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2 黒猫
寮の自室で、私は上京の時に実家から持ってきたDVDを見ていた。
『羽島美幸です』
柔らかく色素の薄い茶色の髪が、ふわりと画面の向こうで揺れる。
白い肌に、ほんのり紅に染まった頬はどんな精巧な人形よりも可愛らしくて、スポットライトの下で優しい輪郭を帯びていた。
病弱だったけれど、まだ自分の足で歩いていた頃の美幸ちゃんだ。
慣れた様子で綺麗な礼をして、白いドレスを流しながら椅子に腰掛ける美幸ちゃんを食い入るように見つめる。
心臓が高鳴った。幼い頃、初めて彼女のピアノを聞いた時と同じように。
彼女が最初の鍵盤を押した瞬間に、私は全身が突き上げられるような痺れを感じた。
指は滑るように鍵盤を走り、音は一つ一つが翼を持っているように空を飛び回る。場に存在する誰をも彼女の世界に吸い込んでいく。
幻想即興曲。ショパンの曲の中でたぶん一番有名で、多くの人々がそれをいかに美しく弾くかを苦心してきた、難易度の高いピアノ曲がヘッドフォンの向こうから流れ出る。
美幸ちゃんは十歳に満たない年で、それを完璧に弾きこなしていた。成長してから色々なCDを聞いたけれど、私は彼女以上にこの曲を優雅に、輝く翼を持たせて弾いた人を知らない。
『みゆきちゃーん』
ビデオカメラの前で、今と同じように彼女に圧倒された幼い私が、パチパチと一生懸命手を叩いて走っていく。
『すごいの。みゆきちゃんがいちばんじょうずだったの』
『ありがとう。さっちゃんもよく頑張ったね』
よしよしと頭を撫でてくれる美幸ちゃんに、私は満面の笑顔を向けて花束を渡す。
美幸ちゃんは天才だった。この年開催された全年齢対象のピアノコンクールで、彼女は八歳という最年少でありながら県大会を優勝したのだ。審査員は総立ちになり、こぞって彼女の輝かしい未来を祝福した。全国優勝も間違いないと言われていた。
……そして全国大会の三日前、悪夢のような発病で半身不随になったのだ。
私は輝かしい過去をぼんやりと瞳に映して、ひらひら揺れる熱帯魚のような美幸ちゃんを目で追っていた。
彼女はこの時、自分に起こる出来事を予想できたのだろうか。いや、予想できても意味がわかったのか。実際に今だって、自分の病気がどんなものか理解していないかのように、いつも笑いかけてくれるのに。
でも、苦しかったに違いないのだ。舞台の上で人々に拍手してもらえる時、美幸ちゃんは彼女が見せる最高の表情をしていた。二度とそこに立てないとわかった時にどれだけ悲しかったか、私には想像することすらできない。
空ろにパソコン画面を見守るだけの私は、画面の中の光が眩しくて仕方がなかった。
私は停止ボタンをクリックして、記録を止める。
この元のビデオテープには、私の発表会のピアノ演奏が入っている。両親などはそれを見るたび、私にピアノを演奏するよう勧める。
――さっちゃんのピアノにはさっちゃんの良いところがあるの。美幸ちゃんも言ってたでしょう? さっちゃんが好きなように弾けばいいって。
――美幸ちゃんに敵わないとかで、ピアノやめていいんか?
今でも実家には、母が定期的に掃除をしてくれてほこり一つかぶっていないピアノが残っている。
父や母の言うことは、もっともだと思う。私はピアノが好きで仕方がなくて、食事すら忘れるくらいに弾き続けていた頃があった。手首を故障したままコンクールに出たこともあって、情熱は時に私を傷つけるほどだった。
でも、その情熱は中学の時に唐突に終わった。
ある時突然、美幸ちゃんには一生敵わないと、そう確信してしまったから。
「もう、弾けない。指もガチガチだし」
誰にともなく言い訳する。
私の頭の裏には、永遠に最上の音楽として刻まれている、美幸ちゃんのメロディがぐるぐると巡っていた。
夕方五時過ぎ、徐々に空の紅が紫に落ち着いてくる頃。私は紙袋を携えて、美幸ちゃんの病室を訪れた。
「あ、さっちゃん。今日は早いね。どうしたの?」
「ううん。何となく」
「そっか。座って、さっちゃん」
普段は八時過ぎ、面会時間が終わった頃にこっそり会いに来る。だけど美幸ちゃんは普段と変わらず嬉しそうに笑って、ベッドに腰掛けるように勧めた。
「さっちゃんはもう、大学終わったの?」
「うん。今日は講義いくつか休みだったから」
私もにっこりと笑って、扉を静かに閉めてから中へと入る。ぴたりと外の音をシャットアウトすると、途端に室内にはただ一つの音楽が満ちているのに気づいた。
「え?」
「見てみて、さっちゃん。今日はスペシャルなの」
美幸ちゃんが楽しそうに視線を向ける先には、小さな四角の音源。味気ない、黒いテレビがあった。
でもそこから流れ出ている音楽はテンポの良い、流行のポップミュージックだった。私も町で聞いたことくらいはあったと思うけど、英語混じりでぱっと聞きには歌詞もわからない、今時の音楽。
何より、画面の中で色とりどりのスポットライトを浴びているのは、まるで悪魔のような格好の、黒く長い衣装を流した年頃の男の子たちだ。
「美幸ちゃん、こういうの好きなの?」
どう見ても、ルックスで売るタイプのダンスグループだった。長い髪を垂らして歌う、歌よりは見栄えの方が大切なチームに見える。
「ボーカルの男の子がね、とっても綺麗な声なの」
じっと聞いてみると、それは反論の余地がなかった。
踊るメンバーたちの中で、中心で立って歌う男の子の声は、確かに私が今まで聞いた声で一番綺麗な声だった。まるで伴奏の音楽さえ雑音に聞こえてしまうほど、伸びやかで、澄み切った音を空間に生み出す。
「イリヤ君っていうんだって。可愛い子ね」
長い黒髪の少年は、私とそう年が変わらないように見えた。ただ彼の容姿など私の目には入ってこなくて、今はその歌声に聞き惚れていたかった。
知らなかった。声で、至上のメロディである、美幸ちゃんのピアノのような美を生み出す人がいるなんて。一点の曇りもなく、柔らかで、胸を貫く音を。
「お気に入りのチームなの。時々はバンドもやってるんだけど、イリヤ君はずっとボーカルでね」
美幸ちゃんは丁寧に答えてくれる。
『ニュイ・エタルナさんでしたー』
曲が終わると同時に、司会者が一礼して彼らの横までやって来る。そのまま、汗を拭う彼らと簡単な雑談を始めた。
話は平凡な、好きなものは何か、とかそういうものだったから、私はすぐに興味が失せて目を逸らす。天上の音楽のイメージを、年頃の粗雑で庶民的な会話で崩したくはなかったから。
「さっちゃん、その紙袋は何?」
幸いなことに、美幸ちゃんはすぐに私へと興味を移してくれた。私にとって誰より大きな存在である美幸ちゃんに注目されたことに、私はつい頬を緩ませる。
「えと、その……ムース、作ってみた」
まるで初めて男の子にバレンタインチョコを渡すみたいに、私は目を外しながら言った。両手で箱を握り締めながら、私は忙しく瞬きをする。
「寮の先輩に教えてもらって、まぁ、初めてだからあんまり期待しないでほしいんだけど。甘味は控えめだし、食べやすいし、よければ……」
