11 英雄の歌

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11 英雄の歌

 私の内心とは正反対に、扉はあっけなく開いた。  綺麗に掃除された床、枕元に並べられたお見舞いの品の数々、華やかに彩られた花瓶の中の花束。両親の心遣いが溢れていて、変わらず彼女の傍らを飾っていた物たちが私の視界いっぱいに映る。  だけど、決定的に変わったものがあった。  他ならないこの病室の主、ベッドの上の美幸ちゃんは、もはや以前の彼女ではなかった。 「何しに来たの?」  問いかけた声は、聞き取るのが難しいほど掠れた、弱弱しいものだった。  ふわふわだったブラウンの髪は色あせて絡み合い、極上の紅茶を思わせた目は灰色に近いほどに濁っている。 「来ないでって言ったでしょう」  投げ出された腕はますます細くなった気がした。頬は真っ白で唇は乾き、言葉を発しているのが不思議なくらいに弱っていた。  美幸ちゃんは、もう……。  私は認めたくなかった現実を胸に突き刺さるように感じてしまった。 「あの、お土産」  そう呟くと、美幸ちゃんはそっけなく反応する。 「置いといて。後でパパに開けてもらう」  私は頷いた。今まではずっとその場で私に開けるよう言っていたのに、私を拒絶するようになった彼女には、お土産も迷惑なようだった。  そっと脇の棚に紙袋を置く。背中に美幸ちゃんの視線を感じながら、私はその棚の中に小さな丸い箱があるのを発見して足を止めた。  子供が色紙で工作した紙の箱だった。私はそれに古い記憶が蘇りながら、苦い気持ちでじっとみつめる。 「それ、開けて」  美幸ちゃんの頼みに、私は素直に頷いた。だいぶ古くなっている紙の箱を破らないように両手で包み込んで、埃を軽く払ってから開く。 「だいぶ錆びちゃった」  ……私と美幸ちゃんの目に映ったのは、錆びた鉄色のリングだ。  飾り気のない銀色が私の目に映る。子供が縁日で買うような玩具としてじゃなくて、何か別の意味を感じられるような、小さな指輪だ。 「兄ちゃんがくれたんだよね」  感情のない声で私が言うと、美幸ちゃんはそっけなく返す。 「うん」  知らないわけじゃなかった。確か私が五歳くらいの頃に、兄が箱に入れていたのを発見したことがある。  高価じゃないただのリングなのに、不思議と綺麗に見えた。兄はキーホルダーを山ほど持っていたから、私はその内の一つだと思ったのだ。 ――おにいちゃん。さよも、さよも。  欲しがってぐいぐい腕を引いた私に、彼はふっと苦笑したのを覚えている。 ――これか? これは駄目だ。 ――どうして?  ぶーたれた私を見て、兄は静かに箱のふたを閉じて呟いた。 ――大事な約束が詰まってるから、これはやれない。 「まーくんがね、約束してくれたの。これをくれる時にね」  目を逸らす私に、美幸ちゃんは懐かしむように微笑んだ。 「どんな時でも私の側にいるって」  私は力なく首を垂れて沈黙する。  驚くわけでもなく、嫉妬するわけでもなく、ただ立ち竦んだ。どう反応してもふさわしくない気がしたし、どんな感情も今私が示すにはちゃちなものに思えた。  兄は美幸ちゃんがずっと好きだった。それは誰かに教えられたわけでもなく、幼い頃から知っていた  兄は美幸ちゃんのお見舞いを欠かしたことはなく、私が美幸ちゃんと遊んでいる時もいつも側にいた。それはあまりに当たり前の光景で、私は二人の間にある感情が何なのか考えることをしなかった。 「まーくんは優しいの。夜中に電話しても、絶対に出てくれるから」  兄は自分ができることを、いつだって彼女の望む一番の形で与えていたんだろう。 「うん。知ってる」  私にも、電話には絶対出てくれる。けど、美幸ちゃんとは抱く感情が違う。  長い間ずっと、「兄のもの」だった私とは、重みが違うのだ。 「大人だね。兄ちゃんと、美幸ちゃんは」  ずっとその自然な絆で結ばれていた二人の間に、私はいた。二人の作ってくれた揺りかごに、守られてきた。  それでいいと思っていた。 「美幸ちゃん。聞いて」  ……でも、そのままは嫌だ。  わがままだけど、身の程知らずかもしれないけど、それでも私は抵抗する。美幸ちゃんが私につないでくれた絆が切れたままで、兄が独占欲を持って私を縛ったくびきから解放されないままに、全部終わらせるわけにはいかない。 「私にも、美幸ちゃんのために何かさせて」  二人にとって、ただ可愛がるだけの猫でいるのは嫌なのだ。 「迷惑なら離れていようって思った。でもそんなのやだ。嫌われても、うっとうしがられてもいいから、美幸ちゃんに何かしたい」  こんなに断固とした思いを美幸ちゃんに示したことがあっただろうか。私は射抜くように彼女の目を見返していた。  眩しくて、憧れで、絶対に届かない対象。だから私はいつも彼女を、目を細めて仰ぎ見ていた気がする。それでは彼女の助けになることは、いつまで経ってもできないのに。 「私に?」 「うん」  エゴであっても構わない。今したいと思うことを永遠にできなくなるよりは、がむしゃらに行動した方がましだった。 「何でも?」  微動だにせず、美幸ちゃんが問いかける。それは私を責める口調でも、笑う口調でもなかった。 「うん」  頷いた私に、美幸ちゃんは一瞬だけ目に暗い影をよぎらせた。そこに浮かんだ感情を私が理解する前に、彼女はそれを引っ込めてしまう。 「……じゃあ、さっちゃん。私の一番好きなものをちょうだい」  淡々とした声で美幸ちゃんは切り出す。  ぱっと頭に閃いたものは、たぶん間違ってはいなかった。 「音楽」  動揺する私の目を見据えたまま、彼女は冷静に続ける。 「さっちゃんが最高だと思う音楽を、最高の形で私に示して」 「最高の……」 「そう」  息を呑む私に、美幸ちゃんは頷く。 「私には絶対に敵わないと思う、音楽を聞かせて」  ……目の前が歪んで、真っ暗になる思いがした。  私にとって最高だと思う音楽は美幸ちゃんの幻想即興曲だということを、彼女は当然に知っていて言っている。  そして私の手で、ピアノで、美幸ちゃんを超えてみせろと。  ……そんなの無理だと私の中のコンプレックスが悲鳴を上げた。 「私がさっちゃんに望むのはそれだけよ」  だけど美幸ちゃんは、他の提案をすることはなかった。 「できるまで来ないで」  私はふらふらと病室を出て、白い廊下に出る。座り込みたい気持ちを抑えて、その場で立ち竦む。  できない。私にはそんなこと不可能だと、大声で叫びたかった。 「負けるな」  それでも、ここで逃げたら残るものは何もないのだと思い直す。  窓の外には枯れ葉が風に舞っていた。頼りなげに木にくっついた薄茶色の葉は今にも遠くへ飛ばされていきそうで、タイムリミットはもう間近だ。  急がなくてはと、私は足早に病院を出た。夕暮れ時の風は肌をちくちくと突き刺して、私の内部にまで冷気を送ってくる。  それが、私にとって今までで一番長い、冬の始まりだった。  夕暮れ時のサークル部屋で、千夏ちゃんがピアノに顎をついて言ってきた。 「沙世ちゃんって即興の技術すごいと思うよ。あたし、そんな風に弾く人みたことない」  じっと私の手元を眺める千夏ちゃんの顔が夕陽色に染まる。薄く淡いそれを見ていると輪郭まで消えていきそうで、私は知らず彼女の目をじっと不安げに捉えていた。 「どうしたの?」 「いや……」  私が顔をかげらせていることに気づかれてしまって、気まずい思いで私は目を逸らす。 ――さっちゃんのピアノには、さっちゃんのいいところがあるのよ。  いつまで経っても美幸ちゃんが超えられないことに焦りを感じていた私に、美幸ちゃん自身がそう言ってくれたこともあった。  もっと早く、私がその言葉の意味をよく考えていたなら。美幸ちゃんに勝つ云々より、自分にとって最高の形が何なのかを追求していたなら、今頃は美幸ちゃんに胸を張って示せるものを手にしていたかもしれない。 「時間が無くて」  ……だけどあと二月、もしかしたら明日にでも来てしまうかもしれない「終わり」までに見せられるものを、私は何一つ持っていない。  技術を磨くのは時間が掛かる。新しいものを発見することも、今あるものを高めるのも、そんな短期間じゃ間に合わない。私が呑気に遊んでいる間に刻一刻と時は過ぎ去っていったことを、自分で気づこうともしなかった。 「従姉の女の子に聞かせる曲?」 「うん。