12 童夢

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12 童夢

 どこかで懐かしいメロディが聞こえる。  有名なピアノ曲だけど、何だったか。考えを巡らせる前に私は目を開いて、列を離れた。  膝の上で手を組んだまま、私は席についてぼんやりとしていた。  人の動きは単調で、水槽の中の魚たちのようにゆっくりだ。真っ黒な尾ひれが次々と流れていき、また元の場所へと戻っていく。  声は耳にしているのに、言葉として認識できない。どこかのスピーカーから流れてくる音楽が、私の耳を掠めるようにして飛んでいく。  私はこの曲を知ってる。  何度もそう思うけれど、それ以上考えは進まない。頭の入り口で阻まれて、くるりと耳に戻ってはまた出て行く。  やがて参列客たちの焼香も終わって、最後の別れの時間になった。親戚たちが思い思いに並べられた花束を取って、白い棺の中へと入れていく。  私も前の台へと歩み寄った。花を手にとって、棺の中に手を伸ばす。  花に囲まれて、美幸ちゃんは横になっていた。随分痩せて髪の色もくすんでいて、写真の中の彼女とは全然違う。  けど私には、彼女が眠っているようにしか見えなかった。今にも目をぱっちり開けて、さっちゃん、今日は大学どうしたのと、話しかけてくれるような気がした。  無意識に、私は彼女をじっと見下ろしながら返す言葉を考えていた。それより美幸ちゃん、お腹すいてないの、昨日から寝てばっかりじゃないと軽く笑い飛ばそうとした。  しばらく側で立ち竦んで、私は待っていた。 「……ねぇ」  早く起きて、美幸ちゃん。  今は寒い季節だから、お腹にいっぱい入れた方が温まるよ。焼きりんごもいいし、ホットミルクもいい。  たくさん食べて、遊びに行くんだ。家の周りは雪ばかりだけど、走ってる内に寒さは忘れる。雪の上に寝転がるのは気持ちよくて、空がずっと綺麗に見えるんだって、私も知ってるんだよ。 「みゆきちゃん……」  私は元気になったよ。もう、いつでも外を走り回ることができる。  明日も明後日もあるけど、でも私は今日行きたいんだ。  遊ぼう。寝てばっかりは、良くないじゃないか。 「さっちゃん」  無意識に手を伸ばしていた私の肩を、誰かが叩いた。  私が不思議そうな顔をして振り返ると、ジュリオが手に何かを抱えて立っていた。 「これ、どうする?」  それは私が持ってきた白いうさぎのぬいぐるみだった。  ジュリオから手渡されて、私はそれを一瞥するなり美幸ちゃんの方へ向き直る。 「美幸ちゃんのだよ、これは」  そっと眠ったままの彼女の横に置いて、私は頷く。 「起きた時に一人は寂しいから、ずっと一緒じゃないと」  ぎこちなく呟いて、私は美幸ちゃんの側を離れる。  もう少し、静かにして待っていよう。傍らで騒いだりするのは子どもっぽくて、彼女に呆れられるかもしれない。  きっと優しい美幸ちゃんは私を叱ったりなんてしないだろう。けど落ち着かなきゃいつまで経っても彼女は私のことを心配してしまう。  でも、それもいいかな。  揺さぶってみたら、美幸ちゃんはすぐ起きるかもしれない。側でうるさくしたら、彼女だって眠ってなんていられない。 ――悪い子。めっ。  彼女が昔よくやったみたいに、叱ってくれるだけでいいから。  前へ足を踏み出しかけて、軽く腕が誰かにぶつかった。  音も無く人の列をすり抜けて美幸ちゃんに近づいたのは、見上げるほどの大男だった。黒い礼服を着込んで、金色の地毛に戻した髪が伸びている。  兄だった。いつ来たのだろうと私は横目で彼を見上げながら思う。  両親と一緒ではなかったし、式の手伝いにも姿を見せなかった。ずっと居たような気もしたし、今来たばかりにも見える。  親戚の中で、兄の周りだけ空気が違っていた。浅黒い肌に浮かぶのは全くの無表情で、美幸ちゃんを見下ろす目は淀んで焦点が合っていない。  兄は花も手に取らず、私の横に立っているだけだった。手はだらりと横に下げたままで、身動き一つ取らない。花が差し込まれる音と微かな話し声で周囲はざわめいているのに、兄は無音をまとったままだ。  息をしてるんだろうか。  不思議に思って、私が兄の方へ体を向けた時だった。 「ユキ」  単語にも聞こえないような声が兄の口から漏れた。 「……なんでだよ」  うめき声にしか聞こえなかったその言葉と一緒に、兄の顔が歪んだ。 「うそだ……!」  言葉を言い終わる前に、彼の両目から何かが溢れた。  透明で、大粒で、それは次々と白い棺に落ちて染みを作っていく。 「ずっと、いっしょだって……やくそく……」  何が起こったのか、私にはわからなかった。  ただ訳のわからない言葉を悲鳴のように吐き出す兄を、横から見上げる。  どうしたんだろう。こんなに兄が動揺するなんて。  ……それに一体、兄がぽろぽろ零してる水滴は、何なんだろう。 「おいて、いく……なよ……!」  親戚の皆が驚いている。誰もが、不自然な兄の様子に瞠目している。  けれど兄はすべて忘れてしまったように、ただ子どものように美幸ちゃんの横に手をついて、背を丸める。 「……拓磨」  兄の右横にふいに立った男の人がいた。父だった。  黙って兄の肩に手をやって、庇うようにぐいと引き寄せる。背はずっと兄の方が高いのに、今の兄は子どもが慰められているようにしか見えなかった。  落ちていく水滴の音が、聞こえもしないはずなのに耳を打つ。花の匂いが立ち込めていて、むせるように私の鼻の奥へと走ってくる。  私は顔を上げて、棺の向かい側に立つ人影を見た。そこには黒髪をきっちりと結い上げて、礼服を着込んだ叔母がいた。 「美幸……!」  今の彼女はただジュリオに支えられて、顔を覆って嗚咽を漏らしているだけだった。  ジュリオは妻の肩を抱いて俯いていた。その頬に二つの筋が流れているのは、きっと誰にも責められないことに違いなかった。  振り返ると、ハンカチを目元に当てている親戚たちがいた。父の方へ目をやると、彼も眉を寄せて強く口を引き結び、何かに耐えるように微かに震えている。  そして、今も絶え間ない慟哭を棺の横で漏らしている兄。  そこでやっと私は理解する。  ……美幸ちゃんは、死んじゃったんだ。  服と体の間に冷水を流し込まれたような、そんな覚醒感だった。  けれど頭は痺れていて、顔も上手く動かない。どうやってこの場にふさわしい表情を作るのか、どうしても思い出せない。  棺から離れて、入り口の方までやって来る。私はそこから親戚たちの悲しみを順々に目に映して、最後に兄を遠くからみつめる。  十年も前、祖父が亡くなった時のことを唐突に思い出した。たくさんの人に囲まれ、惜しまれて逝った、優しい人のことを。 ――おじいちゃん、どこ行ったの?  私も、何が何だかわからなくて泣いた。死という意味がよく理解できないから、とんでもなく怖いことが起こったのだとだけ察して怯えた。  だけど、あの時のお葬式は決定的に違っていた。 ――じいちゃんは帰ってこないんだ。  兄は始終私の手を握って、私の側にいて何度も諭した。 ――でも、兄ちゃんがずっとここにいるからな。  きっと兄の方が私より遥かに悲しかったはずなのに、彼は涙を見せなかった。口を引き結んで眉を寄せて、毅然と棺をみつめていた。  強くて、誰にも負けなくて、ずっと私の側にいたはずの兄。  ……それは今、私のことを忘れてしまったかのように、泣いている。  皮肉だった。私はそのことで頭の混乱を収めて、心を落ち着けた。どうにもならないことを肌で感じて、親族たちの様子を遠くからみつめる。  ああ、私は泣けないんだ。  悲しみの輪の中から弾かれてしまった気がした。こんなぼんやりした頭では、悲しんではいけないと奇妙に冷静に思った。  涙をこらえたつもりもなかったのに、目は乾いたままだった。こみ上げてくるものが何も無くて、そんな自分を悲しむこともなくて。  ただ、空しくて。自分がここにいることが、酷く無意味に思えるだけだった。 「……さっちゃん」  そんな中で、一人だけ私に意識を向ける人がいた。母だった。  私はこちらに足を向けようとする母に首を横に振って、玄関の方へと踵を返す。  少し風に当たりたかった。ほんの少しだけ。  それで何かの感情が湧き上がるとは思えなかったけど、とにかくこの場から早く離れたかった。  走るように時は流れていくという。  けど、実際には時の速さなんて人に理解できるんだろうか。そんなもの、目に見えないのに。  