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10 大好き、の反対は
まだ太陽が昇らない内に、千夏ちゃんは自分のマンションへと私を連れて行った。
所々破れた格好と明らかに男とわかる指のアザ。これでは私が男に襲われたということなんて、隠していても伝わってしまう。
「さ、まずガラスを取り除くからねー。ちょっと痛いけど我慢だよ、我慢―」
元気付けるようにおどけて笑うと、千夏ちゃんは私の足元に座ってピンセットとガーゼを手に取る。
「あたし、こういう細かい作業得意なんだよぉ。ま、プロには敵わないけどね」
言外に、本当は病院へ連れて行きたいのだという意思を私は感じ取った。
チクチクと、刺すような痛みと共にガラスが引き抜かれていく。赤黒く変色した血がこびりついているのを考えるとグロテスクな光景だけど、千夏ちゃんは淡々と作業を続けた。時折、大丈夫かと目を上げて私の表情を伺う。
バイト帰りだったのだと、千夏ちゃんは言う。
「沙世ちゃん。話したくなかったら何も言わなくていいよ。泣きたかったら泣いちゃっていいよ」
いつも甘え通しだった彼女は、必死で私を助けようとしてくれているらしかった。
「あたし馬鹿だから、何してあげればいいかわかんないんだ。だからね、勝手なことは何もしないよ。沙世ちゃんの言う通りにする」
悲しくて苦しくて、喉が詰まるくらい嬉しかった。
どうして見逃していたんだろうと自分を責めたくなる。
「ねぇ、あたしどうすればいい?」
縋るように切望するように向けてくる、真っ直ぐな優しさ。
……それはめったに得られない友情だと、どうして私は今まで気づくことができなかったのか。
白い包帯に巻かれていく手足を眺めながら、私はきつく唇をかみ締めた。
「ここに、いさせて」
喉がからからに渇いていて、私は何年も話していないように掠れた声で呟く。
「帰れない……家には、帰れない、から……」
たったそれだけの言葉を話すのに、私は体中の力を振り絞らなくてはいけなかった。
「うん」
気づけば汗ばんでいた私の手をしっかりと握りしめて、千夏ちゃんは頷く。
「いいよ。好きなだけ居ていい」
ふっと体から力が抜けた気がした。
緊張を保つのはもう無理で、私の体も頭もこれ以上働きたくないらしかった。
「休みなよ。熱も出るだろうけど、あたしがちゃんと側にいるから」
ぐったりとソファーに横たわる私に、千夏ちゃんは側の毛布を引っ張ってきて掛けてくれる。
楽になりたい。だけど、一番大事なことを言っていない。
甘いまどろみの中で、私はほとんど瞼を閉じそうになりながら言う。
「あと、このこと、家族にも……」
意識が揺れる。痛くて、熱くて、体が鉛になったようにだるい。
「うん。言わないよ。安心して」
それを聞いて、ようやく私は深く息を吐いた。
次に大きく喉を動かした時には、もう私の意識は半分夢の中へ沈んでいた。
一昼夜、私は熱を出していたらしい。
そしてその間、私は幾度となく洗面所にかけこんだ。
体を這っていく、彼の熱を思い出した。足の付け根、胸の輪郭、顎のラインを動き回り、やがて舌が耳に触れた瞬間を。
追ってきた千夏ちゃんがそっと背を擦ってくれる。
「大丈夫だよ、沙世ちゃん。大丈夫……」
ごめんという意思をこめて、私は涙目で背中越しに彼女を振り返る。千夏ちゃんは首を横に振って、黙って私を支えてくれる。
大声で、子供のように叫びたかった。相反する、二つの感情が私を苦しめるから。
一つは、泣きたいほど兄に謝りたい。もう一つは泣きたいくらい、私に男を意識させた兄を憎みたくて仕方がない。
だけど共通するものも、やっぱり二つあって。
「さ、休もう、沙世ちゃん……」
心が引き裂かれるくらい、兄の所に帰りたい。そしてこんな滅茶苦茶の状態では絶対に……帰れないのだと、私を縛り付ける感情だった。
三日ほどして、浅間君が訪ねてきた。
時間通りにやって来た浅間君は、私を見るなり眉を寄せて口を痛いくらいに引き結んで……どうにも掛ける言葉が見つからないとばかりに顔をしかめた。
浅間君は居間に座り込んだ後も何も切り出してこなくて、私も目を逸らしていた。私は浅間君がどんなことを考えているのかわからないから怖くて、そしてきっと彼も同じだったに違いない。
「あ、浅間っち、ジュースでいい?」
「ん。ありがと」
雑多で派手な居間に重く圧し掛かる沈黙。それに耐えかねたのか、千夏ちゃんが素早く席を立って台所へ消える。
私は浅間君の顔が見れなかった。だけど彼の方は食い入るように私を眺めているのが、肌でチリチリと感じていた。
「……何か」
浅間君は何気なさを装って呟いた。
「織ちゃん痩せたね。駄目じゃん。元々細いんだから」
早口で言ったから、意味を理解するには少し時間が掛かった。
私がその真意を計ろうとしている内に千夏ちゃんが戻ってくる。浅間君はコップを快く受け取りながらも、なかなかそれに口をつけようとはしなかった。
何を考えてるんだろうと、私は不安と共に浅間君の膝辺りを眺める。
彼のことだから、率直に何があったのか訊いてくるかと思った。今のようにひたすら沈黙するのは理解できない。
私からは何も言えなかった。私のことを誰かに理解してもらおうという気持ちが、穴の空いた風船のようにしぼんでしまっていた。
「あ」
いつか聞いたクラシックの着メロが、浅間君のポケットから流れ出す。
浅間君は一瞬自分のポケットに視線を走らせて、無表情のまま顔を背ける。
「浅間っち、出ていいよ」
千夏ちゃんの声に続いて、私も気にしないでという風に手を振った。浅間君はちらりと私の表情を窺って、僅かな逡巡の後に携帯をポケットから引き抜く。
「……伊沢」
馴染みの名前に私が少しぎくりとしたことを、浅間君は見逃さなかった。
「そっちはどうだ?」
すぐに目を逸らした私をじっとみつめながら、浅間君は淡々とした声で続ける。
『啓司は確保できた。で、織さん見つかったか?』
私と千夏ちゃんが息をひそめているせいか、電話口の向こうの焦った言葉まではっきり聞こえてきた。
千夏ちゃんが瞬時に表情を強張らせて、浅間君に何かを訴えるように近づく。
それに浅間君は前を見据えたまま沈黙を守るだけだった。
『参ったな。拓兄は電話してもすぐ切ってまうし』
心臓に杭を打ち込まれたような衝撃を、私は何とか俯くことでやり過ごす。
どうしてるのか、想像がつかないわけじゃないのだ。
――おにいちゃんのばか。さよ、おじーちゃんちにいく。
幼い頃兄と喧嘩をして何度か祖父の家へ駆け込んだことがあった。まあ、行き先を告げてから出て行くところが子供らしくて、家出というにはあまりに些細なものだったけど。
――言ってろ。馬鹿。
勝手にしろとそっぽを向かれたら、私だって引っ込みはつかない。膨れ面で祖父の所へ行き、母か父が迎えに来てくれるまでそこで遊んでいた。
――さっちゃん。お兄ちゃんにごめんなさいは?
