5 月下の記憶

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5 月下の記憶

 翌日、兄は私たちサークルメンバーを遊びに連れて行ってくれて、私たちはちょっと酔っぱらって眠った。  初めは怖い夢だった。  白い月の光の下、雪の中で私は泣いていた。 ――沙世っ。こっち来いっ。  その中から伸びた両腕に抱きしめられて、私はようやくその歪んだ世界から逃れた。  しん、と辺りは急に静かになる。雪は消えて、私は毛布にでもくるまっているような、ぬるい安息感に包まれる。  赤ん坊をあやすように、私の背中をそっと叩きながら誰かが繰り返し囁く。 ――大丈夫。次は、いい夢が見られる。何も怖くない。  ゆらゆらと揺れる、白とも黒とも見えない空間。私が生まれてからずっと守られてきた、穏やかで温かなゆりかご。  そうだった。どうして忘れていたんだろう。  他人は他人で、迂闊に心の中に入れたりしちゃいけないのだと。 ――寝ろ。怖い奴が来たら俺が追い返してやる。それが夢の中だろうと。  無声音で囁かれた言葉に、私はようやく心を落ち着けて目を閉じる。  なぜ私はそんなに、不安だったのだろう。  ……兄ちゃんがいれば、どんなものからも絶対に、守ってもらえるのに。  規則正しい心音を聞きながら、私は眠りにつく。緩やかで波のようにたゆたう、掴みどころのない感覚が私を包み込む。 「拓磨」  静まり返った空間で、夢とも現実とも区別のつかない声が響いた。 「お母さんと代わる?」 「いいんだ。やっと寝たから、このままにしとく」  苦笑した兄に、母は少しの間沈黙する。 「母さん?」 「……拓磨。いつまでもそれでいいの?」  その問いかけは責める口調ではなくて、ただ悲しげだった。 「私はあなたが望むように生きてほしい。東京に行きなさい」 「……」 「バスケ、好きでしょう? 好きで才能があるってことは、滅多にない幸運じゃないの?」  私を抱えたまま動かない兄に、母は静かに諭す。 「正直に教えて。なんで合格を取り消すのか」  私は、首元に刃物をつきつけられた気がした。  これは兄が高校に上がる直前の記憶だと気付いたのだ。  私立高校へ行くのは金がかかるからとか、慣れ親しんだチームの皆と離れてまでバスケなんてしたくないとか、兄は色々言っていたはずなだ。いつのまにか入試を受けていて、しかも取り消そうとしている。  そんなこと、私は一言も聞いてなかった。 「だって、今俺がここを離れたらさ」  兄が私を抱く力を強めた気がした。 「沙世、死ぬかもしれないじゃん」  混乱した頭で、私は身動きもできないまま息を呑む。  だけど指先から抜けていく力は確かに、自分自身に迫ってくる消滅を感じ取ってもいた。死、という言葉は、なぜか今の私にはひどく近いことに思えた。ふわふわと私の頬を掠めて、飛んでいたような気がした。 「俺さ、ダチが『妹って可愛いか』って訊いてくる理由が全然わからない。だってそんなのどうだっていいことじゃないか。可愛いも不細工も、好きも嫌いも、他人しか関係ないことだろ?」  ゆっくりと私の髪を撫でながら、兄は独り言のように呟く。 「沙世は俺が育てたんだ。半分、俺みたいなもんだ。チビで泣き虫でも、弱くて何の役にもたたなくても、それでも俺が守ってやんなきゃ駄目なんだよ」  すっと小さく息を吸って、兄はいつもの言葉を囁く。 「だって、俺は兄ちゃんだから」  それは、呪文のようなもの。  いつも兄が胸に置いて、そして私がいつも頼りにしていた言葉だ。 「わかったわ、お兄ちゃん。じゃあ、お母さんもお願いする」  母もそれを理解しているようで、兄を諭す声はためらいがなかった。 「今のさっちゃんには、お兄ちゃんがいないと駄目から。落ち着くまで、ここにいてあげて」 「うん」 「だけど、拓磨。もう一つ約束できる?」 「なに?」  素直に頷いた兄に、母は微笑みを消す。 「いつかは、沙世を捨てること。『お兄ちゃん』だからって理由で、手を差し伸べ続けるのはやめなさい」  口をつぐむ兄に、冷酷ささえ感じられる声で、母は続ける。 「沙世にあなたの助けが要らなくなった時が、一つで」  母はなぜそんなことを言い出したのかは今でさえ、よくわからない。 「もう一つは……」  ただ、母は迷いなくその条件を提示した。 「……わかったよ、母さん」  その二つの約束を兄が深く頷いて、承諾したことを覚えている。  沖縄旅行の三日目、私は伊沢君と兄の下宿先を訪ねた。 「俺の親父の後輩の井上さんと、拓兄は友達なんや。それで今回、その井上さんが結婚することになってな。俺らも結婚式に出といた方がいいやろ」  伊沢君が導いてくれた場所は、本島の南西、海沿いの小さな町だった。 「なるほど、それが兄ちゃんの野暮用ね。でも私なんかが行っていいのかな?」  船から下りて、ざわめく海の音しか聞こえない辺鄙な町を歩きながら、私は伊沢君に問いかける。 「拓兄が会わせたがっとるし」 「そうなの?」 「相手の女の人。安城(あんじょう)七海(ななみ)さんっていうんやけど」 「安城……?」  どこかで聞いた気がするけれど、思い出せない。名前だけならともかく、その苗字は胸の内に引っ掛かるのだけど。 「織さんや俺が生まれる前に、俺らの地元に住んどった人やな。そっか、織さんは知らんかったか」 「でも」  生まれる前に住んでいた人なんて、伊沢君や私はおろか、兄だって記憶も曖昧じゃないだろうか。  どうしてなんだろう。そう考えに沈みながら、私は土の露出した道を早足で辿っていく。 「たぶん、拓兄は一度、織さんと安城さんを引き合わせたかったんやと思う。拓兄にとっては……すごい、関係の深い人やでな」  神妙に、だけど苦味に満ちた口調で言われると、私は黙るしかなかった。  まもなく視界が開けて、小さな平屋がぽつんと見えた。石垣の表札には最近張り替えたばかりの文字で、『安城』という文字が光っている。  門の内側で足音が響いて、私はふと足を止めた。 「あ」  覗き込んだら、縁側に兄が座っていた。  兄は見慣れない金髪で、ピアスを全部外しているし、目は灰色を帯びている。  知っている。あれは兄の地毛と元の瞳の色だ。元の姿を見たのは数十年ぶりだけど、見間違えるはずはない。  ……でも、私は一瞬誰かわからなかった。一晩で違う誰かに変わってしまったような違和感だった。 「よう」 「兄ちゃん……その子」  そして兄は何かを抱えていた。  白い毛布に包まれた中で、もぞもぞと小さな手が動く。可愛らしい、まだ言葉にもならないような、ぐずる声とともに。  ずき、と私の体の中心が、突き刺すように痛んだ。 「安城から預かってる。俺の妹なんだそうだ」  安城という名前に、私は我に返る。 「明日結婚するらしくて、忙しいみたいなんでな」  それは、兄の母親の名前だ。  じゃあその子は兄と血のつながった本当の妹なのだと、私は胸に迫る痛みとともに思う。 「小っせぇなぁ」  微かに苦味の混じる表情で、兄は彼女を見下ろす。 