以前はそう思っていたけど、最近は多少共感できるようになった。  確かに、時は猛スピードで駆け抜けていくことがある。しかもそういう時は自分が置き去りにされるから、何となくわかるものだ。 「募金にご協力をお願いしまーす」  駅前はいつになく賑わう。人々は急ぎ足で、けれど表情はどことなく明るく、浮き立つような足取りで歩き去っていく。  それも無理はないのかもしれない。日に日にネオンで華やかに彩られて、イベントのビラが舞う街の様子は、夜になってますます輝きを増していく。  雑踏の中でふと立ち止まって、私は駅前の噴水を仰いだ。  色とりどりの光でライトアップされた噴水の周りには、携帯をみつめながらじっと誰かを待つ人、既に酔っ払っている中年のサラリーマン、そして身を寄せ合って笑うカップルたちで賑わう。  気づけば時は流れている。それを自覚するのは、こんな瞬間だ。  何事もなく大学に通い、寮生活を送り、毎日毎日波風の立たない日常を過ごしていたら、一ヶ月なんて簡単に過ぎていく。  季節は真冬。十二月も、もう終わりだ。  両親は気がかりな様子を残しながらも、実家へ帰っていった。叔母とジュリオは悲しみに暮れる日々を過ごしていて、兄は今どこでどうしているのかさえ知らない。  そして私は、これ以上ないほど普通に、平穏な毎日を送っている。  この一ヶ月は早かった。自分でも何をして過ごしたのか覚えていないし、また明日何をするのかも考えないで時を送った。  悲しむ時間はいくらでもあった気がするのに悲しめなくて、苦しいと感じることもなかった。そんな感覚はとうに痺れてしまっていて、自分で揺り起こそうという気は起こらなかった。  そういえば、時は人を癒すともいう。だからジュリオたちが慰められる日もいずれは来るだろうし、兄もその内悲しみから脱出することができるかもしれない。それがいつになるかは、わからないとしても。  でも私は一度も美幸ちゃんの死で悲しんだ覚えもないし、何もかも今まで通りだ。落ち込んでもいないのに復活できるわけがないのだから、私に時の流れが干渉する余地はない。  だから、時は今も私を通り過ぎて走っていく。それで構わなかった。 「……あ」  ぱぁっと、急に光が噴水の後ろで溢れ出す。高く盛り上がった水の向こうで、それ以上に高い木に無数につけられた、真新しい電球が色鮮やかに輝き始める。  噴水にいた人たちも、道行く人たちも、皆一瞬目を輝かせてその光景に見入る。辺り一面に光が散らばって、真昼にでもなったような明るさだった。  鞄から手帳を取り出して、白紙同然のスケジュール表をめくり上げる。 『朝七時、遊園地。千夏ちゃん』  書き込まれたそれを確認して、また目の前の巨大な光を仰ぎ見る。  幻想的な輝きに包まれた木は何かを私に伝えようとしているように見えた。  取り残されてしまっている私を、微笑みながら温かく包み込もうと光の輪を広げて、待ってくれている。  けど次の瞬間にはもう、私は光から目を逸らしてしまっていた。  翌日、私は都心から少し離れたテーマパークにやって来ていた。  二、三年前に作られたここは一日では回りきれないほどのアトラクションとショッピングモールがあって、早朝から真夜中まで人通りが絶えないらしい。 「さーよちゃん!」  珍しく、といっては失礼かもしれないけど、千夏ちゃんは時間通りに待ち合わせ場所にやって来た。文字通り全身で私に飛びついてきて、にぱっと笑いながら体を離す。 「どーお? 今日はエキゾチックに決めてみました!」  きれいな紫色の鮮やかなターバンを頭から垂らし、青い巻きスカートと袖幅の広い白のニットセーター、琥珀色の肩掛け。ついでに青色のコンタクトを入れているらしく、国籍不明の不思議な魅力がかもし出されている。 「さぁて、一日パスポートは持ったねー?」  私が首に下げたそれを示すと、千夏ちゃんは満足げに頷いて私の手を取る。 「じゃあ今日はアトラクション全制覇だよぉー!」  元気に腕を上げて宣言すると、千夏ちゃんは開園したばかりの門へ向かって、勢いよく走り出した。  天気は快晴だった。冬の澄んだ空気は胸いっぱいに広がって、白い息になって再び吐き出される。 「今なら、どれでも乗り放題だよー。午後からは混んでくるからねぇ」  確かにまだ太陽の昇りきっていない今ならどこも空いている。噂では四時間待ちも平気であるらしいアトラクションの数々も、こんな早朝から長蛇の列は作っていない。  跳ねるようにしてうきうきと闊歩する千夏ちゃんに、私はそっとついていく。早起きが大の苦手で昼からの講義だって遅刻してくる彼女が、よく七時前に起きることができたなと不思議な思いがする。  でも、私も全然眠くなかった。体も、全く重くない。  単純に、感覚がないだけかもしれない。眠っているようで頭は休んでいなくて、疲れているようで全然だるくない。  ……元気とは、いえない。けど、どこも悪くないのだ。 「とりあえず、コーヒーカップで目でも覚まそうか」  私が口元を少しだけ引き上げて回転する乗り物を指差すと、千夏ちゃんは一瞬だけ黙って私をみつめる。 「うん」  彼女は笑って、私の腕を取った。それはいつになく優しい力加減だった。  ぐるぐるとカップを回して、メリーゴーランドや長いブランコに揺られて、手当たりしだいにあちこちのアトラクションを試す。さすが有名なエンターテイナーが企画しただけはあってどれも作りが凝っていて、会場は笑いと軽快な足音に満ちていた。 「うわぁ。人増えてきたー」  人は、もうアトラクションエリアを埋め尽くす程になっていた。  あちこちに着ぐるみが出没して子どもたちにサービスする。特設ステージで手品を披露するマジシャンの前を取り囲むようにしてフラッシュが焚かれる。露店でグッズが売られていて、カップルたちが何かペアで選ぼうとしている。  ふいに視界に膜が張って、濁ったレンズの向こうから世界を覗いているような気分になった。  外界から隔絶された場所にいるみたいに、鼓膜が覆われて、意識が遠のくような違和感に包まれる。  今日はどうしてこんなに人が多いんだろう。訳もなく皆の表情が明るく見えるんだろう。  だけど私も毎年、これを楽しんでいた。一年の内、他のどんな日よりも幸せだった。 ――さっちゃん。明日、楽しみね。  美幸ちゃんの変わらない笑顔が、目の前を通り過ぎる。  ……いったいそれは、どうしてだっただろう。  ああ、思い出せない。  明日は、何の日だったんだっけ? 「沙世ちゃん。もうすぐお昼のカーニバルだよ」  唐突に千夏ちゃんの声がして、私は振り返る。彼女はいつの間にか手に温かい飲み物を持って、私をじっと見上げていた。 「すっごい盛大なパレード。一緒に、一番いい場所で見に行こうか」  そう言って、彼女は微笑みながら私の頭上を指差す。  そこには天を衝くように高く、七色に輝く観覧車がそびえ立っていた。   「わぁー、高い高いー」 「こら。座りなさい」  ゆったりと上昇していく観覧車の中で、私は窓にくっついて足をばたつかせる千夏ちゃんをたしなめる。 「あっ、ほら見て!」 「え?」  ちょうど観覧車の真向かいにある尖塔が、金色に光った。  そこから光が零れ落ちていくように、パーク内に放射線状に伸びたロープに括り付けられた無数のライトが、一斉に点灯する。 「うわぁ……」  真昼だというのにあらゆる色の光がパーク内に溢れ出して、私は一瞬その光景に見惚れた。高所からでも聞こえてくる人々の歓声と、空に響く花火の音も会場を沸き立たせる。  言葉を失った私に、千夏ちゃんは言った。 「綺麗でしょー。今日は特別なんだよぉ」  特別という単語に何かが引っかかった気がしたけど、光が弱まるのと同時に私は元の平常心に戻る。  目の前にまた薄い膜が張った。眩しいばかりだった光が歪み、私は沈黙する。  光は、ずっと輝き続けるものじゃない。  どんなに美しくても、いずれは終わっていってしまうもの。握り締めることも、抱きしめることもできない。  曇っていくガラスを擦ることもせず、私はぼんやりと座って眼下を見下ろしていた。華やかなパレードが下で繰り広げられていたけど、それは私の意識の上を通り過ぎていくだけで、胸の内には入ってこない。  それでいいじゃないかと、空ろに見送りながら思う。  今の私は平穏な心で、苦しくも悲しくもない。何かに心動かされることもなければ、何かに傷つくこともない。  辛くもなければ、楽しくもない。それでいいんだ。  知らず、背もたれに体を預けながら外の風景に目を背ける。  ……どこも、痛くなんてない。 「寒い?」  ふいにそう言われて、私は瞬きをする。気づけば千夏ちゃんはきちんと座りなおして、私の真向かいにいた。  私は自分の姿を見下ろしてみた。セーターにジーンズだけで、千夏ちゃんのようにマフラーや手袋でコーティングしていない素のままの格好だ。  コートですら忘れてきたけど、別に不自由はなかった。ふらりと寮を出てきてここまで電車で来る間、何も違和感はなかったのだから。 「動いてる間はごまかせてたけど、じっとしてると寒いよね」  困ったように顔を歪める千夏ちゃんに、私は遅れて考えを巡らせる。  私は寒いんだろうか。感覚がなくて、ぎこちない動きしかできないのは、そのせいなんだろうか。  辛くも、苦しくも、痛くもないのに。 「沙世ちゃん。これあげる」  千夏ちゃんはバッグから、柔らかそうな何かを取り出す。  それはふわふわの真っ白な毛糸の手袋だった。光を反射するような銀糸が編みこまれて、小さな白猫を刺繍している。 「かわいい……」  思わず呟いた私に、千夏ちゃんが手袋をはめてくれた。それは羽毛のように優しく私の手を包み込んでいく。  私は柔らかな手触りを感じながら、手の平を返したり戻したりしていた。 「体の一部を暖めるだけでもだいぶ違うでしょ」  指先以外にもぬくもりが広がる。  それは喉の出口だったり、目の底の方だったり、胸の奥だったりした。  ……同時に、ちくりとした痛みを感じた。 「どうして?」  文脈も何もない問いかけに、千夏ちゃんは言葉を浮かべる。 「沙世ちゃんはものを大事にする人だから」  小さく答えて、彼女は私の目を捉えながら続ける。 「それに、とても綺麗だから。白が似合うと思った」  そう言って、千夏ちゃんは私の手を両手で握り締める。  観覧車はまだ昇っている。放っておいたら、空の向こう側まで行きそうだと思った。 「沙世ちゃん」  うつむいた私に、千夏ちゃんが話しかける。私の手を取ったまま、下から覗き込むようにして私の目を見据える。 「来年も、こうして遊びに行こ」  言ってから、彼女は自分の言葉が気に入らなかったらしく首を横に振って顔をしかめる。 「ううん。明日でも、明後日でもいいや。暇になった時、思いついた時に一緒に遊ぼう」  彼女は大きな目を見開いて私をみつめ続ける。 「遊びたい時に、遊びたいって言って。怒りたい時に怒って、笑いたい時、笑えばいいよ。迷惑とか都合とか考えないでさ、ちっちゃな子どもみたいにぶつかろうよ」  青いコンタクトの向こうで、千夏ちゃん本来の、優しくて綺麗な茶色の瞳が輝いていた。 「あたしとの付き合いは、そんないい加減なのでいいんだよ。いつ終わるかなんて考えなくていいから」  頬を緩めて、千夏ちゃんは青い空と同じくらい澄み切った、おおらかな笑顔を見せた。 「……それでも、沙世ちゃんとはずっと続く長い付き合いになるって、予感がするもん」  パァン、と空を叩くような花火の音が聞こえる。  色鮮やかなパレードが派手な音楽と共に、眼下を流れていく。 「そろそろ十二時。名残惜しいけど、バトンタッチだね」  ちょうど、観覧車が一番高いところに辿り着いた時だった。  千夏ちゃんはポケットから小さな赤いチケットを取り出して、それを私に握らせる。 「観覧車のすぐ隣にある、占い屋に行ってみて。私が担当する朝は、もう終わり」  彼女は花火を背にして、ぱっと笑う。 「沙世ちゃんにも、最高に輝く日になりますように。メリークリスマス」  一年で一番、何か特別なことが起こるかもしれないと無性に期待する、そんな煌く光の祭典。  クリスマスイブが、ようやく私の中でも始まろうとしていた。  観覧車から降りるなり千夏ちゃんはどこかへ走り去っていってしまって、私は不思議な顔で彼女を見送ってから歩き出す。 「占い屋?」  私は観覧車の下で、看板とその向こうに続くものに驚いた。  サーカスのような見渡す限りのテントに無数の入り口がついていて、そこから吸い込まれるように大勢のお客さんが入っていく。チケットを切っていく係員の手は休まる間もなくて、案内係はいくつかのゴンドラにお客さんを分けて運んでいる。 「前売り券はお持ちですか?」 「え? あ、えっと」  入り口付近で立ち竦んでいた私に、愛想のいい係員が問いかけてくる。私は慌ててポケットに突っ込んでいた赤いチケットを渡すと、その係員さんは満足げに頷いた。 「タロットルームの五番ですね。突き当たって、左奥のゴンドラからどうぞ」  勧められるままに足を向けると、確かに突き当たりを曲がった奥に小さなゴンドラがあった。テント中に反響するようにお客さんの声が満ちているのにそこだけは係員すらいなくて、私は首を傾げながらも一人乗りの小さなゴンドラに乗り込む。  スイッチを押すと、ゴンドラは一瞬ゆっくりと登ろうとして、滑るようにくるりと回転し、斜め下へ結構なスピードで降り始めた。何だかからかわれているようなその動きに私は妙な気分になりながらも、手すりに掴まったまま停止を待つ。 「へぇ……」  透明なアクリル板の向こうは、機械仕掛けの人形や動物たちの、幻想的な世界が広がっていた。銀糸や金糸で彩られた夜を飛び回る妖精や、熱さまで伝わってきそうな真っ赤な炎の中の竜が、まるで本物みたいにこちらへ悪戯っぽくウインクする。  惜しみなく散りばめられた輝石が星みたいにきらきら輝いて、目が眩むくらいだった。頭の上も足の下もそんな夢の世界で、大人でも童心に返って胸を躍らせるのに十分な、豪奢な光のショーだった。  時間にしてほんの数分の旅が終わって、ゴンドラが止まる。ドアが開いた先には、おとぎ話に出てきそうな可愛らしい扉が待っていた。  タロットルームⅤという文字がレトロに彫られていて、私はそっと扉を押す。それは軽く触れた瞬間に勝手に開き始めて、私を中へと招きいれた。  内装は、想像していた以上だった。不思議な文様のタペストリー、幾何学模様の絨毯、棚には何に使うのかわからない変わった形のフラスコや機材が並び、古びたテーブルと椅子が真ん中にある。  そんな中、待ち構えているのは怪しげな黒装束の魔女。 「……あ」 「織ちゃん、来るの早っ!」  ではなく、恐ろしく現代少年仕様の、ジーンズにジャケット姿の浅間君だった。  彼はペットボトルで水分補給を行っている真っ最中で、側には黒いローブみたいなものや水晶玉があるものの、占い師っぽいオーラはまるでない。 「……バイト中?」 「そ。本当は休憩時間だけど」  浅間君は苦笑して、ペットボトルの中身をすべて飲み干してから側の椅子に座る。そのまま手招きして、私にテーブルの向かい側に腰掛けるよう勧めた。 「まあいいか。占ってあげましょう」  雰囲気たっぷりな部屋なのに、狐目でいつもの可愛い笑顔を披露する浅間君を目の前にすると、全然緊張感がない。 「何がいい? 金運、恋愛運、仕事運、どれでもお好みでどうぞ」 「はぁ」  あまりやる気のない返事をして、私はひとまず椅子に座る。 「うーん……占いっていうより、相談だけど」 「ほう? いいよ、別に」  私も、相性占いなら目を留めたことがあった。ある特定の問題については、私は占いでも何でも、不確かなものに頼ってみたいと願う。 「恋愛相談なんだけど」 「へぇ?」  興味を引かれたらしく、浅間君の目がぐっと細くなる。心なしか、テーブルの上で手を組んだまま前進してきた気がした。 「実は、その」  こういう時、どんな表情をすればよかったんだっけ?  考えてもわからなかったから、私はただの無表情を彼に向けて言った。 「……終わっちゃったんだ。伊沢君と」  浅間君は完全に硬直して、私の顔をまじまじとみつめる。  何度か言葉をこぼしたけど何も適当なものは浮かんでこなかったらしく、長い間を空けてから彼は短く問いかけてきた。 「いつ?」 「昨日。まあ、本当はもっと前なのかもしれないけど」 「なんで? 事情を話してよ」  浅間君は顔をしかめながら言ってくる。私は深刻そうな彼の様子を不思議な気持ちで見返しながら、ゆっくりと話す。 「メールをしたら、届かなくなってた」 「それがどうして終わったことになんの? あいつのアドレスが変わっただけじゃん」  何だかイライラした口調で浅間君が言うから、私は困って首を傾ける。 「浅間君は、伊沢君のアド変更知ってる?」 「一応ね。一週間くらい前に変えてたから」  浅間君は私を見据えながら言う。 「じゃ、ちょっと忘れてて織ちゃんの携帯に変更を送ってないだけでしょ」  私はあいまいに頷いて目を逸らす。