――やだ。さよわるくない。
帰ってみてもやっぱり不機嫌な兄に、いつも謝らされるのが理解できなかった。
でも、ある日突然わかったのだ。両親がなぜそういう時いつも、兄の肩を持ったのか。
「拓磨さんか。どうしてると思う?」
浅間君の問いかけが、遠い所で聞こえるようだった。
『探しとるんやろ。小さい頃からずっとそうやで』
真冬で、雪が昏々と降り積もる時期だったと思う。
やっぱり兄と喧嘩して外へ出たまではいいものの、小さい私では坂の上にある祖父の家まで行けなくて、すぐに引き返そうとしたのだ。
ますます強く吹雪くようになった帰り道のことだ。
私は結局ふもとまで下って、祖父と一緒に銭湯につかってきた。その後体が温まって船を漕ぎ始めた私を背負って、祖父は山道を登っていた。
――あ。
地元の人間でなければ歩くのも難しい強風の中で、吹き上げるような雪に塗れた少年が、道の真ん中で立っていた。コートを着ただけで、手袋もマフラーも付けていない、寒そうな格好だった。
雪の中で真っ白になって立ちすくむ兄を、私は祖父の背中の上で見た。頬を膨らませて祖父の背中に隠れた私に、祖父は仕方ない子だと苦笑して前を向く。
――拓磨。どうしたんや?
沈黙が数秒あった。
……そして顔を上げた時の兄の表情を、私は忘れることができない。
兄は祖父の背中にくっついていた私に気づいていなかった。だからなのか、私は初めて見ることができたのだ。
――沙世がいないんだ。
そう呟いた時の、兄の何も見ていないような空ろな表情。
目は光がなくて、寒さのせいだけじゃなく、顔色は吹き付ける雪と同じ色になっていた。
――いつもならじいちゃんの所にいるのに。カズの家も、ユキの家も来てないって言うんだ。
置き去りにされた子供のように、呆然とした口調で淡々と言い続ける。
――雪で道間違えたんだ……。どうしよう、早く見つけてやんなきゃ……あんなチビなのに……。
きっと沙世は、どこかで泣いてるから。
自分で帰れないから、兄ちゃんが何とかしてやんないと駄目なんだ。
……だけどそれを言う兄の方が、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
――おにいちゃん、ごめん。
飛びついた時の、どこも酷く冷え切っていた兄の体を思い出す。
今になってその悲しみを思い出す自分はずいぶんと恩知らずだと、私は奥歯を噛み締めて思う。
だけど同時に私の胸を圧迫するように別の苦しみがこみ上げた。
……帰りたい。でも、どんな顔をして帰ればいい?
今までと同じ気持ちでなんて接することはできない。一度心に染み入った嫌悪感を消し去ることも、私の内部に芽生えた彼という男への憧れも。
『織さん、何であいつについて行ってまったんやろ』
途方に暮れた声で、伊沢君は愚痴のように言う。
『拓兄なら、止めてくれたはずやのに……』
ズキズキと痛む足に手をやって、私は顔を歪める。
そうじゃない。啓司が原因を作ったのは本当だけど、今胸を占めているのはそんなことじゃないのだ。
――おにいちゃん、さよも。
私はもう、無条件で兄に縋り付けないのだ。甘えたらどうなるかわからないから。
兄と妹。その関係が根元からすべて変わってしまう。それがたまらなく怖い。
「伊沢」
僅かにトーンの下がった声だった。
そんな浅間君の声色に違和感を抱いて、私は顔を上げる。
「拓磨さんに連絡取るのはもうやめろ」
なぜか浅間君と目が合う。酷く静かな眼差しで、私をみつめたままだった。
嫌な動悸がした。
私は気づかれないように息を呑む。たぶん、もう遅いとわかっていても。
「今の拓磨さんに下手なこと言ったら、お前殺されるぞ」
……私が兄の名前に反応したことに、浅間君の目に何か確信のようなものが宿った気がしたのだ。
「じゃ、織ちゃんを探してくる」
浅間君は伊沢君の返答を待たずに電源を落とした。胡坐をかいたまましばらく携帯を手で弄び……やがて、何気なく顔を上げる。
「千夏ちゃん」
「え、な、何?」
立ったままじっと浅間君の挙動を窺っていた千夏ちゃんは、ふいに声を掛けられて目をぱちくりさせる。
「台所貸して。昼飯でも作るから」
「あ、うん」
ほっとしたように頷く千夏ちゃんから目を逸らして、浅間君は立ち上がりながら私を見下ろす。
「卵スープとかならいけそう?」
突然の話題の転換に私が追いつけないでいると、彼はちょっとだけ笑って首を傾けた。
「ひどい顔色してるよ、織ちゃん。風邪だからって甘く見ないで、しっかり食べなきゃ」
肩の力が抜けて、同時に微かな悲しさが沸き起こった。
「どーせ千夏ちゃん、ジャンクな物しか食べさせてないんじゃない?」
「違うよぉ。あたしちょっとは料理できるもん」
「はいはい。ま、ものは試しってことで俺に任せて」
浅間君は、見ない振りをしようとしているのだ。私の包帯でぐるぐる巻きになった手足や、切れた唇、明らかにただの病気じゃない、空ろで硬直した反応しか返せない私の表情もすべて、「風邪」ということにして。
「飯屋の息子ですからねー。ガキの頃から鍋と包丁がお友達だよ」
それは、彼の優しさなんだろう。普段通りに接することで、私の擦り切れた心を少しでも癒そうとする、浅間君らしい心遣いだった。
でもわがままな私はちょっとだけ、突き放されたような寂しさを感じていた。
何も訊いて欲しくないのに、どこかですべてさらけ出して甘えたいと願ってしまっていた。そんなこと、家族でもない浅間君には迷惑でしかない。
「織ちゃん」
じっと見つめる私に、浅間君は口元を歪めて何か言おうとする。
そこに形作られたのが悲しみの表情だと理解する前に、彼はいつもの明るい笑顔に戻っていた。
「早く良くなって大学来てよ。待ってるからさ」
結局浅間君は私に何一つ、事情を追求しなかった。
けど時折見せる無表情は私に彼の内心を全く悟らせてくれなくて、ぽっかりと心に穴が空いたような空虚な思いだけが残ることになった。
千夏ちゃんが何度目かのバイトに出かけていって思いついたのは、お金のことだった。
一週間以上マンションで居候をさせてもらっておいて、何も払わないというのは心苦しい。精神的なものが一番大きいだろうけど、やっぱり実際に掛けている迷惑をまず解消しなければと思う。
久しぶりに財布を開けて確認する。手持ち金はもうほとんど残っていなかった。