「何も悩みなんてないって顔してよ。守ってくれるのが当たり前だって、思ってんだろうなぁ……」  兄は目を細めて、そっと彼女の頬をつつく。それを、彼女は不満げに身をよじって逃げた。 「うーあー……」 「泣くなよ、いちいち。ったく、だからガキは嫌なんだよ」  乱暴な言葉遣いにも温かみがあるのは、私にもわかっていた。それは、ずっと私が聞いてきた言葉だったから。 「ほら」  仕方なさそうに揺らしてあやし、兄は呟く。 「うー」 「泣くなって。不細工な顔すんな」  続けて揺らしてやると、少しずつ彼女の声が穏やかになっていくのがわかる。やがて元気に笑い声を零すようになってくると、兄はゆっくりと赤ん坊の頭を撫でてやった。  兄はふと彼女を見下ろしながら、小さく呟く。 「いい気なもんだな。俺が手を離したらすぐ泣くくせに」  兄のその目は、彼女を通して何か別のものを見ていた。苦く、どこか悔しさをはらむ口調で、囁くように付け足す。 「……俺が目を離したらすぐ、いなくなるくせに。だから妹なんて、俺は」  最後の言葉は、小さすぎて聞こえないくらいだった。 「私、ちょっと散歩してくる」  踵を返して、私は門を抜け出す。  逃げたかった。どこでもいいから、誰も私を知らない所へ。 「う……っ」  期待していたんだろう、私は。いつでも兄は、私を一番に思ってくれていると、自惚れていたかった。  浅間君に彼女が出来たって、あいちゃんが友達の私より彼氏を取ったって、他人なんだから仕方ないけれど。でも、兄だけは、と願っていた。  そんなの勝手だ。私の馬鹿な思い込みだけど、それでも信じていたかったのだ。いつだって、私だけが彼の妹だったのだから。 「織さん、待って!」  いつのまにか灯台まで来ていて、私は伊沢君に肩を掴まれてようやく足を止める。  顔を覆って、私はずるずると道端にしゃがみこんだ。涙は出なかったけれど、喉はからからに渇いていて、どうしようもなく力が入らなかった。 「……っ」 「落ち着いて、織さん」  まばらに草の生える灯台のふもとで座り込んで、ただ嗚咽をこらえる。悔しさと悲しさに歪んだ醜い顔を見られたくなくて、心配そうに声を掛けてくれる伊沢君へ必死に背を向ける。  風が冷たかった。頭を抱える私の背中を撫でて去っていき、二度と帰ってこない。ただ悲しい余韻を残していくだけで、留まることを知らない。  その中で、黙って肩を叩いてくれる伊沢君の手だけが、暖かかった。 「兄ちゃん、約束、してくれた……」  ぽつん、と脈絡なく呟いた言葉に、伊沢君が静かに頷く気配がする。 「兄ちゃんが高校入る直前、私、病気して。原因わからないけど、悪夢ばっかりで全然眠れなくて、気持ち悪くてご飯食べられなくて……死にそうになってたことがあって」 「うん」  先を促すように相槌を打つ伊沢君に、私は唇を噛み締めて続ける。 「私、馬鹿だったから。兄ちゃんにいっぱい甘えて、ここにいてって泣いて、離れなくて。そうしたら本当に、ずっといてくれるって、約束してくれた」 「……」 「でももう一個、母さんと約束してて」  暗い病棟の中で、淡々とした、母と兄の誓約を思い出す。 ――お兄ちゃんだからって、手を差し伸べ続けるのはやめなさい。  一つは、私に兄の助けがいらなくなった時。 「兄ちゃん自身に助けたい、守りたい人ができたら、私は、もう……」 ――沙世は、捨てなさい。  その瞬間に、私は要らなくなるのだ。 「私にはまだ、兄ちゃんが必要なんだよ……っ」  妹を抱っこする兄は、優しい目をしていた。  だって、彼女は本物の血が繋がった妹なのだ。実の母の元に生まれた、兄が本来守るべきで、面倒をみてやらなきゃと願うはずだった、小さくて弱い子供だ。 「変わらないでほしいなんて、私の、わがままなんだね……」  長い沈黙。私は何もできないままうずくまって、惨めに首を垂れていた。 「織さん」  肩に何か温かなものが触れる。 「違うよ。変わらんものも確かに、あるよ」  恐る恐る顔を上げると、目の前に伊沢君がしゃがみこんでいた。穏やかな表情で、そっと私の両肩に手を置いて言う。 「俺は、ずっと織さんの幼馴染や。それは、変わらんよ」 「……」 「仲良くしようなって、ずーっと前に、言ったよな。それまだ、有効やよ?」  決して変わることはないと信じていた、幼いあの頃。ずっと続くことが当たり前で、疑うことなんてなかった。  私が一番楽しくて幸せで、輝いていた時だ。 「変わらない……?」 「ああ」  いいのだろうか、それは本当に。  私は伊沢君が好きで、ずっとその関係を変えたいと、望んできたはずじゃないのか。 「織さんがそうしたいなら、俺はこれからも、仲のいいダチのままでおるよ」  男の子と女の子、そんなもの関係なかったあの頃と、同じままで。  ……それはきっと泣きたいくらい幸せに、違いない。 「ううん。それは、約束しなくていい」  約束したら、きっと破る時が来てしまうから。 「きっと新しい約束に、破られちゃうから。いいんだ」  私は頬を膝に寄せて、きつく目を閉じた。  逃げちゃ駄目なんだ。古いものは愛おしくて切ないほど大切だけど、でも、終わる度に何度も切り裂かれるような痛みを味わうから、嫌なんだ。 「そっか」  頭を軽く叩かれる。それはなんだか兄のするような仕草だった。 「じゃあ今だけ。拓兄の代わり、させてな」  空気が動いて、伊沢君が肩の触れ合うくらい近くに腰掛けたのがわかった。  それから伊沢君は、不器用だけど頭を撫でてくれた。いつも私がどうしようもなく落ち込んでいる時に、何も言わずに兄がしてくれたように。 「う……」  私は混乱した思いを胸の中で収めようとしても、どうにもできなくて。ちょっとだけ声を洩らしたその拍子に一滴だけ、目から雫が落ちてしまった。  あとはもう止まらなかった。私は嗚咽を零しながら、指の隙間からぽたぽたと涙を流した。  言葉にならないその思いを、伊沢君は静かに頷いて受けとめてくれた。 「大丈夫やよ、織さん。そんな、簡単に変わりはせんで」  ごめん、伊沢君。ごめんね。  そう何度も心の中で繰り返しながら、泣いた。  そのまま私は顔を覆ったまま彼の肩にもたれて、長い間子供のように頭を撫でられていた。  翌日、金色の太陽が空高く上る頃になった。 「沙世。お前、大丈夫か?」  待ち合わせの広場で再会するなり、兄は眉を寄せてそう訊いてきた。 「何が?」 「いや、なんとなくだが」  てっきり私が勝手に民宿に戻ったのを怒るかと思ったけど、兄はそれすら忘れたように首を傾げる。 「サークルの奴らと喧嘩でもしたのか?」 「いや、別に」 「待て」  騒がしい中心街で立ち止まるのは迷惑そのものだからと、私は歩き出そうとする。それを、兄はぐい、と肩を掴んで止めた。  彼は目の前に立って、私の顔を覗き込むようにしながら問いかける。 「はっきりしろよ。沙世、どうしたんだ?」  ねえ、兄ちゃん。  安城さんと何話してきたの? 近くに住むとか、そういうこと言ってきたの? ――おにいちゃん。