そんな煮え切らない私の態度に、浅間君は眉を寄せて口を引き結んだ。 「いいよ。今すぐにでも確認してみよう。意図的に送ってないのかどうか」  彼はポケットから自分の携帯を引き抜く。私は彼をぼんやりと眺めていて……ほとんど無意識に、手を伸ばしてそれを止めた。 「織ちゃん?」 「いいんだ」  どうして自分はこんな平坦な声しか出せないんだろう。もう少し、悲しい様子でも見せられれば、浅間君を苛立たせないで済むのに。  私は浅間君の手首から手を離すと、自分の顔の前で両手を組んで俯いた。 「しばらく自分のことで必死になってて、受験で大変な伊沢君を励ますことも忘れてた。伊沢君が私のことどうでもよくなっても、全然不思議じゃないし」 「あのね、それは」  自虐的な言葉をぼそぼそと呟く私を、浅間君が呆れた様子で遮ろうとする。  けど、私はそれを、目を逸らすことで無視した。 「……私、昨日の朝にね、起きて突然わかったことがある」  白けた空に、まだ太陽が色を与えていない早朝。布団から起き上がり、目を擦りながら唐突に思った。 「私が初めて好きになった男の子は、カズ君だったんだなって」  目を細めて古びたテーブルを見下ろしながら、私は口調を和らげて言う。 「それはずっと続いてたんだ。ぶつかるように遊んでた物心つく前から、東京へ出てきて離れてからも途切れることなく」  口元を歪めて、私は一度目を閉じる。 「だからメールで伝えようと思った。どうして今までそうしなかったのか、自分でも不思議だったくらい、大急ぎで言葉を打ち込んだ」  好きだよ、と。体中が火照るくらいに熱く、痛いくらいに、彼に自分の気持ちを伝えたいと素直に思った。  走るような想いはごまかしているつもりでも、打ち明けるまでは全然自分の中で収まらないものなのだと、私はその時初めて知った。 「けど、上手くいかなかった。言った通り、メールが届かなくて」  自分の送った文章がそのまま返ってきて、私はそれを奇妙に冷静にみつめた。  私は自分を惨めだとか、悔しいとか、やるせないとか、そんな風には思わなかった。ただ、いつまでも黙ってエラーメールを眺めていた。 「いつからだったのかな。いつから、カズ君とすれ違うようになっちゃったんだろう」  独り言のように呟いて、私は目を開く。 ――ぼくね、さっちゃんとあそぶのがいちばん、たのしいよ。  幼い頃、確かにカズ君は私のことを好きでいてくれた。私はそのことをずっと知っていた。 ――うん! さよもたのしいよ。  そして私も、カズ君が大好きだった。  二人でとびきりの笑顔を見せ合うことは、当たり前だった。男の子とか女の子とか、そんなの関係ないくらい、いつも一緒にいた。 「中学で告白してくれた時、ちゃんと向き合えばよかったのかな」 ――ごめん。カズ君とは付き合えない。  それを私は一度踏みにじったのに、好きな気持ちは変わらなかった。何となく時は過ぎて高校を卒業して、彼との距離は遠のいたのに気持ちは走っていった。 「それとも上京する前でも、夏に会った時でも、いっそただのメールでも……もっと早く自分の気持ちを自覚して、カズ君に伝えればよかったのかな」  踏み出せればよかった。私はいつも後ろに下がるばかりで、彼に近づこうとしなかった。  昨日は感じなかった後悔が、徐々に胸を侵食していった。それでも、私は悲しいとは思えなかった。 「そんな曖昧な終わり方、後でただの勘違いだってわかったらどうするの? 織ちゃん、言うだけ言っちゃいなさい」  ほらと浅間君は携帯を差し出してくる。私はそれに首を横に振って、やはり顔を背けた。 「……いいんだ」  自分の声に苦味が入ったことを、私は意識の遠いところで理解する。 「メールが届かないとわかった時、すごくほっとした自分に気づいちゃったから」  ああ、私はタイミングを逃しちゃったんだと、自覚してしまった。  どこまでが間に合っていて、どこからが遅かったのかはわからない。  けれど、疲れてしまった。胸に苦しいジレンマを抱え続ける内に、前進することも後退することもできなくなっていた。 「終わってほしいと思っちゃったんだ、私は」  好きなのは変わりないし、今だって会いたいと願っている。それでも、またカズ君と何か新しい関係を作ろうとは、考える余裕もない。  腰の引けた態度だと情けないくらいだ。けれど、これくらいの自暴自棄なことしか、今の私はできない。 「……しょうがないね、織ちゃんは」  浅間君は深くため息をつく。携帯をポケットに仕舞って、テーブルの上で手を組みなおす。 「ほんと、肝心なところで弱気なんだから。それじゃあ、恋は前途多難だよ」  呆れ口調で言われたことに、私は小さく頷いた。その通りだと思った。 「やれやれ。じゃ、占いますかね」  浅間君は何も持っていなかったように見えた両手から、おもむろにトランプの束を取り出した。様々なカードがあることを見せてからそれを手馴れた様子で切って、浅間君は中身を隠しつつ扇状に開く。 「タロットカードじゃなくて?」 「トランプの方がわかりやすいでしょ。さ、一枚引いて」  何の気なしに、私はその中から一枚を引き抜く。裏返すと、それはハートのクイーンだった。 「まず、織ちゃんね。ハートのクイーン」  浅間君は中身を見ずにカードを当てて、苦笑いする。  アールヌーヴォーっぽい、レトロでお洒落なカードだった。その中に、少し愛想の悪そうなクイーンが、花のツタで出来た鮮やかな冠を被ってそっぽを向いている。 「お姫様ってほど弱くはないけど、一人で国を治めるには心細いこともある。けど頼るほど骨のある人間なんて周りにいないから、結局孤高の人でいるしかない」 「……言ってくれるね」 「占いだからね。で、それテーブルに伏せて置いて」  私が不満げに返すと、浅間君は受け流してカードをテーブルに置くよう示す。私が手に持ったカードを伏せると、浅間君はその上に人差し指を一本乗せて、にっと笑う。  パチンと浅間君は景気よく指を鳴らす。 「はい、開いていいよ」  言われる通りに、私は先ほどのカードを裏返す。それはもうクイーンじゃなくて、スペードのキングだった。 「クイーンが手を取って側にいてほしいと思う人。で、自分より上に立っても許せる人が、キング」  描かれたキングは、物静かな微笑みを浮かべた精悍な男性だった。複雑な文様で彩られた分厚い本を腕に抱えて、知的な眼差しでどこか遠いところをみつめている。 「織ちゃんにとっては、伊沢かな。こういう言い方嫌いかもしれないけど、あいつの前だと織ちゃんは完全に、ただの女の子って感じ」  キングをテーブルに残したまま、浅間君は残りのカードを切り始める。 「出来た奴だよ、伊沢は。頭いいし基本的に誰にでも優しいから、あいつを悪く思うのは難しい」  ふっと笑って、彼は頬を指先で引っかく。 「身近に拓磨さんとかいるから、どうも自覚できないみたいだけど。あいつは俺らの地元じゃ間違いなく、一級の人間だよ。優等生」  滑らかにカードが切られていく様を眺めながら、私はそっと言う。 「引っかかりのある言い方だね」 「まあね。俺、あいつ嫌いだし」  今度はストレートな感想だった。私はそれに眉を寄せようとして、上手く表情が動かないまま首を傾ける。 「友達じゃなかったの?」 「嫌ってても、つるむくらいはできる」  そう言いながらも、心の底から毛嫌いするような感じじゃなかった。可笑しそうに首を竦めて、浅間君は続ける。 「自分の本心はしっかり隠しといて、他人の心の中は上から見透かすようにして掴もうとしてくる。実際、今のあいつが織ちゃんをどう思ってるのかは、俺も全然わからない」  織ちゃんもだろ、と訊かれて、私はためらいながらも頷く。伊沢君の考えはまるで私には読めないのに、確かに私の心は見透かされてるような気がしていた。 「伊沢はいい奴だけど、引っ込み思案な織ちゃんとはちょっと相性が悪いかな。これ、俺の正直な感想」  相性が悪い。そう言われてみれば、間違いなく浅間君の言葉通りだと思った。  ぱん、と手を軽く叩いて、浅間君は両手を裏返す。すると、先ほどまでのトランプの束は跡形もなく消えていた。 「はい、そこで落ちこまない。ここからが本番だよ」  ゆっくりとキングとクイーンのカードを手にとって、浅間君はそれを顔の前で一度合わせる。それから素早く手を擦ると同時に、彼の手から無数のトランプがぱらぱらと落ちてきた。 「うわっ」  私の髪を掠めて落ちていくそれに、私は思わず声を上げる。というか、彼は占いよりマジックの方が得意じゃないかと思った。  