ざわざわと、背後で雑音を吐き出すテレビが、妙に大きな存在に思えた。
それが美幸ちゃんの声で、一瞬にして意識から消え去る。
「ありがとう。すごく嬉しいよ」
長い睫毛が動いて、穏やかな赤茶色の瞳が私を見据える。難病の中にあっても、その姿は燐光を帯びているように見えた。
「ごめん、起こしてくれる?」
「あ、今食べるの? 夕食は?」
「さっちゃんが作ってくれたんだもの。きっと、元気がいっぱい詰まってるから、食べないと損しちゃう」
胸に痛いほどの喜びと悲しみを感じたけれど、私は強く箱を抱きかかえてその衝動に耐える。代わりに頬を無理やり緩めて、笑顔と見えるかどうかも怪しい顔を作った。
「うん、ありがと。きっと効果あるよ」
いいかげんなことを言いながら、美幸ちゃんの背中に手を添えて彼女の体を起こす。美幸ちゃんが辛くないように、コードが引っ張られないように慎重に動くのは汗が流れるほど大変だけど、最近はこれにも慣れた。
ようやく美幸ちゃんを起こしたところで、病室の扉が開いた。
きっちりと髪を結って、いつも背筋が伸びている厳格な人。美幸ちゃんのお母さんであり、私の叔母さんが、美幸ちゃんと私を交互に見やる。
その瞳が私を捉えた時、私は諦めと共に目を逸らした。
「……沙世さん」
岩のような表情から、温かみなど欠片もない言葉が吐き出される。
「美幸に変な間食はさせないで。ちゃんとした栄養を取らせないといけないんだから」
「お母さん」
「黙ってなさい、美幸」
全く表情を変えずに、私へと同じような冷たい口調で言い放つ。
私は幼い頃から、この叔母が感情を表に出すのを見たことがなかった。いつも顔のパーツは同じ場所にあって、言っている内容だけが彼女の内面を現すという次第だ。
ちらりとブラウン管の向こうで雑談する若者を一瞥して、叔母は再び私へ目を戻す。
「またこんな俗っぽいものを見せて。深夜番組の続きみたいなものでしょう。美幸に馬鹿なものを見せないで、沙世さん」
叔母はクラシック以外を音楽と認めない、極めて保守的で頑なな人だ。若い頃ピアニストを目指した名残なのか、芸術を汚すと見たものには容赦がない。
「すみません。面白いかと思って」
一つため息をついて、私は開きかけていた菓子箱を手に取る。
どうせもう、これを預けても美幸ちゃんには届かない。そう、わかってしまったから。
「失礼します、叔母さん」
ざわざわと騒がしいテレビの音を扉の向こうに押し込めるようにして、私は病室を出た。美幸ちゃんが何か言うのが聞こえたけど、振り返ることもできなかった。
病院の外に出た時は、もう空が紺色に変わっていた。一番星を見つけようと空を仰いだが、ここは東京の往来だと思い出して顎を引く。
ぶらぶらと菓子箱を振りながら歩いた。時折ぶつかる人々はせわしなく前へ進み続けて、何かにとり憑かれてでもいるように、目には光がない。
でもたぶん、今の私も同じ顔をしているんだろうな。
唇を噛み締めながら、私は空ろな考えに心を委ねた。そうすることしか、この重苦しい思いに対抗できない気がしたから。
大したことじゃない。ムースの材料なんてそんな高いものじゃないから今度行く時にまた作ってもいいし、もっと言えばその辺のケーキ屋で買った物の方がずっと美味しいに違いない。
でも、昼から一生懸命作ったのにな。
顔をくしゃりと歪めて、通行人に見られないように目を伏せる。
「あ……」
掠れ声を零して、私は一瞬だけ重い気分から逃れる。
忘れ物をした。大学の、サークル棟に。
明日取りに行けばいいかと思ったけど、気がつけば私は踵を返していた。
それこそ、何となく。行ったらしつこい人がいるのを知っていたけど、今はそのしつこさに巻き込んでほしかった。
ふらりと電車に乗って大学前の駅で降り、帰路を辿る学生とは逆の方向へと足を進める。今から大学へ向かうのは私しかいないのに、彼らは全く私を振り返らない。それが都会で、いくら田舎に郷愁が絶えない私であっても、その無関心にはそろそろ慣れてきていた。
下り坂の終着点にある、大学の門前。
人気のない門を潜り抜けようとした時、微かな鳴き声が耳に届いた。
「あれ?」
私の頭上にある門の柱の上に、暗がりに溶けるような黒い猫がいた。
じっと見つめても、黒猫はもう鳴きはしなかった。気のせいだったのかもしれない。
薄汚れて痩せたそれを無視して門を潜り抜けると、また微かな鳴き声。
振り返っても、黒猫は我関せずの表情でそっぽを向いている。柱の上でちっぽけな体を鎮座させて、私に構わないでと言わんばかりに背筋を伸ばして。
でも、鼻はひくひくと動いていた。何か甘いものに誘われているように。
「……あはは」
乾いた笑いを零して、私は菓子箱を開く。一瞬だけ、黒猫は耳を動かして私の方へと向けた。
「駄目だよ。欲しいものは欲しいって言わないと。プライドとかで我慢してばっかりだと、その内耐えられなくなる」
相変わらずこちらを見ようとしない黒猫に、私は目を細めて言葉を投げかける。
「いらないなら行くよ」
意地悪に言葉を切って、歩き出す。
だけどすぐに背後で空気が動いたのを感じて、私は口の端を引き上げた。
屈みこんで、箱の上にムースを置く。それを門の影に隠して、私はそっと立ち上がる。
「仕方ないね。意地っ張りは、これだから」
振り返らずに、私は歩き始めた。
私も同じだから。同じ意地っ張りで、でも本当は無視されるのに耐えられない人間だ。
だから似たもの同士、ちょっとくらいはサービスするよ。
気配で、私が離れるまでムースに近づかない黒猫に苦笑しながら、私はゆっくりと構内へと入っていった。
夜のサークル棟は、小中学校と違って遅くまで人が残っている。
でも西側の棟は古くて床が軋み、自分の足音だけでも不気味だ。
ほとんどのサークル部屋は閉まっていた。光は頼りなげな廊下の電灯だけで、すれ違う人がいないだけでなく、室内に人の気配も感じられない。
これではいないかもしれないなぁ、と思う。
ギシギシと軋む木製の床を踏みしめて、時折自分の呼吸音すら何か別のものに感じながら、私は振り返ることもできずに歩いていった。
何かが弾かれる音が聞こえて、一瞬ぎくりとする。
「わ」
しかしすぐにそれはピアノの音だとわかって、いやもっと怖いよと思いながらも何とか心を落ち着ける。
音は流れ始める。防音が成されているせいかはっきりとは聞き取れないけれど、進むにつれて音量は大きくなっていく。
「え?」
目的のサークル部屋まで辿り着くのと同時に、ピアノが聞こえるのも同じ部屋だということに気づいた。
光が隙間から細く漏れている。その光に溶け込むようにして、留まることのないピアノは続いていく。
綺麗なメロディだ。繊細で柔らかな弾き方じゃないけれど、音の一つ一つが弦を巧みに弾いて空中に飛び出すような、力強い弾き手だった。
天上で軽やかに舞う天使の音楽じゃないけど、人の世界に鳴り響く荘厳な音の連続。美幸ちゃんとはまた違った頂点を得た『幻想即興曲』。
幻想即興曲?