さよも、いっしょにいく。  縋るのはもう、私だけの特権ではないの? どうか、答えて。  一瞬めまいを感じて、私はきつく目を閉じる。 「ないよ。何も」  目を再び開いた時は、平常心に戻っていた。  ガラガラとシャッターを上げて、どこかの飲食店が開店する音が響く。 「拓兄」  伊沢君が兄の後ろで呼びかける。 「そろそろ行かんと、式に間に合わんようになります」  伊沢君が付け加えた。  兄はぎり、と奥歯を噛み締める素振りを見せる。 「ちっ」  短く舌打ちをして、兄は踵を返した。  兄は知っているのだ。私が本当に危うい時は、何も話さない。 「思いついたら言えよ」  そして、私が話し出すまで、辛抱強く待ってやるしかないと知っている。 「会場はすぐそこだからな。近くの店で適当に服は借りろ」 「うん」  背を向けて歩きながらも、兄がこちらを意識しているのはわかっていた。辛い時や悲しい時、私は側へ行かないのに、常に兄の姿を追っているのを知っているから。  そこまで理解してずっと側にいてくれたことに、私はまず感謝するべきなんだろう。だけど貪欲な私は、それが未来に続くことを切望してしまうから、タチが悪い。  貸衣装で身支度を整えてから、会場であるホテルまで連れてきてくる。  兄の母親の安城さんと裕也さんの結婚式は、慎ましやかに行われた。  小さなホテルの中の宴会場で、たぶん招待客は三十人くらいだったと思う。だけど皆明るい表情で親しげに二人に話しかけていて、私は新郎新婦がどれだけ望まれて結婚したかをその様子だけで理解することができた。  私は安城さんに近寄らなかったし、兄も私を紹介することはなかった。ただ、伊沢君の側で遠目に彼女らの幸せそうな姿を見ていた。  兄とその妹の赤ん坊の姿が目の前をよぎって、私はめまいを感じていた。 「織さん、大丈夫?」 「うん。ちょっと休憩してくる」  会場を出て、私は控室に向かう。  歩くたびにポス、と緩く足が沈む。綺麗な青い絨毯は歩き心地がよくて、履きなれない草履でも決して不快感はなかった。  溶け始めた雪を踏みしめているようで、私は何となく上機嫌になった。ふわふわの初雪はもちろん好きだったけれど、少し弾力のある三月の雪も遊ぶ方法には事欠かなかったから。 ――かずくん、遊ぼ。  今思えばつまらないようなことでも、楽しかった。私も伊沢君もたくさんの友達を持つタイプではなかったから二人だけということも多かったけど、それでも良かったのだ。 ――ごめんね、沙世ちゃん。今日、一志はスポーツ少年団に行ってるの。  その幼い遊びが急速に終わっていったのは、小学校の高学年になってからだった。伊沢君は男の子同士のスポーツに夢中になっていって、男の子と女の子が一緒に遊べる時期は過ぎてしまった。 ――でも、夕飯には帰ってくるから。おばさん今から作るからね、ちょっと待ってて。 ――あ、いいの。お母さん、今日は早く帰るかもしれないから。ごめんなさい。  伊沢君のお母さんにそう笑って、私は彼の家を後にした。  私も、伊沢君と仲良く遊べるのはもう終わるのだと雰囲気で感じていたから、そろそろ入り浸るのは止めた方がいいと考えていたのだ。  絨毯を踏みしめながら、私は徐々に暗くなっていく窓の外の景色に目を細める。街中にありながらもこのホテルは海に近くて、いくつもの倉庫の向こうには紺色に落ち着いた海が揺れていた。  夕闇が寂しいことを漠然と感じたのは、その小学生の高学年頃だったような気がする。  あの頃も不安だったなと思う。  両親が残業続きで、仲良しだった伊沢君と遊べなくなっていって、確か兄も……どことなく、様子がおかしかった。中学卒業間近で、慣れ親しんだ部活仲間とばらばらにならなくてはいけなかったから、仕方なかったのかもしれない。  それに、もしかしたら兄が私の知らない遠くの高校に行ってしまうんじゃないかと、考えをめぐらすこともあったのだ。  だから家の近くで慣れ親しんだ顔を見た時、思わず私はぱぁっと顔を輝かせた。 ――沙世ちゃん、買い物? ――うんっ。  固くなり始めた雪を踏みしめて駆け寄ると、彼は目を細めて笑った。 ――ひとりじゃ危ないよ。兄ちゃんと一緒に行こう?  そう言って私の手を握ってくれた彼は、幼い頃からよく遊んでくれた。私の兄よりずっと年上で、当時は大学生くらいだったと思う。 ――沙世ちゃんのお兄ちゃん、今日は遅いの? ――そうだよ。先にご飯食べてろって言ってたの。  でも、おかしいな。  どうして、「彼」が誰かを思い出せないんだろう。とても親しい人だったと、それだけははっきりとわかるのに。 ――ふうん。そう……。  高く細い声が耳の奥に木霊した時、なぜか私は微かな震えを感じた。 「え?」  ふと、右手を前に出してみる。それは小刻みに震えていて、私は奇妙な不安感が体に立ち上るのと同時に、足を止めていた。  どうしてだろう。ひどく、気分が悪い。  冷房が薄ら寒くて、先ほどまで上機嫌で踏みしめていた変に柔らかい絨毯の感覚が不快感を煽る。 ――もう遅いの。おうち、帰るの。  耳の中に不安に満ちた自分の声が蘇ってきて、私は訳がわからないまま焦って前へと歩き出した。  早く、兄の所へ行こう。そうすれば、ここから救い出してもらえる。  得体の知れない恐怖感に囚われて、私は小走りに廊下を曲がった。 「……あ」  もうすっかり紺色に沈んだ薄暗い廊下に見慣れた姿をみつけて、私はほっと頬を緩める。 「兄ちゃん、ここにいたの」  がっしりした体格の後ろ姿に駆け寄って、私は軽く兄の裾を引っ張る。いつも不安な時に何の気もなしに取ってしまう、私の子供じみた甘えの仕草を。  短く息を吐く気配がして、彼は私の手首を握った。首を傾けた拍子に耳の赤いピアスが揺れて、歩くぞ、と無言で催促する。  いつもの兄だった。私の手首を簡単に回ってしまう大きな手の感触も、ぱさぱさに乾いた赤茶の髪も、歩き方や少々強引な引っ張り方さえ、十何年も見慣れていた兄そのものだ。  すっかり安心していた私は、よく周りも見ないまま歩いた。長い間、私はそうやって兄に頼りきって生きてきたから。 「あれ? そっち、会場じゃないよ」  だから薄暗い廊下を離れて、裏口の方へと向かっていることに気づくのが遅れてしまった。 ――そっち、山の方だよ。どうして?  耳の奥に幼い声が再び蘇ってきて、私は首を傾げる。  おかしいな。違和感がする。  ずっと見てきた兄だけど、何か違うのだ。 「俺は……」  錆びた扉を開いて私を外の路地へと出すと、彼はゆっくりと振り向いた。紺色の外気の中に、その巨体が静かに浮かび上がる。 「あ」  そうだ、と私は我に返る。 「俺はそんなにお前の兄貴に似てるのか?」  ……今の兄ちゃんは、金髪に戻ってるはずじゃないか。 「え?」  不遜な表情は似ていても、顔立ちはまるで違う。どうして見間違えたのかと、自分自身に訊きたいほどに。  人違いだ。そう気づくのと同時に、まじまじと長身の彼を見上げて首を傾げる。 「あ……ミサキさん?」 