4 北の春風、南の嵐

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4 北の春風、南の嵐

 薄い青のような緑のような、鮮やかなサンゴ礁の海が広がっている。パンフレットで見るのとは比べ物にならないほど、光輝いた空の元で。  なるほど。あれが、瑠璃の海。  数週間のバイト生活の苦労が溶けていくような気がした。  八月後半、私はサークル旅行で沖縄に来ていた。  両脇は淡い金色のさとうきび畑。ゆらゆらと風になびいて、太陽の光を反射しながら、小道へと私たちを導く。  柔らかな感触の土の道。本島からも離れたここは、車も電線もないのどかな小島だ。 「千夏ちゃん。あいちゃんと仲良くしてよ。ちょっと気難しいけど、大事な友達なんだから」 「はーい」  子供に言い聞かせるように私が諭すと、千夏ちゃんは元気よく手を挙げて答えた。  相田詩帆、通称あいちゃんという寮の友達も来ている。かるーいノリの千夏ちゃんと、超生真面目人間のあいちゃんの組み合わせは微妙に心配だけど、なるべくなら仲良くさせたい。両方とも、私にとっては大切な友達だから。 「浅間君はまあ、大丈夫だとして」  積極的にあいちゃんにアタックして、あいちゃんの叔父さんの民宿に集団予約を成し遂げたという快挙は称えなければならない。  耳に痛いほどの蝉の声と、風に揺れる金色のさとうきび畑。どこまでも、真っ直ぐに続いていく坂道を歩く。 「沙世ちゃぁん、待ってよぉ」 「あ、ごめん」 「何か沙世ちゃん、下りてから元気になってない?」 「そう?」  サクサクと道を踏みしめて歩きながら、私はふと顔が綻んでいくのを感じていた。そっと帽子の下の頬に触れて、確かに変な力が入っていないなと気づく。 「うん。かもね」  きっと、風の匂いのおかげだ。柔らかな香りを含んでいて、優しい気持ちにさせてくれる。 「似てるんだよ。実家の空気にね」  ここは南の島で、私の実家は北の山の中にあるけれど、でもどこか同じ香りを感じる。固まった肩と心を溶かしてくれる空気がある。  だから、足取りも軽かった。暑いけれど、風が心を押してくれていたから。 「そういえば、もう一人来るんだっけ?」 「ああ。らしいね」 「え、どんなどんな?」  千夏ちゃんが、額に汗を浮かべながら小走りで私に追いつく。 「よく知らないけど、浅間君の友達らしいよ」 「へぇー。かっこいー男の子だといいなぁ。うわぁ、どきどきするぅ」  急に元気が出てきたようで、彼女の歩く速度が増した。私はそれに苦笑して、悪戯っぽく言う。 「期待しすぎちゃ駄目だよ。そんな都合のいいこと、世の中はないんだから」 「もーう。沙世ちゃん、夢がないよぉ」 「ははは……あ、あれじゃない?」  坂道は終わりに差し掛かっていた。石垣に囲まれた家の、平たい屋根が徐々に姿を現してくる。レンガは青く塗られていて、柔らかなベージュの壁によく映えていた。 「うわぁ、綺麗な民宿じゃん」 「やるね、浅間君も」  細い砂利道に入って、二人で顔を見合わせて笑う。  のんびりと門の方へと近づくと、バウバウ、という大型犬の野太い鳴き声が聞こえてきた。車も人も通らない往来では、その声は夏の景色に溶け込んで心地よいくらいだ。 「さ、入ろ!」 「そうだね。浅間君は先に来てるんだっけ」  飛び跳ねそうなほど期待を全身で表現する千夏ちゃんに頷いて、私は先に門をくぐった。  民宿の中から人が出てきて、バウ、と犬が一際大きく吠える。 「お、悪ぃ悪ぃ。今、餌やるでな」  私は思わず、凍りついたようにその場に立ち竦んだ。  ……この声。  嘘だ。まさか、こんな所にいるはずない。 「沙世ちゃん?」  訝しげに千夏ちゃんが問いかけるのも、どこか遠い世界のように聞こえる。  その人は真っ黒なぱさついた短髪の下で、日焼けした顔を柔和に綻ばせる。 「ええんか? ポチ、お前番犬になっとらんやん。誰にでも懐くんやから」  赤茶色の餌入れを差し出して、その人は楽しげに犬の頭をくしゃくしゃと撫でた。  私は沈黙したまま、ただ食い入るように髪に隠された彼の顔を見つめ続ける。 「ん?」  気配に気づいたのか、彼はふと目を上げた。  その目は深く柔らかい漆黒だ。小麦色に焼けた肌のがっしりした体格の中で、唯一優しくて穏やかな光だった。  