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3 ダブル・コンプレックス
無事前期テストも終わって、サークル一色の生活に変わった七月。
リーダーは浅間君、それに入谷君、私、千夏ちゃんの順に加わって、私たちバンドサークル「シャ・ノワール」は始まった。
夏休み中は毎日サークル三昧で、メンバーともだいぶ仲良くなった。八月末にはサークルで旅行にでも行こうという話になって、私はアルバイトを検討していた。
だから今日も一日サークルのはずだったのだ。
現在、私は、『ホテルイルトン』のスイートルームに来ていた。
そう、ここは輝かしい歴史と威圧感を秘めた高級ホテル。一般人などロビーに入るのも恐れ多い場所だ。
「ええと、どこまで話しましたっけ」
目の前に座っているのはモデルみたいに綺麗なお兄さんで、少し長めの茶髪と甘いスマイルの似合う人だ。年齢は二十代半ばほどで、紅茶を片手に優雅にくつろいでおられる。
ちなみに私とは今日初めて会ったばかりだ。
「マコは可愛い可愛いと甘やかして、なかなか友達ができなかったものですから。楽しい仲間ができて、本当に私は安心していて」
お兄さんは形のいい眉を寄せて言う。
「小さい頃は何でも相談してきたのに、最近はどうも反抗期で」
「あの」
私はぐっと顔を上げて、セクシーボイスで語り続けるお兄さんに勇気を出して問いかける。
「レンさん。私はお宅の弟さんの彼女でも何でもないのですが」
「あの子にお友達が出来たということだけで私は感動してるんです。時に、織部さん」
ふいに真剣な表情になって、レンさんは両手で私の手を捕らえた。
「マコは常識も節度も根性もなく、かなりお馬鹿で、可愛いだけが取り柄なお子様ですけれど」
そこまで言わなくても、と思いながら、私はぎこちなく頷く。
レンさんはしっかりと私の手を握ったまま、ちょっと潤む眼差しで熱っぽく続けた。
「根は優しいいい子ですから。どうか弟をよろしくお願いします」
超、過保護な入谷君のお兄さんを見上げながら、これは異常な暑さによる蜃気楼じゃないかと、私の頭は既に現実逃避に入りかかっていた。
その日の夜、けだるい時間を料理をして過ごしていた。
「ん、寒天固まったよ。浅間君」
「ああ。じゃ、切り分けといて」
午後十時過ぎ、私は浅間君と寮の食堂で寒天を作っていた。材料費を安く仕入れることが可能な上、バリエーションが豊富というメリットはありがたい。
――外食ばかりじゃ、金がいくらあっても足りないよ。
自炊の鬼と言われる浅間君の切実な言葉により、珍しく私も夜食作りにチャレンジしてみた。
意外と簡単にできて、しかも経済的だ。浅間君えらい。
「よし、ホットケーキもオッケイ。食べようか」
同時並行で作っていたホットケーキを器用にフライパンの上で切り分けて、浅間君は二つの皿に乗せる。
「ま、何とか……っくし」
「ん? 織ちゃん、風邪?」
「かも」
どうも喉に違和感がある。夏風邪ひくのは何とやら、とか言われそうなので、周囲には隠しているけど。
「っくし」
「ん?」
自分と同じ反応が聞こえて、私は食堂の扉の方を見る。
「あれ。マコトも風邪?」
「んー、ちょっと喉がおかしい」
お茶を汲んできて向かい側に座る入谷君に、私たちは顔をしかめる。
「気をつけなよ。歌手が喉つぶしちゃ」
「大丈夫。レンに薬押しつけられたし、それ飲む」
私と浅間君はふと頬を緩めて、お互いに目配せをする。それに入谷君は気づいたようで、コップを口から外して微かに不思議そうな顔をした。
「何?」
「ああ、あのな。織ちゃん、今日レンさんに会ってきたんだってさ」
正直に浅間君が言うと、入谷君は複雑な表情を作る。
「うわ、やだな。どーせ、僕が子供だからよろしくとか言われてきたんだろ?」
「自覚してるなら直しなよ」
「……織さん、冷たい」
「ま、そんなことはどうでもいいとして」
入谷君の睨みを軽くかわして、私は相談を持ちかける。
「君、新曲のプロモに出たくないって、駄々をこねてるんだって?」
くる、と横を向いて話題を拒否する入谷君。
瞬時にむっつりと黙りこくる彼に、私たちはため息をつく。
「プロなんだからしっかりしないと。何が気に入らないの?」
沈黙が、数秒間あった。
律儀に私たちが待っていると、入谷君は視線を逸らしたまま言葉を零す。
「……す」
ぼそ、とした声に、浅間君が聞き返す。
「え、何?」
「だから、キス」
いかにも嫌そうに、入谷君は呟いた。
「ルカとのキスシーンがあるの。そりゃ僕だって、仕事ならキスだろうとそれ以上だろうとするけど」
するのか。なかなかに素晴らしいプロ根性だ。えらいぞ。
「だけど、ルカだけは、絶っ対に、イヤ」
この、子供っぽい嫌悪の言葉さえなければ、褒めてやれるんだけどね。
「他人よりはいいんじゃねぇ?」
「そうだよ。それにルカさん、君のお姉さんでしょ?」
ルカさんの本名は、入谷琉花。入谷君の姉だそうな。
「養子だから、血縁じゃないけど」
「じゃ、もっとやりやすいでしょ。私が男だったら大喜びだけどな」
何気なく言ったら、入谷君は突き刺すような眼差しで睨んできた。
「でも、姉だ」
あ。何か触れちゃいけない弦に触ったな。
そんな直感がして、私は眉を寄せつつ黙る。
「僕は絶対、嫌だ。そんなの」
気安く笑って、浅間君は首を傾げる。
「そうかなぁ。俺、ウチのりっちゃんとなら余裕でするけどなぁ」
「りっちゃん?」
「浅間君の末の妹、律ちゃん。今年で三歳」
さりげなく解説をしてやりつつ、私は苦笑する。