両親からの仕送りは、口座に二十万くらい残っていたと思う。たぶん私が失踪したからといってお金を抜いたとは考えられないし、母のことだから心配して追加しているかもしれない。
だけど、今回の件で両親に迷惑をかけるわけにはいかない。
もう少しでいいから、一人でこらえたいのだ。
一時間後には、私は寮の前まで辿り着いていた。
なにぶん安さが売りの物件なので外観は貧相だし、色あせて所々の茶色の染みが目立つ。それでも一週間以上も留守にしていると、久しぶりの実家に帰ったような懐かしさがあった。
ただ、ここへ来たのは帰るためじゃないのだと考えると、少し空しくもあるけれど。
ずくんと左足首が激しく痛んで、私は思わずよろめく。
ぐるぐる包帯を巻いて固定しているのに、この捻挫はなかなか良くならない。歩く度に鈍い痛みが走って、正直ここまで歩いてくるのも辛かった。
入るなと足が拒否しているような気がした。虫の知らせというか、私の中の防衛本能が何かを感じ取ったように。
寮の中だから、兄は絶対にいない。それは確実だ。
そう整理をつけて、私は足を引きずるようにして靴箱まで辿り着く。
滑り込むように自室に入って、電気はつけないまま暗がりに慣れた目で机を見つけて通帳を引っ張り出す。
それは私が幼い頃から貯金してきた、私だけが自由に使えるお金だった。実際に数えたことはないけど、半年くらい生活していくには困らないはずだ。
……もっとも、お金は減るだけで増えることはない。自分で稼がない限りは。
所詮は少しの猶予が欲しいだけなのだと、私は苦笑しながら通帳を鞄に仕舞いこむ。
他に何を持っていこうかと考えて、私はカーテンも閉め切った真っ暗な部屋を見渡す。
ふと枕元に目を留めた。
迷いなく手を伸ばして、両手に収まるくらいのそれを取る。みーちゃんと私は声にならない音で名前を呼んだ。
物心つく前からずっと私の側にあった、黒猫のぬいぐるみ。どこに行くのも一緒で、高校の修学旅行には最初に鞄へ詰めたほどだった。
暗さのせいで輪郭がぶれる。だけど引っ張ったせいか不自然に歪んだ右耳も、ちょっとねじれてる透明のヒゲも、すましたように顎を上げながらもどことなく甘えっ子な瞳も、私はくっきりと目に映る気がした。
きゅっと抱きしめると、埃っぽい匂いが鼻腔をくすぐる。それと実家で使っていた洗剤の香りが微かに漂って……私は目の奥から熱い流れがじわりと溢れてきそうだった。
彼女が枕元にいてくれれば、よく眠れるようになるだろうか。
確信なんてないまま、私はみーちゃんを腕に抱いて部屋を出た。元通りに鍵を掛けて、玄関の方へと向かう。
ふいに女子寮の入り口から、足音が近づいてきた。足運びは速いのに、疲れの滲んだテンポだった。
私は部屋の前で立ち竦んだまま肩を震わせた。
ここから入り口までは二十メートルくらいだ。照明がついていない状態では数メートルまでしか人の顔は判別できないから、まだ誰かなんて見てもわからない。
……けど、この足音。
独特の歩調とバックパックの擦れる音は、私に誰かの姿を瞬時に連想させた。
数歩その場で足踏みをしてから踵を返して、私は入り口とは逆方向に向かう。そこにあったもう一つの出入り口の鍵を外して、女子寮から出る。
男子寮との連結部分である廊下に入ってからすぐに外へ出ようとして、私はこちらが裏口の方向だということにやっと気づいた。
もし、今アパートに兄がいたとしたら。
そうしたらすぐに見つかってしまう。こちらからは出られないと、恐怖と焦りで私は足を硬直させる。
そんな時に扉が閉まる音がして、もう一人女子寮スペースに入ってきたようだった。
「あ、おかえり。相田さん」
……やっぱり、と私は息を呑んで立ち竦む。
先ほど戻ってきたのはあいちゃんだったのだ。時間帯からいってもちょうど帰ってくる時刻だし、何よりあいちゃんの歩き方はかなり特徴的だから。
「こんばんは、先輩」
律儀な声で挨拶を返して、あいちゃんは足運びを止めないまま彼女の自室へと向かう。
よかった。私の姿は見てなかったんだ。
そう安堵した時だった。
「どうしたの、相田さん」
その足音が止まる。衣擦れの音と共にしゃがむ気配がして、彼女は訝しげに言った。
「ぬいぐるみ、落ちてます」
「あ、ほんとだ」
はっとして、私は腕に抱えていたみーちゃんを見下ろす。先ほどまでしっかり掴んでいたそれは、いつの間にか腕から滑り落ちてなくなっていた。
「誰のだろう?」
先輩は単純に不思議がるだけで、特に追求しようという素振りはない。
「これ、どこかで見たような……」
呟くようなあいちゃんの言葉に、私の心臓が大きく跳ねる。
相手はあいちゃんだと思った。何度も私の部屋に出入りして、私の趣味も部屋の様子も、たぶん寮内の誰より知っている。
どうしようと頭を抱え込んで私は目の前の裏口と背中にある女子寮へ戻る入り口を交互に見やる。さっさと裏から出ればいいのだとわかっていても、私はその向こうにいるかもしれない兄の姿を想像すると、どうしても足を動かすことができなかった。
「……あれ?」
ふいに男の子の声が近くで聞こえて、私はびくりと体を震わせる。
「どうしてここに?」
不思議そうな口調に聞き覚えがあったから、私は恐る恐る側に立つ彼を見上げる。
寝る前なのかTシャツにジャージというラフな格好で、狐目はいつもよりもっと細い。その目を眠たげに瞬かせて、浅間君が首を傾げながら立っていた。
「ちょっと私、確認したいことがあるので」
あいちゃんの声が扉の向こうから近づいてくる。それに浅間君は反応して、目つきを険しくする。
読めない表情だった。私を責めているのか、それとも別の何かを考えているのか。でも、私に浅間君の内心が理解できるとは思えなかった。
何にせよ、もう間に合わない。
私は顔をくしゃりと歪めて、黙って俯いた。
「……こっち」
えっと私は思わず声を漏らしそうになった。
突然、浅間君が私の手首を掴んで引っ張った。私はたたらを踏みながらも、抵抗する間もなく廊下に隣接する倉庫へ連れて行かれる。
「入って。声を立てないように」
素早く鍵を外して古い倉庫へ私を押し込むと、浅間君は困惑顔のままの私にちょっとだけ笑ってみせる。
「大丈夫だよ。織ちゃん」
目の前でトタン板の扉を強く閉めて、再び鍵を掛け直す。