彼はゆっくりと立ち上がった。逞しく引き締まった体躯が、スローモーションのように近づいてくるのが見える。 「そういや、今日来るんやったね」  精悍な目元が笑顔になって、彼は私の前で止まる。 「長旅お疲れさん。あ、荷物受け取るわ」  一つ頷いて私の手からトランクを奪い、軽々と腕に抱える。 「……なんで」 「ん?」 「うわぁ」  私が何か言葉を零す前に、千夏ちゃんの元気な声が乱入してくる。 「ねーねー。浅間っちの友達なの?」 「浅間っち?」 「浅間将悟ぉ。あたしたちのリーダーだよぉ」  長身の彼を見上げて、千夏ちゃんは探るような上目遣いで問いかける。  それは好意半分、好奇心半分。いずれも、悪くは思っていないという感情だ。 「将悟か? ああ、そうやよ。俺の昔からのダチやな」  気安く答えた彼に、千夏ちゃんは好印象を抱いたらしい。 「へーえ。そうなんだぁ。あ、あたし遠野(とおの)千夏っていうのー。千夏って呼んでねぇ」  にこにこと笑いながら、千夏ちゃんは硬直したままの私の腕を取って抱きしめる。 「で、こっちがあたしの友達でー」 「知っとるよ」 「へ?」 「よーく知っとる」  彼は可笑しそうに口元を緩めた。千夏ちゃんは眉を上げて、私と彼を見比べる。 「知り合い?」 「というより、家が隣なんや」  さらりと彼は答えた。  優しい風が頬を撫でていく。真夏にはあまりに心地よい、涼やかで優しい香りのする風が、彼の方から私の方へと流れてくる。  にこ、と温かな笑顔を浮かべて、彼は聞きなれた低い声を響かせる。 「初めまして。俺、織さんの幼馴染で、伊沢一志って言う」  ……ああ、神様。  あなたは時々意地悪なんだか、優しいんだかよくわかりません。 「しばらく、ここの民宿に世話になっとるで。よろしくな、二人とも」  南の小島、のどかな田園風景の中。  私は、誰より会うのを恐れ、同時に切望していた幼馴染に、再会することになった。  窓から差し込む陽が徐々に傾き、紅を帯びてきた頃だった。 「へぇー。じゃ、沙世ちゃんとは幼稚園からずっと一緒なんだぁ」 「そうやな」  畳の上で腹ばいになっている千夏ちゃんと、柱にもたれて胡坐をかいている伊沢君は、もうすっかり打ち解けていた。  私はその二メートルほど離れたところから、観光パンフレットをめくりながらも二人が気になって仕方ない。  だって、伊沢君なのだ。生まれた時から一緒とはいっても、紆余曲折を経て離れて様子を窺わなければいけなくなっていた彼が、こんな近くにいる。  ちょっと痩せたような気がする。でもそれがかえって小麦色の輪郭にシャープな印象を与えて、前より精悍というか男らしいというか、つまりかっこいいよ。  ああ、話に入りたい。でも今更どうやって参加すれば? 「はーい、飯にするよー。荷物横にどけてテーブル作ってー」  無駄に明るい声が上から降ってくる。 「ごめんよ、織ちゃん。邪魔したくはないんだけどね」 「あのねぇ」  にやにやと狐目を細めた浅間君が、器用に四つのお盆を抱えながら見下ろしてきていた。  手早く年代物の木製テーブルを立てかけると、彼は膳をひとまず置いて台拭きにかかる。さすが、バイトで慣らしてきた手際の良さは半端じゃない。  カチャカチャと食器を整える雑音と共に、あいちゃんの困惑したような声が聞こえてくる。 「お客さんなんだから座ってて」 「いいって。無理言って泊めてもらってるんだし。あ、この炊飯器も持ってく?」  つくづくフットワークのいい奴だな。もう馴染んでるよ。  そう感心している内に、浅間君はあっという間に六人分の食事をテーブルの上に完成させていた。箸も各自に配り終えて、醤油などの調味料も準備万端だ。 「さーてと、席決めて食べますか」  浅間君は場をざっと見渡して、明るく声を掛ける。 「相田さんは台所に立つかもしれないから上座。で、俺は炊飯器係だからここ」  てきぱきと指示を出して、浅間君は皆の席順を独断と偏見で決定した。 「はーい。じゃ、乾杯しますよー」  ……その結果、図ったように私は伊沢君の隣にされていた。  まあ、いいけどさ。嬉しいさ、嬉しいとも。わざとらしいけどね、浅間君。 「織さん、はい麦茶」 「あ」  コップを渡される拍子に、伊沢君と微かに指先が触れる。 「あ、ありがと」  こういうちょっとした接触に顔が熱く自分は、つくづくお馬鹿だ。  