……これを、こんな風に弾ける人を、私は一人しか知らない。
暗がりの中で光が弾けたように、私は目の前が真っ白になった気がした。
「あ」
思わず扉を破るようにして中へ飛び込み、弾き手のところへ駆け寄る。
「へ?」
闖入者にいぶかしげな目を向ける少年に、私は狂喜に近い感情で言い放つ。
「あなた、入谷さんだね! シャイン・ピアノコンクールで優勝した!」
人気のロックバンドに見惚れるように、私は周囲のものなど何も目に入らないほどの強い感情に押し出される。今なら、追っかけとかも心から理解できそうな気がした。
黒髪の少年は短い沈黙の後、感慨なさげに言葉を零す。
「よく知ってるね。中学生の頃の話なのに」
長い前髪と薄い青眼鏡の下から、カラスみたいな黒い瞳が不思議そうに私を見上げてくる。
「あ、その。私も出てたから。まあ、上位には全然入れなかったけど」
憧れの人を目の前にして、私は上気した顔を見られないように口元を引き締めて俯く。
「すごい憧れてたんだ。『英雄ポロネーズ』、プロでもあんなに力強く弾ける人、見たことなかったから」
中学三年生で全国大会に出たけれど、私は自分がどんなものを弾いたかさえ曖昧にしか覚えていない。だけど私の次に弾いた彼の音楽は、目を開かれたような思いと共に脳裏に焼きついている。
ああ、これは完全に勝てないな。
そう確信したけれど、決して悔しくはなかった。その圧倒的な美に、私は一瞬で心を奪われたのだから。
「そうかな。僕は課題曲の幻想の方がいい出来だったと思うんだけどな」
前に立てかけた楽譜を見やって、彼は皮肉げに口元を歪める。
私は慌てて手を振って、自分が置き去りにしていた『幻想即興曲』の楽譜を取って腕に抱える。
「いや、もちろんそっちだって誰より上手だったよ。だけど、入谷さんには英雄の方が圧倒的に思えたんだ」
「へぇ」
興味なさそうに視線を逸らせていた彼が、ふと真剣な表情になる。
そのまますっと立ち上がって、初めて私を正面から見た。
「そう言われたのは初めてかも。でも、実は僕も同じように思ってた」
前に立つ彼は、私とほとんど同じ身長だった。自然と目の高さも合っていたけれど、私は緊張で顔を強張らせて、全く目なんて見ることができない。
もちろん私にとって、美幸ちゃんの『幻想即興曲』こそが至上の音楽だという思いは変わらない。だけど、彼の音楽は間違いなく私の中で、誰より気高くて力強い、英雄の輝きのものだったから。
「また入谷さんの音楽が聴けるなんて。何かもう、泣きそう……」
私は背中を丸めて、奥歯を噛み締めた。
誰もいないサークル部屋の中で、沈黙は崩れることがない。空中に飛散するように留まり続けて、私もそろそろ気まずくなってきた時だった。
「ところで、何で入谷さんなの? 同い年じゃなかったっけ」
「へ?」
唐突に言われて、私は間抜け面で顔を上げる。
そのまま、私の全身は凍りついた。
羨ましいほどにきめ細かい肌、癖のない細い黒髪、長い睫毛の下から覗く、少し眠そうな黒い瞳。
まさか、この猛烈に貧弱な、色白少年。
「寮の、人?」
「うん。そっち、織部さんだったよね」
私の所属する学生寮の、ゴキブリ仲間だった。
顔を凝視した途端、体を這い上がってくるような悪寒に包まれる。
……ゴキブリ箱の卵菓子。うわ、気持ち悪い。
「何でそこで嫌な顔するかな」
「いや、これはただの自己嫌悪で」
先ほどまでの感動が惜しい。
ゴキブリ仲間じゃなければ、わぁ、一緒の寮だったんだぁ、嬉しいなぁよろしくね、くらい言えるのに。
いや、言わないか。私の性格上、そんな愛想のいい、可愛い女の子の台詞なんて。
「えー、その入谷、君は、ここのサークルに入るの?」
嫌な顔は消したつもりだったけれど、声までは修正しきれなかった。
「そこまで嫌わなくても。僕って何かしたっけ?」
入谷君は露骨な私の変貌ぶりに、怒りより不思議さの方が先立ったらしい。目を逸らす私に、つやつやした黒髪の下からじっと視線を送ってくる。
いや、君が嫌なわけじゃないですよ。
確かに、君の弱弱しさは何だか話していて不安になるけど、別に嫌いなわけじゃないんですよ。田舎娘から見るとすごく、キザっぽい話し方も気に入りませんが、そこまでじゃないですし。
なぜか敬語で、心中に言い訳を書き並べる。
「僕は入ろうかと思ってるけど」
「はぁ」
私はグランドピアノに体を預けながら、ため息のような言葉を零す。先ほどまで地上を離れたような美しい音楽に満ちていたのに、今のここは乾いた砂埃が舞うような、ボロいサークル部屋そのものだ。
「何か、いい人多いし。気楽だし。友達できそうだし」
「友達?」
「同年代の友達ってあんまりいないんだ」
ぐるりと、埃臭くて狭い空間を面白そうに見回して、入谷君は細い指先でピアノをリズミカルに叩く。
「男で友達付き合いを気にするって、やっぱ変?」
「いや別に」
ゴキブリを思い出すので真正面から視線は受けないけど、私はそっけなく返した。多少冷たいかな、くらいの口調で。
「あんまり作りすぎると面倒くさくなるだろうけど。無いのは寂しいし」
私はぐるりとサークル部屋を見渡して、目当ての人がいないことを確認する。
「じゃ、お邪魔しました」
バッグを肩に引っ掛けて、軽く会釈をする。用件は済んだことだし、これ以上長居をしても仕方がない。
「織部さん」
足を踏み出そうとしてつま先が地面に触れる直前、奇妙なタイミングで声を掛けられる。
私が振り返ると、入谷君はきょとんとした、何だかひどく幼い表情でこちらを眺めていた。
「入らないの? サークル」
「あ、いや」
入らないの、ときたか。
それって、遠まわしに責め口調じゃないか。どうして私が初対面同然の君に文句を言われなきゃいけないのか。
「考え中」
くどくどと文句を吐き出すのは失礼なので、とりあえずそれだけ言ってみる。
入谷君は自分が尋ねたくせに、私の返答に何も反応してくれない。じっと髪と同じ真っ黒な瞳で、私か扉のどちらかを見つめている。
次に言葉が続くようで続かない、気まずい沈黙が流れた。でもずっと扉の前で突っ立っているのも馬鹿らしいので、私は眉を寄せて黙って出て行こうとする。
「ま、こ、とー!」
目の前で開いた扉にぶつからないよう、私は間一髪、軽やかなサイドステップで横へと逃れた。
「お?」
自らの巧みな回避に少し自画自賛しながらも、私は声の方を振り向く。
彼の驚きで真ん丸だった瞳が、一瞬でにやにやした狐目に変化した。