次の瞬間には、女子寮の扉が音を立てて開いた。浅間君は隠すように後ろポケットへ倉庫の鍵を仕舞うと、そちらへ足を向けながら言う。
「やっ、あいちゃん。今日もお疲れー」
いつも通りの、呑気すぎるくらい明るい声だった。隙間からそっと覗いても、彼は恋人に見せるものらしい甘い表情を浮かべている。
「何してるの?」
「あいちゃんを待ち伏せしてたの。ほら、マジで会えたじゃん」
あいちゃんは厳しい表情のまま、腕を組んで浅間君に向き直る。
茶化すのが難しいと見たのか、彼は薄く笑ったまま手を軽く振った。
「大したことじゃないよ。水飲みに来ただけ。あいちゃんはどうしたの?」
表情を全く変えないで、あいちゃんは短く答える。
「探し物。これを見て」
彼女は後ろ手に持っていた黒猫のぬいぐるみを浅間君に示す。彼は不思議そうにそれを見やって、またあいちゃんの顔を見た。
「あいちゃんってぬいぐるみ好きなんだ。知らなかったぁ」
ふざける浅間君に乗る様子もなく、あいちゃんは淡々と答える。
「廊下に落ちてたの、これ。確か、織部さんのお気に入りだったと思う」
私は狭い倉庫の中で震えて、体を縮こまらせる。
「これが部屋の外にあったってこと、どういうことかわかる?」
あいちゃんなら察してしまうだろうとは思ってた。だけど見逃してくれるという僅かな可能性に賭けたかった私には、ずしりと肩に岩が圧し掛かったような気持ちがした。
「朝通った時にはなかった。だから今日の内に、織部さんは寮に来てたってことになる」
「ふうん。なるほどね」
感心したように頷いて、浅間君はまた笑って首を竦める。
「浅間君」
「何?」
微笑む浅間君に、あいちゃんは静かに口を開く。
「織部さんの居場所、隠してるでしょう」
静まり返った廊下に響いた言葉に、私は体を硬くして唇を噛み締めた。
灯りは一つだけある蛍光灯だけ。それも切れかかっていて鈍い音を立てて点滅する頼りないものだ。
「どうして?」
「浅間君ならそうすると思うから」
「うん」
苦味を帯びた口調は、一瞬しか出てこなかった。
「すごい。俺のこと理解してくれるんだ、あいちゃん」
私を匿っていると、浅間君はあっさり認めたようなものだった。それにあいちゃんは顔を険しくして、浅間君は相変わらず穏やかな表情のまま。
「じゃあ俺からも訊くよ。どうしてあいちゃんは織ちゃんを見つけようとするの?」
その問いに、あいちゃんは薄暗がりの中で頷く。
「仲のいい兄妹なのに、ズタズタになっては欲しくないから」
「あいちゃんは何か知ってるの?」
「お兄さんの方が探して、何か話したがってるみたい。織部さんは傷ついてて、どこかに隠れちゃったんだって」
あいちゃんは感情を交えることなく話し続ける。
「何か事情はあるんだと思うよ。それに兄妹間のことは二人で解決させなきゃいけない問題で、どちらかに肩入れするものじゃない。ただ、二人きりにする場は作ってあげたいだけ」
「ふうん」
皮肉っぽい口調で、浅間君は相槌を打った。そこに不満があることを察したのか、あいちゃんは目を上げてみせる。
「浅間君は、織部さんが正しいと思ってるの?」
「いや」
即座に否定して、彼は緩く首を横に振る。
「織ちゃんは冷静に見えて感情の起伏は激しいから、きっと誤解してる部分もある。それに比べて拓磨さんはずっと大人だし、落ち着いて話そうっていう心の広さも持ち合わせてる」
じっとあいちゃんを見つめ返して、浅間君は口の端を上げる。
「だからきっと、織ちゃんは一度拓磨さんと話し合わせた方がいい。あいちゃんは二人のこと、よく見抜いてる」
でもと浅間君は目を伏せて続ける。
「それでも俺は、放っておいてやりたいと思うよ」
「どうして?」
浅間君を弾劾するような問いかけだった。
蛍光灯の周りを小さな虫が飛んでいる。それは光の中へ飛び込んで……薄い黒のシルエットだけを残して、消えた。
音もたてず、あいちゃんが浅間君の答えを待っている。その間は数秒に満たないはずだったのに、私には何十時間にも感じていた。
「……かよ」
ぼそりと浅間君が言葉を零す。
「あいちゃんは、見えてないのかよ。それとも、見えなくなってるのか?」
浅間君は暗い目をしていた。そこに浮かぶ感情が何なのか私やあいちゃんが見抜こうとしている内に……その目が鋭くつりあがる。
「俺らが見なきゃいけないのは織ちゃんが正しいかじゃなくて、織ちゃんがどれだけ苦しんでるかだよ」
感情のタガが外れてしまったように、浅間君は厳しい口調で言い放つ。
「何が何でも正しい方に引っ張らなきゃいけないのか? 悪いか正しいかなんて、どっちだっていいじゃないか。弱りきってる人間に、何でそんな辛いことばっかり押し付けるんだ」
甘い口調はもうどこにもない。表情も目つきも同じで、相手があいちゃんであることさえ忘れてしまったようだった。
「友達だろ。それくらいの優しさもないのか!」
私は少しも、浅間君の心を理解しようとしていなかった。
……浅間君は私の内心を察しておいて、あえて見ない振りをしてくれたのだと気づいた。
「感情的になってごめん」
さすがのあいちゃんも目を見張って驚いているのを見て、浅間君は緩く首を横に振る。
「でも駄目だよ。ここは譲れない」
諦めたように零す彼は、苦々しい表情をしながらも訂正しようとはしなかった。
「頼むよ、あいちゃん。頼む」
あいちゃんは動かなかった。先ほど一瞬だけ表情に動揺が走ったのも嘘のようで、いつものように涼やかな顔だった。
彼女は俯いて考え込むと、何か言葉を紡ごうとした。だけどそれは声になる前に閉じた口の中に吸い込まれて、代わりに短いため息だけが零れる。
ゆっくりと浅間君の横を通り過ぎて、あいちゃんは私の隠れている倉庫の前まで来た。そこで立ち止まって……私は一瞬居場所がばれたのかと震えたけれど、あいちゃんは倉庫の脇に腰を下ろす。
「浅間君も地方から上京してきた人間だから、わかると思うけど」
床より一段高くなったところに座って、あいちゃんは怪訝そうに立ちすくむ浅間君を見上げる。
「何かあったときにいつも一番に思い出すのは、家族のことじゃない?」
答えない浅間君に、あいちゃんは零すように言う。
「それが切れちゃうのは、寂しいことじゃないかな」
眼鏡の奥の目を細めて、あいちゃんは遠い世界を仰ぎ見るようなまなざしをする。いつも厳格で背筋が伸びているイメージがあるのに、今のあいちゃんは寂しそうだった。