ようやくカードの雨が止むと、私はそれらをまじまじとみつめる。そこには、様々な模様のキングが無数に落ちていた。 「見ての通り、カードはまだまだたくさんある。世の中、伊沢に匹敵する男も山ほどいるってこと」  何だそれはと私が顔を上げると、浅間君はにやっと笑う。 「何? 大量生産みたいなキングは好きじゃない?」 「いや、まだ何にも言ってない」 「贅沢だねぇ、織ちゃん。ま、けどそれが普通の人間の感覚かな」  文句を言う機会を失って、私はぐっと口をつぐむ。  浅間君はカードを掻き分けながら、けれど目は私を見据えたまま手を動かす。 「織ちゃんに似合うのは、きっとこういうのだと思うんだよね」  しばらく手を休みなくカードの束にくぐらせていた浅間君が、やがて手元を見ることもなくキングのカード群の中から一枚のカードを取り出す。  それを目の前に示されて、私は不思議そうに問いかけた。 「……ダイヤのエース?」 「そ。マークも正反対、数字からいっても超弱小カードの、『イチ』」  カードの向こうで浅間君が目を細めて、じっと私を見据える。 「誰がどう見ても優良なカードじゃなくて、下手をしたら誰にも見向きもされないかもしれないもの」  浅間君は口元を緩めて言った。 「でも恋愛はそういうもんでしょ。織ちゃんだけの『一番』ってことで、十分なんだよ。全然冴えなくて、かっこわるい男でもいいわけ」  私は一瞬迷って、眉を寄せながら返す。 「そういものかな」 「うん。ちゃんと、どこかにいるよ。キングを負かせることのできる、『エース』」  根拠のない言葉だと、笑い飛ばす気にはならなかった。冗談のように言うならともかく、浅間君は笑顔だけど口調は真剣そのものだったから。  絵も描かれていない、シンプルで未知なるエース。キングを唯一、上回るかもしれない人。  ……一瞬頭をよぎったのは、いったい誰の顔だったか。 「なかなか難しいかもしれない。一人に限定して考えてた織ちゃんには、いきなり頑張って探すんだよなんて言っても」  そこで、浅間君は初めて目を逸らした。  妙な間を空けてから、彼はトーンを落とした声で言ってくる。 「ところで織ちゃん。ポケットに何か入ってない?」 「え?」  唐突な質問に、私は訝しみながら自分のポケットに手を突っ込む。元々かなり小さくて財布も携帯も入らないから、いつも空っぽのはずの場所だ。 「あ」  何か入ってる。  硬い紙の感触を受けて、私は恐る恐るそれを引っ張り出す。 「ジャック?」  いつの間にと驚きながらも、私は穴が空くほどカードをみつめた。この部屋に入ってから浅間君が私のポケットに手を触れる機会なんてなかったと思うし、私は何も入れた覚えはないのだから。 「ジャックは、クイーンに並び立つにはあんまりに役不足なカード」  浅間君はテーブルの上に落としていた無数のカードを、丁寧に集め始める。 「数からしても弱いし、王様とか女王様とか名前のついてるカードに比べると、ジャックって所詮はただの男だしね。ナイトなんて名ばかりだよ」  彼は顔を上げて、そこでようやく私を見た。  穏やかで静かな眼差しを受けて、私はざわりと胸が騒ぐのを感じた。 「……でもそんな野郎でも、クイーンの役に立つことはある」  この部屋で私は浅間君と二人きりだということを意識した。大学のサークル部屋より遥かに広々としているのに、なぜか浅間君と私の周り数センチくらいしか空間がないように感じる。 「織ちゃん。俺と付き合わない?」  浅間君が自然と口にした言葉に、私はぴりぴりとこめかみの辺りが痺れるような鈍い感覚を受ける。それと同時に、大波に揺られるような、どうしていいかわからない呆然とした感情が湧き上がってくる。 「つなぎでいいよ。織ちゃんが、エースを見つけられるまでの埋め合わせくらいで」 「……そんなの」  浅間君に悪いよ。そんな優しさ、自己犠牲が過ぎるじゃないか。  そう口を開いて反発しようとした私に、浅間君はゆっくりと頷く。 「ま、俺もまさかこんな提案をする日がくるとは思ってなかったんだけどね」  彼は口元を歪めて、どこか自嘲的に笑う。 「俺って織ちゃんのこと、ずっと大嫌いだったからさ。伊沢とは逆で、ガキの頃からほんっとーに嫌いだった」  幼い頃からという言葉に違和感を抱く。  私と浅間君とは高校で初めて同じ学校になって、部活で知り合った。その前から伊沢君と友達だったらしいから名前くらいは知ってたかもしれないけど、そんな素振りはどこにも見せなかった。 「私、何かした?」 「ほら、そういう所が嫌い」  指摘されて、私は首を傾げる。不思議そうな顔をする私に、浅間君は苦笑しながら続けた。 「織ちゃんは、何にもしなかったよ。何も反応しない、嫌な女の子」  浅間君は淡々と言葉を紡いでいく。 「織ちゃんが拗ねたり、甘えたり、怒ったりするのは拓磨さんだけで、下手をしたら伊沢だってほとんど無視。そんな子、普通の男が好きになれると思う?」 「……それは」  嫌かもしれないと思って、私は眉を寄せる。  確かに幼い頃から私は兄にべったりで、男の子たちが話しかけてきてもほとんど視界に入れることすらしなかった。その中に浅間君もいたとしたら、私のことをやっかんでいても無理はない。 「俺って織ちゃんの友達と付き合ってること多かったんだ。中学の頃とか、高校の時も。でも織ちゃんは、部活以外で俺の存在に気づくことはなかっただろ? つくづく、人を舐めるのもいい加減にしとけって感じだったかな」 「あー……」  謝ろうとして口を開いたけど、言葉が出てこなかった。今更そんなこと言っても遅い気がしたし、それに浅間君が謝罪を求めているわけじゃないこともわかっていた。 「中学の運動会で伊沢としゃべってても俺のことは完全無視。小学生の頃に拓磨さんにバスケ教えてもらってても木陰で昼寝中。田舎なんだからいろんな場所で接触あったのに、織ちゃんって子はいつも拓磨さんの後ろで黙ってるだけ。すごくイライラして、絶対いつか見返してやるって思ったね」  そう言いながらも、浅間君の口調は陽気だった。過去に苦い思いを抱いているとは、見た感じで全然読めない。 「でも大学に入ったら、織ちゃんは変わってさ。まあ色々理由はあったんだろうけど……なんだこの子、ちゃんと本気で怒ったりできるんじゃないかって、今まで俺が持ってきた織ちゃんイメージがあっけなく壊れて、何か呆然として」  浅間君は眉を寄せて、口元には堪えきれないような笑みを浮かべたまま私を見る。 「……やっとわかった。結局、俺は織ちゃんを好きな自分が、嫌いなだけだったんだよ」  私が瞬きもせずに彼をみつめていると、浅間君は困ったように言う。 「俺、恋愛って楽しいもんだと思ってたんだ。ずっと」  小さくため息をついて、彼は目を伏せる。 「いろんな子と付き合って、実際楽しかったから。何かイライラしてどうしようもなく苦い気持ちっていうのが、まさか好きっていうことだとは知らなかった」 「……そうなの」 「でさ、皮肉だけど、そのこと教えてくれたのはあいちゃんなんだ」  浅間君は眉を寄せて、私から目を逸らして呟いた。 「『要するに、あなたはナンパの法則に則って動いてるだけなんだよ』と言われてさ」 「ナンパの法則?」  奇妙な言葉に頭がこんがらがるのを感じて、私は首を傾げる。 「男にありがちなパターン。本命の隣にいる女の子に、あえて話しかけてみるという弱気な法則。と、あいちゃんが言ってた」  そう可笑しそうに零す浅間君に、私はあいちゃんの真意を読めないまま黙る。 「ま、つまり、あいちゃんは俺が馬鹿だねって言いたかったんだよ。織ちゃんのことを引っ込み思案だとか恋愛下手だとか散々言っておいて、自分が一番寄り道ばかりしてる奴だと。別れ話ついでに仰ってね」  容赦ないあいちゃんの理論に私が目を回していると、浅間君は神妙に言ってくる。 「残念ながら、それは少しだけ外れだったけど」  私が顔を上げると、そこにあったのは浅間君の苦々しい表情だった。 「俺、あいちゃんが本当に好きだったってことも、その時ようやく気づいたからさ。実際、今でも未練たらたらなんだよね」  浅間君は悲しみの色を顔から拭き取る。 「……だけど俺が順番を間違えてたってのは、本当。いつの間にか織ちゃんにしてた初恋を、まず始めなきゃ次になんて進めるわけなかった」  黙って目の前に座ったままの私に、浅間君は目を細めて穏やかに言う。 「俺、織ちゃん好きだよ」  短くて、どこまでもストレートな言い方だった。