色々、試してはいるんだけど」  美幸ちゃんは競争なんてことは嫌いだけど、今回だけは別だ。 「彼女より上手く弾ける曲、なかなか見つからないんだ」  彼女は、自分より上手く弾くようにとあえて条件をつけた。だからどうしても、美幸ちゃんを基準にして曲を決めなくてはいけない。 「美幸ちゃんが一番好きな曲を最高に弾ければ、一番いいんだけど」  幻想即興曲のメロディが頭に蘇る。即興と名づけられながらも、現実にあんなものが何の準備もなく作れるとは思えない傑作だ。  でも、それを余すところなく完璧に奏でられるのは、美幸ちゃんにしかできないと思うのだ。他の誰にも、もちろん私にも。  壁に掛かる時計が午後六時を指しているのに気づいた。  黙って私の側に立ち続ける千夏ちゃんに、私は苦笑を向けて言う。 「ごめんね。ろくに相手もしないでピアノばっかり弾いてて」 「いいよぉ」  私の首に抱きついて、千夏ちゃんは私の頭を撫でつつ笑う。 「いい曲、見つけようね。ピアノのことはあんまりわからないけど、あたしでよければ何でも手伝うよ」 「ありがとう」  ともすれば八方塞がりで身動きが取れなくなってしまいそうな私を、千夏ちゃんや浅間君が支えてくれるのが幸いだった。二人とも、バイトが忙しい中でギリギリの時間までサークル部屋にいて、楽譜選びなどを一緒に考えてくれる。 「ピアノだったら、イリヤに訊くのが一番いいんだろうけどね」  そう言って、千夏ちゃんはバイトのために大急ぎで去っていった。  私はサークル棟の出口まで千夏ちゃんを見送って、落ちていく夕陽を眺めながら元の部屋へと引き返す。  前へ踏み出す足を止めないで、私は何気なくポケットに手を伸ばそうとする。  だけどそこに突っ込んである携帯にジーンズの上から軽く触れる度、ぎこちなく手を戻さないといけなくなる。  一週間ほど前、私の携帯にレンさんからメールが来た。 ――最近、マコと携帯が繋がらないでしょう。おそらくは事務所に捕まって連絡手段ごと奪われたはずです。  先週、唐突にニュイ・エタルナは解散した。メンバーのレンさんとルカさんが結婚したのだ。  そのこと自体はめでたいことなのだけど、所属事務所は大反対して大変だったらしい。 ――忠告させてください。今、下手にマコと接触してはいけません。  液晶画面を見て顔をしかめた私の内心を察しているように、レンさんのメールは続く。 ――事務所の方で、イリヤのソロデビューが計画されています。元々私たちはマコがスムーズにデビューできるようにとエタルを結成したので、デビューには手放しで賛成なのですが。  私に合わせて丁寧に、易しく解説しながらも、レンさんにはただならぬ緊張感が漂っていた。 ――ただ、今は大事な時期です。滞りなくイリヤのデビューを実現させたい今、イリヤと個人的に接触する人間、特に女の子は邪魔以外の何者でもありません。  はっきりと指摘されて、私は口元を歪めながら俯いた。 ――申し訳ありませんが、叩くと決めたら徹底的に行うのが私たちの業界というものです。私がなぜあなたのメールアドレスを知っているのか、不思議に思いませんでしたか? 私やルカがマコの友達を傷つけるつもりはありませんが、悪意を持って解決しようとする人間は山ほどいます。  いつかはこうなると思っていた。だからレンさんが気遣ってくれるほどショックじゃないけど、それでも気持ちが落ち込むのは止められない。 ――ですからほとぼりが冷めるまで、せめて私やルカが新婚旅行から帰国するまでは、マコと接触しないよう。くれぐれもお気をつけて。 「そろそろ施錠しますよ」 「あ、はい」  守衛さんが扉を叩いて、私はピアノを弾く手をぴたりと止める。時計を仰ぎみると、いつもと同じ九時五分前だった。 「毎日熱心だね」  感心したように言ってもらえるのはありがたいけど、この時間になるともう大学でピアノを弾けなくなるのが残念だ。  楽譜のぎっしり詰まった紙袋を提げて、木枯らしの吹く空の下に出る。  心はどんどん急いていく。いつ来るのかわからないタイムリミットに気が遠くなるようで、同時に焦りで激しく心が揺さぶられる。  私がまだ中学生の頃のコンクールでは、確か半年間練習した。毎日学校から帰ってからずっと、平日でも一日七時間くらいは練習してたけど、全然足らないと思った。  今日も目指す曲が見つからなかったという空しい気持ちと、明日こそはと祈るような気持ちがため息となって、冷たい外気に溶けていった。  電車に揺られてから、ようやく治った足で寮まで帰る。もう引きずる必要はないのだけど、どことなく重い足取りだった。 「あ、織ちゃん。おかえり」  玄関を開けると、ちょうど浅間君がいた。洗面器を抱えて首にタオルを引っ掛けて、いかにも風呂上りのさっぱりした様子だ。 「メシ食った?」 「いや、これから」  靴を脱ぎながら私が返すと、浅間君はにっと笑って言ってくる。 「一緒に食おうよ。俺もこれからだし」 「あ、うん」  浅間君は以前はバイト先で食べてくることが多かったのに、このところずっと夕食は寮で取っている。気を遣ってくれているのがわかって最初は気まずかったけど、最近はありがたく受け入れている。 「ありがとね」 「いえいえー」  私が頬を緩めると、浅間君はさっと踵を返す。私も準備をしに向かうため、靴箱から素早くスリッパを取り出そうとした。 「……っつ」  私が漏らした小さな声に、浅間君が振り返る。 「どうしたの?」 「あ、いや。何でもない」  ひらひらと左手を振って、私はぎこちなく言葉をつなぐ。 「先行ってて。荷物置いてくる」 「わかった」  怪訝な顔をしながらも、浅間君は自室へお風呂道具を置いてくるために歩き去っていった。私は彼が角を曲がり、足音が大方消えるまで、その場でじっと立ち竦んだまま待つ。 「……痛ぁ」  恐る恐る体の後ろから右手を取り出して眺める。ちょうど人差し指の第一関節の辺りに、スパッと刃物で切ったような傷が出来ていて、見る見るうちに血が滲んでくる。 「これか」  靴箱を覗き込んで、私はスリッパの間にカッターの刃が挟まっているのを発見する。小さな破片だけど、万が一そのまま足を突っ込んでいたら爪に引っかかって結構大きな傷になっていただろう。 「靴箱にも物は置けないか」  洗面所から歯ブラシが消える、お風呂に入っている間にバスタオルがなくなる、私への郵便物が破って捨ててある、などなど。  イジメというのは、止めないとエスカレートする。それを私は現在、存分に経験している最中だ。  ……原因はもうわかってる。入谷君と私の仲が良かったことだ。  誰の主導かは知らないけど、アイドルには熱狂的なファンがつくものだし、それはこの寮の中でも例外ではなかった。  もしかしたらレンさんの言う通り、入谷君の事務所とも何らかの関係があるのかもしれない。 「さて、夕飯」  だけど私は、それほど悲観してはいなかった。  今私が考えなくてはいけないのは、音楽のことと、美幸ちゃんのことだった。それ以外のことは脳が容量オーバーになっているように、悲しいという気持ちも辛いという思いも、受け入れる余裕がなかった。  私は一旦自室へ戻って、荷物を置いてくる。途中ですれ違う女の子たちも私へ挨拶するわけでもなく、目を逸らして足早に通り過ぎるか、集団で何か囁きあっているだけだ。  それに何の感慨も抱けない私は、幸せなのか不幸なのか。  一瞬そんな馬鹿なことを考えた自分に呆れて、私は食堂へと入っていった。 「や、織ちゃん。今日もお疲れー」  すぐに目に飛び込んできた浅間君の朗らかな笑顔に、ほっと和む。食堂には他に女の子が二三人と、男の子の四五人のグループがいたけど、私は他を気にすることもなく、すぐさま浅間君の席まで歩いていく。 「先に食べててくれてよかったのに」 「やだね。一人は寂しいっしょー」  他にも人はいるし、浅間君の性格なら誰とでも会話しながら食事できるところだろうに、わざわざトレイを空にしたまま待っていてくれるのが嬉しい。 「ところで手、どうしたの?」 「ああ、これ」  動揺を押し隠して、私はバンドエイドで巻いた右手の指先を見る。 「ちょっと紙で切っちゃって。最近譜面ばっかり触ってるから」 「駄目じゃん。気をつけなよ」 「そうだね」  浅間君に笑いかけてから、溢れる程の野菜が盛ってあるサラダの皿をトレイに取って、ひとまず席に置いておく。その間に味噌汁とご飯を盛って、おかずを温める間に、ティーサーバーのお茶で立ったまま一服する。 