冷静になれ。野山でじゃれ合って遊んでいた遠き日々を思い出すんだ。 ――かずくん。ほっぺきゅー。 「……っ」 「織さん。どうかしたんか?」  恥ずかしいどころじゃない思い出が頭を掠めて、私はコップを握り締めたまま顔を伏せる。  ああ、あの頃に戻りたいような戻りたくないような。誰だ、ほっぺきゅーなんて阿呆なことばっかしてたガキは。……ああ、私か。 「こっちもええよ」  私に心配そうな目を向けたものの、伊沢君は浅間君に準備完了を告げる。  まだ頬に朱を残しながらもコップを掲げて、私も浅間君に目配せする。 「では、みんな揃ったところで。これからの旅行が楽しくなりますよう」  彼は気安い笑顔を振りまいて、すっと麦茶のコップを前へ突き出す。 「じゃ、乾ぱー」  い、と続くまさにその瞬間。 「ちょっと待ったぁ!」  ものすごい勢いでガラス戸を開けて、転がり込んできた少年が一名いた。  夏とは思えないようなひらひらの黒い羽根をふんだんに使ったロングコートに、複雑な装飾のされたベルトで締め上げた、光沢のある黒いズボン。夕暮れ時ののどかな八畳間にはあんまりに似合わないゴスロリファッションだ。  ……誰?  そう思って、やたら小奇麗で中性的な顔立ちをのぞき見る。  ぜーはーと息を切らして、青と黒髪のウイッグから睨むような目を私に向ける。 「僕が来るまで食べないでって、言わなかったっけ?」 「あ」  声を聞いて初めて、気づいた。  なーんだ。このいかにも我侭な声は、彼以外にいないじゃないか。  途端に緊張が解けて、皆に笑顔が戻る。 「あーごめん。マコト、撮影長引くかと思っててさぁ」 「そーだよ。無茶言わないでよぉ。あ、席そっちね」  ひらひらと浅間君と千夏ちゃんが手を振って、私の左隣を指差す。私もほっとして、座布団を敷いてやりながら笑いかけた。 「はは。ご苦労様。まあコート脱いでよ。イリヤスタイルは心臓に悪い……」 「イリヤ?」  私と浅間君、千夏ちゃんの三人に衝撃が走った。 「イリヤって、そちらさんが?」  伊沢君がまじまじと入谷君を見つめる。  そういえば、言ってなかった。我々のバンドには恐ろしい非日常、プロの歌手がいるということを。しかも実力はあるとはいえ、もろビジュアル系というところがネックだ。  どう出る、伊沢君。びっくりするか、いけ好かない奴と蔑むか。どっちだ?  私はただ訝しげな目をする入谷君と探るように彼を窺い続ける伊沢君を交互に見やる。  数秒間の沈黙が流れる。 「あ、なるほど」  ふいに閃いたように、伊沢君が柔和に微笑む。 「入谷真ちゃんって、そちらのことか」  私たちは顔を引きつらせる。 「東京では、女の子も僕って言うんやね。面白いなぁ」  ……伊沢君。君ってすばらしいよ。 「彼」を女の子だと断定するとは予想外だ。  みし、と入谷君の握り締めたテーブルの足が軋む。  いけない。地雷を踏んだぞ。  あいちゃんと伊沢君を除く全員が、一瞬で身構える。 「ち、違う違う。入谷君は男の子だよ」  とにかく誤解を解かなければと私が慌てて言葉をはさむと、伊沢君はおもいきり目を見開いて驚いた。 「そうなんか? あー、ごめんな。すごい細っこいからつい」  爽やかな調子で、伊沢君は凍りついた場の中でにこやかに入谷君に手を差し出す。 「俺、伊沢一志って言うんやよ」 「……伊沢?」  入谷君の綺麗なメイクで彩られた眉が動いた。 「浅間君の友達で、織さんとは誕生時からの幼馴染という、あの?」 「おー、そうそう。知っとってくれるとは嬉しいなぁ」 「へぇ……」  その瞬間、私はいまだかつてない光を入谷君の瞳に見た気がした。  たとえて言うなら、マングースが大好物のハブを見つけたというか。飢えた狼がテリトリーに入ってきた純情な子ウサギを発見したというか。  不自然なほどゆっくりと手を差し出して、伊沢君の手を取る。 「入谷真です。よろしく」 「ああ、よろしくな」  久々に見た気がする。入谷君の、不気味な笑顔。  ……つまり、機嫌最悪。  ああ、これはもう修復不能だ。どうして彼ってこうも波が多いんだろう。 「さ、乾杯しよっか」  何とか言葉を挟んだ浅間君の声も、どこか空しかった。 「では、かんぱーいっ」  カチーン。  私にはそのめでたく涼やかな音が、試合開始のゴングのように聞こえていた。  