「そう」  入谷君のバンドメンバーの一人、トラブルメイカーとニュースを騒がすミサキさんだった。  考えてみればレザーコートなんて、兄が着るわけない。光沢のあるパンツスタイルも知る限り身につけていた記憶はないし、第一こんなキザっぽい表情はしないはずだ。 「すみません。人違いでした。暗かったので、つい」  呆然としながら、目を逸らして顔をしかめる。  馬鹿だな。少しばかり不安になっただけで人を間違えたり袖を引っ張ったりするなんて、どうかしてる。 「失礼しました」  軽く頭を下げて、ここはどこだろうかと思いながら横をすり抜けようとする。 「待てよ」  肩を掴まれて反転させられ、無理やり先ほどの立ち位置まで戻される。私はつまずきそうになりながら草履を滑らせて、何とか体勢を持ち直す。 「ここまでついて来て、そりゃねぇだろ」  一歩、ミサキさんは私に詰め寄る。  背中を灰色のビルに押し付けられて、私はその冷たさにぎくりとなる。路地の電灯がジジ、と音をたてる以外に何も聞こえない中、奇妙にゆっくりとした口調も不吉な感じだ。 「あの、急いでるので」  押し付けられた肩が痛い。目と鼻の先で薄笑いを浮かべている、彼の視線と同じくらいに。  嫌な雰囲気だ。肌が粟立つようで、ぞくぞくとした寒気が這い上がってくる。 「少し味見させろ」  襟元を強く引いて、首筋に噛み付く。それはまさに獲物の命を一撃で絶つ猛獣と同じ仕草で、私は言葉を理解する前に恐怖に落ちていた。  自分に何が起こっているのかを理解するには、そう時間はかからなかった。  人気のない路地裏で、紺色に淀んだ空気の中、ビル壁に押し付けられて身動きのできない自分がいる。  私の首筋に顔を埋めているのは男の人で、私は……女だったということを遅れながらも気づいた瞬間、本能的な恐怖が全身を駆け巡った。 「離して!」 「抵抗すんなよ、今更」  簡単に片手で口を塞がれて、もう片方の手が肩口から着物を引き摺り下ろす。 「つ……!」  私は両腕を精一杯動かして彼を離そうとしたけど、私より二回りも大きな巨体はびくともしなかった。 「なんだよ」  するりと襟口から滑り込んで素肌に触れた手の熱さに、私はびくりと体を硬直させる。手は熱を帯びているのに、指にいくつも付いた指輪は無機質に冷たくて、何か別の生き物が体を引っ掻くような違和感だ。 「そんなつもりはなかったのにってか? 捨て猫みたいな目して、よく言うよ」  嘲笑する言葉の響きに、私はふと恐怖と緊張を忘れる。  今、何て言った? 「お前の兄貴、相当やべぇ趣味だな。妹と兄じゃねぇだろ、そりゃ」 ――沙世ちゃん。お兄ちゃんとどんなことしてるの?  愉快そうに笑う彼に、私は表情をなくす。  へぇ。そうなんだ。  私って、そういう風に見えるんだ。  私は体の力を抜く。それに抵抗を止めたと思ったのか、口を押さえる彼の手は緩くなった。  別にいいよ。私、猫みたいだってよく言われるし。  ……でも、私にも許せないことはあるんだ。  彼の頭を抱えるようにして両腕を目の前で交差させて、私はシルバーで作られたイカリ型のブレスレットをゆっくりと外す。 「ぐっ」  その尖った部分を、私は力いっぱいミサキさんの肩に振り下ろして引いた。 「ってぇ……!」 「言ったな」  あっけないほど普通の響きの言葉が口から零れ落ちる。私は血のついたブレスレットを指に絡ませてその場で立ち竦む。  凍りついたように、私は無表情だった。それこそが異常なのだと、変に冷静に見ている自分がいた。 「お前なんかと一緒にするな。他人のくせして、生意気な」  じわじわと怒りが急速に沸き起こってきて、私の心を真っ黒に押しつぶす。  肩口を押さえて蹲るミサキさんを見下ろして、私は叫んだ。 「兄ちゃんだけは、ずっと私の兄のままなんだ!」  吐き気がする。血なんてほんの少しなのに、どうして喉から何かがせりあがってくるんだろう。 ――お兄ちゃんは、私のお兄ちゃんだよ。それ以外の何でもないよっ。  あの時も、そう叫んだ。薄気味悪い笑みを、必死で睨み返して言った。  ブレスレットを放り捨てて走った。  路地は先ほどの電灯以外に光はなくて、いつのまにか暗闇に沈んでいた。肌を撫でる外気は生ぬるくて、途中で走りにくい草履は捨てた。それでも、全身にまとわりつく不快感は消えなかった。  道は見えない。真っ暗で、両脇は圧迫するようなビルで、どこまでも迷路のように私を追い込んで。 「なんで……!」  ミサキさんの声は、好きだった。兄みたいで、気持ちが落ち着いた。  それなのに人のことを肉の塊みたいに見ていて、それは私にとって裏切り以外の何物でもなかった。 ――なんで?  疲れた心に滑り込んできておいて、どうしていきなり手痛い仕打ちをする?  突然襲われたことよりもそちらの方がショックで、私は喉の奥の苦い痛みに必死で耐える。  行く手に、路地の出口が見えた。あと少しでこの迷宮から脱出できると、私は足を速める。  だけど微かにそこから入り込む光に、私は安心するどころか急速に心臓音が耳に痛く響き始めたことに気づく。  どくどくと心臓がうるさい。  どうして不安なんだろう。あとちょっとで、私は帰れるのに。 ――帰らなきゃ、家に。  なんで、割れるような頭痛とともに小学生の頃を思い出すんだろう。  気がつけば素足に触れる冷たい路地は、私の足を凍りつかせていた。左右のビル壁は視界を覆い、前へ進もうとする私を阻んでいるように見える。  それなのに一番怖いのは、どうしてか路地の入り口から微かに差し込む、月の光だった。 「待て!」  でも、ここにいちゃ駄目だ。  後ろから伸びてきたミサキさんの手が私の手首を掴む直前に、私は路地の外へと飛び出す。 「……あ」  視界に広がった静かな銀の月光に、私は既視感を覚える。 ――ここ、どこ?  崩れる一歩手前のような、そんな呆然とした響きの声が、頭の中で木霊する。  白い世界は、どこにも帰る道のない一人ぼっちの場所だ。  そう思った途端、私は膝をついていた。  なんでこんな場所に来たんだろう。どうして、「彼」を信じた?  迂闊に他人を心に入れちゃいけないと、あの時決めたじゃないか。  あの時……に、裏切られた雪の夜に。 「おい、お前どうした!」  私は自分の体を抱きしめて震えた。周りが何も見えなくて、呼びかけてくるのが誰かもわからなくなった。ただ息が苦しくて、胸が痛くて、意識が遠退きそうなほど頭が圧迫される。 「……沙世!」  浅黒い輪郭が、白い世界に浮かび上がる。  やっと、迎えにきてくれた。  そのことに、少しだけ体を締め付ける動悸と激痛が緩くなる。 「てめぇ! 妹に何してくれた」 「知らねぇよ! こいつが誘ってきただけだ!」  怒鳴り声と、突き飛ばし合うような争う気配。それすら遠いものとしか認識できない。 「俺の、妹はな」  強く蹴り飛ばすような音と共に、誰かが怒鳴る。 「泣きそうな顔で震えるような、器用な真似なんてできやしねぇんだよ!」 「ぐっ」  衝撃音が遠ざかって、すぐに何か温かなものに包まれる。