「調子どう?」 「まだまだ」  熱いお茶が気持ちよくなってきたなと思いながら緑茶を喉に流し込む。隣で浅間君もお茶をすすりながら、私と立ち話を始めた。 「美幸ちゃんか。懐かしいな」 「遊んだことあったっけ?」 「うん。すっげー小さい頃。なかなかいなかったしさ、あんな美少女」  褒められたことは嬉しかったけど、すぐに私は表情をかげらせて頷く。 「今も美人だよ。俗っぽい汚れとか、全然無いんだ」  食堂の奥に置かれたテレビが、騒々しいバラエティー番組を流している。テレビの前の寮生たちは時折笑い出したり、何か指差しておしゃべりをしていた。 「いつも包んでくれた。私がどんなわがままなこと言っても、私のことを見守ってくれて。人形遊びも、ままごとも、ピアノも、側で一緒に楽しんだ」  私は言葉を止められない。浅間君が黙ってしまったのに、自分でそれに気を遣うこともできなかった。 「もし、もしも病気を代わってあげられたなら、私は……」  私の血液でも、臓器でも、いっそ寿命でもいい。二十年近く美幸ちゃんが与えてくれたものを思えば、代えるのに大した価値はないから。 「織ちゃん」  蛍光灯を仰いでいた私に、浅間君が心配そうに声をかける。 「何てね」  我に返って、私は苦い笑みを口元に浮かべながら彼を見上げる。 「夢みたいなこと考えてても仕方ないよね。さ、ご飯にしよ」  自分に呆れて、私たちの席を軽く示す。浅間君も素直に頷いて、おかずと味噌汁とご飯を器用に両手で持って席へと戻っていった。 「さーて」 「いただきます」  浅間君と向かい合って座り、手を合わせる。  ちょうど、テレビが眩しく光って歓声が漏れ出た瞬間だった。スローモーションで、テレビの前に集まっていた女の子たちが一斉にこちらを振り向く。  私と浅間君が、同時に手を止めて硬直する。  視線の先は、私のサラダの皿の上だった。  ……黒いゴキブリがひっくり返った状態で、そこに転がっていた。 「きゃー」 「何これ、やばーい」  三人の女の子たちが、私の皿を見て甲高い声で騒ぐ。  私は呆然としていた。食べようとしたらゴキブリ盛りのサラダだった、なんて食欲を失うどころじゃない。  浅間君が沈黙する。嫌悪感じゃなくて、何か爆発しそうな激しい感情を必死でこらえているような、そんな無表情だった。  私は座ったまま箸をひっくり返してその黒い物体をつついてみる。ぴくりとも動かないし、そもそも腹を見せているところからも、死んでいることは確かなようだった。  変だった。先ほどサラダを冷蔵庫から取る時には無かったのだから。  じゃあ天井か、と私はありえないと思いながらもぼんやりと顎を上げる。 「いやー、ねぇ、みてみて」 「ゴキが乗ってるのー」 「え、マジで?」  女の子たちがテレビの脇にいた男子グループのところへ寄っていって報告する。顔をしかめてこちらを指差す彼女らとは対照的に、男の子たちは余裕を見せようとしているのか薄く笑っていた。 「織部さん、災難だね」 「でも反応薄っ。かわいくねー」  やっぱりこんな部屋の中央で天井から落ちてくるなんて無いな、と私が結論づけた時だった。  乱暴に席を立って、浅間君が無表情のままつかつかと歩いていく。それに一瞬男の子たちが怪訝な顔をして、女の子たちがなぜか首を竦めた。 「おい。これ何だよ」  淡々とした声で、浅間君は一人の女の子のポケットから新聞紙の包みを引っ張る。とっさに握ろうとする彼女からあっさりとそれを奪うと、私にも見えるように新聞紙を開いた。 「黒い虫の足とか付いてるんだけど。何これ」 「え……あの」  無理やり自分を落ち着かせてるような浅間君の押し殺した声に、女の子が怯む。他の子たちも黙りこくって、男の子も無反応だった。  浅間君の目尻が上がる。喉の奥から、低い声で唸る。 「何してんだよ!」  悲鳴のような声を漏らして、女の子たちが体を縮こまらせる。私自身は浅間君が声を荒げたことを見たことがあるからともかく、男の子たちも目を見張って驚いていた。いつも陽気で軽い男が、一体どうしたんだというように。  大股で私の前まで戻ってきて、浅間君はゴキブリを素手で掴んで彼女らの前に戻る。 「ほら」  息を呑む女の子たちの前にゴキブリの死骸を突きつけて、浅間君は冷たく言う。 「食ってみろよ。人にやるくらいなんだから、できるんだろ?」 「ひっ……」  身を引く彼女らに、浅間君は鋭い目のまま詰め寄る。 「食え」  あまりの剣幕に誰もが動けない中、女の子の一人がうずくまって泣き出す。それにつられたように、残りの二人も顔を覆った。 「……ご、ごめんなさ……っ」 「謝って済むかよ。阿呆じゃねぇの」 「あ、浅間」  見かねた様子で、男の子たちが恐る恐る寄ってきて仁王立ちしている浅間君を取り囲む。 「ほら、女の喧嘩に男が立ち入ると面倒だからさ。な、落ち着けよ」 「あーあ、泣かせちまった。かわいそー」  泣きじゃくる女の子たちを宥めながら、彼らは無理にでも悪戯で収めようとする。 「喧嘩じゃない。いじめだろ」  浅間君の目が据わっている。それに顔を引きつらせて、男の子たちももう、何も言うことが思いつかない様子だった。  元々、浅間君は正義感の強い人だ。お調子者だし女の子にもいい顔ばかりするけど、怒らせたら一歩も引かない。本当に、ゴキブリを食わせるまで納得しないかもしれない。  そんなことを冷静に分析している自分にふと気づいて、私は自分自身がわからなくなる。以前はちょっとした嫌味で傷ついて、兄のところへ泣きついていたのにどうして、こんなあからさまなイジメに何の感情も湧いてこないのかと。  バンドエイドで巻いた自分の指先を見て、何となくわかった。  足を骨折して、右手をガラスで怪我して、私はいくつかの傷を受けた。友達と衝突もして、嫌な先輩に涙を呑んで、心が傷つくことにも慣れた。 「いいよ、浅間君」  成長したんだろうかと結論づけようとして、違う、と否定する。 「駄目だよ織ちゃん。こういうのは放っておくと、どんどんのさばる」 「いいんだ」  私は指先の薄い傷をみつめながら、ぼんやりと言葉を漏らす。  だって、こんなの傷じゃない。 「……こんなのじゃ死なない」 「え?」 「カッターの破片程度で、死んだ虫くらいで、死ぬわけない」  深刻ぶる必要なんて、どこにもない。そんな些細なことで、どうして頭を熱くしなければいけない。 「毎週何度も、体の血を全部入れ替えなきゃいけないのは、きっと本当に辛いんだろうね」  彼女はそれを、何年も続けてきた。私が運動会で一喜一憂し、友達と喧嘩して落ち込み、親に叱られて泣くのを苦しみだと思っていた間ずっとそうだった。 「十何年も自分で歩くことができないで、ろくに外出もできない生活とか」  病院の窓から覗く、玩具のように小さな世界。それに触れることすらできずに過ごしていた。私はその横で、学校に毎日通って友達と遊んで、両親のいる家で眠りについていたのに。 「床ずれで血がいつまでも乾かない背中とか、何度練習しても箸すら掴めない手とか。私は想像力が無くて、全然自分に引き寄せて考えたことがなかった」  今、私は唐突に考えてしまった。  傷つくことが何だ、悲しいなんてどの程度のものだ。私がそれを口にすることが、どれだけ不毛だったか。 「織ちゃん、それは」  浅間君が私の言いたいことを察したようで、私の前に戻ってくる。テーブルに手をついて、覗き込むように私の顔をみつめた。 「それとこれとは別だよ。織ちゃんも、傷つく時は傷つく。悲しむことだって」 「駄目だよ」  胸が熱くて、張り裂けそうで、私は思いのままに言葉を吐き出した。 「……美幸ちゃんはもうすぐ、泣くこともできなくなるんだから」  こんな場所で何をしているんだと、唐突に自分が恥ずかしくなった。  私は立ち上がってすぐにトレイの中身をすべて生ゴミにぶちまける。 「行く。もっと練習できる所に」  胸にこみ上げてくる圧迫感は、頭を縛り付ける痛みは、私をただ焦らせる。 「落ち着いて、織ちゃん」 「ここじゃ駄目だ」  何か異様な意思に背中を押された気がして、でもそれが正しいと素直に思うことができて、私は浅間君の横を足早に通り過ぎる。 「邪魔」  入り口の近くで群れていた寮生の前まで来ると、私は無表情でそう吐き捨てた。一瞬びくりとして、何か言いたげに彼らは口を開く。  私は廊下を早足で通り過ぎながら、玄関から走り出しながら、頭の冷静な部分で考えた。  