6 熱射の錯覚

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6 熱射の錯覚

 兄が先に東京へ戻っていった翌日は、台風が来て一日身動きが取れなかった。 「伊沢ぁ。お前、よく勉強するよなぁ」 「お前みたいに暇やないんや、俺は。相田さん、この問題頼めん?」 「おい。人の彼女勝手に使うなよ」 「私は使われてるわけじゃない。で、伊沢君。どれ?」  夕食前のけだるい時間帯、千夏ちゃんや浅間君と床に転がっていた。今日は一日中こんな感じだった。  その中で学業に励む伊沢君とあいちゃんは、真面目なんだか異世界の住人なんだか、判断に困るところだ。 「織ちゃん。伊沢があいちゃんを誘惑するんだけど」 「そっか。頑張れ」  寝転がったまま冗談半分にぼやく浅間君に、私は遠い目をして返した。  知らないよ、そんなの。  だいたい浅間君、結局私に伊沢君へのアプローチなんて微塵も教えてくれなかったじゃないか。あいちゃんに掛かりっきりで、私なんてほったらかし。薄情者め。  ……なんて言ってると、あいちゃんに嫉妬してるみたいだな。やめよう。  仕方がないので、側で死体のように床に突っ伏している少年を揺さぶってみることにする。 「入谷君、生きてる?」 「……」  返事はない。夕方によろめきながら帰ってきてから、ずっとこの状態だ。  入谷君のスケジュールを確認すると、昨日は横浜でライブ、東京でテレビ収録を二つ、今朝は昼から沖縄のどこかでまたライブをこなしてきたらしい。 「イリヤー、肩もんであげよっかぁ?」 「うー……千夏ちゃん、重い……」 「えー、乙女に何てこと言うのぉ」  体力はそこそこあっても、ここ数日間はまともな睡眠を取らずに飛び回っていたわけだし、そろそろスイッチが切れて当然だろう。 「ま、入谷君。ゆっくり休憩して」 「そう思ってるなら助けてよ」  千夏ちゃんに圧し掛かられて潰れそうになっている入谷君に微笑ましい目を向けて、私は床に寝そべりながら頬杖をつく。 「愛されてるってことだよ、少年」 「どこが?」  しかし、平和だ。  千夏ちゃんと入谷君は相変わらず無邪気に戯れてるし、伊沢君やあいちゃんは勉強してるし。 「ん?」  突然私の携帯が鳴り響いた。  誰だろう。人の迷惑を顧みない兄にしては、時間帯が早いな。母もまだ仕事から帰らない頃だし。 「えっ!」  訝しげに首を傾げて液晶画面を開くと、それは都内の病院からだった。  ……美幸ちゃんに何かあったのかもしれない。 「も、もしもし!」  のんびりした気分なんて簡単に吹き飛んで、私は血相を変えて通話に出る。 『ヘイ、さっちゃん。バカンス楽しんでる?』  南国の香りを纏った変な男の声が、通話口の声から現れた。 『さっちゃーん、そこにいるのはわかってるよぉ? ファイン?』  いや、変な人は間違いないけど。知ってる人だから、突然切ったりはしない。 「……まあ、ほどほどに」  一応答える私ってえらい。  律儀かついい加減な私の答えに、外国人らしい微妙なイントネーションで、彼は満足げに続ける。 『グッド。うーん、沖縄かぁ。ボクも行きたいねぇ』  暗さなんて微塵も感じられない声に、私は先ほどの心配は杞憂だったことを理解して、がっくりと肩を落とす。 「病院の電話なんて使わないでくださいよ。美幸ちゃんに何かあったのかと」 『あ、ゴメン。ボクの携帯切れちゃっててね。ミユは元気だよ。まーくんが散歩させてくれるし、ワイフは邪険にするし、ボクの居場所は全然ないねー』  彼はけらけらと陽気に笑う。 「お変わりなくて何よりです。では、また会える日まで」 『さっちゃんは相変わらずだね。はははは』  愉快そうに笑い声が響く電話を持ちながら、私はしぶしぶ廊下に出る。  どうせ、そう簡単にこの人は切らせてくれない。下手に通話をやめたら沖縄まで来かねない、兄並みに強引な人だから。  居間の扉を閉じると、私は壁にもたれかかってため息をつく。 「はぁ」 『悩ましげだねぇ。今年の夏は一体何人の男を泣かせたんだい? さっちゃん』 「あー……」  もう一度深いため息をついて、私は憎々しげに言う。 「そういうイタリアンな発想はよして下さい。ついていけません」 『ボク、日本が半分入ってるんだけど』 「じゃ、セクハラおじさん」 『おじさん? この美男子つかまえてよく言うね』 「四十過ぎたらおじさんです。ジュリオ」  怪しい日本語を操る陽気な日系イタリア人、ジュリオ・羽島。美幸ちゃんの父であり、四十五歳の音楽家だ。  親戚一同の中で私の母に並ぶくらい不思議な人で、かなり独特な価値観と空気を持っている。 『で、さっちゃん。どうしてボクに携帯持ってること教えてくれなかったの?』  とぼけた台詞ばかり連発する人だけど、彼は頭の回転が早い。笑いながら私の隠し事をさらりと見抜けてしまうから怖いのだ。 「日本にいない人に掛ける機会なんてないかと」 『ボクが掛けるからいいんだよ。恋の悩みでも何でも聞いてあげるのに』  さらりと返した言葉に、私はわかっていながらも顔をしかめる。  