ゆるゆると頭を撫でてくれる手に、無意識に縋りつきながら。 「しっかりしろ、沙世。もう大丈夫だから」  それが私の慣れ親しんだ腕だと気づいて、私は少しだけ体を楽にする。  ここだけなんだ。私が、本当に信じてよかったのは。  ……それなのに馬鹿な私はまた、同じことを繰り返した。 「にいちゃん」  相変わらず全身を震わせながら、私は耳に手を当てて座り込んだまま呟く。 「なんでだろう。私、何か悪いことした?」 「……沙世?」  目の焦点が合わなくて、自分でも何を口走っているのかわからない。 「遊ぼうって、言われたんだ。だから一緒に裏山に入って、小屋に連れてってもらって」 「おい」  血相を変えた兄の声が聞こえたけど、私は頭のネジが外れてしまったように淡々と言葉を口から吐き出す。幼い言葉が、意味の成さないことをひたすら並べ立てて、留まることができない。 「そしたらね、暑いねって言うんだよ。おかしいね。雪がいっぱいで、震えるくらいに寒いのに。服、脱がなきゃねって、言うんだよ」 「沙世!」 「そしたらね、そしたら……」 「やめろ! それは夢だ!」  強く肩を揺さぶられて、必死の形相で私を見下ろす兄と目が合う。 「混乱してんだよ、お前は! 落ち着け、そんな馬鹿なことはない!」  どうしてか、兄の慌てぶりが私を落ち着かせて、本当に信じていい腕の中で、彼の言葉を疑うことしかできない。 「夢じゃ……ないよ」  私が小学四年生の頃、突然悪夢ばかり見るようになった原因は何だったのか。  その悪夢にいつも、伊沢君に似た「誰か」が、笑いながら出てくるのはなぜだったのか、今ようやく思い出す。 「けいしにいちゃん」  伊沢、啓司。  数年前から精神病院に入れられてる、伊沢君の兄。 「なんでわたし、あのひと、おにいちゃんみたいにおもってたんだろう」  いろんな悪い条件が、重なってしまった。  あの時と同じ寂しい心境があって、どこか兄に似た空気を持つ人がいて、それに手酷く裏切られる。  ……ぎらりと鮮やかすぎるほどに輝く、狂ったような月の夜。 「あのひと、わたしに……」  言葉が終わる前に、視界が暗くなって、途切れた。  最悪の過去から私の意識がギリギリで逃避したことに、違いなかった。  目が覚めた時には入谷君の兄のレンさんがいて、平身低頭私に謝ってくれた。兄も私の友達の関係もあるから大事にしたくはないと、レンさんの謝罪を受け入れた。  ミサキさんは、軽くからかうつもりだったらしい。それでも私に与えた恐怖感を思って、レンさんは始終私をいたわってくれた。  考えてみれば私は怪我もしなかったのだけど、レンさんは気持ちが落ち着くまではと私たちに宿泊場を用意してくれた。  私たちが宿泊することになったのは、隠れた名所らしい上品なホテルだった。有名どころではないけれど、上層階のレストランは雰囲気も、出てきた料理も私の目を驚かせるほどだった。  その頃には私の心も静まってきて、私は兄と向かい合って話をすることができるようになっていた。 「今回結婚式に出たのはな、母さんと親父が俺に言ってきたからだ」  物珍しさにきょろきょろしていた私に、兄は席に着くなりさっさと話を始めてくる。 「母さんって。私の?」  すぐに出てきたオードブルを味わいつつ、私は上目遣いに問う。 「あのな」  そうしたら、兄は呆れたようにグラスを取って返した。 「ウチの母さん以外に母親がいるかっての。俺って人間を作って育てたのは一人しかいねぇよ」 「そう、なの」 「お前だって、親父は俺の親父しかいねぇだろうが」  言われてみればそうかな。私、生物学上の父親のこと知らないし。いっぱい父さんが可愛がってくれたから、あんまり必要なかったし。 「ま、製作過程に親父がちょっとばかり関わってるだけだ。そんなもんだよ」  製作って失礼だな、兄ちゃん。あれだけ子煩悩な父に。  私は苦笑しつつ、こくりと頷く。  冷製オードブルは刺身が甘く感じるほど美味しくて、次のスープは程よい熱さが心地よかった。フレンチとかを食べる機会はほとんどないけど、母親にマナー全般は教わっていたので戸惑うことはない。  向かい側を見ると、兄も普通に手際よく口に運んでいた。がつがつした食べ方はいつも品悪いとか思っていたけど、さすが母の教育で見苦しいほどじゃないのに気づく。  母とは、私たち兄妹にとってかくも偉大な存在なのだ。細かな素振りを見ただけでも、その影響は隅々にも及んでいる。 「……安城の方を選ぶなら、もっと前に俺は選んでたよ」  ぼそりと呟いた言葉に、私はスプーンを持つ手を止める。 「知らねぇと思うけどな。高校入学の時、もし東京へ出るなら自分のところへ来ないかと、あの人は勧めてきたんだ。母さんも俺の好きにしろと突き放してきたし……まあ、多少は考えなくもなかったがな」  生物学上は、母親だしな。  そうぼやいた言葉に、私は目を逸らして心の中で頷く。  私も考えたことはある。もしいつか実父に会ったら、どうしようと。  その実父と今の父のどちらが大切かと訊かれたら、当然私を育ててくれた父に決まっている。だけど顔も知らない父のことだって、気にならなかったといえば嘘になるのだ。 「が、俺はあのド田舎で生まれて、しかも二十年もあの母さんにいびられて育ったからな。生みの親っつっても実感わかねぇんだよ。今だってそうだ」  それでも、兄はそんな私の苦い感情と同種のものを、微塵も見せることがなかった。 「安城は、俺のことなんぞ忘れりゃいいんだよ。成人した息子なんてもう世話要らねぇだろ? だいたい、母さんは親父から俺を奪い取る勢いで面倒見てくれたしな」  あっさりと言い切って、兄は軽く笑った。  その姿は金髪で見慣れないスーツ姿でも、私が幼い頃から頼りにしてきた気丈な兄そのものだった。見た目がどう変わっても、中身まで人間はそう簡単に変われないのだ。 「そっか」  強いなと私は思う。  私自身は、実父について考えることは時々ある。もし自分のところへ来ないかと言われたら、たぶん迷ってしまう。きっと両親を選ぶだろうとはわかっていても、どこかで淡い希望みたいなものを抱いているのだ。 「でもさ、兄ちゃんにとっては」  それに、遠い空の下のどこかで自分と血の繋がった兄弟が生きているとしたらと思いを馳せることもある。 「小さい妹もいることだし。側にいて助けてやらなきゃって、考えたりするんじゃない?」 「はぁ? 馬鹿じゃねぇの」  結構勇気の必要だった質問を、兄は馬鹿、の一言で切り捨ててきた。  瞬時にむすっとして、私は兄を睨みつける。 「なんだよ。私だって色々と」 「お前な、冷静に考えろよ。あのチビ育ててたら、俺はいくつになると思う?」  呆れた調子で、兄はくだらないことのようにぼやく。 「俺はお前で懲りたよ。あんな七面倒な子供時代、二度と送りたくねぇな」 「……悪かったね」  確かに一日中付きまとって、にいちゃんにいちゃんと繰り返す子供なんて私も嫌だ。素直で母の言うことをきちんと守る子供だったからこそ出来たことで、大人になった兄はもうそんな時代に帰りたくはないのだろう。 