「織部さんもお兄さんも、今更相手を無視しきることなんてできやしない。だから今目を背けたって、かえって傷つくよ」
言葉を失った浅間君をみつめながら、あいちゃんは静かに告げた。
「織部さんの居場所、教えて。あの兄妹のことを思うなら」
蛍光灯の光は、床に辿り着く頃には青白くなっている。連結廊下は静まり返ったせいか妙に広々としているように感じて、ベージュの壁は淡い暗がりを生み出す。
闇夜だからか、外から光は入ってこなかった。靄のような白が電球の周りを取り巻くだけで、私のいる倉庫は全くの闇だ。
「……嫌だ。教えるわけにはいかない」
そんな中で、浅間君は子供のように答えた。
言葉は幼くなどなかったのに、その響きは酷くわがままに聞こえたのだ。
「そう」
あいちゃんは、答えを最初から見抜いていたようだった。すっと立ち上がると、何気なく女子寮の方へ足を向けながら言う。
「『信頼できない人とは付き合わない』と、最初に私は言ったよね」
浅間君は目を逸らして、小さく頷く。
「だから、これでさよなら。いいね?」
沈黙だけを返して、浅間君は何も言わなかった。
あっさりとしたやり取りなのに、二人の間に漂う空気は酷く重かった。
私には理解が追いつかない。ただとても大切な何かが、この瞬間に失われたことだけは肌でぴりぴりと感じた。
「俺、それでもあいちゃんが好きだよ」
ぽつりと言葉を零した浅間君に振り向くことなく、あいちゃんは静かに女子寮の鍵を外す。
「優しくないなんて言って、ごめん」
音を立てて扉が開き、あっけない響きで閉じられる。
浅間君はしばらく身動き一つしなかった。私に背を向けた状態では表情は読めないけど、その背中には寂しさと悔しさと苦しさ、それと色々な感情が取り巻いている気がした。
顔を伏せたまま振り向いて、浅間君は倉庫の鍵を外しに掛かる。
「拓磨さんはここしばらく、自分のアパートに帰ってきてない。だから裏口から出ても大丈夫だよ」
軋む音を立てて扉を両開きにすると、浅間君はすっと横へずれる。
「早く行って、織ちゃん」
顔を背けて、浅間君は吐き捨てるように言う。私に黒猫のみーちゃんを押し付けながら。
「早く」
薄暗がりで、浅間君の表情は読めなかった。
……見られたくないのだとわかっていたから、私は彼から目を逸らして、裏口の扉を開いた。
また一つ、眠れない夜を過ごして迎えた朝に、千夏ちゃんが言った。
「浅間っちが遊びに来たいって言うんだけど。お休みだから」
曜日感覚の狂っている状態だとすぐにはピンとこなかったけど、どうやら今日は日曜らしい。
「どうしたんだろうね、突然。沙世ちゃんが決めていいよ」
受話器を持ったまま首を傾げる千夏ちゃんに、私は迷いながらうなずく。
「じゃ、今日はあたしバイト休むよ。……五時くらいでいい?」
快く千夏ちゃんは浅間君に話をつけて、何度か頷いてから受話器を置いた。
「夕ごはん作ってくれるんだってー。ラッキー」
うきうきしながら千夏ちゃんは私を振り向く。その屈託の無い笑顔に、私はほっと心が和らぐのを感じた。
「あー、ちょっとは片付けなきゃ駄目かなぁ」
疲れたようにため息をつく彼女を見て、私は立ち上がる。
手伝うと言うと、千夏ちゃんは驚きながらも手を上げて喜んだ。
「ありがとー。じゃあねぇ、洗濯物集めてくれる?」
一つ頷いて、私は散らばった衣服の類を集め始める。私は一応袋に入れて固めてあるけど、千夏ちゃんは脱ぎ散らしたままほったらかしだった。
何だか母親の気分でそれをカゴに入れていると、千夏ちゃんはテレビの周りを掃除し始めて、あっと声を上げる。
「ねーねー、沙世ちゃん。ヘイジの録画見つけたのー。一緒に見ようよー」
懐かしいアニメに心ひかれながらも、私は苦笑して雑然としたリビングを示す。掃除しなくていいの、と問いかけるように。
「いーのいーの。後ですればいいから」
呑気に返して、千夏ちゃんは休日らしい気だるい動きでDVDをセットし始める。
これでどうやって一人暮らしができていたのか。私は呆れながらも微笑ましくて、洗い物を一通り洗濯機に入れてから、待ち構えている千夏ちゃんの隣までやって来る。
「あたしねぇ、あの大きいわんこと花畑でごろごろしたい」
そうだねと私は頷きながらソファーに座ってテレビをみつめた。
高い場所にあるマンションだからか外の騒音はまるでなくて、ただ聞こえてくるのは規則正しい洗濯機の振動と、テレビの向こうの明るい笑い声、そして千夏ちゃんが時折上げる歓声だけだ。
のどかだなと思った。
「そうだ。沙世ちゃん」
身動きもせずに座っていた私に、千夏ちゃんは何気なく問いかけた。
「イリヤも呼んでいい? 仲間はずれにすると、怒ると思うんだぁ」
私はこれにもうなずいた。
欠けたものはきっとたくさんある。皆の思惑だって様々で、回復したものもあるのかどうかわからない。
でも、浅間君と千夏ちゃんと入谷君なら、今の私を決して傷つけたりしないと信じられる。
私は再び愉快な映像へと目を戻した。
録画を見たりしている内に日は傾いて、あっという間に浅間君のやって来る時間になった。
「あ、来た来たー」
チャイムの音と同時に千夏ちゃんが立ち上がって、マンションの玄関のロックを外す。彼が部屋まで上ってくるまでは時間が掛かったけど、私はずっとリビングで片付けものをしていた。
どんな顔をして会えばいいんだろう。
そんな緊張が体の内部にべったり貼りついていながらも、会えるのは嬉しいと思っている自分がいた。
「おーりーさん?」
キーボードに向かう私の真後ろに突然人の気配を感じて、私は思わず横へ飛びのく。
「そこまで驚くこと?」
困ったような顔で立っていたのは入谷君だった。重そうな鞄を肩から二つ斜め掛けにして、衣装らしき服の上からざっくり上着を羽織っただけの格好から見るに、何かの撮影から直接こちらへ来たらしかった。
メイクの名残なのか仕事用コロンなのか、涼やかな香りが微かについている。そういうのは普段の彼とはとても似つかわしくないはずなのに、私は入谷君の顔を眺めるなり胸に何かがじわりと広がるのを感じた。
やっぱり会いたかったのかもしれない。懐かしくて、泣きたいくらいだ。
そう思って私がくしゃりと顔を歪めると、入谷君は立ったまま千夏ちゃんを振り返って笑う。