世間で言うなら、今の私は「キレた」状態なんだろう。  けど、そんな激しいものじゃないと思う。  静かに頭の中の歯車が狂って、加速していく。そういう気分だった。  ジュリオがマンションの自室を貸してくれるというので、私はそこにしばらくお世話になることにした。  奥さんである叔母さんは別居中だし、ジュリオ自身もほとんど美幸ちゃんに付きっきりだ。防音室付きのグランドピアノが使い放題だから、夜になっても練習ができて最高の環境だった。 「『たまには寮にも帰っておいで』……か」  夜十一時過ぎに送られてきた浅間君のメールに、私は申し訳ない気持ちになりながらも、そんな暇はないと返信する。 ――楽譜もピアノも好きに使っていいけど、突然どうしたの?  事情は、ジュリオには話さなかった。美幸ちゃんからの指示だと言えば手伝ってくれたかもしれないけど、それではいけない気がした。  美幸ちゃんは、私が自分の力で何かを見せるのを望んでると思った。  自分に合う曲かどうかは弾いてみないとわからない。だから片っ端から楽譜を並べて、どれがいいのかをひたすら試した。  ポップのような耳に馴染んだものから、クラシックのピアノのために作られた曲まで、本屋やジュリオの本棚から失敬したものを弾いてみたけれど、私にはまだ曲すら決めることができないでいた。  美幸ちゃんと話してからもう二週間も経っている。大学も必修以外はさぼり、眠るのも最小限のつもりで取り組んでいる。  でも選曲の勘が鈍った上、中学の時に持っていた演奏技術にすら追いついていない。指が絡まって動きが鈍く、音が濁る。  一瞬指先に火がついたような痛みが走って、私は思わず鍵盤から手を離す。そっと両手を返すと、指先が擦れて火傷のように赤くなっていた。  こんな風になるのは初めてだ。毎日ピアノを弾く習慣から何年も離れたために、指先の皮が薄くなっていたらしい。  ちりちりと焼けるようで、指先で触れるだけで熱さが走る。 「……馬鹿」  けどその程度で弾くのをやめるほど弱くはない。  再び弾き始めれば、集中して痛みも薄れる。そのことだけは、かつてピアノを習っていた頃と同じだった。  視界いっぱいに鍵盤が踊る。ジュリオや美幸ちゃんに様々な技術を教えてもらった頃から、今も変わらない光景がここにある。  彼女に満足してもらうには、どんな曲がいいのか。華やかで美しいメロディか、しっとりした優しい音か。  どんな想いを伝えればいいのか。惜しむ心か、嘆く気持ちか、伝えきれない感謝か。  考えは尽きない。どれだけ弾いても、答えは迷宮の中から抜き出すことができない。  何を弾いても最高の曲には思えなかったし、いくら練習しても私が最高の形にまでは高められないと暗い気持ちに沈んでいく。  眠るのを惜しんで作曲と演奏を繰り返していると、自分が起きているのかどうかさえわからなくなってくる。 ――でも、練習しないと。  両親が夜遅いことをいいことに、中学のコンクールの時も睡眠を削って練習していた。もちろんジュリオに知れたら怒られるから、最大限音を小さくして、誰かが帰ってきたらすぐにやめられるように用意をしていた。  だけどどうしても眠気に勝てないこともあった。  目の前の鍵盤が遠のいて、駄目だと思いながら後ろに倒れこみそうになる。ぐらりと体の均衡が傾いて、それを私は自分で止められない。 ――う、わっ。  体を緊張させる私に衝撃は来なくて、代わりに強く受け止める腕があった。 ――何してんだ、お前。  ぺちっと額を叩かれて、私は逆さ向きに彼を仰ぎ見る。 ――ほどほどにしろって言ったろ。  睡魔に意識が揺さぶられて、彼の顔の輪郭がぼやける。それでも浅黒くて力強い、私のよく知った顔であることはわかっていた。 ――何でここに? ――実家にいて何が悪い。 ――いや、悪くはないけど。帰るの面倒って言ってたじゃん。  口では生意気なことを言うけど、私は目を閉じて両手でその温もりにしがみつく。まだ外気の匂いがして、今帰ったばかりのそれに胸が潰れるような思いを抱いた。  ピアノの椅子から下ろされて、居間のコタツの所まで連れてこられる。小学生くらいの体重しかなかった当時の私なら、大学生の彼にとって大した荷物じゃない。 ――コンクール、一週間後だってな。  コタツに肩まで入って、私は彼の膝に頬を寄せる。彼は私の頭に手を置いて、寝ろと言わんばかりに規則正しく叩く。 ――根詰めるなよ。お前、まだ中学生だろ。上手くいかねぇのが当然だよ。  いつになく優しい言葉とトーンで、彼は私を宥める。そう言うためだけに彼が帰ってきたのを私は知っていたから、私は他の誰に言われたよりも素直に頷く。 ――何回でもチャンスはあるさ。無理しなくても……。  ぬるま湯に浸かるような安息感と、諦めに近い落ち着きが私の中に浮き上がる。  ずっとこれに浸っていたい。大丈夫、心配ないと、頭を優しく撫でてほしい。  私が眠りの淵で思った時だった。 ――沙世、頑張れ。  声は唐突に緊張感を帯びたものに変わった。 ――時間がない。急いでくれ。  波一つなかった渚に突如として嵐が舞い降りたように、声は激しさを増していく。 ――今完成させなけりゃ、何も意味がないんだ。  心が走る。切羽詰った声色と、次第に荒々しくなる口調で、私の心が加速していく。  ぐっと私の手を強く握って、彼は悲しみに満ちた言葉を紡ぐ。 ――二度はない。これで、終わりなんだ。  そうだね、兄ちゃん。わかってるよ、大丈夫。  死ぬ気で頑張るから。絶対に、美幸ちゃんに認めてもらえるような音楽を作って、何もできない子供から卒業するから。  待っていて、美幸ちゃん。必ず、私はあなたの望むものをあげるから。もう少しだから。  ねぇ、美幸ちゃん。そして兄ちゃん。  どっちも、大好きなんだよ。昔からずっと、私のお姉さんとお兄さんだった。他の何にも替えられなかった。  だから、だから……お願いだよ。  ここにいて、美幸ちゃん。  ……そして兄ちゃんを、一緒に連れていかないで。  そう願った瞬間、側にあった温もりは跡形もなく消えうせる。頭を撫でる手は気配すらなくなってしまう。  これは夢なんだろうかと私は考える。  それともこれから起こる、現実の出来事なのかと。 「う……」  意識が浮上して、私は目をゆっくりと開く。気がつけば、私はジュリオのマンションのフローリングに、仰向けに転がっていた。  頭上には、眩しいばかりの蛍光灯があった。壁掛け時計は、午前一時を指している。  散らばった譜面と鉛筆の中に寝ていたから、体のあちこちに硬い感触がある。私は体を起こそうとして、ふと自分の顔に手をやった。  両頬に、冷たい二つの水の筋がついていた。私は無言でフローリングに座り込む。 「いやだ……」  ぽたっと膝の上に置いた手に水滴が零れ落ちた。私は濡れた手を見下ろして、透明な雫が小指から床に染み込んでいくのをただ見送る。  どうしよう。どうすればいい?  試せる曲はすべて試した。弾ける曲は全部弾いた。  ……でもそれを美幸ちゃんとの別れに当てる、肝心の勇気が、今の私にない。  いっそ逃げたままでいたい。完成しないからと、美幸ちゃんが弱って、やがて私のこともわからなくなるまで隠れていたい。  魔物のように視界に広がる果てしない鍵盤と、美幸ちゃんと兄に対する抱えきれない執着がぐるぐる頭の中を巡って、私は自分が悲しんでいるのか、怖がっているのか、それすら感情の区別がつかなくなってくる。  時間は三週間以上もあった。けど曲すら決まらないのは、私が決めようとしていないからに違いなかった。  あふれてくる涙をどうすることもできなくて、私は床にうずくまったまま譜面をみつめ続ける。じわじわと視界を侵食する水滴は、すべてを灰色に塗りつぶしていった。  ふいに鍵を外す音がして、私は目を素早く擦る。どうせバレてしまうのはわかっていても、楽譜を急いでかき集める。 「……さっちゃん、泣いてたの?」  リビングに現れたジュリオは、顔を歪めて悲しそうに言った。私は彼から目を逸らして、鉛筆や楽譜を集める手を動かし続ける。  滲む視界では上手くまとまらなかった。だけど止まってしまうと涙が溢れてしまいそうで、私は何かに急かされているように楽譜へ手を伸ばす。 「もういい」  ジュリオが隣に座って、私の頭を抱きこむ。コートに顔を押し付けられて、私はそこに染みが出来てしまうことに気づくなり顔を離そうとする。 「ミユから話は聞いた。