスを全部外していて派手さなど欠片もない漆黒のロングコートを纏っていても、見間違えるはずはない。 「……嫌だ」  私はぎゅっと、膝の上で手を握り締めて叫ぶ。 「いやだ! 兄ちゃんの言いなりにはならない!」  どうしてこんな時に現れるんだ。何で、放っておいてくれない。  やっと離れられると思ったのに。大切な友達も、私のことを好きだと言ってくれる人も、両親にさえ言えない秘密を共有した男の子も出来たのに。  変わったんだ。私は、一年前とは違う。 「兄ちゃんがいなくたって、私はもう大丈夫なんだ!」  そう泣きそうな声で喚いている自分がひどく子どもじみているとわかっていても、私は確かに違う私になったはずだった。  兄は身動き一つ取らなかった。表情を変えることも、中へ踏み込んでくることもなく、ただ入り口で私を待つ。 「降りろ」 「いやだ!」  短い命令に、私は耳を塞いで全身で拒絶を示す。  降ろしたければ、力ずくで引っ張ればいい。それでも思い通りになんてなってやらない。  けれどそんな頑なな態度を取る私に、兄は落ち着き払った声で言った。 「降りるしかねぇんだよ。ここは終点だ」  ふわっと彼の口から白い息が出た。  ……無意識に、私は席を立っていた。  終点は、終わりの場所。  ふと駅名のプレートを眺める。そこには「東京」と、シンプルなレタリングで書かれている。  東京駅は、過去たった一度だけ来た。  私が初めて上京してきた時。やはり、兄が迎えにきてくれた駅。  ……私の一年の、始まりの場所だ。 「沙世」  兄はまだ動かずに、私を見ていた。そこには、美幸ちゃんの死で取り乱して泣いていた弱い男の姿はなかった。  傲慢で、高圧的で、どこまでも私を支配して憚らない絶対者だった。 「帰るぞ」  そっけなく言われて、私はふらりとそちらへ足を向けた。  数メートルの距離が、永遠のように感じた。私は、揺れてもいないのによろめきながら、黒いコートの方へと歩み寄る。つまずきそうになりながら、それでも近づく。  嫌いだ。私はこの人が、大嫌い。  美幸ちゃんが好きなくせに、女の人とたくさん遊んだりして。私には優しく笑ってもくれないのに、他人にはいくらでも楽しげな笑顔を振りまいて。  趣味が悪いし、品もないし。そのくせ何でもできて、私が必死で努力したことを平気で飛び越していく。  そして私がずっと抱いてきた家族としての立場をあっけなく崩して、私を抱こうとして。  それを嫌いだといわないで、何といえばいいのか。憎いとか、許せないとか、負の感情を山ほどぶつけたい衝動に駆られる。 「……にいちゃん」  それでも私は、気づけば電車を降りて彼の胸にすがり付いていた。  苦いタバコの匂いと微かな汗の匂いが染み付いたコートに頬をすり寄せながら、私は力いっぱい彼の服を両手で掴む。  熱のせいだろうか。それとも、寒さのせいなのか。  私の精一杯の力で、とにかく彼にしがみついた。 「沙世」  囁くような小さな声が、頭上で響いた。  ぐいとコートの内側に押し込められる。それだけで、私の体は簡単に彼の腕の中に取り込まれてしまっていた。  彼の匂いと温もりが直に伝わってくる。それに、私はもう残っていないと思っていた涙がぼろぼろと零れ落ちてきた。 「にいちゃ……私」  何、泣いてるんだろう。悲しいわけじゃないのに、どうして。 「かわいく、ないよね……馬鹿だよね……こんな妹、ほしく、なかったよね……」  つまらないことを、自虐的なことを、どうして口にしているんだろう。  兄にいったい、何を返してほしいと願っているんだろう。 「……でも」  私は彼に、長い間何を切望していたのか。  その胸の奥底にしまってきた思いを、私は初めて口にしようとしていた。 