「でも浅間君。ゆいちゃんとはしないでしょ?」
「あー、そうだな。ちょっと唯はねぇ」
一つ違いの妹はさすがに気まずいようだ。まあ、世間の反応はこういうもの。
「……また、僕の知らない話してる」
私は不機嫌に沈み始める入谷君を見て、今日はこのくらいで退いてやろうと思った。
なんとなく、入谷君が何を気にしているのか雰囲気で感じ取ったから。
「ああ、ところで織ちゃん。伊沢がさぁ」
思いきり私は食事の手を止めて、浅間君に振り向いてしまった。
「な、何?」
どうして私はこんな過剰な反応しかできないんだろう。伊沢、という名前には魔力があるに違いない。
しかも、入谷君が今眉間にしわ寄せたの見えたし。うわぁ、怖い。
「伊沢さ、最近メールの返信が来ないって言ってたよ。織ちゃんから」
「え?」
返信って。
私は記憶を引っ張りだすけど、最近伊沢君とメールはしていない。
と、いうより。
「え、伊沢君がメールしてくれてたの?」
今までは私からしか送ったことしかないのに、勉強で忙しい彼から発信なんて、にわかには信じられない。
「うん。一週間前から、三回くらい送ったみたいだよ」
「うわぁ……」
頬が緩みそうになるのを必死で堪えて、私は唇を噛み締める。
どうしよう。すごい、嬉しい。
耳が熱くなるのを感じて、私は知らず耳の上の癖毛をいじっていた。
「……僕のメールにはめったに返信くれないくせに」
ぼそ、と呟いた入谷君の言葉は綺麗に無視する。
だって、翌日会うなら返信する必要はほとんどないじゃないか。
しかも君のメールって、どうでもいいことばっかなんだよ。千夏ちゃんへの愚痴とか、大学の創立者の権堂さんのマル秘話とか。まあ、権堂さんネタは笑ったけど。
「ご、ごめん。部屋戻る」
居ても立ってもいられない、そんな感情に突き動かされて。
寒天とホットケーキをその場に放置したまま、私は自室へ猛ダッシュすることにした。
それから数分後、私は突き動かされる感情のままに寮から外へ走り出していた。
「あ? 沙世かよ。何だ」
鍵を開けてアパートの扉を大きく開く。
私はぜーはーと息を切らして、きっと彼を睨みつけながら叫んだ。
「兄ちゃん! 私の携帯触ったでしょ!」
赤い長めの髪に、じゃらじゃらピアスのついた耳と顔。浅黒い輪郭。
戸口で佇む我が兄は、私を一瞥するなりこう言った。
「何だ。今頃気づいたのかよ」
はっと息を呑んで、さらりと白状した兄を呆然と見る。
私の携帯から伊沢君からのメールが全部消えていたのだ。他のメールとは分けてフォルダを使ってパスワードまでかけてあったというのに。
「な、何でそんなこと!」
この私にどんな恨みがあるっていうんだ。
そう続けたら、兄は微かに目を細めて言った。
「阿呆。お前に恨みなんぞ持ってどうするんだよ。伊沢だよ、伊沢」
「伊沢君がどうしたっていうの!」
兄はだるそうに口元を歪めて首をゴキ、と鳴らす。
「静かにしろ。近所迷惑な」
「兄ちゃんに言われたくない!」
怒りも露に食いつく私に、兄は淡々と答えた。
「あいつは気にいらねぇ。そんだけだ」
「……な」
「わかったら帰りな。俺はバイトがある」
絶句する私の前で、兄はさっさと扉を閉めようとする。
気に入らないっていうそれだけで、こんな真似をしたって?
……ふざけんな。
血が逆流するような激情を感じて、私は奥歯を強く噛み締めた。
「おい」
「勝手なこと言うな! 人を何だと!」
すっと手を伸ばして、腕が挟まれるのも構わず兄の胸倉を掴む。
ギリギリ、と扉に押しつぶされる痛みに、私は顔をしかめる。
「馬鹿、やめろ!」
「うるさい……っつ」
無理やり中に引っ張り込まれて、私は勢い余って兄の胸辺りに頭をぶつける。
悔しいけど、力じゃ全く敵わないのが現実だ。あっさりと胸倉の手を外されて、扉に挟まれていた私の右腕を素早く捲り上げる。
「腕は? ……あー、やっぱアザになってるじゃねぇか」
痛みではなく悔しさで顔を歪ませる私に、兄は呆れた様子で言ってくる。
「馬鹿かお前。腕ちぎれたらどうすんだ?」
「無いよ、そんなこと。それより!」
「黙れよ」
なお食いつこうとした私に、兄は一度ゆっくりと瞬きをしてから目を開く。
背筋が凍るような目が、その彫りの深い顔立ちの中でぎらりと光った。
「聞こえねぇのか。黙れ、沙世」
ごく、と息を呑んだ。
兄は暴力を振るわない。決して私を傷つけることはしない。それを何年もの経験で知っていても、恐怖で身が竦む瞬間はある。
「感情で突っ走るな。考えてから動け。怪我して泣くのはお前だぞ」
「……」
「わかったな」
決して怒鳴るような叱り方じゃなくても、私は声が喉で詰まって外に出なくなる。何か大きくて厚い壁に阻まれて、その前で立ち往生するしかないように。
「思うところはある。だが感情の抑えも効かねぇガキに、懇切丁寧に説明してやる筋合いはねぇ」
――黙って言うこと聞きな、沙世。
小さい頃から、兄に衝突する度に、遥か頭上から押しつぶしてきたメッセージがここにある。
――でなきゃ、置いてくぞ。それでもいいなら好きにすりゃいい。
……ひどいじゃないか。
そんなの、ずっと兄ちゃんにしがみつくことしかできなかった私に、逆らえるわけないじゃないか。
呆然と立ち竦む私の手から、兄はひょいと簡単に携帯を奪う。
「伊沢はやめろ。そう約束できるまで、こいつは預かっとく」
パタンと目の前で静かに扉が閉められる。
数十秒後に、兄は再び外へ出てきた。
「兄ちゃん」
扉の前で立ったままの私を軽く無視して、さっさとアパートの下まで降りていく。