色々と考えを巡らす浅間君らしくない、飾り気のない言葉だった。 「織ちゃんが他の誰かを好きでも、付き合うとかそういうこと嫌いでも、冷たくても優しくても何でも、好きだよ」  私だって、浅間君のことは好きだ。特別な人として、側に居てほしいとずっと願ってきた。  けど、それは間違ってる。恋人としてじゃなくて、ただ安息の場所として寄っていこうとしているだけだ。  今、私はどこか感覚が鈍くて頼りない気分でいる。そのどうしようもない気持ちを、誰かに押し付けようとは思わない。  私はこれに一人で耐えなきゃいけない。甘えちゃ、駄目なんだ。 「織ちゃん。これ、どうぞ」  ふわりと首の周りを温かなものが包んだ。  マフラーだった。真っ白で、銀糸でシンプルな猫の刺繍がしてある。  私は可愛らしいそれに一瞬見惚れて、すぐに浅間君へ目を戻した。 「一日早いけどね。ま、前祝ということで」 「で、でも。私何にも」  千夏ちゃんもそうだった。私はクリスマスだというのに何も用意していない。 「織ちゃん、そう難しく考えないで」  私の首にマフラーを引っ掛けたまま、両端を引っ張る。少しだけ私は前のめりになったけど、浅間君はそれ以上近寄ろうとはしないで、ただ笑った。 「あげたいなって、俺が思ったからあげるんだよ。織ちゃんが寒そうな格好してるから」  目元を和らげて、浅間君はゆっくりと言葉を紡ぐ。 「寒そうな顔してる。それを何とかしたいって思うのは、俺の勝手じゃん」  浅間君はじっと私の目を覗きこむ。 「……織ちゃん。春はちゃんと来るよ」  その漠然としたイメージに、私は知らず小さく震える。  光の舞う季節。たくさんの命が芽生える、優しくて力強い時。 「今は寒くてどうしようもなくても、ちゃんと暖かい時期は来る。それを織ちゃんが信じられないって思うなら、俺が見せてあげる」  なぜか私は、その優しい言葉に耳を塞ごうと手を上げた。聞きたくないと、そんなの来なくていいと、心に鍵を掛けようとする。  そんな私の手を浅間君は両手で捕らえて、私の揺れる目をしっかり見返す。 「楽しいことに浮かれること、幸せな出来事を素直に喜ぶこと、それって全然悪いことじゃないんだよ。今の織ちゃんは、それを忘れてる」  一瞬だけ苦しむような目になって、だけどすぐに温かな表情を浮かべて浅間君は言った。 「俺のできる限りで、織ちゃんがそのことを思い出せるように頑張るから。織ちゃんは気を楽にしてさ、俺と一緒に遊びに行くだけでいい」  席を立って、浅間君は私を見下ろす。 「さて、天気がいい今のうちに、外へ飛び出しますよー」  私はまだ困っていた。全身で励ましてくれる浅間君に感謝以上のものを感じながらも、どうしていいかわからなかった。  告白に応えなくていいのかと浅間君を見ても、彼はそんなこと気にも留めていないようで、ただにこやかに私を急かすだけだ。 「ほーら。ぐずぐずしない」  浅間君はひょいと多少強引に私の手を取って立たせる。  私は突っ立ったまましばらく目を泳がせる。  やがて一つ頷いて、真昼の空の下へと浅間君と一緒に繰り出して行った。  アトラクションの間を爆走した千夏ちゃんとは逆に、浅間君とはゆっくりとショッピングをして午後を過ごした。浅間君が勧めてくる乗り物ものんびりしたもので、午前中に消耗した体力を気遣ってくれたようだった。 「おーりちゃん。どうよ、俺って猫耳似合う?」 「うん。わりと」  お土産コーナーで浅間君とおどけているのは気楽で、胸に圧し掛かる得体の知れないものをふと忘れた。 「でも織ちゃんの方が、猫はイケるなぁ。いいよ、マジで」 「何か邪心入ってない?」  私は何度も表情を緩めそうになったし、胸の奥に温かいものが広がるのを感じた。  けど、どうしてもその気持ちを口にしようとすると、喉で止まってしまう。  こういう時どう言えばいいのか、言葉にする前に絡まって途切れる。  黙ってしまう私を急かすこともなく、浅間君は話しかけてくれた。私はそれに申し訳ないと思いながらも、側にいるのが心地いいと感じていた。 「曇ってきたね」  五時だというのに空は灰色に染まっていた。私は立ち止まって空を仰いで、何か言おうとして口をつぐんだ。  あの雲の形、この空気の匂いを知っている。  ……そろそろ、降るなと思ったのだ。 「そろそろ行きますか。俺の担当、この辺でおしまいだしね」 「担当?」  そういえば千夏ちゃんも同じことを言っていた。  私は訝しげに浅間君を見上げながら、出口へと歩き出した彼についていく。 「そ。織ちゃんを独占できる時間だよ。千夏ちゃんは朝で、俺は昼」  まだ不思議そうな顔をしたままの私に、浅間君は苦笑して頷いた。 「みんな心配なんだよ。織ちゃんに元気出して欲しくてさ」  私は返す言葉が思い浮かばなくて、ただ黙る。  そのまま浅間君とテーマパークを後にして、地下鉄でいくつかの駅を通り越した。途中で寮の方向とは違うことに気づいたけど、私は別に帰りたいわけじゃなかったから何も言わなかった。 「六時五分前。いい時間」  浅間君は時計を確認しながらそう呟いて、私を連れて駅の外へ出る。  見渡す限りの人混みで、もう真っ暗だというのにやかましいほどだ。駅周辺の木々は煌びやかなライトが無数に付けられていて、巨大なツリーも待ち合わせ名所代わりに立っている。 「渋谷」 「うん。今日は特に、嫌になるくらい騒がしくなる場所」  浅間君の言葉を聞いて納得した。  彼や千夏ちゃんは、今日一日私がしんみりとした気分にならないように励まそうとしてくれているらしい。派手に祭りが繰り広げられて、眩しい程の光の洪水に囲まれていたら、私が寂しくならないだろうと。 「そっか。ありがとう」  ……別に、寂しいわけじゃない。ただ、何も感じないだけで。  浅間君は私を人波から庇うようにして、人の比較的少ない植木の側に連れてくる。そこはスクランブル交差点から一本脇へ入ったところで、ちょうど巨大な電光掲示板が頭上高くに見える場所だった。 「じゃ、後はこの辺に詳しいあいつに任せるよ」  それが誰かとは、訊くまでもなかった。  浅間君は最後にしっかり私にマフラーを巻きつけて笑い、足早に人混みの中へ消えていく。  ネオンが眩しい。人の表情も明るくて、ぴりぴりと頬を掠める冷気など感じていないように皆楽しそうに言葉を交わし合う。  メリークリスマス。そう囁きながらサンタクロースの格好をしてチラシを配る人がいて、道行く人たちもはしゃぎながら歩き去っていく。 ――いい子にしていればね、サンタさんがプレゼントくれるのよ。  優しい希望をいつも忘れなかった、美幸ちゃんを思い出す。 ――くれる? さよにもくれる? ――もちろんよ。  私はぼんやりと植木の脇に腰掛けながら彼女の言葉を聞く。  瞬間、心の中をざわりと駆け巡るものを感じた。  それを振り払うようにして狭い空を仰ぐと、私は思わず目を見開く。 「わぁ、最高―」 「ホワイトクリスマスじゃんー」  道行く女の子たちがはしゃぐ声も、どこか遠いところで聞こえる気がする。  闇に沈んだ空に浮かび上がる、儚げな花。……真っ白な、ユキ。  舞い落ちるそれを呆然とみつめながら、私は電光掲示板が眩しいほどに光り輝いたのを視界の隅で認める。 「『シングルチャート、三週連続、一位は』」  周囲の人々が電光掲示板を振り返る。期待するような、浮き立つような、そんな声が聞こえる。 「『イリヤの、「トロイメライ」』」  聞き覚えのあるメロディが流れ出す。しっとりとした深みのある声と、美しい過去の思い出を静かに回想する、哀しみの歌詞が重なる。 「イリヤ、ピアノ上手いよな?」 「これレンが作ったんじゃないんだって。綺麗な曲だよね」   私は掲示板から目を逸らす。  入谷君の「イリヤ」としてのデビューへの贈り物として、私はこの曲を捧げた。シンプルで静かなピアノの伴奏に、入谷君の詩を乗せてほしいと。  私が指定したのは、「トロイメライ」という題名だけ。それにメロディを添えて渡しただけのはずなのに、入谷君はちゃんと私の思っていた通りの歌詞を付けてくれた。 「でも悲しい歌だね」  ……美幸ちゃんとの還らない日々を、胸を締め付けるほど渇望する歌として、歌ってくれた。 「織さん」  ふいに呼ばれて、私は空を仰いだまま目だけを動かす。ちょうど人混みをくぐりぬけて、そこから久方ぶりの男の子が近づいてくるのが見えた。 「ごめん。遅れた」  いいよと私は首を横に振って返す。そのまま、私はまた白い世界へ目を戻した。  ざわめきの中を流れていくメロディと、舞い落ちる白い花たち。  