さっちゃんは、ミユのために頑張ってくれようとしてたんだね」  私は首を横に振る。ジュリオは私をしっかり抱きしめたまま、私の手首を取って言う。 「でももうやめなさい。さっちゃんの手が駄目になる」  数日前から手首が軋むように痛い。中学のコンクールの時より酷い炎症が起こってるのはわかっていた。 「……そんなこと!」  だけど、それがどうしたというんだ。 「手で足でも、好きな所を持っていけばいい! 私は貰うばっかりで、美幸ちゃんに何もあげられなかったんだから!」  声を荒げた私に、ジュリオは体を離して静かに言う。 「じゃあ、さっちゃんの未来はどうなるの」  怒っている口調じゃなかった。それは私に怪訝な顔をさせたけど、ジュリオは淡々と続ける。 「さっちゃんは無事に大きくなった。病気を乗り越えて、学校に通って、いろんなものを手に入れて、これからも得られる。それを捨ててどうするの?」 「でも!」 「聞きなさい」  私の混乱を収めて、ジュリオは父のように落ち着いた態度で諭す。 「さっちゃんが美幸を大好きでいてくれた間、あの子だってさっちゃんをずっと思ってた」  私の肩をぐっと掴んで、彼は眉を寄せる。 「冷たいことを言っていても、美幸はさっちゃんが傷ついてまで何かを贈ることなんて望まないよ。これは、本当だ」 「……でも」  私は口を引き結んで、俯きながら呟く。 「音楽が聞きたいって言ったのは、確かに美幸ちゃんが望んだことなんだ」  ジュリオは私をまた抱きしめて、手で私の頭を包み込む。  しばらくそのままで、私もジュリオも動かなかった。 「さっちゃん」  静まり返った深夜の部屋で、ジュリオは震えた声で切り出す。 「すぐ、美幸の所に来てくれないかな」  耳鳴りがして、私は体を強張らせる。  ジュリオの声色が、私の頭に触れる手が、彼の悲しみの深さを語っている気がした。 「美幸、意識がだいぶ混濁してきてるんだ」  強く私の肩を抱いて、彼は呻くように呟く。 「……明日か明後日には、もう……」  私は動けなかった。  ただゆっくりと体を離して立ち上がるジュリオを、ぼんやりと視界の隅に捉えただけだった。 「ボクは病院に戻るよ。さっちゃんは、できたらおいで」  来たくないなら、無理にとは言わないから。  ジュリオは、それだけ言うのがやっとのようだった。  ふらりと去っていく小さな背中を仰いで、呆然とした思いを噛み締める。  新年までって、言ったじゃないか。  今はまだ十一月。あと一月は、猶予があったはずじゃないのか。  ……どうして彼女には、そんな僅かな時間すら与えられないんだ。  私は立ち上がる。譜面を踏み越えて、迷わず外へ飛び出す。  電車もバスもない深夜。その中で、私は狂ったようにひたすら走る。  目的地は、兄のアパートだった。  夜は明けたのに、曇り空で光が薄い。今にも雨が降りそうだと考えながら、私は鉄階段の半ばで体をぎゅっと抱きしめてうずくまっていた。  ジュリオの家から兄のアパートまでは、走って一時間くらいで着く。だからもう私は五時間近くここに座り込んでいることになるけど、未だに兄は帰ってこなかった。  携帯が切られているのは、病院にいるという証拠なんだろうか。  けど、私は一人で美幸ちゃんの側へ向かう勇気がなかった。ここで体を縮こまらせて、ただ兄を待つことしかできない。  そのまま、一時間、二時間と時が流れていく。病院まで走ってでもいける距離なのに、私はただ分厚い雲に覆われた空の下で、兄を待ち望む。  時間がないのに、こんなことしている場合じゃないのに。  音楽はどうした。決めたじゃないか。彼女に贈るものを作り上げるんだって。  ぐるぐる、視界は回る。空腹なのか睡眠不足なのか、とにかく体から力がどんどん抜けていくようで、目の焦点が合わない。 「織ちゃん?」  だから急に目の前に誰かが立った時、私はほとんど無反応だった。 「どうしたの、織ちゃん!」  激しく揺さぶられて、私ははっと顔を上げる。軋むような動きで、ゆっくりと目の前で私の肩を掴んでいる彼に焦点を移す。 「……浅間君」 「顔色最悪だよ。ちゃんとメシ食ってる?」  心配そうな彼の顔を見て、少しだけ心に余裕を取り戻す。 「兄ちゃん見なかった?」 「いや。ここ数日見かけないよ」  うつむいて、私は頷く。 「そっか。たぶん美幸ちゃんについてるんだね」  じゃあ、待っていても兄は来ない。自分で立って、美幸ちゃんの所に辿り着かなければいけない。  黙りこくる私を立ったまま見下ろして、浅間君はどう言葉を掛けるかわからないように立ち竦む。  風が冷たい。コートも何も着てこなかったから、本当にこのまま座っていたら体を壊すかもしれない。 「織ちゃん、とりあえず中に入ろうよ」  そっと切り出してきた浅間君に、無言で拒否しようとした時だった。 「……あれ、誰の?」  寮の表門の前に横付けされている見知らぬ車に、ふと私は気づく。先ほどまでは無かったし、寮生の車ではなさそうだ。  浅間君は私が口を開いたことに気を緩めたらしく、声を落ち着かせて言う。 「マコトのマネージャーさんが来てるんだよ。マコトの私物を回収するために」 「入谷君の……」  凍りついた私の胸の中に、ほんの小さな光が灯った気がした。 「どこに?」 「さっき食堂で休憩してたかな」 「ありがとう」  私は素早く立ち上がって、飛び降りるようにして階段を走りぬけ、寮へと向かう。 「織ちゃん、駄目だよ。あの人は……!」  背後で浅間君が止める声が聞こえたけど、私の心は前へと突き進んでいた。  廊下を駆け抜けて、疾走する私に驚く寮生とすれ違いながら、食堂の前へと辿り着く。  一度息を整えて、私は扉のノブに手を掛ける。  入谷君。その名前に、私は最後の希望を見出した。  ……美幸ちゃんの音楽を、超えられる人として。    ゆっくりと開いた扉の向こうには、少しの寮生がいた。隅で新聞を広げている人、朝食を食べ逃したらしく持ち込んだ食パンを口にしている男の子、談話室の方で漫画を読んでいる女の子たちだ。  その中で、私は携帯をいじっている男の人を発見して、その前に立つ。彼は長身をシックな仕事着で包み、わりと容姿の整った二十歳前後の男性だった。 「すみません」  前へ立つと、目だけをこちらへ向ける。私が来ることなど最初からわかっていたと言わんばかりに、彼は奇妙にゆっくりと私を見た。 「何か?」 「ただの先輩じゃなかったんですね」 「そうだよ」  ねっとりとした黒い目つきには覚えがあった。  私がこの寮へやって来てから私を目の敵にしている、あの人だ。 「四月にマネージャーだって説明したはずだけどね。織部さんはよく聞いてなかったか」  冷笑を口に浮かべて、彼は顎をしゃくる。さあ用件を言ってみろ、どうせ中身などわかってるんだと、その目は語っていた。 「入谷君に連絡を取りたいんです」  目が細くなった。真っ黒で光がなくて、皮肉に満ちた眼差しを私へ向ける。 「嫌だね」 「どうして」 「今晩、大々的に会見をやってソロデビューに転換する。余計な邪魔を入れるわけにはいかない」  正論が返ってきたけど、私はうつむくわけにはいかなかった。  私は立ったまま、徐々に皆が私たちへ注目を集めるのをわかっていながら言葉を続ける。 「ほんの数時間でいいんです。入谷君に頼まないといけないことがあって」 「ふうん。あれだけ掻き回してくれて、まだ懲りないのかな?」  私は不愉快な目を見返しながら、しっかりと頷く。 「入谷君が駄目だと言えば諦めます。ただ本当に、今しか間に合わない」  ジュリオに頼めば、由貴さんを連れてきてくれたかもしれない。有名な演奏者だって、歌手だって、美幸ちゃんに素晴らしい音楽を贈ることはできる。 「お願いします」  ……でも、私が贈りたいものは、そうじゃないんだ。  私が最高だと思った幻想の曲に、唯一匹敵すると認めたのは、入谷君の力強い音楽だったから。  頭を下げて、私は先輩に縋るような思いをぶつける。無理だとわかっていても、頼まずにはいられなかった。 「……くだらねぇ」  ふいに頭を強く掴まれて、私は膝を床につく。そのままテーブルに頭を打ちそうになったけど、かろうじて手を突っ張って耐えた。 「生活が掛かってんだよ、俺には」  目と鼻の先で静かな怒りを向けられる。それに怯えは感じなかったけど、私は眉を寄せて彼を見返した。 「いつも自分の都合良く世の中が動くか、ガキ。