携帯が取られてしまったということに、私は全く思考が行き届かない。どうやって兄の怒りを解こうか、ただそれだけにしか頭が回らない。
傲慢、横暴、強権的。
それでも逆らえない、この絶対の力関係。頼りにして甘える一方で、私が兄に抱き続けてきたコンプレックス。
「……私は、悪くない」
ブロロロ、とバイクの走行音が過ぎていくのを耳の端で感じ取りながら、私は唇を強く噛み締めていた。
「沙世ちゃん、さーよーちゃん!」
「あ、うん」
兄と喧嘩して三日後。午後七時、日も沈んで暑さが落ち着いてきた時刻のサークル部屋で私は我に返った。
「ほらぁぼんやりしないで。バイト決めないと旅行行けないよぉ」
「そーそー。稼ぐっきゃないでしょー」
騒がしい浅間君と千夏ちゃんに急かされて、私はバイトを早急に決めなければいけない事態に追い込まれていた。
「ほーら。どれでもお好きなものをどうぞ」
ずらり、と板張りの床に広げられたバイトのチラシ群。ティッシュ配りやファーストフード店、キャバクラまでその幅は広い。さすが、千夏ちゃんと浅間君がかき集めてきただけあって種類は豊富だ。
「塾講師とかがいいな、私」
「んー、でもさ。今から決めると変な日程に割り当てられて動き取れないよ」
「うー」
健全なものを好む人は多いし、私もその内の一人だ。短期バイトという性質上、どうしてもヘルプ的なバイトが多いし、その中から選ぼうとすると肉体労働が多くなる。
「沙世ちゃん。やっぱね、割りのいいバイトでしょ」
「でも夜のお仕事はちょっとなぁ」
兄ちゃんに怒られるし、と言いかけて、私は口をつぐむ。
……いいじゃん。どうせ喧嘩してるんだから、いちいち兄の顔色窺わなくたって。
ああ、何か頭痛がする。
「ごめん。今日はもう帰っていい? 何かだるい」
「え、大丈夫?」
「顔色悪いよ、織ちゃん。送ろうか?」
立ち上がった私に、二人は口々に心配の言葉を掛けてきた。
「ごめん。チラシは持って帰る。また明日ね」
二人の心遣いは嬉しかったけれど、今の私は満足に感謝の気持ちを口にできない。体調より、何だか精神の方が疲れていて。
「ゆっくり休みなよ。マコトも今日は早く引っ込んだし」
大学を抜けて、私は徐々に星が輝きだす空の元へと歩き出した。都会の真ん中といってもいくつかの星は目立っていて、探せば必ずどこかで光が見つかる。
ただ、空を仰いで歩くのは恥ずかしくて。私は真夏だというのに肩をすぼめて、せかせかと足元を見ながら前へ進んでいた。
「う、やば」
電車に乗って座った途端、寒気を感じた。外気の暑さによるものとは明らかに違う、嫌な汗がじっとりと背中に滲む。
熱、あるのかな。ひどく喉が渇く。
寝ると良くないと思いながらも、走り出す列車と共に意識が左右に揺さぶられる。
――僕さ、小さい頃はルカと仲が良かったんだ。年が十以上離れてたけど、すごく可愛がってもらってた。
ふわりとよぎったのは、昨日聞いた入谷君の言葉。
私は瞼を閉じたり開いたりしながら、終始苦い口調の入谷君の話を回想していた。
「仲のいい姉弟ねって、言われるのが好きだった。実際そうだったし」
顔の半分を夕日で染めながら、入谷君は淡々と語りかけてくる。
「でも父の再婚で義兄になった蓮とは違ってさ、琉花は養子だったから。しかも琉花のお母さんは僕の家の家政婦やってた頃もあって、小さい頃から陰口叩かれてたらしいんだよね」
ちょっと遠い世界の話かと思ったけど、私にとってはそうでもなかった。
――沙世ちゃんはお兄ちゃんと仲いいのね。お兄ちゃんが優しいから、かしら。
ささやかな嫌味。お前は兄の厚意で受け入れてもらってるんだよ、と囁かれた、意味もわからない言葉の数々だった。
「ほんとの姉弟じゃないから、余計に仲良くなるのかって、危険なイメージを持たせたがったりとか。琉花は所詮家政婦の子供だから、僕に遠慮して優しい姉らしいことをしてるんだとか、いろいろ」
私は何度も頷いていた。形は違っても、それは私と兄へ向けられた疎ましい好奇心と同じだったから。
「それで、僕が小学四年生くらいだったかな。中傷される意味がわからなくて、思わずクラスの男の子に叫んだことがあった。『お姉ちゃんが一番好きで、何が悪い』って」
――お兄ちゃんが好きで、何が悪いの?
私も言ったことがあったっけ。親戚の前で、つい意味がわからなくて訊いてしまった。
……入谷君に返ってきた反応が、わかりすぎるくらいにわかってしまう。
「そしたら、愛の告白だってはやし立てられた。僕を迎えに来た琉花まで引っ張り出して、『ほら、姉ちゃんに告白しろ。愛しちゃってるんだろ』って」
――でも沙世ちゃんのお兄ちゃんは、本当のお兄ちゃんじゃないのよ。
含み笑いをして、好奇心と疎外感を漂わせながら私を見下ろした親戚。まるで自分たち健全なものとは別の、気持ち悪い感情を見たかのように。
深くため息をついて、入谷君はふと顔を上げる。
「僕、琉花が好きだったよ。だって一番近くにいたし、どんな時でも面倒見てくれて、すごく頼りになった。そんな姉が好きで、どうしていけない?」
彼の思いは、一途に姉を慕う、ごくごく純粋な愛情だったんだろう。
「悪くないよ、何も」
誰が何と言おうと、悪くない。その純粋な思いを否定して汚すことなんて、誰にも許されやしない。
私は入谷君を真っ直ぐみつめ返して、きっぱりと言い切った。
「私も嫌だった。腹違いとか、枠にはめられて私の感情を説明されるのが。好奇心だけで、大切っていう思いを汚されるのが」
「……うん」