沖縄旅行初めての食卓は、表面上和やかに始まった。 「ほーお。ニュイ・エタルナのボーカルさんか」 「知ってる? いっくん」 「有名やでな。知っとるよ」  恐る恐る千夏ちゃんが明かすと、伊沢君は朗らかに笑いながら頷く。 「すごいんやなぁ。俺らと同じ年でもう有名人とは。大変やない?」  伊沢君は私の右隣から入谷君へ、穏やかに問いかける。  入谷君はご飯粒をごくん、と飲み込んで、無表情のままで答える。 「別に。中学からやってるから」 「そっかぁ」  そっけない答え方にも、伊沢君は素直に頷いてみせる。 「せっかくの縁やし、忙しいやろうけど将悟や織さんとは仲良くしたってな。二人とも音楽大好きやし、俺にとってもいいダチなんや」  伊沢君、君はなんていい人なんだ。  穏やか、朗らか、そして優しい。慈愛溢れた爽やかスポーツマンだ。  できれば友達以上であってほしいと思うけれど、それは高望みしすぎかな。うぅ、隣に座れただけで幸せだよぅ。 「はぁ」  ……それに比べて。  左側を一瞥して私は呟く。 「入谷君」 「何?」 「いや、何でも」  機械的に食事を口に運び続ける入谷君は、言うなれば極限の無愛想だ。  目線すら上げずに伊沢君の言葉を聞き、なおかつ自分の返答は最小限という、胸倉を掴みたくなるような態度である。  人見知りどころじゃない。お兄さんのレンさんが今まで友達がいなかったという理由も納得できる。 「いいじゃん。みんなで遊ぼうよ、ね、相田さん」  こんな時に緩衝材となってくれる浅間君は、左隣のあいちゃんと談笑中だ。「ここから遠いよ」 「船で数時間でしょ? 余裕余裕。いつ空いてる?」 「私は遠慮する」 「人数多い方が楽しいよ。んー、水曜日くらいいけるんじゃない?」 「その日は叔父さんに買出し頼まれてるから一日駄目。他の日も……」  無表情で拒絶モードに入るあいちゃんに、浅間君は穏やかに頷いてみせる。 「じゃあ皆で分担しよ。そうすれば午前中で済むし、お邪魔してるんだからそれくらいは当然。えーと、船出てる日っていうと……うん。来週の火曜日がいいね。叔父さんもその日は一日いるみたいだし、留守番はいらないよ。相田さんも行こう」  ぺらぺらと手帳をめくって、いつの間に調べたのやらあいちゃんの叔父さんのスケジュールまで引っ張り出す。  特に男に冷たいあいちゃんに対してここまで果敢に遊びに引っ張りこむ根性を見せたのは浅間君が初めてかもしれない。その度胸には感服する。  で、それに比べて。 「イリヤも行く? あ、その日は忙しい?」 「わからない」  予定表を開くこともなく、眼鏡少年は淡々と千夏ちゃんに返答を零す。  気分で和やかな場を壊すんじゃない。浅間君だってあいちゃんくらいしかフォローできないぞ。 「ふーん、そーお? 行かないの?」  しかし千夏ちゃんの目は面白そうに輝いている。口元は綻んで、ちらちらと伊沢君を確認しながら含み笑いをする。  何か千夏ちゃん、余裕だな。入谷君の不機嫌を楽しんでいる様子さえある。  千夏ちゃんは落ち着きがないと思ってたけど、実際に一番おろおろしてるのは私のような気がする。別に入谷君の機嫌が悪いからどうということもないし、ひとまず腰を据えた方がいいのかもしれない。 「織さん」 「え……っと、何っ?」  唐突に伊沢君から声を掛けられて、私はぐりん、と勢いをつけて顔を横に向ける。その反応に自分で気恥ずかしくなりながら、伊沢君の顎辺りに視線を固定する。 「これ、もらっていいか?」 「あ」  軽く私の膳にあるキノコの小鉢を指差すので、私はふと口元をほころばせる。  こういうの、懐かしいな。 「ありがと。お願い」 「ん。じゃ、ハンバーグ分けよか」 「いいよ。太る」 「でも欲しいやろ?」 「……うん。まあ」  苦笑する私に、伊沢君はさっさと逆さにした箸でハンバーグを分けにかかる。 「ま、とっとき」  私が顔を気恥ずかしさに歪めながら、小声でありがと、と呟いたときだった。 「……伊沢君、悪いんだけど」  持っていたコップを膳に置いて、入谷君は静かに言葉を発する。 「よくわからない」 「ん?」  空気を凍らせるような無表情で、彼は問い返す伊沢君に振り向いた。 「なまりがきつくて、何言ってるのかわからない」  暖かな南国の空気が、一瞬で氷点下まで冷えた気がした。  ……さすがにフォローできないよ。  そんな呆れの一瞥を入谷君へ送り、私は各自の反応を眺める。 「うわー。ちょー引いたー。イリヤ、何言ってんの?」  破天荒な千夏ちゃんでさえ眉をひそめて、露骨に嫌な顔をする。 「いっくんが気を使ってくれてるのにさ、さっきから答えもしないし。ちょーヤな奴だよぉ」 「あ、いや。俺はええんやよ」  伊沢君が慌てて言葉を挟む。 「俺しゃべりすぎたしなぁ。ずけずけ突っ込みすぎたかもしれん」 「えー、そんなことないよぉ」 「ええって。ごめんな、入谷君」  人に悪意を向けられることに慣れていないのか、伊沢君はあくまで低姿勢を崩そうとしない。つくづく善人なんだな、と私は苦い思いで眺める。 「ごちそうさま」  箸を置いて、入谷君は私たちを見もしないで立ち上がる。 「じゃ。僕、これから撮影の続きに行ってくるから」  コートを羽織り、口元を引き締めたまま足早に畳の部屋を出て行く。逃げるというよりは、つまらないという感情を全面に出して。  気まずい空気の漂う中で、千夏ちゃんは口を尖らせてぼやく。 「うわーさいてー。こういう時こそ浅間っちの出番なのに、何でフォローしないの?」 「俺?」  浅間君は普段と変わらない穏やかな表情だ。いつもこういう時真っ先に仲介に入るはずの彼の声が、全く無いなんておかしな話だ。  単純に話を聞いてなかったのかな、と考えたところで、そんな私の内心に気づいたように彼は軽く返す。 「ああ、話は聞いてたよ。俺、耳は全方向についてるようなもんだから」  浅間君は薄く笑う。 「だけど、今のはマコトが完全に悪いし。たまには厳しくしないと」 「まぁねー。そうだよね」  その言葉に千夏ちゃんは心から同意したようだったけど、私はどうも釈然としない思いだった。  浅間君の本質は、お節介だ。無駄に世話を焼きたがるタイプで、ちょっと迷惑なくらい突っ込んで話をするのがいつものパターンであるはずだ。 「様子見てくる。あんなずるずるした衣装なら、すぐ追いつけるだろうし」 「待って、織ちゃん」  入谷君を放っておくわけにもいかないから私が席を立つと、意外にも真っ先に制止したのは浅間君だった。 「いいから。座りなよ」 「……そりゃ、そうだけど」  それはもう、悪いのは入谷君だ。誰がどう見たってわかる。私だって腹立たしいし、あからさまな暴言だったと思う。  でも、理屈じゃないんだ。これは、私のただのエゴ。 「失礼なこと言ったからには、ちゃんと謝らせたいんだ。そうじゃないと伊沢君に悪いし、入谷君にも良くない」  箸を置いて、私は立ち上がる。ためらう気持ちはなかった。  テーブルの物を動かさないように壁際に寄って、軽く足をほぐしながら出口へ向かう。 「織部さん」  不思議そうな目でそれを眺める千夏ちゃんと浅間君の横をすり抜けようとすると、あいちゃんが座ったまま声を掛けてきた。 「大学生にもなって、他人にいちいち庇ってもらうのは人間としてどうかと思うけど?」 「うん」  冷静な目を見つめ返して、私は頷く。 「正論だね、あいちゃん。だけどそれは理屈としては綺麗すぎるよ」 「ふうん?」 「集団は、馬鹿な人間が一人や二人混じってるからこそ面白いもので」  私もその馬鹿の一人。つまらないことにこだわって、場の空気を壊しているのは十分理解している。  それでも、入谷君の気持ちは少しわかるのだ。どうせ、謝ろうとしても一人じゃ謝れない。強情というより、気が弱すぎるんだと思う。 「協調できない人を切り捨てると、ただの弱い者イジメになっちゃうから」  少しだけ語調を強くして、私は素早く部屋を出た。 「沙世ちゃんっ」 「いいって。千夏ちゃん。好きにさせてやりなよ」  焦る千夏ちゃんの声と、ずいぶんと落ち着いている浅間君の声を背中に聞いたけれど、立ち止まる気にはならなかった。  サンダルを履いて、紫色に変わってきた空の下へと飛び出す。 「ちっ。もう見えない」  撮影というからには、島を出たに違いない。船はそう何本もないし、船着場でなら捕まえられるはずだ。  揺れるさとうきびの間をすり抜けて、私は坂道を全力で駆け下りる。薄いサンダルが跳ね上げる、細かい土の塊も気にならないくらいに。  ああ、何やってるんだろう。みんなも気を悪くしたに違いない。