「織ちゃんじゃーん。こんな夜にマコトと二人っきりなんて、大胆だねぇ」
「何が。偶然居合わせただけだよ」
「はいはい。いいですよー。多少の抜け駆けは許しましょう」
しかめ面で、頭一つ分背の高い浅間君を見る。浅間君はその睨みを和やかな表情で受けて、軽く小首を傾げる。
「で、どお? 入る気になった?」
彼は浅間将悟。私にバンドサークル入部を熱烈に勧めてくる奇特な人だ。
「後ろ向きに検討中。だって入谷君みたいにピアノ上手い人がいるのに、私が入っても仕方ないでしょ」
なるべく嫌味にならないよう、さらりと返す。
「いいじゃん、別に。キーボードが二人や三人いてもさ」
微かに軋む木の壁にもたれて、浅間君は腕組みをした。
「そうだろ、マコト」
「うん。サークルなんだから、気軽にやればいいんじゃないかな」
あ、まずい。蜘蛛男、浅間君の網に引っ掛かった奴がここにも一匹いる。つくづく浅間君は勧誘に優れているから、あっという間に仲間が増えているのだ。
古い建物に似合う、レトロな電灯を意味もなく見上げて私はため息をつく。
「んー、それが嫌ならさ。いっそ織ちゃん、ボーカルやれば?」
「え?」
オレンジ色の電灯も柔らかくていい光だな、と思っていたところで、唐突に思考を中断させられる。
「ボーカルは浅間君じゃないの?」
「俺はギターでもいいし。それにボーカルこそ、二人いてもいいくらいじゃん」
つかつかと私の横を通り過ぎて、浅間君は入谷君の隣に立つ。背が高くてそれなりに体格のしっかりしている浅間君と並ぶと、入谷君は本当に小柄で、世間のお姉様方が可愛いー、と叫びたくなるような細さだった。
「カラオケではよくデュエットするし、部活でもコンビで試合出たことあるじゃん。織ちゃんと俺、相性ばっちりなんだよねー」
「部活? 高校から一緒なの?」
入谷君はそこでちょっと私をにらんだ。私はなぜ睨まれたのかわからず、眉を寄せて話を戻す。
「ボーカルなんて、私は絶対やだ。緊張で卒倒する」
一番目立つところじゃないか。部活の頃だって、練習試合以外では合唱と伴奏だけに専念してきたんだから。
「大丈夫だよ。織ちゃん、伴奏しっかりやってきたじゃん。伴奏なんて一人でしょ? 同じだって」
「違うってば」
「まあまあ、織部さん」
穏やかに私を宥める声に嫌な目を向けると、入谷君は口元を引き上げて言う。
「僕もボーカル経験はあるから。どうしてもって言うなら、織部さんがキーボードやったらどう?」
弱弱しい少年が微笑むのって、正直不気味かもしれない。
そんな風に感じるのは、私がやっぱりスポーツマン大好き人間だからだろうか。美少年とか、聞いただけで鳥肌が立ってしまう。
「ま、どうせならマコトに指導してもらいなよ、織ちゃん。マコトはプロなんだからさ」
「だから、何で」
言い逃れをしようとして、はた、と心に引っ掛かるものを感じた。
今、何て言った?
頬が引きつるような緊張を感じて、私はぎこちなく首を動かす。
「……プロ?」
「え、織ちゃん知らないの? うわ、遅れてるー」
ちら、と私は入谷君に視線を送る。乾いた笑いを零す浅間君を無視して。
「プロって、その。え、何の?」
入谷君は何だかとても嬉しそうに目を細めて、不気味に笑った。
彼は可笑しそうに表情を歪めるだけで答えてくれないので、私は助けを求めるように浅間君を見やる。
「ニュイ・エタルナって知らない? 織ちゃん」
「にゅい?」
何だ、その妙に生暖かくて柔らかい名前は。
さすがにそう口にはしなかったけど、思い出せないんだから仕方がない。
「そのボーカルやってる、イリヤ。ほんとに知らないの?」
入谷、いりたに、イリヤ……。
あ。
大急ぎで頭の記憶テープを巻き戻して、はっとする。
それ、さっき聞いたじゃないか。
――イリヤ君っていうんだって。可愛い子ね。
イリヤっていうのはさるバンドのボーカルで、美幸ちゃんも認めてる歌手で、しかも目の前にいる。
混乱した頭を何とか静めようとするが、なかなか上手くいかない。
チクタクと、部屋の雰囲気に合わせたレトロな時計が音を立てて時を刻んでいる。まるで、時は何にも動かされないで流れ続けるのだと自慢するように。
いや、だから。そんな詩的な考えはどうでもよくて。
「芸能人ってこと?」
ふと顔を上げて前に立つ入谷君を見る。
苦し紛れの一言に、入谷君は何でもないことのように頷いた。
「まあ、そういわれることもある」
芸能人、歌手、人気者。
きらきら光る、遠い世界の人々。
心の中で適当な言葉を羅列して、私の思考は停止する。
……駄目じゃん、それは。
「私、やっぱりこのサークル入れないよ」
苦笑と共に、言葉が滑り落ちた。
私の憧れだったピアニストの彼も、美幸ちゃんが認めるボーカルの彼も、あまりに眩しすぎる。とても、一緒に音楽をやる自信なんてない。
腕を組んだまま、浅間君は私に近づく。
「いや、僕は迷惑かけないから。だから」
「マコト。ここは俺に任せてくれる?」
浅間君は突き放すようで、でもどこか温かい口調で遮った。
「織ちゃんは猫みたいな子なの。近づくと逃げるし遠ざかると寄ってくる」
「……何それ」
「否定できる?」
浅間君は口角を上げて、彼の一番得意な顔、底抜けに明るい笑顔を作る。
「収録あるから、僕、帰るけど……」
「うん、また明日な」
むっつりとする私を不安そうに振り返りながら、入谷君はサークル部屋を去って行った。
「じゃ、一緒に帰ろうか。織ちゃん」
「やだよ」
「こらこら。夜道暗いでしょうがー。すねないの」
「拗ねるって、何を勝手に」
「はい、行きますよー」
「わ」
さっさと電気を消して、廊下へと私を押し出す。
「どーせ帰るとこ一緒でしょ」
「誤解を招くようなことを言わないで。男子寮と女子寮は別物だよ」
「高校の時だって家近くまで一緒に行ったじゃん」
「あの時とは訳が違う」
「え?」
兄と変な風に噂されてる身で、男の子と一緒に寮なんて帰りたくない。どうせ二股だとか軽い女だとか、馬鹿な噂なんていくらでも湧いてくるんだから。
実家に戻ってからも、まだ寮の人たちの目の色は変わっていなかった。逃げ出すほどじゃないけど、でも相手が考えていることを思うだけで、吐き気がする。
弱気だとわかっていても、気になるものは仕方ない。
思わず口から滑り出たのは、刺々しい言葉。
「腹立つよ。浅間君の、お節介」
目に冷たい光を宿して、私は低い声で呟く。
気安い口調で、親身な表情で、人の内部にまで干渉しないでほしい。
所詮友達なんて、思ってる振りをして、簡単に切り捨てられる他人なんだから。