こくん、と頷いて、入谷君は泣き笑いの表情になる。
「ありがとう」
眉を寄せて、入谷君は再び顔を伏せる。
「もっと前に、そう言ってくれる人に会えればよかったのに。そうしたら、琉花との仲がこじれること、無かったと思うんだ」
「何があったの?」
ためらいがちに問いかけると、入谷君は表情を消した。
空ろな目をさまよわせて、ぽつりと呟く。
「はやし立てられて立ち竦んでた僕に、琉花、いきなりキスしてきた」
「……え」
入谷君は暗い光を瞳に宿して、忠実に琉花さんの言葉を再現してみせる。
「『私はあんたの父には世話になってる。だけどあんたはあたしの弟じゃないし、雇い主でもない。だから何でもできる』って」
自嘲気味に笑って、入谷君は首を傾けた。
「『あんたがもうちょっといい男になったら考えてあげてもいいわ。でも今は御免ね。バイバイ』……で、家を出てった」
黙りこくる入谷君に、私も深いため息をつく。
否定されてしまったのだ。入谷君は、その一番大切だった姉への慕情を、他ならぬ本人に、単なる子供の感傷にされてしまった。
――うるせぇ。沙世の兄は俺しかいねぇよ、ババァ。くだらねぇこと言うな。
私の場合は、兄自身がそう庇ってくれていたから。親戚のいらぬ中傷に、傷つかなくて済んだ。それだけが、入谷君たちと違うところ。
「でも、琉花が本気で僕を嫌ってたから、とは思いきれないんだ」
「うん。そう、だね」
琉花さんは、入谷君を思ってそんな大胆な真似をしたのかもしれないとも思う。
そうじゃなければ、入谷君と離れて暮らした理由がわからなくなる。
「で、琉花さんとはやし立てられることはなくなったの?」
「ほとんどね。だけど、琉花はすごく避けてくるようになった。僕も同じ」
それだけ衝撃的な場面を見せつけられたら、小学生程度はもう踏み込めなかったんだろう。入谷君に大きな傷を残したという、それさえなければ大正解の選択。
「嫌なんだよ。今回のプロモだって、『倒錯的』っていうイメージのために、事務所が僕らの関係を利用してるのが丸見えなんだから。それでも……琉花は、『何を気にしてるの、馬鹿じゃないの』、って、そればっかりで」
姉なんかじゃない。だから近づくな。
それは確かに、入谷君の今後にとっては良い判断だったのかもしれない。
「残酷だよ。上の者に切り捨てられたら、弟としてはもう何もできない。勝手に人のため、とか言われたって、かえって迷惑」
「うん……」
――沙世。拗ねるなよ。しょうがねぇだろ。
お前は小さいから、弱いから、だから代わりに決めてやるんだと、思い上がらないでほしい。
「うん。その感覚は、わかる」
何にもわからない子供だって、踏みにじられたくない思いはある。それをどうしてわかってくれないのかと、私だって悔しかった。
「でも一番厄介なのは、そんな兄弟を嫌えないってことだよね」
「うん」
入谷君も、神妙な顔で頷いた。
枠にはめないでほしい。この感情を他人に踏みにじられてもまだ耐えられるけど、他ならぬ相手にだけは認めてもらいたい。
胸に引っ掛かり続ける劣等感。私はおかしくなんてないのだと、叫びたいのに叫べない周囲の抑圧。
『終点ー』
ノイズ混じりの車掌の声が響いて、私は浅い眠りに浸かっていたのにやっと気づいた。
まだ夢の中にいるかのような、ぼんやりとした意識のまま改札を通る。騒がしい喧騒も遠くて、自分が辿っている道すら、帰り道なのかあやふやだった。
ああ、ちゃんと帰れるんだろうか。こっちで道は正しいのか。
「あ」
だけどその中で、くっきりと浅黒い輪郭を捉えてしまった。赤い髪で、ピアスがじゃらりと付いていて、人の中で頭ひとつ飛び出してしまう巨体が、灰色のビルから現れる。
「にいちゃん」
一瞬、視線が交差する。
掠れた世界の中で、一秒にも満たない時の狭間で、私は視線で兄に叫ぶ。
……置いてかないで、兄ちゃん。
無意識に、弱い思いにすがっていた。
相手は視線をかわして、踵を返す。その後ろ姿は、兄には似ても似つかない細身の少年だった。私は立ちながらまだ夢を見ていたのだと気づく。
違う。兄ちゃんじゃない。兄ちゃんだったら、私に気づいてくれるはずだから。
私はいつの間にか方向を変えていた。
大丈夫。私は帰る道を知っている。頭の芯が痺れていても、体は勝手に動いてくれる。
どこへ向かっているのかもわからないまま、ただ私は安心する方角へとひたすら歩き続けていた。
目が覚めた時、私は今いる場所がどこかわからなかった。
白い天井、白いカーテン、その中で唯一黒い、テレビがあった。
「さっちゃん。大丈夫?」
聞き覚えのある声を傍らで耳にして、私ははっと我に返る。
「美幸ちゃん?」
「うん」
車椅子に腰掛けたまま、美幸ちゃんがそっと見下ろしてきていた。顔色は白くて、彼女に心配を掛けてしまったのだと申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
手を伸ばそうとして、その腕にコードがついていることに気づく。
「点滴……」
コードに繋がるのは縦長のパックで、私が横たわっているのは白いベッドだ。
周りを見渡せば、思ったより広い部屋だった。十個ほどのベッドが並んでいて、子供から大人まで、いろんな人が点滴をして横になっている。
「ここ、病院、だね」
「うん。さっちゃん、覚えてないの?」
美幸ちゃんは眉を寄せて、ぎゅっと口元を引き結ぶ。
「さっちゃん、病院に来るなり倒れちゃったって聞いて。すごくびっくりしたの」
「そっか」
本能のままに、休息を求めて病院まで歩いてくるとは。