「じゃ、その。安城さんと住むとか、そういうのは……」 「旦那もガキもいるのに、俺が行ってどうする」 「はぁ」  ため息をついたのは、ここ暫くの疲れがどっと出たせいだ。  じゃあ、何だよ。私が勝手に早とちりして、勝手に混乱しただけ?  ああ。私の涙を返せ。 「俺の家族は飽和状態なんでな。今更、面倒なものに手伸ばしたくねぇんだよ」  ふと兄は目を伏せて、手についたパンの粉を軽く払いながら言う。 「俺に酒注がせながらドラマ見るのが日々の楽しみで、サボテンすら水やり過ぎて枯らしてる母さんとかな。二人も欲しくねぇだろ?」 「……」 「二十歳近くになっても帰り道間違えたり、ろくでもねぇことで悩んで人の家に入り浸る妹とかな。増えたら手が回らねぇって」  けなしてるようで温かみのある言葉に、私はぐっと口をつぐむ。  結局、兄は家族に優しいのだ。  外でどれだけ派手に暴力を振るってきても、母には叱られるままになっていた。父とは取っ組み合いの喧嘩もしたけど、敵視しながら頼りにしていたし、私がどんなにわがまま言って兄の部屋で騒いでいても……追い払ったことはなかった。  ずっと見守って、ずっと手を差し伸べてくれた。当たり前のように思ってしまっていて、私は感謝の感情すら抱いたことがなかった。  それをこれからも続けていったら、兄にも私にも、良くないんじゃないか。どこかで、区切りをつけなきゃいけないんじゃないのか。 「でもそれで兄ちゃんに迷惑になるなら、私はもう、いいんだ」  意を決して、私はその思いを口にする。それに、兄は手を止めて訝しげに顔を上げた。 「帰り道わからなくてどこかで迷ってても、困り果てて家の外でうろうろしてても、それに手を差し伸べるのは兄ちゃんの厚意の範囲内で、義務って考えなくていいんだよ」  常に側にいて、絶対に守ってやらなきゃいけない時期はもう過ぎたのだ。大人だなんて自惚れる気はないけれど、でも子供として甘えていいのは終わった。  それに、もう嫌なのだ。 「もう、十分じゃないか」  崖から凍った川に落ちた時も、野犬に追いかけられた時も、街で絡まれた時も、泣いていたのは私で……傷ついたのは兄だった。私はどんな時でもたいした怪我はしなくて、どんな時でも兄は涙すら零すことはなかったのに。  今回みたいなことが、また起こったらどうしよう。今度は相手が武器を持っていたり、複数だったらどうなるんだろう。考えるだけで息が苦しい。  ……それでも兄が絶対に庇うと、わかっているから。 「お前に俺の気持ちなんぞわからねぇ」  つまらなそうに、彼は尊大な調子でぼやいた。私はそれに顔を上げる。 「義務だの厚意だの、好きに言ってろ。たぶん、どれとも違ぇよ」  私が兄に感じる、どうしようもない甘えと信頼と安息感は、説明することなんてできない。そしてそれに、私は絶対に逆らえない。 「ただ、お前が俺に助けなんて要らないって言っても、説得力が全然ねぇってことは釘をさしとくけどな。できるもんならやってみろ」  兄は目を細めて、挑戦的に笑って見せた。 「お前が立派になった姿なんて、俺は一生想像もできやしねぇが」  だけど兄が私に抱く、無意識の内の保護欲と干渉と束縛だって、兄自身理解できないに違いなかった。  悪いのは、どっちなんだろう?  甘えて擦り寄ってきた子猫と、それを拾った子供。その二つの間に出来てしまった強すぎる絆は、どちらのせいなんだろう。  そんなことを考えたって、私にわかるはずもなかった。きっと、兄にだって答えは出せないのだろうから。 「……いいの?」  私は血縁では、全然繋がりのない他人なのに。家族だからと、無条件で受け入れてしまって本当にいいのか。  僅かな沈黙の後、兄は面倒くさそうに首を傾けた。 「選びようもないだろ」  言葉足らずな問いだったのに、兄は長年の勘であっさりとその内容を察してしまったようだった。 「俺が安城の人間になることはありえねぇ。母さんも親父もそれがわかってて、せめて結婚前に挨拶しに行けと言ってきただけだろ。悔しいがあの二人には、俺の内心なんぞお見通しだ」 「……まあ、お父さんとお母さんならわかるだろうけどさ」  私には理解できなかっただけに、少しだけ悔しさを感じてしまう。 「私は、ちゃんと教えてくれないとわからないよ」  他人なら、誤解するかもしれないけど。私がおもいきり兄を信じられなくなってしまっていたのはショックだったのだ。  兄は私の内心なんて簡単に見抜いてしまうのだから不公平だ。たった五歳しか違わないのに、なぜだろうかと考えないではいられない。 「お前はガキだからな。頭悪ぃ」 「うるさい」 「その辺は、一志を見習えよ。あいつの方がまだ大人だ」  その名前とつながる苗字を考えて、私は魚料理のナイフを止めてしまった。背筋を冷たい指が撫でていくように、ぞくりとした寒気が這い上がってくる。  今、その名を聞くのは、頭が痛い。  顔をかげらせた私の心中を目ざとく察して、兄はグラスを取る。  柔らかいはずの白身がひどく喉に詰まって、私は慌てて水で流し込む。それを、兄は静かな眼差しで見ていた。 「わ、私。よく覚えてないんだ」  心配を掛けるのは嫌だと、努めて表情を和らげながら言う。それが、ますます不安の色を表情に出してしまっているのだとは気づいていなかった。 「な、何でかな? 雪道通って、山に入っただけの記憶なのに。よくあることだから、忘れてただけなのかな?」 「……沙世」 「暗かったから、怖かっただけなんだよ。きっと。雪も深かったし」  それだけのことだと思いながらも、だけど身にへばりついてくる不快感は消えない。  沈黙の中、ウェイターが来て皿を下げていく。次のメインが来るまでの間は意味もなく空気が痛くて、私は兄と目も合わせられないまま俯く。 「いいか、沙世」  そんな中、兄がグラスを置く音に、私は過剰に反応してしまった。 「啓司はな、いかれた奴なんだよ。昔も今も」 「あの」 「幼女趣味のな、かなりいっちまった奴。一志も俺に泣きついてきたことがあってな」 「兄ちゃん、その」  どくどくと心臓が早鐘のように脈打ちだすのを感じて、私は顔色をなくす。  嫌だ。気分が悪い。 「あいつの部屋で、近所のガキのやべぇ写真ばっかり見つけたってな」 「……やめて!」  思わず声を上げて、私は耳を塞ぐ。周囲が一瞬静まり返ったけど、そんなこと気にする余裕はなかった。  覚えていないような雪の日の夜、何が私に起きていたかなんて聞きたくない。 「落ち着いて聞けよ」 「い、やだ」 「いいから聞け。お前が小学生の頃の話だ」  命令口調になっても、私は首を横に振るだけだった。耳を塞いだとしても聴覚は完全に遮れないけど、精一杯目を閉じて全身で拒絶を示す。 「お前は啓司に誘拐された。ようは、やばい悪戯目的……ってやつか」 「……っ」  衝撃が強烈なさざ波となって、私の体を駆け巡る。  伊沢啓司、お隣の「けいしにいちゃん」は私が高校の頃、近所の女の子を連れ去って、丸三日行方を眩ませたことがあった。