でも今更戻れないし、こうなったら入谷君を土下座させてでも中へ引っ張り込んでやる。  私がやってることは、ただのえこひいきなのかもしれない。  だけど仕方ないじゃないか。大事なサークル仲間を特別扱いして何が悪い。 「入谷君!」  波止場で突っ立っていた入谷君を、私はつかまえる。  だけど私の呼びかけに反応はしたものの、入谷君は顔を背けるばかりだ。 「……え」  前に回り込んで、私は息を飲む。 「わかってるよ……!」  入谷君はぽろぽろと涙を流して泣いていた。 「僕が空気壊してるって。僕が悪いって。でも、何だかすごく気に入らないんだよっ」  私は男の子の涙を初めて見たものだから、硬直して何も言えなくなる。 「えと、とりあえず落ち着いて」  考えの末私が鞄からハンカチを差し出すと、入谷君はおずおずとそれを受け取る。  ぺたんと波止場に座り込んだ入谷君の横に、私も腰かける。しばらく、夕日がゆっくりと沈んでいくのを見ていた。 「何がそんなに気に入らなかったの? 伊沢君に女の子扱いされたから?」  日がすっかり沈む頃になって、私はそっと問いかけてみる。 「伊沢君、織さんや浅間君と親しげだし」 「そりゃ、私たちけっこう長い付き合いだから」  入谷君はむっつりしながら目を逸らす。 「友情と恋愛がぶつかると、いつも友情が負ける。不条理だ」 「何のこと?」 「あれだけデレデレしておいて何を言う」  私が首を傾げると、入谷君はなお続ける。 「浅間君だってそう」  訳がわからない。そう言う前に、入谷君は本島行きの船に乗り込んで出て行ってしまった。 「織ちゃん」  波止場でどうしようかと立ちすくんでいた私は、馴染んだ声を聞いて顔を上げる。 「少し頭を冷やさせなよ。マコトは気づいただけ」  振り向くと、浅間君だった。彼は狐目を細めて、ついと私を指さす。 「織ちゃんは伊沢が好きで」  あ、と気づいた時は、もうその言葉は浅間君の口から漏れていた。 「俺は、あいちゃんが好き」  瞬時に、胸へ息が詰まるような圧迫感が押し寄せた。  私はこの瞬間まで忘れていた。  浅間君だって男の子で、仲のいい男友達以外の顔も、ちゃんとあるのだ。  ……そして好きな子ができたら、私は当然のようにその優先順位から外れる。  がんと頭を強く殴られたような衝撃があった。それは濁った水のように体の内側を浸食して、痛みを胸に到達させる。 「頑張ろ、織ちゃん。こういうのは勝ち取るもんだよ」  体の奥に隠していた何かが痛い。  お願いだから、何も言わないで。君の言葉は、今酷く私を傷つけるんだから。  邪気のない笑顔を見せて浅間君は頷く。 「織ちゃんの恋も実ってほしいと思うしね。大事なダチだからさ」  私は何度も自分に問いかけていた。  一体、私が今倒れそうなほどの痛みを感じているのはなぜだろう。  私が手放したくないのは、特別な幼馴染か、それとも特別な友達なのか。 「先戻ってて。ちょっと、散歩してくる」  機械的に返事をして、ふらりと踵を返す。  浅間君の声も聞かないまま、私は歩きだしていた。  波が寄せては引く、その単調な動きを、私は浜辺の隅でみつめていた。  すっかり日も沈んでしまった。打ちつけたコンクリートにもたれて、何をするでもなく砂浜に座り込んでいる私には、もう夕日を見上げる元気はない。  携帯電話が鳴っていることに気づいて、私は口元を歪める。  民宿の誰かが、なかなか戻ってこない私を心配してくれてるんだろうか。  ……それが浅間君であってほしいと願ってしまう私がいる。  心の中で散々情けない言葉を呟いて、それでも私は携帯を開く。 「あ」  現れた液晶画面に映る名前が、一瞬逆光で掠れる。  だけど、その人だけは、私が見間違えるわけがない。 「に、にいちゃんっ?」  無心で私は着信を押していた。 『おう、沙世。昨日そっちへ着く予定だったよな?』 「う、うん。着いたよ。無事に」 『なら連絡しろよ。母さんたちも心配するだろうが』  呆れたようで心配も含んだ声に、私は全身の力が抜ける。  そうだよ。大丈夫、私は一人じゃないんだ。  振り向けば兄ちゃんが、ちゃんといるんだから。 『波の音がするな。お前、どこにいる?』 「ちょっと、浜辺で郷愁に浸ってみたり」 『あ?』 「たいしたことじゃないよ。気分の問題でさ」 『はっ』  軽く返した私に、兄は軽く笑って追求してくる。 