「結構、私って図太いんだね」
自分の生命力に感心して、私は苦笑しながら起き上がった。
「あ、まだ寝てて」
「大丈夫。たぶん、風邪気味だったところに脱水症状が重なったんだよ」
うっかりしていて、今日は朝ペットボトルを持って出るのを忘れていた。たいしたことないと思っていたけど、貧血持ちの私が油断するものじゃなかった。
「ごめん、美幸ちゃん。心配掛けて」
「いいのよ。私は透析に来たところで、先生に教えてもらっただけだから」
ふわりと微笑む美幸ちゃんに、心が安らいでいくのを感じる。
ああ、何を悩んでたんだろう。一瞬すべての悩みがどうだってよくなるような安息に浸って、私はちょっとだけ笑った。
よく考えれば、兄と些細なことで喧嘩をして携帯を取られただけ。私には友達だっているし、家族ももちろんいて、美幸ちゃんという「姉」だって側にいたのに。
「何か私、また弱気になってたみたい。美幸ちゃん、部屋戻るなら送るよ」
「え、さっちゃん。無理しちゃ駄目よ」
「大丈夫。もうすっきり」
さっさと受付の看護師さんの所へ行って点滴の終了を告げ、治療費を払った。保険証がなかったから思いのほか高くついてしまったけれど、仕方がないと諦める。
点滴のおかげかもしれないけど、体に力が戻ってきていた。頭の中でごちゃごちゃ混線していた考えも整理されて、足取りも軽い。
もっと楽に考えなきゃ。大丈夫。私はまだ何も失ってなんて、いない。
心の中で呪文のように反芻しながら、私は美幸ちゃんの車椅子まで戻る。
「ここにいたのか、ユキ」
足を止めて、私は目標の足元を凝視する。
大きな黒いシューズが見えた。破れながらも丈夫な、私もよく知っているメーカーだ。
「見舞いに来た。透析は終わったのか?」
「うん。今日は調子いいみたいで」
「そりゃよかったな」
俯いたまま立ち竦む私に、彼は視線を向ける気配すらない。
「これ、土産。今日中に食えよ。じゃあ俺、バイトがあるから」
大きな運動靴が近づいてくる。私の方へと、一歩ずつ。
顔を上げることもできず、私はただ数メートルを永遠の距離のように感じていた。
気づいて、兄ちゃん。私、ここにいるんだよ。
そう心の中で、必死に叫んでいた。
何の迷いもなく、兄は私の横を無言ですり抜けていった。
靴音が段々と通り過ぎる。その音は患者や医師の声でざわめく部屋の中で、嫌味なほどにしっかりと耳に尾を引く。
手をぎゅっと握り締める。思った通り、それはじっとりと汗ばんでいた。
「さっちゃん」
美幸ちゃんの声が、耳に痛い。心配を含んだ調子で見られたら、きっと私は美幸ちゃんに何か嫌なことを洩らしてしまう。
どうして私を無視するんだと、みっともなく喚いてしまうに違いないんだ。
「ほら、手を出して」
意外な言葉に、私は訝しげに顔を上げる。
車椅子に座ったまま、美幸ちゃんは困ったように微笑んでいた。
「私じゃ持ち上がらない。ほら、この箱は、さっちゃんのだから」
視線で、美幸ちゃんは自分の膝の上に置かれた四角い箱を示す。
「で、でも」
それは、兄ちゃんが美幸ちゃんへのお土産に。
そう口にしようとしたら、美幸ちゃんは表情を和らげて私を見上げた。
「開けてみて。そうしたらわかるわ」
「うん」
言われるままに箱を取って、私は半信半疑のままフタを開く。
中にあったものに、私は思わず目を見開いていた。
「なんで?」
美味しそうなよもぎ餅が、つやつやした緑色でそこに鎮座していた。
……しかもなぜか、五つも。
「私と、あとお母さんがもらうとしても、今日中に食べるには二つで十分ね。残りはさっちゃんにあげる」
淡い茶色の髪を揺らして、美幸ちゃんは眩しいほどの笑顔を浮かべる。
「さっちゃん、よもぎ餅、大好きでしょう?」
もしかして、と私は箱を持ったまま立ち竦む。
そもそもよく考えれば、おかしいのだ。兄が美幸ちゃんを見舞いに来るのは朝が普通で、夕食前のこの時間帯は別のバイトに行っているはず。
だって、私と鉢合わせたことは一度もないのだ。なるべく美幸ちゃんが寂しくないようにばらばらの時間に行こうと、相談して決めた……兄と二人で。
「ふふ」
にこにこと笑いかける美幸ちゃんに、私は少し顔を赤くする。
だったら、このよもぎ餅はどうしてここにあるのか。和菓子嫌いな叔母さんへの賄賂だなんて、到底考えられないし。
「良かったわね、さっちゃん」
「……子供じゃあるまいし。私、お菓子だけで何でも許したりなんてしない」
「はいはい」
軽くあしらう美幸ちゃんをちょっとだけ睨んで、私は彼女の車椅子を押し始める。
馴染みの看護師さんに挨拶をしながら、消毒液の匂いが漂う空間を歩いて行く。ベージュの廊下を通り過ぎ、エレベーターに乗って美幸ちゃんの個室までたどり着いた。
「まーくんと喧嘩したの?」
ベッドに彼女を寝かせた途端、問いかけられた言葉に私は苦笑する。
「ちょっとね。美幸ちゃん、伊沢一志君って覚えてる?」
「かずし……ああ。カズ君ね。さっちゃんの仲良しさん」
すぐに思い当たったようで、美幸ちゃんはこくりと頷く。
「その伊沢君について、ちょっと喧嘩しちゃって」
「ふうん。どんな?」
私は傍のパイプ椅子に腰掛けて、ここ数日間のあらましを語る。美幸ちゃんは時々質問を交えながら、静かに相槌を打って聴いていた。
話し終えると、美幸ちゃんは小さくため息をついて呟く。
「それはまーくんが悪いわね。さっちゃんの仲良しさんにひどいわ」
「うん……」
「今度叱ってあげる。意地悪する子は、めって」
小さな子供のように美幸ちゃんに叱られる兄を想像して、私は思わず吹き出す。