ぬくぬく育っておいて、何でも欲しいものが手に入ると思うな」  憎悪に近い感情を受けて、私は不思議な思いがする。  何だろう。この人、違和感がする。 「つくづくクソ兄貴とそっくりだな、お前。周りなんぞ気にも掛けてねぇくせに、自分の都合のいい時だけひっくり返して人の邪魔をする」  不快感や、気色悪いと思った気持ちがすっと消えていった。  いつも私を睨んで、兄を嫌悪していたこの目つきは、遠い昔に見た覚えがあったから。 「……黒崎のにいちゃん」 ――ああ、そいつ知ってる。ゴキブリみたいな奴だろ。  そういえば兄は、この人のことを知っていた。私はずっと忘れていたけれど。 「兄ちゃんの同級生の」  皮肉げに歪んだ口元に、私はやはり間違いないと思う。  兄の友達はたくさんいた。いつもいろんな人間とつるんでいるのが兄で、私はそこで一緒に遊んでいたのだから知っている。 「あいつのことなんて聞きたくもない。いつも妹ばっか気に掛けて、ダチもバスケのチームも平気で投げ捨てるような腑抜けだ」  そのくせ、兄は人に慕われた。身勝手で傲慢なくせに、常に人の輪の真ん中にいた。  地元の人間なら、きっと兄を恨んでる人もいるだろう。そう思ったことはあったけど、私自身兄の友達なんてほとんど覚えていないから気にしていなかった。 「お前ら兄妹、腹立つ上に気色悪ぃ。少しは他人に裏切られてみろ」  私は兄にくっついて離れなかったし、兄もそれを認めていた。それを不快と友達が思うのは、自然に違いなかったんだろう。 「私を寮から追い出そうとしていたのは、そのせいですか?」 「当然の行動だろう」  そうかもしれない。特に私自身は直接入谷君に接触して、色々な考えを植えつけてきた。  恨みを買って疎外されることも仕方がないくらい、私は時に他人へ酷い仕打ちをする。 「……ゴキブリみたいですね、先輩」  けど私は彼を詰るのはやめなかった。  私と兄は確かに不自然な関係だったけど、堂々と二人で生きてきた。それを非難するのは勝手でも、陰険に人をいびったり中傷するのは不愉快だ。 「ゴキブリ?」  彼は片方の眉を上げて、喉の奥で楽しげに笑う。 「結構。人類よりずっと大昔から生き抜いてきたのがゴキブリだ」  立ち上がって、彼は入り口の方へと足を向ける。私は収穫がなかったことに唇を噛み締めて、手を強く握る。  駄目だ。肝心な時に反感を買ってしまった。  ……やっぱり間に合わないのかと、絶望に沈んでしまいそうになる。 「もしもし、黒崎さん」  談話室の方から四、五人の女の子たちが出てきて、彼の前に立ちはだかる。 「今は急いでる。俺は片付けがあるんでね」  固い表情の彼女らに怪訝な顔を向けて、彼は腕組みをする。完全に舐めきった態度に、女の子たちがふっと息を吐いた。 「織部さんを退寮に追い込もうとしたのは、黒崎さんだそうで」 「俺は知らないね。女子が勝手にやったんだろう。女の恨みを買う奴が悪い」  さらりと返した彼に、リーダー格らしい四年生の先輩が進み出て言う。 「けしかけたのは黒崎さんだと、一年生の子が白状しましたよ。イジメに関係した子が皆口を揃えて言うところをみると、無関係とはいえないのでは」 「ほお」  目を細めて不快感を示すと、数名の女の子は躊躇したようだった。だけど先頭にいた年長の先輩はさすがに気丈な態度で、一歩も引かずに言葉を続ける。 「イジメの詳細を自治会に報告したところ、自治会連盟でも取り扱ってもらえることになりました。そちらの事務所にも掛け合うそうですよ」 「はぁ? まさか」  女子の先輩は微笑んで、だけど眼差しは鋭いままに言い切る。 「学生のネットワークの力を舐めないでください。さ、どうぞお通りください」  睨む彼を追いやるようにして食堂から出すと、先輩たちがこちらへ向かって歩いてくる。  私は中途半端に食堂に立っていた。先輩たちが私を庇ってくれたことを頭で理解できなくて、彼女らが目の前に立つまでぼんやりと目を泳がせたままだった。  四年生の、女子寮では厳しいと評判の先輩が、私を見下ろして言う。 「織部さん。イジメがあったなら、何で早く言わないの」 「す、すみません」  とっさに謝った私を見て、別の先輩から声が掛かる。 「やめなって。なかなか言えるもんじゃないでしょ。三年とか四年にも関わってる奴いたんだから」 「そうだけど。黙ってられるとムカつく」 「織部さん、大丈夫だよ。この子、口悪いけどいい奴だから」  憮然とした様子の先輩を宥めながら、別の先輩が言ってくる。 「共同生活だからね、寮は。織部さん一人が我慢すればいいって思っちゃ駄目なの。秩序が乱れて手に負えなくなるから」 「そう、ですか」 「全くよ」  最初の先輩が険しい顔で、でも決して悪意じゃない思いを持って私に諭す。 「イジメが発生したのは連帯責任。ま、あたしたち上級生が早めに気づいてやれなかったのが悪かったんだけどね」 「いえ、そんなこと」  庇ってくれただけで嬉しかった。そう伝えると、彼女らは声を和らげて言う。 「よかったね」 「え?」 「洗濯物とか、靴箱とか、そういう所にあった被害をちゃんと見てて、あたしたちに報告してくれた子がいたから」  それが誰かとは、私は訊かなかった。  いつのまにか泥に埋もれた洗濯物が、綺麗に洗濯されて自室の扉の隙間から差し込んであったり、無くなっていたはずの歯ブラシが新品になって置いてあったりして、私は傷つきながらも慰められた。  そんな親切を何も言わずにやってくれる人を、私はこの寮で二人だけ知っている。  一人はもちろん浅間君。そして、もう一人は……。 「じゃあね」  去っていく先輩たちを見送って、私ははっと我に返る。  頭を占めている問題を、私は今しばらく忘れてしまっていた。それくらい、私は自分のことに意識を割いていたのだと気づく。  そうだ。入谷君のことは何も解決していない。  早くしないと、もう昼近くじゃないか。一日が半分終わってしまう。  ふいに歩み寄ってきたのは、眼鏡をかけた細身の男の子だった。 「これ」  目の前に差し出されたメモに目を丸くすると、彼は困ったように笑って言う。 「こっそり、黒崎さんが目を離してる隙に携帯を見て写したんだ」  そっと私の手元までそれを送り届けて、彼は苦笑する。 「入谷君の変更された携帯番号、これみたいだよ」  ……私は驚きで、目を大きく見開くことしかできなかった。  私は信じられないものをみつけたようにメモを見て瞬きする。彼はそんな私の様子を眺めながら話しかけてきた。 「ここは狭い世界だから、皆お互いのこと結構見てるんだよ。だから入谷君っていう異質な人と仲良くしてたら、嫉妬する子だってたくさんいる」  首を傾けて、彼は口ごもりながらぽつりと呟く。 「でも、応援したいと思う人もいる」  私が目を見張ると、彼はがらんとした食堂を見渡しながら続けた。 「苛める人もいれば、庇う人だってちゃんといる。傍観しながら、心の中でエールを送る人も」 「……うん」  言葉に迷いながら私を応援する彼に、私は深く頷く。 「ありがとう、小野君」 「え」  彼は露骨に動揺して、少し身を引きながら緊張する。 「な、何で知ってるの?」 「私が食堂にいる間、よく斜め前くらいに座ってるから」  私だって、ちゃんと見ていたよ。  辛い思いも、苦い孤独感も、私はこの寮や大学でたくさん味わった。けれど周りでそっと見守ってくれた先輩や同級生がいたことを知った。 「あいちゃんも、ありがとう」  私が振り返って、新聞を読んでいる女の子に声を掛ける。  彼女はゆっくりと新聞を顔から離して、黒縁眼鏡を軽く直しながらそっけなく私に言ってきた。 「私が何か?」  しらばっくれる彼女に微笑みだけを返して、私は携帯番号を写したメモを持って立ち上がる。  急ごう。皆に甘え続けて、守られてきた私だけど、もう一つだけわがままを言いにいこう。  食堂から廊下を突っ切って、玄関を出る。  外はまだ曇り空で、太陽は分厚い雲に覆われて見えない。  一度深呼吸をして、私は心を落ち着ける。  これから私がしようとしていることは、入谷君の将来にも関わるかもしれない。せっかく彼の兄と姉がお膳立てした彼の音楽のスタートを、私が台無しにしてしまうかもしれない。  ごめん、入谷君。  それでも、私は願ってしまう。  かつてあなたは美幸ちゃんとは別の頂点を、私に見せてくれたから。  それを、もう一度。  貰った番号を携帯に打ち込んで、そして通話ボタンを押す。 