「でも……」 「お前を可愛いなんて思ったことは、俺は一度もねぇよ」  兄は私に言葉を続けさせなかった。  ぐずぐずと泣きじゃくる私を、彼は抱えるようにして連れて行く。そのまま静かにベンチに腰掛けて、けれど私は変わらず彼の腕の中にいた。 「十九年前。お前が生まれた朝を、俺は覚えちゃいないが」  髪に兄の顎が触れる。硬くて、それは温かく私の頭の上に置かれていた。 「けど、チビだったらしい。呼吸器が外せなくて、泣くこともできず、ずっと分厚い扉の向こうで治療を受けていたそうだ。それを俺は、ユキと一緒に心配そうに見上げていたと」  親父に聞いたんだと、兄は言葉を続ける。美幸ちゃんの名前を出す時も、決して声に動揺を表すことはなかった。 「いくらお前を可愛がってたと母さんたちが言っても、知るわけねぇだろ、そんなガキの頃の話。いくら毎日のように病院に様子を見に行っていたと教えられても、ただの好奇心じゃないと誰が言い切れる?」  私を抱え込む腕に力は入っていない。けれど、私はそこから抜け出ることができるとは到底思えなかった。 「小汚いガキじゃねぇか。しかもすぐにでも死にそうな、握ったら潰れそうな生き物なんて、誰が好きになれるか」  兄の言葉を、私は素直に受け止める。  それは彼の本音だったから。 「沙世。それがどうしていけねぇんだ?」  兄はつまらなそうに、けれど確かな意思を持って言葉を紡ぐ。 「可愛くも、何かの役にたつわけでもない。面倒なだけの荷物だよ、お前は」  頑丈な檻のような、そんな両腕で彼は私の全身をすっぽりと包んでしまう。 「……それが俺にとって一番大事な荷物だと、まだわかんねぇのか」  きゅっと私は彼のコートの端を掴む。小さな子どもが、置き去りにされないよう精一杯しがみつくように。 「言っただろ。嫌いだよ、お前なんか」 ――ねぇ、にいちゃん。私のこと、好き?  言えなかった問いかけに、兄は冷たいほどあっけなく返した。 「だがしょうがねぇだろ。他に持ち歩く荷物、思いつかねぇんだから」  ……けど代わりにくれたのは、きっとどんな愛の言葉より甘いもの。  私はまた泣き始める。頭の中はもう、ぐちゃぐちゃだった。 ――さっちゃん。お兄ちゃんと仲良くするのよ。  幼い頃から兄に何度となく教え込まれた、呪文のような言葉。それは美幸ちゃんの声だった気がしたのに、段々と母の声に近づいてくる。 ――あなたたちは仲が良すぎるから、風当たりも強いかもしれないけど。  心配そうに、言ってくれたこともあった。ずいぶん前のことだから、私も今まで忘れていた。 ――最初に与えられたものを大事にすることは、決して悪いことじゃないのよ。  そうだろうか、お母さん。  大切にしすぎて他を傷つけたら、悪いことじゃないのか。現に私は今まで兄以外に目をやることを知らなくて、浅間君みたいに不満を抱く人がいたのに。殻に篭ったような狭い世界しか目に映さず、私自身も取りこぼしたものがたくさんあったに違いないのに、それでも悪くないのか。  ああ、でも、悪いとかいいじゃないんだ。 ――にいちゃ。おててつないで。  確かに、生まれて最初に私へ与えられたのは兄だった。手を伸ばした先にいつも、彼がいた。  ……そしてたぶん、兄に与えられた初めての生き物は、私なんだろう。  それを大事にした彼を、母が責められるはずもなかったんだ。  ふいに体を離して、兄は膝の上の私を見下ろす。みっともなく目と鼻を真っ赤にして、まだぐすぐすと鼻をすすっている不細工な私を。  兄はそれに目を細めて、懐かしむような素振りを見せた。光もほとんど失われた夜の中で、その灰色の瞳は透明に光る。 「泣けよ、沙世。お前は元々泣き虫だろ」  いつもだったら顔をしかめて文句を言うところを、彼は口元を歪めるだけだ。 