隣に腰掛けた入谷君と共にそれを感じる。二人とも、何も口にすることのないままだった。  たぶん入谷君は私を遊びに連れていってくれようとしたんだろう。けど今の私がそういう気分にないことを察したらしく、隣に座ったまま彼も私と一緒に空を仰いでいた。  頬を掠めるようにして落ちていった一片の白い花を意識して、私はぽつりと呟く。 「……今頃、実家は雪で埋もれてるだろうな」  入谷君が振り返る気配がした。 「音が聞こえるんだ。雪が降る音。こんな粉雪じゃなくて、花の形が見えてくるような、鮮やかで綺麗な雪だから。真っ白で……」  入谷君は何も言わないけど、私は続ける。 「たくさん、降ってくるから。それで、保育園くらいの小さい子から高校生まで、皆で遊ぶ。けど私は病弱だったからなかなか混じれなくて、いつもお土産を待ってた」 「お土産?」  目の前に薄い膜が張られていく。記憶が遠く、懐かしい頃にさかのぼっていく。 「……うん。美幸ちゃんが、かわいい雪うさぎを作ってきてくれるのをずっと待ってた」  差し出された可愛いうさぎが目の前をよぎる。 「私が元気になったら、今度は私が作る番だった。綺麗なところの雪をかき集めて、笹を耳、南天の赤い実を目にして、美幸ちゃんの家の窓枠にたくさん並べた。溶けないように、たくさん」  そして願っていた。私が元気になったように、美幸ちゃんも健康になって、一緒に外を走り回るのを夢見ていた。  約束したから。雪が降ったら、毎日でも遊びに行こうと。  ……約束したんだ。 「真っ白なんだよ。ひらひら舞う桜の花びらみたいで、天からの贈り物みたいに、私たちの所に次々落ちてくる」  自分が何を言っているのか、段々わからなくなってきた。  ただ白い色に目を奪われて、全身を締め付ける思いに、抵抗できなくなっていた。 「こんなんじゃ、ないんだ……」  雪は、もっと綺麗で、もっと優しい。  こんな水気の多い氷じゃなくて、綿のように、羽毛のように包んでくれるもの。  ……視界も、体も、心も、すべて埋め尽くしてくれるものなんだ。  耳はもう何も聞こえない。辺りはすべて真っ暗で、ただぼんやりと空を仰ぐだけ。 「こんな……」  世界はゆらりと歪んだ。  還らない日々は唐突に消えて、音楽も凍えるような冷気も、何もかも感じなくなる。  何で私はここにいるんだろう。どうしてこんなところに来てしまったんだろう。  唐突に、私は胸を貫く痛みを感じた。  私は白いはずの空を仰いで、掠れた声で呟く。 「こんなはずじゃ……なかった……んだ……!」  突然、揺さぶられるような衝撃があった。  暗かった視界が晴れて、白い輪郭が映る。凍えそうなほど強張った体を、温かな何かが強く抱え込む。  いつの間にか入谷君が目の前に立っていた。屈みこんで、痛いくらいに私の頭を抱きしめてくる。 「どうしたの?」  自分でもあっけないほど、感情のない声が出た。入谷君の肩越しに舞い散る雪をみつめながら、私はぼんやりとする。 「入谷君ってば」  ここがどこだったか、それすらよく思い出せなかった。とりあえずのろのろと腕を伸ばして、またゆっくりと下ろす。  何だか温かいと思った。黒いコートの袖の感触は案外柔らかくて、耳に触れた入谷君の髪も同じだった。 「……織さんは、よく頑張ったよ」  声がすぐ側で聞こえた。頭に直接響くようだった。 「美幸さんが欲しがる音楽を、一生懸命見つけようとした。手を壊すくらい練習もしたし、やつれるくらいに必死になってた」  壊れ物を扱うように、入谷君の手が私の頭をゆっくりと撫でる。 「頑張ったじゃないか。誰よりも」  私はその声を聞きながら、また降り出してきた雪を空ろな目に映す。  ああ、綺麗な雪だ。でも、私には掴めない。 「だから、だからさ」  駄目なんだ。手を触れては、汚くなってしまう。  入谷君が、ぐっと私の頭を胸に押し付けて言う。 「……もう、おもいきり泣いてもいいんだよ」  誰も責めやしないじゃないか。  入谷君は苦しそうに呟いた。  私はそれを聞いて、違う、と小さく否定する。  世界中の誰も責めなくても、私は自分を責めることは止められない。  私が今こうして何気なく生きていること自体が、許されないものだと思うことを、どうしても考えなくてはいられなかった。  根拠のない空想であっても、もし私が幼い頃に死んでいたら、美幸ちゃんが助かっていたような気がしてならない。きっと私以上に皆に愛されて、彼女自身もたくさんの幸せを振りまいて、そして笑っている光景が、何度も目の前をよぎる。  その未来を、もしかしたら私が奪ってしまっていたとしたなら。 「泣けないよ」  私は入谷君をゆっくりと離しながら、ぼんやりと言葉を零す。 「私じゃ、駄目なんだ……」  そんな資格はないんだ。悲しむことなんて、しちゃいけない。  入谷君は私の肩に手を置いたまま、体を離す。  彼は泣きそうな顔をしていた。眉を寄せて口を歪めて、目は微かに滲んでいた。 「どうしてそんな顔するの?」  私が不思議そうに問いかけたら、入谷君は一粒だけ涙を零した。それは綺麗な筋を作って、私は思わずその雫を目で追ってしまった。 「悲しいから」  彼は顎から地面へ落ちていく雫のように、言葉を零した。 「織さんが悲しいって気持ちを出せないでいるのに、僕ら、何にもできないから」  私は今朝からの出来事を思い出していた。 ――来年も、こうして遊びに行こ。  千夏ちゃんも、浅間君も、はしゃいで笑っていた。私の反応が鈍くても、時々何の前触れもなく黙りこくってしまっても、決して私を責めることはなかった。 ――幸せな出来事を素直に喜ぶこと、それって全然悪いことじゃないんだよ。  だけど今の入谷君みたいな顔を、まばたきするような一瞬だけ見せたと思うのは、私の気のせいだっただろうか。 「なんで、そんな我慢するんだよ。いい人ぶるのもいい加減にしなよ」  入谷君は、いらだたしげなのに少しも私を責める様子のない、そんな奇妙な焦燥感をはらんだ口調で言葉を吐き出す。 「辛くて当然じゃないか。泣けばいいじゃないか」  私は辛かったんだろうか。泣きたかったんだろうか。 「悲しんで、どうしていけないんだよ……!」  私は呆然と空を仰いでいた。入谷君は私の頭をまた抱えて、掠れるような嗚咽を漏らしていた。  伝わってくる微かな脈動に、私はふと気づく。  そうか、私は辛かったのかと。  誰に言われてもぴんと来なかったのに、私は入谷君と触れた瞬間、それを素直に受け入れられた。  泣けないけど、悲しむ顔もできないけど、それでも自分がとても苦しいんだということは、初めて理解できた。 「……ねぇ、あの子……」 「似てない? ……その、ほら……」  周囲にざわめきを感じ始める。入谷君と私に、少しずつ注目が集まりつつある。 「織さん。これ」  ぐす、と入谷君は一度鼻をすすって、無愛想に鞄から取り出した帽子を私に被せた。耳まですっぽりと包み込んで、さらに押し込んでくる。 「撤退するよ。ここ寒いし」  それはやっぱり真っ白な毛糸で、銀糸の刺繍がしてある可愛いもので、私は顔を奇妙に歪める。 「君が被りなよ。人が見てる」  一応帽子を取ろうとしてみたものの、入谷君は聞き入れずにさっさと私の手を取って立たせた。  そのまま、行き先も告げずに足早に人混みを潜り抜けていく。まるで、猫が自分だけの近道を行くみたいだった。 「前、見えないんだけど」 「文句言わない」  真っ白な帽子だけど、目まで被せられては視界が完全に閉ざされてしまった。それも顔を隠して人に見られないようにしようという心遣いだとはわかっていたから、もう抵抗しなかった。 「三人でプレゼントはありがたいけど。私、明日までには返せないよ」  手袋と、マフラーと、帽子。どう見ても皆で相談したのがわかる、白い猫の防寒シリーズだ。 「クリスマスイブに、そんなにこだわるとは思ってなかったし」  年に一度の祭典だけど、こぞって祝ってもらえるとは考えていなかった。  私が困ったように呟くと、人波の騒音の中でもその小声を聞き取ったらしく、入谷君が振り返る気配がした。 「違うよ」  ちょっとだけ可笑しそうに、彼は私の手を握りなおしながら言う。 「明日のクリスマスは、織さんの生まれた日だろ」  閉ざされた視界の中で、私は微かな光を見た気がした。 ――さっちゃん。これあげる。  どうしてか、私は忘れていた。  十二月二十五日、年に一度のその日を。 ――お誕生日、おめでとう。  ……クリスマスイブが明けた朝、私は生まれたのだから。 