「……お願い」  祈るような気持ちで、私は目を閉じて入谷君が出てくれるのを待った。  軽いノックの後、入谷君は美幸ちゃんの病室へと足を踏み入れた。  機械の音が耳障りな音を繰り返し吐き出すだけの部屋には、今は彼女以外いない。ジュリオに頼んで、少しの間人払いをしてもらった。 「こんにちは。初めまして、美幸さん」  私は病室の扉を細く開けた外にいた。壁に背中を押し当てて部屋の中の様子を、声だけで窺いながら。 「だれ?」  か細い声の問いかけに、彼女のベッドの脇に辿り着いた入谷君が返す。 「入谷真といいます。織部さんに頼まれて、音楽を届けにきました」  美幸ちゃんは沈黙して、細く息を吸いながら言う。 「エタルの、イリヤ君?」  鋭い言葉に、入谷君が苦笑する気配がする。  だけどしっかりと、彼はそれを否定した。 「いえ。織部さんの友達の、入谷真です」  入谷君が私につけた条件は、イリヤとしては歌わないということだった。それは彼の芸能活動のためじゃなくて、彼は美幸ちゃんの前で「入谷」であることを望んだ。 「イリヤは面倒くさがりで、歌わせるためには照明や舞台やスタッフ、それとたくさんのファンがいないといけない」  太陽の光が徐々に、オレンジ色に染まってきた頃だった。 「でも僕はただの学生だから、友達が一人望めばどこででも歌える」  便利でしょうと入谷君は呟いた。美幸ちゃんはそれを聞いていて、ぽつりと言葉を零す。 「そう。さっちゃんが、あなたを選んだのね」  そっと彼女は囁く。 「私からリクエストしてもいい?」  美幸ちゃんの問いかけに、入谷君は戸惑うことなく返した。 「どうぞ」 「じゃあ」  微かに身じろぎして、美幸ちゃんは言った。 「私がエタルで一番好きな曲。幻想の歌」  短い逡巡の後、入谷君が問い返す。 「『幻夢』ですか? ルカが歌った、エタル最後の曲」 「うん。お願い」  ためらわずに美幸ちゃんが言う。それに、入谷君は少なからず驚いたようだった。 「……実は僕もそれにしようと思ってて」 「そう。やっぱりね」 「どうしてわかったんですか?」  ふふ、とそこで美幸ちゃんは彼女らしい優しい声で笑った。 「歌ってくれたら、教えてあげる」  甘く激しい恋心を謡う、幻想の歌が始まった。  本来はルカさんが歌うために作られたものだけど、元々彼のものであったかのように入谷君は音を紡ぐ。入谷君自身も作り手として参加した、思い入れと理解がそこにあって、エタルの他の曲とは一線を画するような歌い方だ。  私と二人、狭いサークル部屋でごそごそと作っただけのはずなのに、彼の声に乗せればそれは天上の音楽になっていた。決して届かない恋心も、それでも引きとめようとする悲しみも、まるで入谷君が誰かに叶わない恋をしているかのように真に迫ってくる。  私と二人で楽譜に書き散らしただけのこの曲を、入谷君はずいぶん大切にしてくれていたらしいと気付いた。音一つ一つを噛み締めて、美幸ちゃんへ贈る。 「僕はエタルの曲で、これが一番好きなんです」  曲が終わっても何も言わない美幸ちゃんに、入谷君は語りかける。 「歌われてる気持ちが、僕が長い間義姉に抱いてきた想いそのものだったから」  扉の外で私は息を呑んだ。 「憧れと、甘えと、縛り付けるような強い執着と、ごちゃまぜになった苦しい思いは、ずっと言葉にできなかった。後になってわかったんです。あれが……恋だった」  言葉を挟まないで、美幸ちゃんは入谷君の告白を聞いている。 「僕は敗れて終わってしまったけど、そうじゃない人もいる」  言葉を切って、入谷君は静かに言う。 「たぶん、織部さんが美幸さんに抱いていたのも、何にも代えられない恋心だったと思います」  頭の中の靄が晴れていくような気分だった。  入谷君の言葉はそのとおりだったと思う。私は確かに、美幸ちゃんに恋していた。  音楽に、雰囲気に、その存在自体に。私は憧れと甘えと、触れることも叶わないような崇拝に近い愛着を、ずっと抱き続けてきたから。 「うん」  私の頭を軽く叩くように、美幸ちゃんが言葉を零す。 「知ってる」  甘い声で彼女は言う。 「……だってこれは、さっちゃんが作った曲でしょう?」  突然、痛いくらいに清浄な冷水を頭から浴びせられた気がした。  美幸ちゃんが、知っていた?  私がこれを作ったことを、そして美幸ちゃんのことを無意識に思い描いて形にしたことを。  信じられない思いで、私は全身を硬直させる。入谷君も、同じ気持ちのようだった。 「どうしてわかったんですか?」 「ふふ」  自慢げに、可愛らしくも大人びた様子で、美幸ちゃんは声を漏らして笑う。 「わかるわ」  空気が徐々に変わってきた気がした。私のよく知っている、美幸ちゃんのまとう雰囲気だった。 「マコト君。お歌、ありがとう。今まで私が聴いた中で、マコト君は二番目に素敵な音楽をくれたもの」  声は途切れがちで聞こえにくい。けれど私は懸命にそれに耳を澄ます。 「二番?」 「うん」  美幸ちゃんの声は明るくて、どこまでも優しかった。 「一番はね、さっちゃんだから」  そんなはずはないと、とっさに心で否定した。  一番は美幸ちゃん。ずっと、誰が見てもそうだと思っていた。 「マコト君は、中学三年生の時、さっちゃんと一緒にコンクールに出てたね」 「は、はい」  幼い口調なのに、美幸ちゃんは遥か高くから地上をみつめているように告げた。 「優勝したのはマコト君だった。確か自由曲は『英雄ポロネーズ』……。大人より華麗で、重厚で、力強く弾いてたね。すごくよかったよ」  入谷君も、呆然とした様子で聞き入っている。美幸ちゃんは、目の前にいる彼を中学生の時の入谷君と易々と結びつけることができて、しかも鮮やかに覚えているのだから。 「でも私、その前に聴いたさっちゃんのピアノが忘れられないの。マコト君は、さっちゃんの自由曲を覚えてる?」  そう問いかけた美幸ちゃんに、入谷君は答える。 「『トロイメライ』ですね」 「……そうよ」  シューマンの、トロイメライ。短く、易しく、波のない穏やかな曲。  美幸ちゃんが私に勧めた。きっと私には、一番合った曲だからと。 「さっちゃんは直前に手首を故障しちゃってね。本当はもっと技能的に高いものも弾けたし、実際に用意したのもマコト君に負けないくらい難しい曲だったの。賞だって十分に狙えるほど、さっちゃんは上手だったから」  美幸ちゃんは私の手をそっと包み込んでくれたみたいに言う。 「それでも、私はトロイメライを勧めて良かったと思ってる。まどろむくらい温かな想い、泣きたいくらい優しくて、心地よい気持ち……それをさっちゃんは、最高の形で私に見せてくれた」  コンクールで弾いた時のことを、私自身はほとんど覚えていない。  ただ夢中だった。賞なんて考えないで、ただ美幸ちゃんへの期待に応えたいという一心で弾いた。  ……それを美幸ちゃんは、ずっと覚えていてくれたなんて。 「マコト君」  傍らの彼にしか聞こえないくらいの声を、私は必死で耳を澄ませて聞き取ろうとする。 「どうしてさっちゃんは、いつまでも私の影に囚われてるのかな。私に敵わないからって、ピアノを諦めてるのかな」  深い悲しみに沈んだ声で、彼女は独り言のように呟く。 「……どうしてわからないんだろう。もうとっくに、さっちゃんは私を超えてるのに」  私は喉が引きつって、呼吸が止まった。  彼女が言葉にした時、まるで私のことを妬む色も嫌悪する様子もなかった。 「私がピアノをやめたのは八つの時。さっちゃんの半分にもならないの。弾けた曲もずっと少なくて、技術も吸収した感情も、大人になったさっちゃんに敵うわけがないのよ」  今の彼女の声には、私のことを心から認めて愛おしむような、そんな響きしかなかった。 「それだけ美幸さんの遠い日のピアノが、織部さんには眩しかったんですよ。眩しすぎるくらいに」  私の心を代弁してくれた入谷君に、美幸ちゃんが苦笑する気配がする。  沈黙が二人の間を流れた。  初対面なのに、美幸ちゃんも入谷君も、壁を作らず話していた。私にとって最高の音楽の天才である二人は、出会った瞬間に深いつながりを作ることも、容易だったのかもしれない。 「……私にとっては、さっちゃんが光だった」  優しい雨のように美幸ちゃんは言葉を降らせる。  彼女は小声で入谷君に語りかけた。 「さっちゃんはね、とっても小さく生まれたの。