臆病なのは十分承知だ。自分の考えが子供っぽくて根暗なのも。でも、それが変えられるならとっくの昔に変えている。
「うん、ごめんよ」
だけど、浅間君は全く表情を変えなかった。
「でもやっぱり危ないからさ。寮近くのコンビニまでは一緒に行こうよ。そこからは別行動でいいじゃん」
それどころか私が言葉を挟む前に、さっさと結論を出してしまう。
つまらないことで私が反発してるのに、何で怒らないんだよ。いつもにこにこしてさ、自分は大人だから全部許してあげるって顔して。
「さ、帰ろ」
薄暗い廊下で笑った浅間君に、私は唇を噛み締めながらも何も言えなかった。もう十分かもしれないけど、これ以上言い掛かりをつけるほど子供じゃないと、虚勢を張っていたかった。
浅間君は油断ならない狐、そうわかっているけれど、私は高校時代からたびたび彼を頼ってきた。
「へぇー。浅間君っていうんだー」
「そ。織ちゃんの故郷の男だよー」
それに調子に乗ったのか、いつの間にか私と私の大学の友達である千夏ちゃんのランチタイムにまで乱入するようになっている。
「おいそこ。いらん話を吹き込まない」
私はアイスティーを飲み下して、じろりと浅間君を下から睨みつける。
千夏ちゃんに振り向いて、私は嫌味なほどきっぱりと言った。
「私と高校が同じだっただけだよ。でもなぜか大学が一緒になっちゃってね。かなり迷惑してる」
「織ちゃん、それ酷いでしょー。俺との青春時代を切り捨てないでよ」
ふっと私は遠い目をして、薄い笑みを浮かべる。
「へーぇ、青春。人に彼女見せつけて喜ぶのが青春か」
「うわっ。根に持ってるよこの人。もー、やめてってば」
「あはは」
千夏ちゃんが白い歯を見せながら、声を上げて笑う。
口の端についたソースをぺろ、と子犬のように可愛く舐めて、彼女はゆっくりと身を乗り出した。
「何か沙世ちゃん、可愛いねー。拗ねてる感じが、別の一面見たっていうか」
「でしょー。織ちゃんは俺にだけ毒吐くし、すねるんだよねー」
いや、家族の前ではもっと性格悪いよ。特に兄にはね。
うんうんと頷きあう二人に本音も言えずに、私は窓の外へ目を逸らす。
茶褐色の落ち着いた色で統一された生協食堂から覗く光景は、額縁に入った風景画のような柔らかさがある。
のどかだな、と頬杖をついて思った。
「カラオケ行ったりとか、合宿行ったりとかしてさぁ。イベントになると織ちゃんもちょっとだけノリが良くなるんだな、これが」
淡い茶色のテーブルに片肘をついて、意味ありげに千夏ちゃんに振り向く。
「千夏ちゃんにも見せてあげたいよ、この人の高校時代を。もうすっごい変な人で、でも真面目ちゃんだから」
「へぇーどんな感じ? スカート膝下十五センチを守ってるとか、黒縁眼鏡だとか、三つ編みだとか? あ、さすがにそれは時代遅れか」
ふふ、とおかしそうに笑った千夏ちゃんに、浅間君は指を軽く左右に動かして目を細める。
「それ、全部」
「全部っ? うわ、沙世ちゃんほんとに?」
私は耳の上の癖毛をいじって少し沈黙した後、気のない返事をする。
「うん。まあ大体そんな感じ」
「うわぁ、今時いたんだぁ」
「でしょ、驚くよね。そーゆー子だったんだよ、この人は。さすがに大学生になったら多少は変わったみたいだけどねぇ」
意識的に変えたんだよ、と目を逸らしながら思う。
といってもスカートは好みじゃないし、眼鏡は普段から必要なほどじゃなかったし、三つ編みは重かったのでショートにした。解放感に浸ったというより、面倒なものを切り捨てたという感じだけど。
「えー、じゃ、彼氏とかは?」
千夏ちゃんの丸い瞳に、私は呆れたように口の端を引き上げる。
「無理無理。そんなのに寄ってくるわけないじゃん。私もあんまり男の子には近寄りたくなかったしね」
「はぁーそうなんだー」
「いーや、それは違うね。織ちゃん」
ふと顔を上げると、目を限界まで細めた狐男。腕組みをして、満面の笑顔まで浮かべてくれている。
うわ、嫌な予感。
「千夏ちゃん、騙されちゃ駄目だよ。この人はなにげにモテたんだから」
「あ、やっぱり?」
「そーそー。強烈な拒絶オーラに阻まれて、告るとこまでいくのはなかなかいなかったけどねぇ。ま、でも」
私が絶句したのをいいことに、浅間君は続ける。
「中にはツワモノもいたんだよね、織ちゃん?」
「……」
「忘れたとは言わせないよー。中学二年の夕暮れ、春の桜舞う頃、校舎裏でー」
「うんうん」
「ちょ、ちょっと」
興味津々の千夏ちゃんと、にやにや笑いで語り部と化す浅間君の間に慌てて入り込む。
人差し指を浅間君につきつけて、私は顔をしかめる。
「何でそれを浅間君が知ってるわけ?」
「だって本人に聞いたしー」
硬直した私に、浅間君はわざとらしくぽん、と肩を叩いてくる。
「俺、スポーツ少年団に加入しておりまして。奴とは小学校の頃からの大親友なんだよね」
全然知らなかった。
そんな古い付き合いだったとすると、今まで筒抜けになった情報が山ほどあるのでは。何だか薄ら寒い思いがする。
「ま、実を言うとその場で見てたんだわ」
「え」
「だって見ちゃったんだからしょうがねぇじゃん。あそこって告白アンド失恋の大舞台だからさぁ。俺もちょうど彼女にふられて、で、『あ、あそこにもふられた奴がいるー』って」
田舎って嫌だ。
私の地方には二つしか中学校がないけど、双方とても近い場所にあるものだから、行き来は多かった。生徒もよく遊びにきているし、付き合っている人もいたらしい。
しかし浅間君。君は中学の頃から男女交流が盛んだったんだね。
ちょっと感心したけど、そんな場合ではないので慌てて思考を取り戻す。
「無視して通り過ぎてよ。ルールでしょ」
「いや、だって。よーく見たらそれってさ」
シェイクから口を離して、浅間君はにやりと笑う。
「それってダチの、伊沢だったわけだし?」
言わないでよ、その名前。
そう思ったけど、実家から遠く離れたここなら大して怒る気にはならなかった。千夏ちゃんだって、顔すら知らないわけだから。
ちくりと痛む胸を知らず押さえながら、私は行き交う外の人々を眺める。
そうだ。確かに桜が舞っていた。気候も今みたいにじっとりしてなくて、心地よい春風が空を過ぎていて。
そんな忌々しいほどムードたっぷりな中で響いた、独特のイントネーションが耳に蘇る。
――なぁ、さっちゃん。
家族以外で唯一私をそう呼べた彼が、何か難しい悩みを打ち明けるようにしかめ面で零した。
――俺と付き合わん?