「泣いて全部忘れちまえ」  そういえば、この一年間一度も兄の前で泣いていなかったことに気づいた。  どうしてそんな長い間我慢できていたのか、改めて不思議な思いがする。  私は兄の言う通り、涙が涸れるまで泣いていた。彼の首に手を回して、すがりついて、押し寄せてくる感情の波に身を委ねていた。 「……沙世。熱がある」  その間に兄は私の体温に違和感を抱いたらしく、長年の条件反射のように顔を露骨にしかめる。 「コートも着ずに外に出るからだ。小物程度で真冬の寒さはごまかせねぇよ」  舌打ちして吐き捨てた言葉に、失礼だなと私は内心で思う。  マフラーも、手袋も、帽子も、立派に私を守ってくれた。それをごまかしという一言で片付けてしまうなんて、兄は全く酷い。 「病院……はもう開いてねぇし。参ったな」  でも、そうなのかもしれない。その程度で寒さはごまかせなかったから、きっと私は風邪を引いてしまった。  だからこうして兄に縋りつくしかなくなっているのかもしれない。  兄は立ち上がると、私をベンチに寝かせてコートを被せながら言う。 「何か買ってきてやる。すぐ戻るから、ここで待ってな」  その言葉に、私はぎゅっと兄の袖を掴む。 「……や」 「あ?」 「や、だ」  おいていかれるのは、いやだ。  顔を歪めたまま、私は精一杯の力で彼の手首を掴み続ける。じわじわと視界が雫で侵食されていく。  兄は、一瞬立ち竦んだ。 「……しょうがねぇな」  次の瞬間にはもう、兄は私を背負って立ち上がっていた。  硬い感触のコートを私の頭も入るくらいにすっぽり被せて、よろめきもせず歩いていく。 「幼稚園児かよ、お前」  文句は、闇の向こうの冷たい空気に溶けていった。  ホームの隅から少しずつ、人の声のする方へと兄は歩き出す。私のその背中にぐったりと張り付いて、熱さと寒さの中をさまよっていた。  とりとめのない考えを胸の中で巡らせる。  どれだけ時を戻したいと考えても、決してこの一年で作ってきた変化は元には戻らない。  あいちゃんや伊沢君とはしばらく距離を置いて様子を見る。千夏ちゃんとは、また遊びに行く計画を立てたい。  浅間君とは、私の本音も今夜犯してしまった入谷君とのことも打ち明けた上で、それでもいいというなら付き合おう。きっと、楽しい恋人同士になれると思うから。  入谷君とのことは……今後どうなるか、まるで想像もつかないけど。付き合いはそう簡単にはなくならない気がする。 「にいちゃん」 「ん?」  私は無表情で呟いて、目を閉じる。  そう、元には戻れない。私はきっとこれから、兄と違う道を行く。 「帰る」 「ああ」  兄は淡々と返す。 「始発で実家に帰るか。俺も久しぶりだな」  けれどその変化は、まず家に帰ってからだ。  ……もしかして実家にいる内に、私の一年で起こしたすべての変化が、リセットされてしまうとしても。  ゆらゆらと視界は揺れる。  まだ電車に乗っている気分だった。熱に浮かされて、眠気も急速に押し寄せてきて、私は夢の中にいるように頬を緩める。  ここはターミナル。終わりと、始まりの場所だ。  次にここへ来る時には私は全然違う人間になってるかもしれないし、案外そのままかもしれない。  兄と決別しているかもしれないし、しがみついて離れないかもしれない。  それでもいいか、と私は瞼を閉じながら思う。  ……今はまだ、この温かくて厄介な、絶対の存在に守られていたいから。 「寝てていいぞ」  あと少し、せめて次に目が覚める時までは、この中途半端な気持ちのまま揺られていよう。  私が生まれた朝まで、あと時計の針が数回めぐるだけの真夜中。  私は何もかも忘れて、深い眠りの中に落ちていった。
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