被害に遭った女の子の方が警察に届けなかったけれど、性的な何かがあったと噂が流れていた。  何より、絡みつく蛇のような視線に、私だって気づいていた。 いつからだったか、兄が異常なほど彼を敵視して、私から遠ざけようとしていたこともあった。 「俺が雪の中探しに行って、山道でやっと見つけた時」  兄は迷うことなくその先を続けた。 「啓司は楽しそうに笑ってて、お前は裸だった」  私は黙った。もう、何も問い返す気力が起こらなかった。  わかってたはずだったのだ。それを、確認しただけなのだ。  でも、できるなら兄に嘘だと言ってほしかった。他の誰が肯定しても、兄だけは違うのだと私を安心させてほしかった。 「沙世、これは事実だ」  短く呼ばれて、私は空ろな目を開きながら微かに反応する。軽く頭を叩かれて、ぐいと顔を上げさせられた。 「……が、それだけだ」  恐る恐る兄の顎から上へと目を上げると、平静な表情の彼と視線がぶつかる。  私を落ち着かせるように、私の不安に淀んだ眼差しから目を逸らさずに、兄は続ける。 「怪我もなかったし、特別変なこともなかった。お前は自力でちゃんと逃げてきたんだよ」  くしゃくしゃと私の頭を撫でながら、兄は静かに言う。 「その後体調を崩したのは寒さのせいだ。あとはショックからくる訳のわからない悪夢だな。だが、別にお前に何があったってことはない」 「何も……」  深く頷いて、兄ははっきりと言い切る。 「何も、なかった。俺を信用しろ」  言い聞かせるようなその力の篭った言葉に、私はのろのろと脱力する。  何もなかったはずはない。  だけど兄がそう言うのなら、何もなかったと信じなくては駄目なのだ。包み込まれるような鈍く偽りに満ちた安息感に、私は俯いて小さく頷く。  間もなくメインディッシュが運ばれてきて、私はその香ばしい匂いに頬を緩めた。薄茶のソースが肉に絡み付いて、真っ白な皿に綺麗な放物線を広げる。  柔らかなそれをナイフで切り取って、私はフォークに刺す。  だけどふいに、肉の断面に薄く見えた赤に……おもわず、ナイフを下ろした。 「どうした?」  血液を目で捉えた途端、さぁ、と顔から血の気が引いていくのを感じる。 「……あの」  皿の上で、切り取ったステーキの断面に微かに滲む朱に目が釘付けになりながら、私は恐る恐る言う。 「えと、血」  信じると決めた。何が私に起こっていたとしても。  ……でも、不安は不安なんだ。  もしも気づかない内に、私はとんでもない何かをなくしていたかもしれないと思うといてもたってもいられなかった。 「その時。変な……血、とか。私、出してなかったよね」  怖かった。それは思い出すのも怖かったから、記憶の狭間に埋まったままなのだ。何度、確認したいと願っても思い出せない。  昔じゃあるまいしと笑い飛ばしたくても、できない。長い間他人を拒絶してまで守ってきた、私の内部を汚されていたとしたら。 「血?」  兄は小声で呟いた。心外なこと、と言わんばかりに。  だけど、ふざけて返してくる様子もなかった。安心させるように嘘を作るような、そんな沈黙さえもなかった。 「もしお前があの時、一滴でも血を流してたなら」  兄はゆっくりとナイフを傾けて、きらり、と僅かな光をそれに宿す。 「……啓司は今、生きてねぇな」  その瞬間、私は確かに、ぞっとするような深淵の目で兄が薄く笑うのを見た気がした。  私の指先から力が抜けて、ナイフをテーブルの下へと取り落とした。それに兄は目を細めて、低い声でウェイターを呼ぶ。 「おい、替えを頼む」 「はい」  すぐに新しいナイフが用意されて、食事が再開される。私はナイフに自分の顔を映して、無表情の私と見つめあった。  血は、流してない。女を汚されたわけじゃない。  これだけは、真実だと思えた。  ……でもそれ以上に恐怖を感じた。  何事もなくその後も食事は続いていったけど、私はその一瞬に兄が見せた、どこか狂気じみた笑みを忘れることはできなかったのだ。 ――お前の兄貴、相当やべぇ趣味だな。  冗談半分に呟いた、ミサキさんの一言を思い出す。  もしかしたら、と思ったのだ。 「兄ちゃん」 「あ?」  もしかしたら、兄が私に抱いている感情というのは、私が思うより鋭くて危ういものなのかもしれない。 ――妹と兄じゃねぇだろ、そりゃ。  兄妹というにはあまりに、私たちは側にいすぎたんじゃないかと。  ミサキさんに兄を嘲笑された時、私はミサキさんを傷つけることに何のためらいも持たなかった。血を見ても、微塵も哀れみなんて感じなかったのだ。  けど、兄の場合は。私に何かあった時に相手の命を奪うことすら……笑ってできてしまうことなのかもしれない。  ……それは考えようによっては、狂っていることと、同義なんじゃないかと。 「ありがとう。もう大丈夫だよ」 「はっ。気持ち悪ぃこと言うなよ」 「うるさいな」  だけど今更、離れることなんて考えられない。  ずっと、そうして育ってきてしまったから。後戻りしようにも、できない。 「あと、俺は明日帰るからな。用も終えたし」  からかうように、兄はにやりと笑う。 「もういいだろ? いい加減、自分で何とかしろ」  寂しいなんて言うなよ、ガキ。  そんな意味を含めたのを感じて、私は笑って頷く。 「うん。もう、一人で平気」  これは、本当に一人という意味じゃない。  兄はまだ、振り返った時にそこにいてくれる。一歩後ずさりしたら、ちゃんと背中を押してくれるし、守ってくれるとわかっているから。だから安心していられるのだ。 「おいしいね、これ」 「ああ。タダだと思うと尚更だな」 「え?」 「食券もくれたんでな、入谷の兄貴」  私たちはおかしいかもしれない。周りから見れば、仲がいいだけで済まないように感じるのかもしれない。  猫と飼い主。それも、私たちを表すには正しい。  だけどその飼い主は、命を賭けてでも猫を守ってくれる。猫は無力で、飼い主にとって何の役にも立たないのに、彼を従える。 ――いつか沙世は、捨てなさい。  母がそう約束させた理由を、今になって理解する。  きっとこうなることを母はわかっていたからこそ、止めたのだ。  私たちの関係は、兄と妹じゃないところまで来てる。もっと強くて厄介で、お互いを駄目にする鎖で、自分たちを繋いでしまっているから。 「また電話するからね。兄ちゃん」 「ガキかよ、お前」 「ガキだもん」 「自分で認めるか。めんどくせぇ妹」  ……それでいいのだと、私は窓の外の綺麗過ぎる月を眺めて、思った。  夜も十時に差し掛かるくらいになって、私は携帯を手に取った。  コール音を聞きながら、一人だけのホテルの一室で目当ての人物が出てくれるのを待つ。 『はい』  もしかしたら話したがらないとも思ったけど、思いのほか彼はすぐに通話に現れた。私は小さく息を呑んで、恐る恐る問いかける。 「もしもし、入谷君?」 『……うん』  だけど口調はなんだか怒っているというより沈んでいる様子だったので、私は申し訳なさに眉を寄せる。  