硬い癖毛の黒髪で、襟足が少し長かった。いつも日に焼けていて、でも爽やかなスポーツマンというよりは、頭を抱えて数学の方程式に向き合う方が似合うような、生真面目な人。
「いやぁ、伊沢も悪かったと思うよ。あれは告るような顔じゃなかったしねぇ」
正直、何を言われているのか最初はよくわからなかった。甘さや切なさとは程遠い、「実はウチの母ちゃんが危篤なんやわ」と打ち明ける方が正しいような、緊迫感溢れる表情。
「んー、でも織ちゃん。その純情を踏みにじった罪は重いよ?」
でもそれは言い訳にはならない。言葉で伝えるのが大の苦手な伊沢君が、はっきりと付き合おう、と言ってくれたのだから。
「え、それで沙世ちゃんどうしたの?」
可愛らしく小首を傾げる千夏ちゃんに、苦虫を噛み潰したような顔を作る。
一つため息をついてから、あらぬ方を向いて私は呟いた。
「『ごめん、カズ君。今日兄ちゃんが帰ってくるから忙しくて、付き合えない』」
一瞬の沈黙の後、千夏ちゃんは悲しげに首を垂れた。
「沙世ちゃん。鈍いにも程があるよ……」
「はは」
「違うよね、織ちゃん」
鋭く、浅間君が言葉を挟む。
「わからないふりして、ごまかしたかったんじゃない? 幼馴染の突然の告白、びっくりしすぎて思わずってとこかな?」
私は眉を寄せて黙る。それが肯定だった。
さすがに中学生にもなって、告白の意味がわからないほどじゃなかった。ただ幼稚園に入る前からの超・幼馴染に言われた言葉はあんまりに衝撃的で、咄嗟に何も返せなかった。
好きだったと思う。だけどそれは、家族と同じ温かいものだったから。
「織ちゃんにとっては兄弟みたいなものだったんだよね」
でもお子様だったのは、私の方だ。恋愛とか付き合うとか、そういう未知なものが怖くて、踏み出したくなかったんだろう。
だから咄嗟の一言が、「兄ちゃんが帰ってくる」。心のどこかで、予想外の出来事に対して兄へ助けを求めたんじゃないかと思う。それくらい、私はまだ誰かに縋っていたかった。
後悔しても、しきれないけど。でも今でも後悔してる。
暗い目をして俯き、私はテーブルの木目を眺めた。
「悪かったなぁ、とは思うよ」
ぽつりと呟いた言葉に、千夏ちゃんが慌てて首を横に振る。
「だーいじょうぶだよ。沙世ちゃん。終わりあれば始まりあり。世の中男でいっぱいなんだから、いくらでもまた見つかるよ。頑張っていい恋しよー」
意気込んで言う彼女に笑いかけて、少しだけ苦みのある表情を作る。
慰めてくれるのは嬉しいけど、それってちょっと複雑だ。
「さ、どうだか。織ちゃん、それって本当に終わったの?」
狐のように狡猾に滑り込む言葉に、私は無言で結論を拒むことにした。
――そうなんや。さっちゃんはほんと、拓兄ちゃんと仲いいなぁ。
そう苦笑して逃げるように帰った彼は小さかったけど、高校でぐんぐん背が伸びて、男っぽくなった。悩んでる顔が可愛い、と思っていたのに、真剣で意思の強い表情がかっこいい、と思い始めた。真面目で一生懸命で、地道に努力し続けるのがどうしようもなく目を引かれた。
――織さん、途中まで一緒に帰らん?
高校三年生も終わりがけになって、突然声を掛けられた時は、心臓が止まるかと思ったけど。
――わざわざ確認しなくても、伊沢君。どうせ電車も降りるとこも同じじゃない。
――ああ、そうやった。じゃ、ここ、邪魔するわ。
呼び方は変わったし、私も変えた。じゃれあうような子供時代は過去のものになって、一つ分席を空けて座るようになった。
――携帯持っとる? 織さん。せっかくやで、番号教えて。
ガタンゴトンと揺れる列車の中で、ためらいがちに聞こえた低い声。
ごく、と私は隣に聞こえないように緊張を飲み込んだ。
――……伊沢君の、教えてくれるなら、いいよ。
たぶん私は彼以上に、しかめ面で苦しげに返したと思う。だって私にとってはすごく、勇気が必要だったんだから。
彼は幼い頃と同じように、困ったなぁ、という風に笑って、首を傾けた。
――別に悪用したりせぇへんって。そう怒らんでもいいやん。
――怒ってないよ。別に。
――はいはい。じゃ、俺のやつ、送るで。
でも、まだ切れたわけじゃない。それだけは確かなこと。
「おーりちゃん。どうなのよ、実際は」
「どーなの? 沙世ちゃん」
ふっと目を細めて、私は微笑む。
「さてね」
ここから先は、秘密だよ。誰にも教えてあげない。
その日の夕方、浅間君に誘われて大学近くの店で新歓コンパに参加した。
サークル加入を決めたわけじゃないけど、半ば浅間君に押し切られた形だ。
だけどいつの間にかオールラウンド系サークルの一団に巻き込まれてしまい、なみなみとお酒の注がれたコップを持たされている。
「くはーっ。さいこー!」
「いいぞ、浅間ぁ」
「かっこいー!」
で、なぜか浅間君が中心で飲んでいる、と。ゼミの先輩とかがいたらしく、普通に別のコンパに紛れ込んでいる。
女の子も男の子もみんなで、飲んで騒いで、歌って踊って。
酒にはわりと強い方だし、ちびちび飲んでいたから私はあまり酔っていない。だから真っ赤になっている人たちは見ていて面白かった。
馬鹿騒ぎって、いいなぁ。
だけど勝手に他のサークルに紛れ込んで食べ放題に参加しているから、後でお金払っておかないと。そんな冷めたことを考えながら、でも心は弾んでいた。
「お、織部さん」
「え?」
ふいに横から声を掛けられたので、私は視線だけを動かしてそちらを見た。
ひょろりとした体格の、黒髪の男の子。所在なさげに立ちながら、目を合わせないようにしつつ近くのテーブルを指差す。
この内気っぽい人、誰だろう。全然見覚えがない。
「こっち、あまり飲まない人のテーブルだから。良ければ座って」
「あ、どうも」
親切な人のようだった。なぜ私の名前を知っているのかは不明だけど、とりあえずありがたく「飲まないグループ」のテーブルへと足を進める。
「織部さんは、二次会も参加する?」
「え、ああ。たぶんしません」
「そっか」
ソファーに腰掛けようとする私になお声を掛ける内気少年。
「帰りは、えと、電車?」
「はい」
だから、君は誰なんだ。それをまずはっきりさせてくれ。
「ん?」
後ろからつつかれて、私は首を回転させる。
「織部さん、ウーロン茶飲む?」
薄い青眼鏡の貧弱少年、入谷君だった。軽くカウンターを指差すので、私は表情を和らげる。
「うん、欲しいな」
「カウンターに出てるよ。取りに行こう」
親切だけど知らない人よりは、まだ知った人間のいる所がいい。
私は素直に頷くと、カウンター席に向かって入谷君の横に腰掛けた。
「助かったよ。知らない人と話すの好きじゃないから」
テーブル群から離れると喧騒は少し落ち着いていた。普通の声で話しかけても十分聞こえる音量だ。
「知らない人? 織部さん、ひどい」
ちょっとだけ笑って、入谷君はコップのウーロン茶を飲み干しながら呟く。
「さっきの人、寮の人だよ」
「え、うそ」
「ほんと。全然顔覚えられてないんだなぁ、かわいそ」
目を細めると長い睫毛が際立って、私はそんな入谷君に感心した。
いいなぁ長い睫毛。さらさら黒髪。とても男の子には見えない。
「織部さん、レバー食べる?」
「うん。ありがたく」
私がレバーを食べ始める横で、入谷君も同じものを飲み込んでいた。
私たちはしばし無言で、レバーを噛み砕いていた。
何だかとても妙な気分だ。実家にいた頃は、まさか男の子と焼鳥屋で食事をする時がくるとは思ってもいなかった。
まあ、焼き鳥だけどさ。高級ホテルとかじゃないけど。
「変なの」
零すように言葉を発したら、入谷君は視線だけをこちらに向けた。
「高校の頃はこんな世界があるなんて、知らなかった」
何が楽しいのかわからない話題で笑って、騒いで、盛り上がる。
高校生だって打ち上げとかに参加すれば騒ぐけど、こんなに解放感溢れる空気はどこにもなかった。みんなどこか「勉強」という大きな岩を頭の上に乗せている感じで、いつも何かに縛られているようだったのに。
それに、ここにいる人たちはいろんな場所から来て、いろんな目的で集まっているから。様々な言葉と表情が混じり合って、面白い。
「都会は変な世界ってこと?」
入谷君の言葉に、私は苦笑する。
「かもね。標準語なんて冷たいし、人も無関心だし、みんな宇宙人みたい」
「へぇ」
彼は頷きながらも、意味がわからないという風に小さく瞬きをした。
「そういうものかな。僕は生まれた時からここにいるからわからない」
「ほら。そういう言葉遣いも、何だか気障っぽく聞こえる」
「え、キザ?」
微妙に動揺して首を回転する入谷君が、ちょっと面白かった。
「そうだよ。私の地元じゃ、誰も『僕』なんて言わなかったしね」
「みんな、俺って言うの?」
「ううん。大抵は男の子も女の子も、『ウチ』って」
ウーロン茶に口をつけながら、私は苦味を噛み締めながら笑う。
「ウチ、つまり家ってことなんだろうね。家とか家族とか、すごく固いつながりがあって、隣同士とかも関係が深くて」
「仲がいい?」
「……そう、だね。楽しいこともあるけど、束縛が強すぎることもある」
喉を過ぎていくお茶は、染み込むように冷たかった。
正月になると、父方の親戚一同が一つの家に集まる。その場で繰り広げられるのは誰かの入学祝いだったり、情報交換だったり、いろいろだ。祖父が生きていた頃は従兄弟たちと遊ぶのが楽しくて、私も喜んでそこに集まった。
「織部さん?」
でも、私には、本当は彼らと何の血縁もないとわかってしまったから。伯父や伯母たちの目は、私をどこか異質なものとして捉えていることに気づいて、空気が冷えた。
絡み合う血縁と人間関係。それに弾かれてしまった者は、あの狭い社会でどうやって生きればいいんだろう?