「珍しいよ、千夏ちゃん。織さんが僕の顔見て嬉しいっぽい顔してる」
「えー、困ってるだけじゃない? だいたいさ、イリヤが本当に来るとは思ってなかったし」
呆れ気味に手を振る千夏ちゃんに入谷君はむっとして、子供っぽく返す。
「浅間君は良くて、僕は来ちゃいけないわけ?」
「浅間っちは特別なんだよー。リーダーだし、沙世ちゃんとの付き合いも長いんだから」
「ふうん。結局僕はのけ者か」
拗ねたようにぼやく入谷君に、私はちょっとだけ笑って肩を叩く。
入谷君は特別だ。浅間君も、千夏ちゃんも。
「……織さんが優しい」
言葉にしたわけじゃないのに、入谷君には伝わったらしい。
だけど次の瞬間には露骨に顔をかげらせて、入谷君は心配そうに言ってくる。
「やっぱ体調悪いんだ。寝てていいよ」
あまりに入谷君らしい反応に、私は苦笑して頷いた。入谷君は私へ何か追及することもなく、上着を脱ぎ捨てながら床に座り込む。
「それにしても千夏ちゃん。片付いてない部屋だね」
「うわ、ひどーい。これでも沙世ちゃんと二人で頑張ったんだよぉ」
口を尖らせる千夏ちゃんに、入谷君は軽く笑って指差す。
「千夏ちゃんが担当した所当ててみせようか。あの辺の、下着が放置されてる左側エリアだろ?」
「えー、何でわかるの?」
「バレバレ。っていうか、隠そうよ」
「いいじゃーん。インテリアだよ、あれくらい」
冗談混じりに二人で笑い合ってから、入谷君はふと真面目に言い放つ。
「あのさ、まさかとは思うけど。あれって全部千夏ちゃんのだよね」
「へ?」
ためらいがちな言葉に千夏ちゃんは一瞬黙って、にやりと笑う。それに、入谷君は慌てたように首を振った。
「あ、いやいや。忘れて、今の」
「んー、そうだねぇ。混じってたような気も」
「もういいってば。あ、千夏ちゃん」
チャイムの音が聞こえて、入谷君が焦って立ち上がる。
「ほら、浅間君来たし。ロック外して」
「おーらいー」
にやにや笑いのまま千夏ちゃんは立ち上がって、私へ意味ありげな目を向けながら去っていく。
入谷君は困った顔のまま黙って座り込んでいた。きらきらした世界の住人なんだから異性の下着くらいで驚かないだろうにと私は横で首を傾げる。
男の子ってわからない。彼が単に照れ屋なだけかな。
とにかく入谷君が不憫になってきたから、私は立ち上がって部屋の隅へ向かう。千夏ちゃんの下着を丁寧に折りたたんで仕分ける内に、私はその中に薄いピンクと白フリルのひらひらショーツが混じっていたことに気づく。
私はそっとそれを横へどけた。千夏ちゃんの赤とか黒の派手なランジェリーとは別方向の少女趣味の自分の下着に恥ずかしくなってから、はっと気づく。
後ろを振り返ると、入谷君が焦って弁解してきた。
「僕が悪いわけじゃないだろ!」
まだ何も言ってないじゃないか。
そう思いつつも恨みがましい目で彼を一瞥して、私はそそくさと下着を折りたたんで小さくした。これでも、人並みに羞恥心はあるつもりだから。
「はいはい。来ましたよー」
そんなやり取りをしている内に、リビングへ浅間君が入ってきた。片手にビニール袋を提げて、見ているこっちが明るくなれるような人懐っこい笑顔で。
「あれ?」
だけど、いつも通りでない所もあった。それに気づいたのは私だけではなくて、入谷君が訝しげな声を上げる。
「口、どうかした?」
口の端が少し切れて血が滲んでいるのだ。よく見ると、顎の辺りに青いアザもくっきりと浮き出ていて、上からのガーゼでは隠し切れなくなっている。
「あー……これはさぁ」
困ったように浅間君が顔を歪める。何か言い訳らしきことを口にしようとして、彼は隠していても仕方ないと、小さくため息をつく。
「拓磨さんに余計なこと言ったからさ、ちょっと殴られた」
その事実が、私の頭をがんと殴りつけたような衝撃に変わる。
「だーいじょうぶ。織ちゃん」
瞬時に私が唇を強く噛み締めたのを見て、浅間君は安心させるように笑ってみせる。
「拓磨さんが本気で殴ったらこの程度じゃ済まないよ。酔ってた所に近づいた俺が身の程知らずだっただけ」
ごめんと私は頭を下げる。それにも、浅間君はいいんだって、と軽く手を振って返した。
「ま、そんなことよりさ。皆に重大発表があります」
リビングの中央までやって来て、浅間君は座ったままの私と入谷君、そして入り口の方に立った千夏ちゃんを順々に眺めていく。
軽く咳払いをしてから、浅間君は今度こそ大真面目に言った。
「実は本日早朝、正式にあいちゃんと別れました」
私は体を強張らせて顔を歪める。
恐れてはいたけど、現実になったのだ。あいちゃんは、一度言い出したことを撤回したりなんてしないとわかっていたから。
……私のせいだ。
「へー」
息が詰まるような緊張を噛み締めると、入谷君や千夏ちゃんから次々と声が上がった。
「やっぱり?」
「そんなことじゃないかと思ってたんだよね」
意外な程呑気な声に、浅間君は困ったように口元を歪める。
「何で?」
「そろそろかなぁってイリヤと賭けてたんだよぉ。ま、あたしもイリヤも別れる派だったから、全然賭けになってなかったけどねぇ」
「いや、だから何で」
腕組みをする浅間君に、入谷君がそっけなく答える。
「長続きしそうになかったじゃん。浅間君、相田さんのことそれほど好きじゃなかっただろ」
「……おいおい。そりゃないよ」
顔をしかめて言い返す浅間君へ、入谷君はさらに続ける。
「まあ好きだったにしても。僕には相田さんが本命には見えなかったし」
「そーそ」
千夏ちゃんが同意して、納得がいっていない様子の浅間君の前に回りこむ。
けらけら笑う千夏ちゃんに、たいして気にも留めていない様子の入谷君。その中で私はまだ動けなかった。
仮に二人が本当のことを言っていたにしても、私が直接二人の関係にヒビを入れることをしてしまったのは事実だ。ずんと肩に圧し掛かる罪悪感に、私は無言で俯く。
「織ちゃん」
いつの間にか目の前に浅間君が座っていた。にっと、彼らしい狐目を細めた笑顔のまま……でも口調だけは真剣だった。
「織ちゃんは全然関係ないだろ? 友達なんてほら、薄情なもんだし」
突き放すようで、そこにあったのはまぎれもない優しさだとわかっていた。
「謝りの言葉なんて聞きたくないんだよ、俺は」
浅間君は再び立ち上がって言う。