「美幸ちゃんにかかると、兄ちゃんも形無しだね」
「ふふ。だってまーくん、弟みたいなものだもの。いつまで経っても小さいのよ」
くすくすと笑って、美幸ちゃんは綺麗な睫毛を揺らす。
「だけどそれは、まーくんにとっても同じなのよ」
「同じ?」
「まーくんにとっては、いつまで経ってもさっちゃんが、小さくて可愛いさっちゃんに見えるってこと」
蛍光灯の光で目を輝かせながら、美幸ちゃんは首を傾ける。
「さっちゃんが怪我したらいけないって、一生懸命なの。痛い痛いってさっちゃんが泣いたら、まーくんもとっても悲しくて泣いちゃうの」
「……泣かないよ。兄ちゃんは絶対」
自分が怪我した時だって、泣いているところなんて見たことがなかったのだ。その強さに羨望と、少しばかりの妬みを抱く。
黙りこくった私に、美幸ちゃんはためらいがちに口を開いた。
「さっちゃん。私はね、まーくんが泣いてるとこ、いっぱい見たことあるの」
「え?」
「覚えてないかな? カズ君がさっちゃんの黒猫のぬいぐるみにいたずらしたから、さっちゃんは怪我したの」
「……あ」
私は記憶の糸がつながって短く声を漏らす。
――とれんやろ、さっちゃん。もう知らんでな。
今でも私の枕元にある黒猫のぬいぐるみを、伊沢君が木の上にひっかけてしまったことがある。私はそれを取ろうとして怪我をして……迎えに来た兄はもっとひどい怪我をした。
「まーくんはそのことにすごく怒ってた。でもね、泣いてもいたの」
私が驚いて瞬きを繰り返すと、美幸ちゃんは一つ頷いて目を伏せる。
「私、同じ病院に入院してたから。まーくん、夜にね、ぐすぐすって泣きながら私のところに来たのよ」
消灯された病院の中、目を擦りながら歩いてくる小さな子供。
像は浮かんでくるのに、私はとてもその子供に兄を当てはめることができなかった。
「『まーくん、どこか痛いの』って訊いたの。そしたらまーくん、『ユキ、どうしよう』って」
美幸ちゃんは自分が怪我したかのように、顔を曇らせて続ける。
「『沙世の顔に傷残ったらどうしよう。俺がしっかり見とかなかったから悪いんだ。どうしよう、俺、兄ちゃんなのに』って」
そんな気弱な兄を想像できなくて、私は思わず絶句した。
「まさか」
「ほんとよ。ぽろぽろ泣いてるのがとっても可哀想で、大丈夫よって頭撫でてあげたの」
私は目を逸らして、傍らの花瓶をみつめた。
実感がない。泣いた兄なんて見たことがなくて、弱い兄なんて想像もつかないのだ。
喧嘩上等、殴られたら倍返しが基本みたいな人だ。血なんかじゃ怯まないし、怒鳴られようが殴られようが、いつも平気で冷笑してみせるのに。
そっと耳の上の癖毛の辺りを探る。
確かに、傷は残ってる。けど髪の中に沈んでいる部分だから外には見えないし、自分でも忘れていたような古傷だ。
「意地があるのね。絶対、さっちゃんの前でなんて泣けないって」
もしかしたら、そんな像を私が兄へ押し付けていたんだろうか? だから無理して、強い兄にならなくちゃいけなかったんだろうか。
「……でも、だからって」
私の意思を無視していいのか。何でも好き勝手に決めていいと思ってるのか。
そんなの、傲慢じゃないか。私はもう泣くことしかできない子どもじゃない。
「さっちゃん。携帯のことは私が言っておいてあげる」
美幸ちゃんは一息ついて、じっと私をみつめた。
「でもお兄ちゃんを許すかどうかは、さっちゃんが決めて」
私は考え込んで、小さくうなずき返した。
聞き慣れたバイク音が寮の外で止まる。
あ、兄ちゃんが帰ってきた。そうわかってしまう私は、何て余分な知恵を身に着けてしまったのか。
窓の外から吹き込む風は涼しかった。もう八月だといっても、日中の照り返しは落ち着き、Tシャツ一枚なら十分快適に過ごせる。
だけど、うっかりしてると風邪引くかもしれない。点滴した日はすっきりするけど、油断してるとぶり返すし。さっさと寝たほうがいいかな。
民法総則の参考書を捲りながら、ちらりと机の上のアナログ時計を確認する。
夜十時十分。そろそろ、例のパンクな店へ兄がバイトへ出かける時間だ。
だけど体もだるいし、バイト前に引き止めたら嫌な顔されるかもしれないし。心の中で言い訳をいくつか並べて、私は苦笑した。
「行こ」
参考書をぱたんと閉じると、私は立ち上がった。
美幸ちゃんが叱ってくれるというなら、すぐに携帯は返ってくる。だけどそれだけじゃ、何の解決にもならない。
私が謝るのか、それとも絶対に譲らないとわかっていても兄が謝るのを待つのか。
それすら決めてなくても、座っているだけよりはいいだろう。
「頑張るよ、みーちゃん」
枕元の、小さい頃からのお気に入りだった黒猫のぬいぐるみを一度抱きしめて、私は上着を取り出す。
裏口から抜けて小走りにアパートへ近づくと、そこには兄の物と同系統のバイクがあった。
「え」
しかもその色は、妖しくも派手なワインレッドだ。
まずい。これはどう考えても、何か危険なものを感じる。
「待ちなさい。あんた」
踵を返して逃げ出す気満々だった私に、大人の女性の声が掛かった。
ブリキ人形っぽく首を捻って振り返ると、そこにはバイクと同じワインレッド色の服を身につけた、セクシーなお姉様がいた。
「すみません。……お邪魔しました」
なぜこんな言葉が口に上ったかといえば、その場にはもう一人いたからだ。
その素敵なお姉様の腰に手を回して階段に座り、なぜかライターでタバコの火をつけてもらっている……我が兄上。
え、えと。彼女、何だよね、兄ちゃん?