『またへこんでるな?』 「……」 『バレバレなんだよ。普通なら、俺から電話掛けた時点で「うるさい」って突っぱねるだろうが』  私はうつむいて、そろそろと言葉を紡いだ。 「話、聞いてくれる?」 『阿呆か。聞くから言ってんだろ』  私は少し黙って言葉を選んだ。でも考えても対して言葉は浮かんでこなくて、私は仕方なくそのままのことを言う。 「友情が、恋愛に取って食われちゃった気がする」 『友情と恋愛ね。ふうん……』  一思案する間があって、兄はさらりと言う。 『浅間に女が出来たか』 「な、なんでわかるの」  私は驚いて携帯を取り落しそうになった。 『お前、高校の時から浅間に頼りっぱなしだからな』 「う……」  私が高校の時既に兄は上京していたというのに、この千里眼は信じられない。  私は兄に隠し事はできる気がしなくて、あきらめて認めることにする。 「……うん。来たばかりなのに、今ちょっと帰りたくなってる」 『ばーか。早すぎだろ』  兄はあきれたようにつぶやく。私はそれに答える言葉がなかった。 『俺がついていった方がよかったってのか?』  からかいを含んだ声に、私は少し沈黙する。じわりと心に熱いものが流れ落ちていくのを感じた。  そして小さく頷く。 「かもしれない」  中学や高校の頃の修学旅行中でさえ、私はたびたびホームシックに襲われた。友達に知られたら恥ずかしいからと、旅館を出て夜中にこっそり、兄に電話を掛けたのを覚えている。  まだ、一日目なのに。ちょっとショックなことがあっただけで、両親や兄が側にいないことがこんなに心細く感じるのは久しぶりだ。 『……ったく。お前いくつだよ』 「だって」  ぎゅっと膝を抱え込んで、私は体を小さくする。  馬鹿にされても、何でもいいから。兄ちゃんの顔が見たい、と思った時だった。 「しょうがねぇな」  ごつごつした手がくしゃりと私の髪を掴むのを感じた。  慌てて顔を上げると、残りわずかになった陽を遮るようにして目の前に誰かが立っていた。赤い視界に浅黒い輪郭が浮かび上がって、私は逆光に目を細めながらそれを必死で見ようとする。  赤茶色の髪の下で、ぎらりと光る眉の赤ピアス。耳についた大量のピアスも一つずつ光を反射して、きらきら輝く水面みたいに綺麗だった。  影に慣れてきた目で、何度も瞬きを繰り返す。私は彫りの深い、誰よりも馴染んだその顔をみつめる。 「……兄ちゃん」 間抜けな声で呟いた私の前で、兄は耳に押し当てていた携帯をゆっくりと下ろす。 「周り見ろよ。そんなんじゃ、襲われても文句言えねぇぞ」  不機嫌に通話を切って、兄は私の右横に胡坐をかく。砂が流れて、微かな振動が私にも伝わってきた。  最初は夢かと思った。  浅黒い輪郭は夕陽に溶けていてどこか淡い。しんと静まり返った浜辺では眠くなるような波の音しかなくて、意識もゆらゆらと揺れる。  だけど頭の上に置かれた手の感触だけは、間違いなく現実のものだ。  ひどいな、と恨みがましく思う。  一番会いたいと思った時に、出てくるなんて。兄はつくづく、嫌味なほど私の弱い所を知っている。 「なんでいるの……」  情けない声で呟いて、私はうつむく。  そのままずるずるとうずくまって、ぎゅっと兄の服の裾を掴む。 「野暮用があったんだよ。ついでに寄っただけだ」 「嘘だ」 「すぐバレる嘘はつかねぇよ」  ぐりぐりと頭を撫でる手をうっとうしげに睨みながらも、私は兄の服の裾をつかんだまま動かない。 「沙世」 「うん?」  腕の隙間から兄を見上げて、私は小声で問い返す。それを、兄は静かな目でみつめていた。 「お前みたいなガキが、恋だの愛だので悩むのは早すぎるんだよ」 「……」 「だから、とりあえずダチを大事にしとけ」  砂を穏やかに揺らす波音が、耳に優しかった。兄の、低くて淡々とした声と同じくらいに。 「船着場に相田ちゃんがいたぞ。浅間とかも探してるみたいだったな」 「あ。うん……戻るよ」  砂を払って、立ち上がる。体には、もうちゃんと力が戻ってきていた。 「ったく。世話の焼ける奴」 「うるさい」  兄も当たり前のように横をついてきたけど、怒る気にはならなかった。さすがに幼い頃のように手は繋がなくとも、ぴったりと並んで船着場へと歩き出す。  海岸線に沿って行くと、すぐに小さな港が見えてくる。