電話口の向こうでアナウンスが聞こえて、私はふと彼の場所を考える。 「あ、空港? 後で掛けようか?」 『いいよ。まだ出発まではしばらくあるし』  もう遅いのに飛行機で飛び回っているとは大変だなと考えながら、私は急いで言葉を探す。  勢いで掛けてしまったけど、忙しいところを引き止めているのだ。相手も相手なので、焦らないではいられない。 『なんか、ミサキがとんでもないことやったみたいで。ごめん』  そんな私に、入谷君が先に言葉を掛けてきた。レンさんから聞いたのかと私はそれも申し訳なく思う。 「いや。私が変な場所でふらふらと挙動不審なことしてたから」 『謝ることないよ。もっと派手に刺してやればよかったのに』  ため息をついて、入谷君は苦々しく呟く。 『ま、今回ばかりは僕やルカにも責任があるけど。レンに怒られたよ、かなり』 「え? 君やルカさんが?」 『……う』  一瞬言葉に詰まって、入谷君は言いにくそうに声をひそめる。 『昨日のライブで僕が失敗ばっかりしたのに理由を話さなくて、ミサキを苛立たせたことと』 「あ、うん」  気分が態度に出てしまう入谷君ならありそうだと、私はうなずく。 『ふざけて琉花が「女のせい」とか吹き込んで、織さんに矛先が向いたこと』  心の中で苦笑いをして、私はがくりと肩を落とす。 『そういう仲じゃないって、僕も説明したんだけどね。ミサキの脳内スペースには、女友達ってジャンルはないんだよ』 「はぁ」  ということは、ミサキさんはわかっててやったのか。少しばかり入谷君を困らせてやろうとか、そういうことらしい。  深いため息をついて、私は一度きつく目を閉じる。 「この際、君の失敗要因はどうでもいいとして」 『うわ、冷たい』 「ともかく」  私は目の前に入谷君がいるように、ゆっくりと告げる。 「君は私にとっても千夏ちゃんや浅間君にとっても、大事な友達だよ。それは忘れないで」 「え?」  入谷君はちょっと黙った。私は首を傾げて言葉を続ける。 「えって何。本当だよ」 『織さんからそんな言葉が聞けるとは思ってなかった』  心底驚いたように、入谷君はため息をついて言う。 『もっと、いろんなこと口に出してよ』 「うん?」 『僕じゃ、織さんの複雑怪奇な内心は読めないんだよ。お兄さんや伊沢君みたいに、ずっと一緒にいたわけじゃないんだから』  入谷君は言いにくそうに付け加える。 『……でも、わかりたいとは思ってるんだよ。これは本当』 「そっか」  思いもよらなかった言葉に、胸をつくような嬉しさを感じた。 『ま、何はともあれ織さんには多大な迷惑を掛けたから、エタルとしても十分にお詫びしないとってレンが言ってた。何か希望ある?』 「え?」  お詫びって、ミサキさんの悪戯についてだろうか。  目を回して、私は苦笑する。 「別にいいよ。私、無事だったし」 『無事じゃなかったらお詫び程度で済んでないよ。あのイカレ野郎』  苛立たしげに吐き捨てて、入谷君は自身を落ち着かせるように息をつく。 『これは僕らのけじめみたいなもんだよ。ルカでもレンでも、好きな奴を引っ張り出して使えばいいから。二人とも、大抵のことなら聞くはずだよ』 「んー、じゃ」  確かに後で賠償金がどうこうとかいう話になったら嫌だな、とか現実的なことを考えて、私は頷く。 「そうだね。あ」 『何?』 「君でもいいわけだよね。入谷君」  ふっと笑って、私は前々から考えていた願いを口にする。  うん、よし。 「そうだね。入谷君とカラオケ行きたいなぁ」  空気が落下しそうなほど長い無言に、私は首を傾げる。 「無理?」  ミサキさんとの事件に直接関係はないし、ちょっと唐突過ぎたかな。申し訳なさが胸に押し寄せてきて、私は不安げに付け加える。 「いや、駄目ならいいんだよ」 『……その』 「君の歌を思う存分聞くのは気持ちいいだろうなって思っただけだから。贅沢だね、やっぱ」 『違うってば!』  話題を切り替えようとした私に、入谷君は大慌てで遮る。 『そのカラオケ案も、却下ということで』 「そっか。残念」  期待してただけに、がくりと肩が落ちる。ぼそりと、声にも出てしまったのにも気づかずに。 「駄目なんだ……」 『当たり前じゃん。頼まれなくても行くのに、何でわざわざ』  そうなんだ。頼まれなくても行ってくれるんだ。  景気いいなぁ……あれ?  はっと顔を上げて、私は早口で言う。 「え、行ってくれるの?」 『くれるって。行きたいよ。何で誘ってくれないの?』  逆に問いかけられて、私は拍子抜けする。  いいのか。二人ってことは、浅間君とか千夏ちゃんもいないぞ。時に電波ソングも熱唱する私に付き合うとは、なかなか入谷君もいい度胸をしている。 『ま、どーせ織さんのことだから。伊沢君とか誘うんだろうけど』 「え、誘ってくれるの?」 『やだ』  子供っぽく言われて、私はふう、と息をつく。 「じゃ、そのことはおいといて」  一つ頷いて、私は別の方へと頭を切り替える。 「確か旅行の最終日、沖縄でエタルのライブあるよね」 『うん』 「それ、今からじゃチケット取れない?」 『え』  突然言葉に詰まって、入谷君は訝しげに問う。 『来てくれるの?』 「いや、くれるっていうか。行きたいなと。だけど」  少し迷ってから、私は意を決して電話口に声を送る。 「その、皆で行きたいんだよ。千夏ちゃんはもう取ってあるだろうけど、浅間君と、あいちゃんと、伊沢君と、私。立ち見でいいし、料金は私が何とかするから」  慌てて言ってから、私は窓の外を見やる。 「最後くらい、皆でぱぁっと騒ぎたいなって。その……無理なら仕方ないけど」  兄はいないけど、仲間内だけで楽しめるのだと証明してから、東京へ帰りたい。  それはきっとこの夏最高の思い出にできると予感がするから。 『うん。わかった』  完全に私のわがままだったけど、入谷君は楽しそうに答えた。 『大丈夫。野外で制限緩いし、余裕で取れるよ』 「ごめん。無理にとは言わないから」 『この場合謝るのは僕らの方』  短く呟いて、入谷君は問いかける。 『ごめん、じゃないなら?』 「……ありがとう」 『正解』  ふっと、頬が緩む。  温かな心遣いに私が感謝していると、入谷君の背後で出発案内のアナウンスが響く。 『あ、行かなきゃ』 「うん。頑張って」 『もちろん』  荷物を拾い上げる気配と共に、入谷君が笑いながら言った。 『もうヘマしないよ。明日の八時からテレビで確認できるから、皆で見よう』  切れた携帯を手で握り締めて、私も笑った。  夜は刻々と深くなってきて、その中で浮かぶ月はぽっかりと闇に穴を空けているような銀色だった。それは孤独と冷酷さを感じさせて、どこか悲しい風景ではあったけど、不思議と気分は晴れやかだった。 「おやすみ」  携帯に、そっと囁きかける。  一人だったけど、この小さな機械の向こうには兄も友達も、皆いてくれるのが実感できて、それがひどく嬉しかった。
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