「待ちなさいって言ってるでしょ」
すらりと綺麗な足を組み替えて、女性は立ち上がる。
カツカツとヒールの音を響かせながら近づいてくる彼女から、私は逃げるどころか動くこともできずに、じっとその場で立ち竦んでいた。
「何か、見覚えあるわね」
高く微かに掠れたハスキーボイスを響かせながら、お姉様はサングラスをずらして私を見下ろす。
「わ」
その瞳は、空の色よりもずっと鮮やかな青色だった。ナチュラルメイクと思われる白い肌の中、透明な光で輝いている。鼻や口も絶妙のバランスで、ご両親はさぞかし美男美女カップルだったんだろうなぁ、と無駄なことを考える。
「ん。あんたが織部沙世ね」
そんなセクシーかつ文句なしの西洋系美女が、一体なぜ私を腕組みしながら見下ろしているのでしょう。
「これ」
「わぁっ」
唐突に差し出された白い箱に、私は思わず後ずさりする。
「やるって言ってるの。さっさと受け取りなさいよ」
いや、でもこんな突然では私には一体何が何だかわかりません。
「ウチのクソガキが世話になってるって言うから。ガキ共には菓子折くらいが筋でしょ。適当に買ったから、浅間とやらと分けて食いなさい」
尊大な態度のまま、青い目のお姉さんは私にぐい、と箱を押し付ける。
あんまりに強い力で突きつけられるから、つい私はそれを両手で抱え込んでしまった。
ふと顔を上げてお姉さんの顔を無遠慮に眺めてみた。
ああ、何だ。
「琉花さんですね。エタルの」
「今頃気づいたの? ったく、ファンなら瞬時に飛びつきなさいよ」
「す、すみません」
わからなくとも仕方がないと思う。ニュイ・エタルナの唯一の女性メンバーで素敵美少女然とした「ルカ」は、このボディコンスタイルとは全く似ても似つかない。
「じゃあ行くわよ」
「あ、ちょっと待って」
あっさりとワインレッドのバイクに跨ろうとする彼女に、思わず私は駆け寄る。
琉花さんは秀麗な眉をひそめて、怪訝そうに私を見た。
ちゃんと待ってくれるとは、意外と律儀な人だな。そう感心しながら、私はそっと問いかける。
「入谷君とのキス事件、聞いたんですが。彼は非常にショックだったそうです」
「ふうん?」
サングラスの奥の瞳が微かに揺れて、琉花さんは口の端を上げる。
「だから?」
「でも、今でもお姉さんとして大事だと思ってるみたいです」
他人のことに干渉するのは、趣味じゃない。だけど確認してみたかった。
一度言葉を切って、私は勇気を出して問いかける。
「それでも、あの時『弟なんかじゃない』って言ったこと、後悔してませんか?」
「するわけないでしょ」
琉花さんはためらいなく、真っ直ぐに答えを返した。
「あのガキは、ほっとけばいつまで経っても後ろについてくる雛鳥なのよ。そんなのうっとうしくて敵わないわ」
ウイッグらしい茶髪をかき上げて、琉花さんは挑戦的に笑いかける。
「以上よ。満足?」
「はい」
私はこくん、と素直に頷く。
突き放すのも愛情が要るんだということは、私もそろそろ理解していたから。
琉花さんはそれを見て意味がわからないとばかりに怪訝な顔をする。私はまた一つ頷いて、両手で白い箱を胸に抱えた。
「もう一つ、お聞きしたいんですけど」
「何よ」
「余ったケーキは、入谷君にあげていいですか?」
一瞬、琉花さんの目の奥で何かが動いたのを見た気がした。私はそれに満足して、こらえきれずに少しだけ声を洩らして笑う。
「だ、だって。私と浅間君じゃ、五つもケーキ食べられませんよ」
「……」
「さっき、様子聞いてきましたけど。もう体の調子はいいそうですよ、入谷君」
数秒間の、乾いた沈黙の後。
琉花さんはふんと鼻で笑って、バイクのエンジンを派手に掛け直す。
「あんた、よくしゃべるガキね。くそ生意気」
「わ」
赤いマニキュアが輝く、綺麗な手で髪をかき回される。私はバランスを崩しそうになりながらも、何とかケーキ箱だけは強く抱きしめる。
「でも生意気なガキは嫌いじゃないから、今度会ったらサインくらいはしてやるわ」
「ひゃっ」
一瞬、頬に柔らかな感触。それがキスだと気づく前に、琉花さんはもう顔を離していた。
「あんたの兄貴によろしくね。いい男ももちろん、嫌いじゃないから」
耳元をどきりとするようなセクシーボイスが掠めていった。
次の瞬間には軽く突き飛ばされていた。琉花さんはドドド、という兄のバイクと同じエンジンの音を立てて、手元を捻る。
そのまま、振り返りもせずに走り去っていった。
煙が、夜風に蝶のごとく舞う。
「もしや、キス魔?」
だったら入谷君、かわいそうに。
頬を押さえながらそんなことをぼんやり考えて、はっと我に返る。
「……兄ちゃん」
アパートの鉄階段に腰掛けたまま、兄は無言でこちらを窺っている。二本目のタバコの煙が斜めにたちのぼり、顔の半分を隠していた。
私はそちらに向き直ったはいいけど、なかなか口から言葉が出てこない。
「あのさ」
座っていても変わらず私より高い位置にある、こげ茶の瞳を見上げる。
――謝っちゃ駄目だよ。
入谷君の悲しげな声が、耳元で木霊する。
――いくら立派な兄でも、間違ってることはある。そう感じた時におもいきり反抗しなきゃ、一生逆らえなくなるよ。
兄ちゃんが間違ってるんだ。勝手に携帯取り上げるなんて、美幸ちゃんも悪いって言ってくれたじゃないか。
――後悔? するわけないでしょ。
だけど、琉花さんを見ていてわかったのだ。
姉は、兄は、絶対下の者になんて謝れない。もし自分が間違ってると思っていたとしても、それを認めるわけにはいかない。
――俺、兄ちゃんなのに。
だって、強くなきゃいけないんだから。今更弱い人間になって見せたら、下の者が不安になるのだと、頑なに信じているから。
弟に優しい姉ほど、妹を可愛がっている兄ほど、傲慢になってしまうのだと。何だか突然、私はすとんと理解した気がした。
「兄ちゃん、ごめん」
言葉は抜け落ちるように夜風へ浮かんでいく。
「かっとなって、すぐ感情が出るのは私の悪い癖だ。まだまだ子供っぽくて、兄ちゃんに怒られるのも仕方ない」
私が謝り続ける限り、兄は絶対に自分の間違いは認めないだろう。そして相変わらず、私に逆らわせないに違いない。
……だけどまだ、それでいい。
決裂することなく、兄から離れる方法を見つけるまで、たぶん私は怖くて逆らえない。それがいつになるかは、まだわからなくても。
タバコをコンクリートに押し付ける音がした。軽く灰を落としてから、律儀にもポケットケースに仕舞う気配がする。
日に焼けた肌が微かに動き、兄はゆっくりと表情を作った。