「帰りたいけど、帰りたくない、かな」
つと目を閉じて、笑う。今度は苦味を含めないように、感情を押し殺して。
「ま、とにかく。上京生活を楽しまなきゃって、今は思ってる」
「ふうん」
目を開いて、私はテーブル席の中心でグラス片手に騒いでいる人間を見やる。
「浅間君みたいにね」
田舎では浮いていた派手な茶髪も、ここでは景色に溶け込む。騒々しいくらいのノリも、決して嫌味じゃなく心地よい。
呑気に歌まで熱唱し始める浅間君を、目を細めてみつめる。私の高校時代の、正の思い出を蘇らせるように、軽く鼻歌をつけて。
「るの?」
「ん」
「付き合ってるの?」
唐突な言葉だったから、私は入谷君が何を言い出したのかわからなかった。
ぴっと浅間君を指差して、次いで私に指先を向ける。
「浅間君と、織部さん」
ワンテンポ遅れて、私は彼の言葉をやっと理解する。
眉を寄せて入谷君に向き直ると、彼はどことなく黒いオーラを漂わせて微笑んでいた。
「まさか。そんな馬鹿なことがあったら空から飴玉が」
「ほんとに?」
「うん。三年間と数ヶ月振り返っても、そんな面白いことは一度としてなかったよ」
「そう」
馬鹿真面目に答えると、入谷君はようやくその不気味な笑顔を引っ込めた。
冷やかしたいならもっと和やかにやってくれればいいのにと思う。
心の中でぶつぶつと呟くと、ふいに浅間君と目が合った。楽しげに手を振り、こいこいと手招きをする。
「おーりちゃん、マコトー。こっちこっちー」
「ほらきた。入谷君も行こう」
気まずい空気から逃れられると、慌てて立ち上がりながら入谷君を急かす。
「ん」
ぞんざいに返事をして、入谷君も席を立った。相変わらず、どこか表情に黒いものを貼り付けたままだったけど。
「あ」
「沙世ちゃーん。こんなとこで会えるなんてラッキー」
浅間君の横でグラスを持っていたのは千夏ちゃんだった。満面の笑顔で、ばしばしと少々乱暴に私の肩を叩く。
「千夏ちゃん、来てたんだ」
驚いて千夏ちゃんと浅間君を見比べると、二人は絶妙のタイミングで頷きあう。
「そーだよ。浅間っちに聞いたからとんできたのー」
「そーそー。俺たちラブラブメル友だもんねー」
「ねー」
酒が入っているせいか、二人ともいつもに輪をかけてハイテンションだ。首を傾ける方向まで一緒なのだから、全く波長がぴったりというか。
浅間君が付き合うのはこういうタイプだよ、とメッセージをこめて入谷君を振り返る。
「織部さん」
なぜか入谷君は声を潜めて、そっと問いかけた。
「彼女、織部さんの友達?」
「うん。兼、浅間君のメル友」
そうそっけなく答えると、入谷君は深く頷く。
「ふぅん。共通の友達なんだ」
何気なく言った彼の声は、私の背筋を突き抜けるような悪寒を発生させた。
「……え」
「じゃあ仲良くしよ」
いや、だから何が言いたいんだ君は。
言いようのない寒気に肩を震わせながらぎこちなく首を動かすと、入谷君は今までにない爽やかな笑顔で前へ進み出ていた。
「どうも。僕、入谷って言います。えと、千夏ちゃんって呼んでいい?」
「入谷君? うわー、美形―」
「千夏ちゃんの方が目立ってたよ。すっごい可愛いよね」
そのまま和やかなんだか、よくわからない会話が始まる。
どうしたんだ、入谷君。いつも無表情はどこへ?
ちらりと浅間君に視線を送ると、彼はにやにや笑いで腕を組んでいた。
「織ちゃん」
「ん?」
「早いけど帰ろっか、俺たち」
そっと後ろへ下がりながら、浅間君は小声で言ってくる。
奥のカウンターへ向かう入谷君と千夏ちゃんを見やりながら、私は合点がいったとばかりに苦笑した。
「おっけ。邪魔者は去りましょう」
「はは。マコトもやる時はやるんだなぁ。あ、俺荷物とってくる」
私はその場で顎に手を当てて、短く考えを巡らす。
……しかし、「じゃあ仲良くしよ」って、確かに言ったよね。入谷君。
何だったんだろう。都会人ってやっぱり、わからない。
首を傾けながら、私は浅間君が戻ってくるまで、その場で頭を悩ませていた。
それから浅間君は、なぜか私を大学のサークル部屋に連れて行った。
「何の用?」
「あった。このファイル」
浅間君が胸に抱えていたものに、私は目が釘付けになる。
「……それ」
私がぴたりと動きを止めたのを満足そうに認めて、彼はもう一度口にする。
「織ちゃんの高校一年の時の行方不明ファイル、俺が預かってた。確かすごい焦って探してたよね」
「……何で」
「別に盗んだわけじゃないよ。ただ見つけた時に魔が差して、ちょいとこう、懐にね」
オーバーな素振りでファイルを抱きしめるポーズを取る彼を、呆然と見つめる。
盗みと同じじゃないかと言いたかったけど、あいにく思考も停止していて動くことすらできなかった。
忘れたことはなかった。一年生の時に部活のファイルに挟んだきり、二度と見つからなかった大切なもの。
……私が音楽への情熱を切り捨てる前の、最後の命綱だったもの。
「必死で探してるから何が入ってるのかと思ったら、楽譜が一枚だけ。手書きの」
凍りついたようにだらりと腕を下げる私を、面白そうな狐目が追撃してくる。
「あれ、織ちゃんが書いたんだよね。作曲とか好きだったんだなぁ、と」
知られた。
親にも誰にも言わず、ただ胸の中にしまっておきたかった秘密。
私は高校入学当時、ピアノを弾くことで敵わないなら、元である曲作りで美幸ちゃんのような音楽を描こうと夢見ていた。儚い願いだろうと何だろうと、それは確かに私の夢だったのだ。
だから高校では音楽部に入って、自分の作った音楽を披露するために声楽を訓練したのに、肝心の楽譜はいつまでも見つからなかった。
また作ればいい、なんて思えなかった。
作曲で頑張るんだと決意した気持ちを、私はファイルと共にあっけなく失くしてしまった。そんな脆弱な意志しか持ち合わせていなかったのだから。
ぱちんと目の前が弾けた。溢れ出す怒りで、顔を真っ赤にして叫ぶ。
「何で隠してたのよ! 返してよ!」
私が高校時代で育むはずだった、音楽への情熱。それは走り出そうとしたのに線路がなくて、行き先を失ったまま宙に浮かぶことしかできない白い気持ちに変わってしまった。
どうして踏みにじった? 私が守りたかったもの、何より大切だったものを。
「それはね、私が高校受験滑りそうになりながら毎日書き綴ったやつなんだ!」
力いっぱい彼の襟元を掴んで、鼻が触れるような距離でみっともなく喚く。いくら誰もいないとはわかっていても、誰か入ってくるかもしれないとか、そんな思いはすべて私の頭から消えていた。
「馬鹿じゃないの! つまんない意地悪で人の夢消さないでよ!」
両手で襟元を押したが、彼はびくともしなかった。振り払うこともしないで、ただ真正面から私を見下ろしている。
見下ろす?