意外と近かったんだな、と感心していると、ベンチに座っていた女の子がさっと立ち上がったのが見えた。 「織部さん。どこ行ってたの?」  あいちゃんはあっという間に距離を縮めてきて、私と兄の前へとやって来る。 「浅間君、だいぶ遠くまで探しに行ったみたいよ」 「そっか。ごめん」 「いきなりふらっと消えないで。お兄さんがいたからよかったけど」  あいちゃんは兄にきっちりと礼をする。 「どうも、ありがとうございました」 「こっちこそ悪いな。うちの馬鹿が迷惑をかけてる」  兄は気安くあいちゃんを宥める。 「じゃ、俺は本島のダチんとこに泊まってるからな。何かあったら連絡しろ」 「あ、うん」  よかった。宿まで来るわけじゃないんだ、と少し安心する。  甘え心から兄に側へいてほしいとは思うけど、せっかく友達と一緒に来たのだから、そちらと楽しみたいのだ。たぶん兄もそれを望んでいるから、こうして簡単に引き下がるんだろう。  ばいばい、と手を振ろうとして、私は兄の背中越しに女の子が駆けてくるのが見えた。ひらひらと、全身に華やかなレースの衣装を身に纏った、見間違えようもない特徴大有りの彼女。 「さーよーちゃん、みっけっ」  どーんと私を突き飛ばすように抱きついてきて、千夏ちゃんは兄に目を留める。 「え……?」  一瞬の間の後に、千夏ちゃんは黄色い声で叫ぶ。 「……うっわぁ。やったー!」  千夏ちゃんの目が爛々と輝く。まるでこう、高級料理を目の前に五層くらいに並べられたとか、何百個の宝石を目の前へ散らかされたような。 「きゃー、いいないいなぁ。ちょっとちょっと沙世ちゃん!」  いや、そんな物的なものじゃなくて。どうなってるんだ?  硬直した私は、千夏ちゃんがばしばしと激しく肩を叩いてくるのに目を回す。 「いつ連れてきたの? 沙世ちゃん」 「は?」 「もー、とぼけないの。か、れ、し」  カレシ?  首を傾げて、私はぼそりと呟く。 「そんなのいないよ」 「えー、じゃ、この人誰? マジかっこいいんだけど」  私の左側を向いて、千夏ちゃんはにっこりと笑って見せる。  まさか架空の彼氏がいるわけではなく、視線の先には兄しかいない。  私は首を傾げたまま、そっけなく返す。 「私の兄」 「えー。噂のお兄さん? もー、何でもっと早く紹介してくんないの」  解説を素早く打ち切って、千夏ちゃんは興奮気味に兄へ詰め寄る。 「沙世ちゃんの友達の千夏でーす。よろしくー」 「ああ、千夏ちゃんか。ゴスロリ似合ってるじゃねぇか」 「えー、うそぉ、マジですか?」 「おう。ウチの馬鹿が世話になってるな。堅物で大変だろ?」 「いえいえ。沙世ちゃんは面白いんですよぉ。たとえばぁ」  立ち止まったままの私を尻目に、二人は和やかに会話している。仲のいい友達同士みたいな気安い空気をかもしだす。 「えと」  私はそそくさと横をすりぬけて、あいちゃんに小声で話しかける。 「千夏ちゃんってすごいね。よくあんな趣味悪い兄に」 「織部さん、前々からいつ言おうかと思ってたけどね」  同意を求めるつもりだったのに、あいちゃんは眉を寄せて難しい顔をしていた。 「あなたは男性の理想が高すぎるのではないかと思う」 「は?」 「お宅のお兄さん、芸能人並み」  深く頷くあいちゃんに、私は眉を上げて不機嫌な顔をする。 「いや、お世辞はいいよ」 「本当だよ。私も初めて見た時はちょっと引いたよ」 「どこがいいの?」 「こっちこそ訊きたいよ。どの辺を見ればそこまでけなせるのか」  そりゃ、多すぎるピアスとか、ボロい格好とか、無駄に赤い髪とか。確かに顔は彫りの深さに程よい浅黒さが野生的で悪くはないけど、褒めるほどとは思わない。 「でも意外だった。あいちゃんから、男の人の理想なんて言葉が出るなんて」 「つい先刻、それについて浅間君に延々と講釈を受けたからね」  え、と私が声を漏らすと、あいちゃんは神妙にうなずいた。 「私の理想も無駄に高かったのかもしれない。反省して、一つ彼と付き合ってみることにした」  浅間君、君は本当に行動が早いんだね。  ここまでくるとショックを通り過ぎて感動してしまって、私は何も言えなかった。  沖縄旅行初日はそんな様子で過ぎて行った。
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