「忘れちゃ駄目だよ。一番、大事な日じゃないか」  手袋越しに伝わる入谷君の手がとても暖かくて、帽子に守られた耳に響く声も、とても優しかった。  後はお互い何も言わなかったけれど、繋いだ手は離さなかった。  舞い散る雪の冷たさも、頬を掠めていく北風も感じていたけど、寒いとはもう思わなかった。  その夜、私は生まれて初めて男の子と一緒に寝ることになった。  なぜと自分に問いかけてみても、当の相手である入谷君に訊いても、おそらくは同じ答えが返ってきたと思う。  入谷君の新しいマンションのリビングで二人寝転がりながらテレビを見る。妖しいムードとか全然ないただのバラエティー番組だった。  たぶん理由なんてほとんどなかった。涙の滲んだままの入谷君を見ているのが心苦しくてどうにかしたくて首に腕を回して、そうしたら入谷君がキスしてきて、で、あとはなだれ込み状態。  ……要するに、成り行きとしかいいようがない。 「ジュース飲む?」 「うん。あ、炭酸じゃないやつ」 「僕も嫌いだから無いよ。大丈夫」  だけど不思議と後悔はなくて、入谷君の様子もこれ以上ないくらい普通だった。  ペットボトルごとジュースを持ってきて、入谷君はテーブルの上でそれを分ける。 「温度下げる?」  行儀悪くテーブルに頬杖をついてジュースを飲む私に、入谷君が背中でもたれながら言う。 「暑いなら離れなよ。エコロジー」  私も負けじと背中で押しつつぼやく。どうでもいい会話だと、自分に呆れる。  けれどお互い相手をひきはがすこともなく、暫く不毛な押し合いを背中でしていた。別に、そういうのも不快ではなかったけど。  頭を肩につけて脱力する私を、入谷君はそのままにしてテレビを見ていた。  一息ついて、私はコップを手に持ったまま唐突に呟く。 「思うに、やっぱ入谷君は私の兄なのかも」 「ん?」  振り返る入谷君に、私はジュースを飲みながら続けた。 「何か、猫同士じゃれあってるような感じだったから。普通さ、もっと照れたりときめいたりするものだと思うし」 「へぇ」  我ながら夢見がちだと自分に苦笑しながらこぼした言葉に、入谷君は至極真面目に頷く。 「そうかもね。でも別に不都合とは思わないよ。普通にできるし」 「おい」 「気にしない、気にしない」  はは、と笑われて、私は少し深刻に考えた自分が馬鹿らしくなった。  そんなものかもしれない。私は入谷君に触れたいと思ったし、彼もそう思った。その感情以外に、他に何か必要なものがあるわけじゃない。  それに、私にはわからない。長い間実の兄として育ってきた赤の他人と、ずっと他人として育ってきたもしかしたら本当の兄、それのどちらに触れたいと思ったら、不健康なのか。 「何か今、難しいこと考えなかった?」  気づけば私の隣に、入谷君が座っていた。テレビを消して、ひょいと私を覗き込んでくる。 「気楽になろうよ、織さん。用法と用量を守ってやれば、セックスは楽しい」  同意するのは迷いがあったけど、まあいいかと思った。  片付けるには難しい問題で、今は放置しておくしか私には解決策がない。  なにぶん初体験の身なので楽しいとも何とも思わなかったけど、入谷君は無茶を強いたりしなかったし、守るところは守っていた。お互いできちゃった結婚をした親を持つだけあって、その辺は神経質だ。 「織さん? 寝たの?」  そうでなくても、こうして肩に寄りかかる感触は気持ちいい。微かに触れる細い髪とか、それなりに鍛えられて張りのある肌とか、抵抗なく受け入れられる体の匂いとか、そういうのが安息をもたらす。  目を閉じて黙りこくった私に、入谷君はふいに真面目な声で切り出す。 「……実は僕、来月から母さんが住んでるニューヨークに行こうかと思って」  私が目を開くと、彼は困ったように呟く。 「せっかくソロデビューするなら、歌を真剣に勉強してからの方がいいって言われて。父さんも勧めてくれたし、僕も一年くらいならいいかなと」 「いいじゃない」  やっと真面目に練習する気になったのか。私は驚きと少しばかりの興奮を持って彼に体ごと振り返る。 「頑張れ。皆で応援するよ。一年といわず、二年でも三年でも」 「ちょっとは引きとめようよ、織さん。寝た男が旅立つって言うんだからさ」  呆れたように入谷君はため息をついて、天井を仰ぐ。 「まあ、でも。そういう人なのは嫌っていうほど知ってるし。今更か」  やれやれと肩を竦めて、入谷君は後ろに寝転がる。見事にクッションに頭を下ろして、彼は目を細めて私を見た。 「それでさ、織さん。浅間君と付き合いなよ」 「は?」  意味がわからなくて私は瞬きをする。  何がどう繋がってそこで浅間君の名前が出てくるのか。私には、だいぶ理解したとはいえ入谷君の不思議な思考回路は未だに読みきれなかった。 「浅間君なら、織さんがまた元気になるために全力を尽くしてくれるだろうから。最高に楽しい彼氏になってくれると思うよ」  私は眉を寄せながら言う。 「なんで知ってるの?」 「浅間君本人に聞いたよ。さっき、織さんを迎えに行く前に電話で」  頭が追いついていない私に、入谷君は頭の後ろで手を組みながら愉快そうに続ける。 「心配ないって。僕とこういう関係になっちゃっても、今の織さんの心理状態なら何しても許されるから」 「え? いや、あの」 「浅間君なら許すよ。あの人、織さんのことならたいていのことは大目に見てくれる。駄目でも、僕が一度くらい殴られてあげれば何とかなるはず」  畳み掛けるように言ってから、入谷君は口元を歪める。 「……ちょっとね。今の僕じゃお子様すぎて、織さんを楽しませるまではいかないと思うんだ」 「君が?」 「うん。今の織さんはね、いっぱい笑わせてくれる、楽しい人が必要。それは僕じゃない」  自分を納得させるような言葉に私が顔をしかめると、入谷君は少し吹き出して笑った。 「何、深刻な顔してんの。僕だって、向こうで可愛い女の子いっぱい見つけて、すっごいモテるかもしれないじゃん」  軽く笑い飛ばして、入谷君は私を見上げたまま言う。 「織さんだって、別に浅間君で終わりにしなくたっていいだろ。元はいいんだから、二、三年もする内に魔性の女みたいになってるかもしれない」  反論の余地は山ほどあったけど、入谷君があまりに穏やかに私を見ているから口にすることができなかった。 「先のことなんてわからないよ、織さん」  優しい言葉だった。千夏ちゃんや浅間君と同じ、労わりの心遣いが透けて見えた。 「全部終わりだ何だって、今決めなくてもいいじゃん。音楽もさ、せっかくシングルチャート一位になるようなやつ、作れたんだし。これからも作り続ける限り、まだまだ名曲が生まれるかもしれないし」  手を伸ばして私の髪に指を絡めながら、入谷君は顔を歪める。 「……きっと美幸さんにも届いたよ。僕はそう信じる」  あの白い空の向こう側から、美幸ちゃんが見ていてくれたなら。  さっちゃん、いい曲ねと、微笑む顔が容易く想像できてしまう間は、私はまだ音楽を捨て去る勇気は持てない。 「うん」  私がうなずくと入谷君は笑みを濃くして、ぐいと私の肩を引っ張って後ろ向きに倒した。 「……ただ、一つ言っておくけど」  空気が変わったと、私は遅れて理解する。  体を半分だけ起こして、入谷君は私を上から見下ろす。 「ちょっとの間だけだから、浅間君には」  変な風に背筋が緊張した。  幼さも残るし、決して荒々しい感じはないのに、なぜか入谷君は男の子だと、私は耳鳴りと共に思った。 「自分がこれほどしつこい人間だとは、今まで全然知らなかったけど。本当は腹立って仕方ないんだよ。織さんの横に男がいると」  軽く私の頭に触れて、入谷君は屈みこみながら呟く。 「誰と付き合っても、誰と寝てもいいよ。でも離れてくなんて、許さないから」  そう微笑みながら言った入谷君に、なぜか私は素直に頷いていた。  ちょっとだけ口の端に笑みを浮かべながら、私は言う。 「……うん。わかったよ」  厄介な鎖が出来てしまったなと思った。  家族以外に誰かを繋ぐなんて思いもよらなかったのに、家族以外に繋がれてしまったような気がする。そして私も、嫌になるくらいそれに引っ張られている。  恋とか友情以外の言葉で括られるはずの、ひどく面倒な縁。  それが生まれたことに、私は呆れて、苦い思いを抱いた。けれどそれがとても愛おしく感じることも、その夜胸に刻み込むことになった。
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