「だから携帯返して、とくるんだろうが」
やっと兄が口を利いたことに安心して、私は知らず表情を緩める。
静かに立ち上がって、兄は後ろのポケットから小さな機体を取り出す。
「フォルダは消したんじゃなく、場所を移しただけだ。よく見ろ、機械オンチ」
携帯ごとごつごつした手を私の頭に置いて、兄はぼやく。
「いて」
「だからガキだって言ってんだよ」
「……ごめん」
箱を抱きしめたまま、私は俯いた。
ぬるい空気が過ぎていく。のろのろと更けていく、夏の宵はぼんやりとした夢のようで。
それでも、頭の上に置かれた大きな手と、苦いタバコの匂いは本物だった。
やれやれ。よかった。
私は携帯をポケットにしまって、踵を返そうとして足を止める。
「そういえば兄ちゃん。琉花さんと何話してたの?」
「あ?」
兄もバイクを拾いに歩く足を止めて、短く答える。
「愚痴だよ」
「へ?」
「つまり、お互い苦労してんなって話」
「い、いや。それだけじゃ何がなんだか」
追求しようとしたけど、兄は苦笑しただけで答えてはくれなかった。
「早く寝ろよ。点滴してた奴が何うろうろしてんだ」
そう言い捨てて、兄は煙を上げながらバイクごと走り去っていった。
「……ちゃんと気づいてたんじゃん」
ブロロロ、という馴染みの音がだんだんと小さくなるのを聞きながら、私はのんびりと寮へと向かう。
思わぬ琉花さんとの出会いには驚いたけど、そのおかげで兄ともスムーズに話がつけられた。
白い箱を両抱えにして、私は微笑む。
こんな時間に訪ねてきて、私や浅間君に会えるとも限らないのに、琉花さんは待っていたんだろうか。たった一人で、しがない学生に「弟を頼む」と言うためだけに。
他人から見れば、それはすごく弟思いな姉だとわかるんだけど。どうして本人たちは気づかないのかな。
……ああ、でも。それは、私も同じことだ。
「あ」
物干し場まで来た時、そこで洗濯籠を抱えている男の子を見つけた。
「入谷君。見てたの?」
「……まぁ、少し」
ふわふわの洗濯済みの服を見下ろしつつ、入谷君は苦い口調で呟く。私はそれに笑って、そっと白い箱を開けてみせる。
「入谷君、ショートケーキが好きなんだ」
「悪かったね。子供っぽくて」
甘そうなショートケーキが五つ詰まっているのを見て、入谷君はもっと眉を寄せる。
「イチゴ、風邪引くといつも食べてた。琉花が買ってきたから」
「ふうん」
「もっと早く買ってくれればいいのに。風邪、もう治ったよ」
照れくささを押し隠すように早口で文句を並べる入谷君をみて、私はこくこくと頷く。
「だからさ、織さん。笑うなら笑ってよ」
「いいの?」
「何か、確認されると腹立つけど」
「っく。あははっ」
私は喉の奥に飲み込んでいた、笑いの種をぱっと咲かせる。
その日の夜は、入谷君と浅間君、私の三人で食堂に集結して。
「いやぁ、俺ってラッキー。二人とも、おすそ分けありがとー」
景気よく、美味しいショートケーキとよもぎ餅を含みながら、和やかな夜を過ごしたのだった。
ちなみに後日レンさんから、お礼状と一緒にDVDが届いた。
「お。出た出た。噂のキスシーンっ」
結局琉花さんに逆らえなかったらしい入谷君の、完成したプロモ「Lu-Na」
を部室で拝見させてもらった。
浅間君、千夏ちゃん、私の三人の、興味津々な眼が一斉に画面へ集結。
「わー。イリヤが、ルカ様汚してるー。ひっどーい」
一番騒がしかったのは、もちろん千夏ちゃんで。
「ねーねー。これって舌入れてたりするのぉ?」
「入れるわけないだろっ」
部室の隅には、当然ながら入谷君がいじけていて。
「うわ、すっげー。レンさん格好きわどすぎねぇ?」
「嫌ぁー。ミサキが、ミサキがぁー」
飽きっぽい私は、すぐに画面を離れてピアノをいじっていた。
まあ、面白いには面白いけど。千夏ちゃんたちの反応を見るのが。
私にはからかわれないことに安心したのか、入谷君は喧騒を抜けてピアノの方へと寄ってくる。
「織さん」
「何? 君、どうせ最後はプロモ出るなら、人騒がせなことしないでよ」
「ううん、結構迷ってたんだけど。で、話はそっちじゃなくて」
微妙な間を作って、入谷君はピアノの脇で立ち竦む。どことなく、何かを待ちわびるように。
私は楽譜を見たまま、ぽつりと呟いた。
「割高なバイト決まったから。サークル旅行は行くよ」
「え」
「レストランでピアノ弾くことになったんだ。で、今からその練習するから。ちょっと曲選び手伝ってよ」
ちら、と同じ目線の入谷君を一瞥する。
彼は数秒間、その場で固まった後。
「ん。もちろん」
と、なんだか可愛く笑って頷いた。
「いい曲揃ってるよ、この楽譜。でもテンポ速いのは織さん合わないから……」
私は、楽譜を捲る入谷君の横顔をぼんやりと眺めていた。
妙な子だな。どうしてサークル仲間を全員揃えて遊ぶことにそこまでの執念を当てられるんだろう。
画面の向こうにいる人気歌手。そしてずっと、私にとっては雲の上の人だったはずの、ピアノの天才だ。
「織さん」
そんな遠い存在が、今ここに、手の届くところにいる。
「今更行かない、とか言わないよね」
しかもやること成すことが子供っぽくて、無駄なことで喜んでて、訳の分からない存在であるくせに、どこか同調してしまう不思議な男の子。
女の子じゃないのは当然だけど、男の子にも見えない。だからどう、というわけじゃないんだけど。
「聞いてる?」
「ごめん、聞いてない」
「は?」
「ええと」
何を考えていたのか忘れてしまって、私は首を傾げる。
そしてすぐ、苦笑した。
馬鹿だな、私。考えたってわからないことも、あるじゃないか。
「気にしないで。自分でも言ってる意味がわからない」
ふと目を逸らして、テレビの方を眺める。
倒錯的な愛を歌った、ニュイ・エタルナの新曲「Lu-Na」。ほんの一瞬の誘惑から始まる、困惑と情熱、そして堕落。
「なかなかにいい曲だと思うよ」
「そ、そう。ありがとう」
画面が、青く揺れる。きらきらと輝く金の光の差し込んだ、静かな海色の世界が真っ赤に染まる。
「夏の始まりのナンバー、だよね」
「うん。よくわかったね」
「だって……」
夏というのは、熱い高揚感と一緒にやってくる。
しがらみを忘れて、押し殺した思いを沸き立たせて。そうして一度始まってしまったものは、もう誰にも止められない。遮るものがない。
「理屈を忘れる瞬間っていうのが、夏はあるからさ」
私も、今年の夏にはいつもと違う、妙な胸騒ぎを感じていた。
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