「そんなわけで今日から優雅な独り者生活復活。外泊も出来るようになりました。皆で、心して俺の傷心を癒すように」
ぱちぱちぱち、と意味のわからない拍手が私以外の二人から上がる。
「おーけー。任せてよー」
「久々の飲み、準備ばっちり」
ドサっとチューハイと日本酒の詰まったビニール袋をどこからともなく取り出して、入谷君は朗らかに言う。
「え、イリヤ気が利くじゃんー」
「何か要りそうな気がしたからさ」
私はちらりと目を窓の外へ向ける。秋の日は短くなってきたとはいえ、まだ都庁や東京タワーまで見渡せてしまうような、澄み切った夕暮れ時だ。
こんな時間から飲む気か。無駄に元気というか、それが本来の大学生の健全な生活なのか……どっちにしろ、私には遠慮させてもらいたい。
「織ちゃんが遠い目してるよ。まずメシにしよ」
目ざとく気づいた浅間君が、笑いを含んだ声で言う。既に飲む準備万端だった千夏ちゃんと入谷君はそれに不満の声を上げたけど、だるそうな私を見て一応同意する。
「じゃ、台所借りるよ。うどんでいい? 俺の得意分野だから」
「はいはーい。お任せしまーす」
「ん、よろしく。浅間君」
元気よく返事をした千夏ちゃんと入谷君を見て、最後に頷いた私を確認して浅間君は台所へ向かう。
「……あと」
微妙に言葉に詰まって立ち止まってから、浅間君は小さく呟く。
「部屋の隅に下着を散らかしとくのは、いかがなものかと」
そのコメントに千夏ちゃんは笑って、入谷君は苦笑して、私は困ったように口元を歪めた。
「やだぁ。浅間っち純情―」
「何か意味違うよ。千夏ちゃん」
「いや、困るよね。僕もわかるし、その気持ち」
何だか懐かしかった。これは、私が半年間過ごしてきたサークル部屋の光景そのものだったから。
そう思って気づく。私は何を怯えていたのかと。
私はこの仲間たちの一員だった。そして今だってまだ……仲間だ。
家族のように慈しむわけでも、兄のように甘やかしてくれるわけではなくても、私の支えになってくれている友達がここにいる。
――ほら、そろそろ浮かんでおいで。
私の心の中心を守る、薄い膜の外から声が聞こえてくる。
元気を出して。心を開いて。
もう大丈夫だよと、美幸ちゃんの声ではないのに美幸ちゃんに言われたような気がして、私はすっと顔を上げた。
それからは、なぜかカラオケ大会が始まった。皆それぞれストレスが溜まっていたのかなかなかマイクを離そうとはせず、何曲でも続けて熱唱していた。
「織さん。次、Lu-Naいくからよろしく」
「沙世ちゃあん。そこにあるライチのチューハイ取ってー」
私は気力が出なくて歌えなかったけど、皆にお酒を配ったりすることで参加はできた。
騒がしくて、疲れを知らなくて、底抜けにのん気な、ただの飲み会。ひたすら遊び呆ける大学生共の宴会だ。
「よーし、ノリオパーティしよ」
「ゲームゲーム!」
そろそろ二十歳になろうという私たちが、四人プレイのテレビゲームで、コントローラをガチャガチャ叩くのも、傍から見ればどうしようもなく笑える。
あー、とか、ぎゃー、とか喚きながら、たかがゲームの一つに大騒ぎするのも可笑しな話だ。
だけど、楽しかった。どうしてと言われても、幸せで仕方なかった。
「お、浅間君酔いつぶれたね」
「かわいー」
やかましいゲーム音など何てことないらしく、浅間君は座ったまま居眠りを始める。それを千夏ちゃんたちは茶化しながら、手は忙しくボタンを連打していた。
ふいに視界に透明な膜が掛かるのを感じた。
指先が痺れてきて、心地よい満腹感に頭がぼうっとなる。
久々の感覚だと思った。
「沙世ちゃん?」
「しー」
不思議そうな千夏ちゃんの言葉を、入谷君が静かに制する。
私が寝転んだまま前へ投げ出した手から、そっとコントローラが抜き取られる。
肩に掛かる温かな毛布の感覚に、私は耐え切れないくらい瞼が重くなっていく。
……眠い。引っ張り込まれるみたいに。
「おやすみ」
誰がそう言ったのかはわからない。毛布を掛けてくれたのも、一体誰なのか振り返る余裕もなかった。
だけど、千夏ちゃんと入谷君がとても優しい顔をしていたことだけは、遠のく意識の中で確かに見たのだった。
夢を見ているのはわかっていた。
私は実家の山の中、落ちてくる葉っぱを取ろうと跳ね回った。
静まり返った木々の間に様々な形の木の葉が舞っていく。その音は耳を澄まさなければ聞こえないくらいささやかなものだったのに、私は包み込まれるように体全体で音を感じていた。
くるりと回る。手を伸ばしてジャンプする。頬を掠めていく、くすぐったいような落ち葉を掴もうとする内に、それはいつの間にか地面に消えていく。
いつしか私は自分が踊っていることに気づいた。セピア色の木の葉の乱舞に巻き込まれて、空も見えないほど木々に覆われた中で、好きだった歌を口ずさんで。
誰も知らない小さな世界。
そこで、私はいつまでもくるくると踊っていた。楽しいわけじゃないのに、どこか浮き立つような気持ちで。
――沙世。
呼ばれて、私は振り返る。
そこに立っていた彼は、まだ小さかった。彼は私と五つしか年の差がないのだから当然かもしれない。
――何してんだ、お前。五時には帰れって言ったろ。
でも、私にとっては絶対者だった。いつでも、誰よりも。
怒った顔に、私はちょっと体を縮こまらせる。啓司兄ちゃんのように優しく笑ってくれたらいいのにと、少し恨みがましく思う。
――ほら。
背を向けて、面倒くさそうに彼は手を差し出す。
――帰るぞ、沙世。
途端、世界は秋色に染まった。
舞い落ちるセピアの木の葉は、黄、オレンジ、赤、茶、様々な色に一瞬で塗り変わって、私の周りを取り囲む。
――うん。
ぎゅっと兄の手を握り締めて、私は笑う。
私は今まで記憶を美化していたところがあると思う。兄は、滅多に私に笑いかけることはなかった。
……だけど、怒った顔をしながらも、私の手を離したことはない。それだけは真実。
笑っていたのはいつも私。兄はむすっとして、気に入らないことがあるとしばらく口も利かない。
――さよ、おにいちゃんとかえるの。
それが私たちの世界だった。腹を立てることも、互いを傷つけあうようなことがあっても、幸せだった幼い日々。
今の私たちは、ちょうど辺りを漂うように舞い落ちている紅葉のように、移り変わる曖昧な関係だ。不安定で、今にも崩れ落ちてしまいそうな一瞬の狭間にある。