普通の子の半分もなくてね、何ヶ月も保育器に入って、パパにもママにも抱っこしてもらえなくて、せっかく生まれたのに何度も心臓が止まってしまいそうだったの」  その時のことを思い出したように、美幸ちゃんは悲しそうに言う。 「やっと退院しても、すぐにお熱が出て戻されることの繰り返しで。きっと、三歳まで育たないって、言われてたの」  私はその頃の記憶はほとんどない。幼すぎて、視界が靄に掛かっているようにはっきりしない。  ……でも、何歳まで育たないというフレーズは聞いた覚えがあった。 「さっちゃんが三歳になる直前、大きい病気をした。何日も熱が下がらなくて、どんどん衰弱して。もしかしたらこのまま駄目かもしれないって聞いて、まーくんと二人で泣いたの。私たち二人はとても元気なのに、どうしてさっちゃんはあんなに小さいまま死んじゃうんだろうって」  幼い子供のように、美幸ちゃんは泣きそうな声で必死に言葉を紡ぐ。 「いつも一生懸命手を伸ばして、私たちについてきたさっちゃん。……天使みたいにかわいかったの。とってもとっても、大事だったの。ずっと、傷つかないように守ってあげたいと思ってたの」  身じろぎして、美幸ちゃんはゆっくりと言った。 「……代わってあげられたらいいのにって、思ったの。そうしたら本当に、さっちゃんは助かったのよ」  私は顔を覆って、強く目を押さえた。  私が三歳、美幸ちゃんが八歳。  ……それは美幸ちゃんが発病して、ピアノが弾けなくなった年だ。 「でも、美幸さんは病気が」 「うん。辛かったよ。痛くて苦しくて、ピアノに縋って泣いたこともたくさんある」  入谷君に答えて、美幸ちゃんは言う。 「でも私は生きてた。さっちゃんも」  彼女は優しい言葉を紡ぐ。 「私が学校に行かなくてもさっちゃんは行ってきて、たくさんお話ししてくれた。ピアノも私にできないところまで辿り着いた。それで……あんなに元気に育ったじゃない」  美幸ちゃんは母や父とも違う慈しみを持って言葉を口にする。 「嬉しかった。そしてそれは、お兄ちゃんのまーくんだって同じ」  私は目を押さえたまま、両手を握り締める。  いいんだ、美幸ちゃん。  ……もう、私が子供っぽくあなたたちに嫉妬してたのがどれだけ愚かだったか、理解してるよ。 「そこの棚にね、まーくんがくれた指輪があるの」  入谷君が振り向く気配がする。美幸ちゃんの周りを取り囲んだたくさんの品物の中にある箱を、彼は見やった。 「まーくんは、ずっと側にいるって約束したの。さっちゃんの側で、さっちゃんを守るって」  お兄さんがと入谷君が呟く。美幸ちゃんは、それに微笑むような呼吸だけで応えた。 「私は、弱くても優しいお姉ちゃんでいようと思った」  笑って手を差し伸べてくれる美幸ちゃんが目の前をよぎる。  ごくりと喉を動かして、私は瞼の裏の優しすぎる光景に耐える。 「だからまーくんは、厳しくても強いお兄ちゃんとして、頑張るって」  憮然としながら、そっぽを向きながら、それでも私の手を取って歩きだした兄の背中が頭の裏に蘇る。 ――わがまま言うな。兄ちゃんがちゃんと、来てやったんだから。  二人に守られるのは当然なのだと、私は美幸ちゃんたちがどんな思いで私の手を取っていたのか知らなかった。それを、今切り裂かれるような胸の痛みと共に、眼前に示される。  「さっちゃんはね、私とまーくんの宝物なの。私はこんな体になっちゃったけど、まーくんは約束を守ってくれてる。きっと、これからも」  私に兄ちゃんを残してくれようとしなくて、いいんだよ。  あなたはもう十分過ぎるくらい、私にすべて与えてくれたじゃないか。 「指輪も、もう私には必要ないから。さっちゃんにあげて」  どこまでも甘い鎖まで、私に与えてくれなくていいんだ。 「さっちゃんにね、お兄ちゃんと仲良くするようにって伝えて」  やめて、美幸ちゃん。  ……あなたにそれを言われたら、私は従うしかなくなる。  兄以上の絶対者であるあなたがそんなことを言ったら、私の幼い抵抗など何の意味もないんだから。 「駄目です」  美幸ちゃんの言葉を遮ったのは入谷君だった。 「そんな大事なこと、僕が伝言なんてできません。本人に言ってあげてください」  どうしてか、入谷君が私を美幸ちゃんから庇ったような気がした。 「お会いできて嬉しかった。僕はやっぱり、美幸さんは本当に圧倒的な音楽の感性を持っていたんだと思います」 「……そう」  一瞬黙った美幸ちゃんは、安心したように返した。  入谷君に、彼女は隣の家の子に諭すような親しい口調で呟く。 「マコト君」 「はい?」 「さっちゃんと、仲良くしてあげてね。とても優しい子だから」  それに入谷君が小さく笑う気配がした。 「それは約束できます」 「ありがとう。マコト君も、優しい子ね」  頭を撫でるようにそっと言葉を呟いて、美幸ちゃんは深く息を吐く。  時計の針が再び動き出した気がした。 「美幸さん?」  沈黙の中、入谷君は怪訝そうに問いかける。  機械音がうるさい。耳を引っ掻く、化け物みたいに大きな雑音。 「……さっちゃん」  消え入るような小声で、美幸ちゃんが呼ぶ。 「そこにいるんでしょう?」  こちらに向かって、声は静かに掛けられた。 「意地悪してごめんね。私、怒ってないよ。怒ってないから……出ておいで」  子供が謝るように、美幸ちゃんは拙い言葉で囁き続ける。 「ひどいこと、言った。嫌いだなんて……嘘だよ。さっちゃん、こっちに……」  私は頭を抱えて、ずるずるとその場にうずくまる。  入谷君の足音が近づいてきて、私の横に立つ気配がした。私は激しく首を横に振って、強く額を膝に押し付ける。 「……できないよ」  何も言わない入谷君に、私は喉から搾り出すように声を漏らす。 「側になんて、行けないよ……!」  別の方向から足音が近づいてきて、美幸ちゃんの病室へ入っていく。顔は上げなかったけど、ジュリオと叔母さんなのはわかっていた。  息が詰まって、体の中を激痛に似た悲しみの流れが駆け巡って、私は身動き一つ取れなかった。 「織さん」  そっと気遣わしげに肩を叩く感触に、私は首を横に振ることで返す。  兄がいないことは気づいてた。なぜかも、もうわかっていた。  両親であるジュリオと叔母さんは、自分の子供に最期まで側にいてやりたいと願う。それだけの強さも、きっとある。  ……だけど私や兄では、辛すぎて彼女の終わりを見る勇気がない。 「ありがとう、入谷君。ごめん……」  しばらく、入谷君は私の前に立ち竦んでいた。  夕陽が沈む時刻。かなり時間は押しているはずなのに、彼はなかなかその場を動こうとしない。 「また連絡するよ」  やがて彼は私の肩から手を離して言う。 「皆で待ってるから。織さんのこと」  私の手を取って、それを一度優しく握ってから、彼は一歩離れた。 「……待ってるからね」  だからどうか、負けないで。  そう彼は言ったけど、私はうずくまったままだった。  ……打ち勝とうなどと考えた自分自身が、みじめでたまらなかった。  きっと美幸ちゃんは、彼女から私を解放してくれようとした。突き放して難題を押し付けることで、私が彼女を嫌うように仕向けようと。  でもそんなの、無理に決まってるじゃないか。  ……どうやって私が、美幸ちゃんを嫌えるっていうんだ。  ずっと守り続けてきてくれた彼女を超えるなんて最初から無駄なことだった。私はなんて身の程知らずなことを考えたのか。  兄への馬鹿な対抗心と、何より大切だった姉への、子どものような虚栄心。そんなものばかりにこだわって、結局私は一番大切なものを見逃していた。  私が大事にしなければいけなかったのは、美幸ちゃんが与えてくれた惜しみない愛情に、ちゃんと向き合うことだったのに。それなのに私はまた、彼女を喜ばせたい一心で、身勝手なことばかりしてしまった。  完全に身を投げ出してしまえばよかった。コンプレックスなんて忘れて、ただ側で甘える猫で十分だった。  彼女の真意も理解せずに走り回った自分が空しくて、恥ずかしくて。もう側に立つこともできないと、押しつぶされるような悲しみと共に私はうずくまっていた。  十一月も終わり。本格的な冬が街を覆い尽くす木枯らしが吹いていて、指先がちりちりとした寒さに震える頃。  凍えそうな真夜中、最期まで両親に見守られる中。  最愛だった私の従姉が、この世を去ることになったのだった。
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