違和感に気づいて、私は手の力を緩めた。
「あれ?」
一瞬怒りを忘れて、彼の顔を凝視する。
入学当時、彼は私と同じ身長だった。音楽部で隣同士になって先輩の話を聞き流していた時、そんなどうでもいい話を言い合っていた気がする。
典型的なお祭り人間の彼とは一緒に騒ぐことはなかったけれど、部長と副部長という関係上、部活内では一番頼りにしていたかもしれない。
頭一つ分背の高い彼を見上げて、間抜けな声で呟く。
「部長、こんなに大きかったっけ?」
でも、いつの間にか簡単に身長が追い抜かれていたことすら知らなかった。それだけ、私は高校時代に何も目に映していなかったのかもしれない。
「そりゃあ成長期ですから、二年生で君の身長はかるーく追い越しましたとも。ねぇ副部長」
おどけて答える声に、苦い色が見えたのは気のせいではなかったと思う。
「織ちゃんさぁ」
私の手を襟元から外して、彼はのんびりと口を開く。
「そんな大事なものだったら、何でもっと叫ばなかったのさ。夢がいっぱい詰まってる、大切で仕方ないものなんだって。そしたら部活中のみんなで探したのに」
「だって」
私はじわじわと戻ってくる怒りに任せて、笑みを消した彼を睨むように見上げる。
「夢とか、情熱とか、宝物とかは、心の中に秘めとくから大事なものじゃない。言葉にした瞬間、光がどんどんなくなってく」
――俺、ライブとか好きなんだ。だからフリーターしながら音楽やる。
そう兄が両親に言い出した瞬間、私は自分が作曲したいと口に出せないことを知った。
――おいおい。そんなんでやってけるんか?
――家の金使ったりはしないから。勝手にやるだけだから。
父の反対にあっても、兄は意志を曲げることはなかった。
――わかった。好きにしなさい。
そう母が許可を示した言葉を聞いて、私は胸が詰まるほどの不安に包まれた。
好きにしろ、というのは認めてくれた言葉のはずだった。だけど私がもしそれを言われたら、母に放り捨てられたような心細さで泣きたくなる。
兄はそれでも自分が言った通りに生活している。でも、私に同じことをやる自信は微塵もなかったのだ。
ちょっと突かれただけで駄目になるから、私は人の示す方、反発の少ない方に、いつだって曲がって進んでいくのに。作曲だけはなかなか心から消し去ることができなかったけど、それでも思い切ろうと努力してきた。
それなのに、今になって思い出させるなんて。
「織ちゃんは、音楽好き?」
俯いた私に、彼は何気なく言葉を投げかける。
「好きだよ。大好きだから、何にも経験のない合唱だってやってみようと思った。本当は嫌だったけど、頼まれればピアノ伴奏だって」
「うん」
一つ相槌を打って、静かに答えが降ってくる。
「俺は知ってた。でもさ、みんなはそれ、言わないとわからないだろ?」
顔を上げると、彼はもう笑ってはいなかった。その代わりに同じ狐目が、月のように静かな落ち着きを湛えたものに見えた。
「織ちゃんさぁ、やることソツないけど、自分をさらけ出して人に接してこないから、どうしても一人になる。みんな織ちゃんを嫌ってるわけじゃないのに、損な話でさ。でもはっきり言うけど、それは完全に織ちゃんが悪い」
彼は眉を寄せ、片方だけ頬を上げて、券売機に背を預ける。そんな困り顔も私は見覚えがなかったが、部のみんなは知っていたのかもしれない。
「俺、部長だろ? だからみんながすっごい情熱で音楽にぶつかってるの知ってんだ。それに合唱なんだからさ、全員の声を感じながら音楽を作らなきゃ何にもならない。なのに織ちゃん、部員の名前は覚えてるくせに誰にも興味なんて持たなかったよな? 寄ってくる人間の親切は笑って頂く、でも自分から努力して中へ入るのは御免。面倒だから。それってあんまりじゃねぇ?」
険しい口調は私を責めるというより悲しんでいる色があったので、私は何も言い返すことができなかった。
日誌を書いたり、部屋の片づけをしたりして毎日一緒にいたのに、私は彼の身長が伸びていたことすら気づかなかった。その程度も周りに目を配っていなかったのだから、総括の彼にはどれだけ歯がゆく映ったかは想像できない。
「だから腹立って、織ちゃんが自分から何か言い出すまでは絶対教えてやらないことにしてた。ガキっぽい意地悪だろうけどさ、馬鹿にされる筋合いはないね」
真正面から非難されることを恐れて、ずっと何も言い出せなかったけれど。
「そっか」
あっけない、気の抜けた言葉が口から漏れた。
こうして何のためらいもなく責められると、かえって気持ちはすっきりするものだと、初めて気づいた。
兄も同じ思いだったのだろうか。好きにしろと母に言われて、それで気持ちを吹っ切ることができたのかもしれない。
……残念ながら、まだ真っ向から立ち向かう度胸は私にはないけど。
「ありがとう。ちょっと、納得したかもしれない」
「はぁ?」
「いや、部長も色々考えがあったんだなって」
くるりと踵を返して、私は歩き出す。
「ちょ、ちょっと。俺も完全無視決定ですか。せっかく勇気出して白状したのに」
焦って前へ回り込む動きは、やっぱりまだ可愛い感じだったけれど。
「ん? 違うよ」
ちょっとだけ笑って、私は首を横に振った。
「古いファイルにこだわることもないかと思って。捨てていいよ、それ。また書くから」
「いや、古いからって捨てないでよ」
情けない表情で、彼は手を顔の前で合わせる。
「ごめんって。カラオケ付きでファイルを返すから、俺見捨てないで」
そうだね、と俺は苦笑を返す。
捨てることはないんだ。ファイルも浅間君との縁も、私をゆったりと温かく包んでくれていた、過去と現在の交錯だ。
そこからもう一度未来に向かって、のんびりゆったり、ぬるい夢と希望に目を輝かせ始めたって、いいのかもしれない。
振り返って、私は立ち止まったままの浅間君を睨む。
「でも私のこと猫扱いするな。それしていいのは、私の家族だけ」
「ああ、なんだ。そんなこと気にしてたの」
浅間君はひらひらと手を振って肩をすくめる。
「かわいいねって意味だったのに。意地張ってつんとしてるところが」
「あっそ」
私は浅間君と一緒に電車に乗って寮近くのコンビニまで帰った。
浅間君と入谷君と千夏ちゃんと私、その四人でサークル活動を始めたのは、それから三日後のことだった。
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