兄にくっついていたその幼い時を、私はひたすらに手を伸ばして掴もうとしている。わがままで、どうしようもなく子供っぽい執着のままに。
同じことはもうできない。私は……もう、次に踏み出さないといけない。
私は木の葉の向こうに見える細い空を仰いで、そう思った。
翌日、私は自宅に戻った。
授業を受けて、サークル仲間と騒いで、寮に帰った。体調はまだ優れないし足も松葉杖が必要だったけど、日常はたいして変わらなかった。
『寮に帰ったよ』と兄にメールを送っておいた。けれどまだ返信はない。
一日を終えて部屋の椅子に座ると、カーテンの隙間から寮の裏手にあるアパートを覗き見ることができる。それで兄の部屋に明かりがついていないのを確認して、私は立ち上がった。
慣れない杖を使って、ゆっくりと歩いていく。夜の空気は時折痛む足首をちくちくと刺激するくらい、澄み切っているような気がした。
電車に乗って、数週間前に兄が連れていってくれた溜まり場へ向かう。時刻はそろそろ日付が変わる頃だというのに、レトロな色合いの扉の向こうにはやかましいほどの音楽で揺れ動いていた。
迷うことはなかった。兄の遊び場などいくらでもあるとわかっていたけど、私の直感がここだと告げていた。
音を立てて扉を肩で押して入る。一瞬バランスを崩して転びそうになったけど、私は何とか態勢を立て直して顔を上げた。
「あの子……」
笑って踊っていた人たちが、一斉に私を振り返って驚いた顔をする。だけど私が見つけたいのは、そんな人々の反応じゃなかった。
杖をつきながら、ゆっくりと前へと進む。
「……沙世さん」
すぐに私に気づいたのは、テツ君だった。ついで取り巻き連中が振り向いて、どこか困ったような様子で目配せをする。
「どいて」
彼らを掻き分けて、私はさらに進んだ。男も女もいたけど、誰も私を止めなかった。妨害できるはずがないのだと、私もわかっていた。
視界が開ける。奥に一つだけある椅子に座って、彼はそこにいた。
彫りの深い顔立ちに、濃い茶色の瞳。そこに様々な感情が浮かんでは消えて、けれどただひたすら私をみつめていた。
「何しに来たのよ」
兄の首に腕を回している状態で、絵梨さんが言う。まるで、私から兄を守るように。
私は静かに兄を見返していた。カラン、と杖をその場に捨てて、足を引きずりながら近づいた。
「来るんじゃないわよ。逃げたのはあんたでしょ」
彼女の言葉に、私は足を止めることはない。
玉座へ進むように、審判台に上るように、真っ直ぐに私は歩み寄る。ずっと、兄の顔をみつめたまま。
「ちょっと」
絵梨さんの言葉ですら耳に入ることはなかった。
兄と膝が触れ合うくらいの距離まで来て、私は立ち止まる。
「あんたね、だから!」
「……いて」
絵梨さんの顔すら見ずに、私は短く言い捨てる。
「どいて」
激しい口調じゃないはずだった。それでも、絵梨さんは体を震わせて飛びのいた。
何も言わない兄の膝に、私は乗る。するりと、迷うことなく彼の首に腕を回す。
ぎゅっと、私は力を込めて懐かしいその身を抱きしめた。
タバコとアルコールの匂いが鼻をつく。香水や、女特有の甘い匂いもまた染み付いてる。それらをすべて吸い込んで、受け止める。
「……どこ行ってた」
低い声が、体を通じて聞こえた。私はそれには答えずに、しがみ付いたまま呟く。
「ごめんね、兄ちゃん。心配掛けた」
それきり黙った私に、兄は問いかける。
「……なんで逃げた」
呆然とした響きの声だった。私はそれに暫く黙りこくって、静かに目を閉じた。
「兄ちゃん」
強くその首を抱きしめて、私は囁くように言う。
「大好きだよ。一番」
一瞬だけ体が震えた気がした。
何か迷うような間があって……やがて、私の髪を痛いくらい強く掴む。
「……ふざけんな」
「ふざけてない」
「やめろ」
「嫌だ」
言葉は私を突き放してるのに、兄の腕はしっかり私の体を抱きしめていた。
変だよ、兄ちゃん。
これじゃあ逃げようと思っても逃げられないと、どうして気づかないの?
「でもちょっと距離を置きたかった」
そしてこれからも距離を置こうと思っている。
私に女を見たことを、決して忘れることができなかったから。
「絶対離れない、とはもう言えない」
いずれ、離れていく。もう、離れ始めてしまっている。
大好きの反対は無関心だというけど、私は違うと思う。大好きという気持ちが反転すると、自分ではどうにもならない負の感情にはまってしまう。
不安や恐怖、嫌悪に悲しさ。
大好きな気持ちは今でもある。でもその裏側に芽生えたその感情を、今はどうにもできない。
「俺はお前なんて死ぬほど嫌いだ。うざったくて、顔も見たくねぇ」
じゃあ兄ちゃんはどうして、私を離そうとしないの。そう心で問いかけながら、私はうつむく。
それを咎めるように再び肩に頭を押し付けられて、私は一瞬息が詰まる。
「離れるなんて無理だろ。俺がいなきゃ何もできねぇくせに、生意気言うな」
苛立たしげに、畳み掛けるように彼は言い続ける。
「お前、気色悪ぃくらいガリガリじゃねぇか」
そう思ってるならもっと優しく包み込んでくれればいいのに。まるでわがままな子猫を押さえつけるように、兄は私の背をきつく抱いたままだった。
「メシ食わせてやるから、また店に来い」
「うん」
頭をくしゃくしゃに撫でながら、兄は私の顔を見もせずに言葉を紡ぐ。
「顔色も最悪だぞ。しばらく大学休め。どうせ足も動かねぇだろ」
「うん」
私は素直に頷く。心とは、全く逆の意思を表す。
もうバイト先の店にさえ二度と足を踏み入れない。大学も毎日行く。足はもう一本ついてるし、その程度で私は休んだりなんてしない。
胸の鈍い痛みを感じて、私は顔をしかめる。
自分が兄を裏切るなんて、ずっと考えたこともなかった。
でも、ごめん。悪い妹で、恩知らずでごめん。
それでも、兄だって私に隠していることなど山ほどあるのだから、許してほしい。
嫌いだと言いながら、私を手放せないことも。隠してはいるけど……「彼女」を、今でも好きでいることも、私はちゃんと知っているのだから。
この日私は、微笑みながら兄に嘘をついて、頷きながら兄に背を向けることを覚えたのだった。
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