ジュリオは、私に干渉することが好きだ。それは叔父という領域ではないくらいで、とにかく私のプライベートに突っ込んでくる。 「恋なんて、めったにしないからいいんです」 『そうかい? ボクは今でもしてるけどね。君のママとか』 「……お互い既婚者じゃないですか」 『素敵なママなんだから仕方ないじゃない。若い頃は君のパパと取り合いをしたもんだよ』  何度となく語られた昔話に、私は苦笑する。  彼は、私の母と非常に仲がいい。父と結婚する前からの友達だから、私のことも自分の娘と同じくらい可愛がってくれた。  立ち振る舞いがスマートで、面白い話をたくさんしてくれるジュリオは、私にとって自慢の叔父であり、もちろん大好きだった。  だけど高校の頃から、私は彼を遠ざけ始めたのだ。  それは彼が決して、嫌いになったわけじゃない。ただ、私がそうしなきゃいけないと思い始めたからだ。 『恋はしなきゃダメだよ。あんなチャーミングなママがいるんだから、できないはずがない』 「いや、私は母さんにはあんまり似てないので」 『そうかな? 見る人が見ればそっくりだよ。目元とか』  時々、ジュリオは私の父親のように振舞うのだ。それを両親は容認してきた。だから私は、もしかしたら彼が……実父なのかと、思うこともあった。  だけど、ある時ふと気づいた。 「いえ。母さんには、似てないですから」  そして、彼にも似ていない。  成長するごとに黒くなっていく真っ直ぐな髪、鋭い目つき、長身。小柄で柔和な顔立ちの二人とは、どう見ても似たところなんてない。 「それに恋とかは、まだ早くて。友達と仲良く音楽やってる方が、楽しい年頃なんですよ」  だからといってジュリオを遠ざけるのは心が狭いかもしれない。だけど急に実父へと永遠に近づけないような気がしてきて、ショックだったのだ。 『ああ、聞いたよ。バンドサークルに入ったんだって?』  話題を転じて、ジュリオは素早く訊いてくる。 「どこで聞いたんですか?」 『君のママとパパと、まーくんと、ミユ。みんな、ボクに会うと最初に話すことは君のことだからねぇ』  つまり、みんなで私の個人情報を流しまくっているらしい。  まったく、これだから親馬鹿とか兄馬鹿とかは嫌なんだ。隠し事なんて全然させてくれないんだから。 『ピアノ、また弾くの? さっちゃん』 「いや、私はボーカルに割り振られてます」  沈黙が流れる。この反応は、私だってわかっていた。 『さっちゃん。本気でもう一回、ピアノをやる気はない?』  ふざけた調子が消えたのを感じ取って、私は身構える。  ピアノをやめてから、彼は幾度となく私に問い続けた。それが再び投げかけられるのに、緊張しなくてはいられなかった。 「ないです」 『どうして?』 「もう、何度も言った通りです」  目を伏せて、呟く。それに、ジュリオは鋭く問いを挟んできた。 『美幸に勝てないから?』 「……はい」 『その答えは、教師として認められない』  ジュリオは、私が三歳の時からピアノを教えてくれた人だ。優しい叔父であるのと同時に、彼は厳格で容赦のない師でもあった。 『ボクは自分の娘の代わりに、君をピアニストに育てたかったわけじゃない。君の音楽センスを見込んで言ってるんだよ』  彼自身、音楽のプロフェッショナルだ。当然こだわりも癖も強かったし、泣かされたくらい辛口な指導も受けたけど、それでも尊敬している。誰かに敵わないからなんていう理由で恩を裏切りたくはなかった。 「……知ってます。でも、私は音楽でプロになる気はないんです」  私は自分に言い聞かせるようにゆっくりと呟く。  私はピアノが本当に好きで、弾くことが駄目なら作曲でも裏方でも何でもいいから関わっていたいと、今でも切望している。実際、まだファイルに拙い楽譜を何枚もかいて保存しているのだから。  ただ、その情熱は口にできない。 「遊び」と称して取り組むサークル活動は最近だんだんと楽しくなってきていて、「本気」の夢は薄れつつあるのだ。決して、そのぬるい思いが消えることがなくとも。 「すみません、先生」  彼が私を想って言ってくれていることでも、受け入れることはできなかった。きちんと話すこともないままにピアノをやめて、三年以上も逃げ回っていたのは本当に申し訳なかったと、改めて思う。 『ゴメン』 「え?」  唐突にジュリオが沈んだ声を出してきて、私は首を傾げる。 『どうしても君にピアノの道を進んでほしいっていうのは、僕のエゴなんだよ。君のママにも叱られたけど』  動揺する私に、ジュリオは独り言のように呟く。 『つい考えるんだ。君がほんとのパパの所に生まれてたら、絶対に音楽を捨てなかっただろうなって』  思わず携帯を取り落としそうになって、私は沈黙する。  もちろん私の父は育ててくれた父だけだと理解しているけど、それでも胸を引っ掻く強烈なフレーズ。 「……ジュリオ。私の、父親を知ってるの?」  つい私は幼い頃のような口調でジュリオに問いかけていた。  私の実父を知っているの。それは今の父を裏切ることになりかねないから、ずっと母にも向けることのできなかった質問だ。 『あー……』  ジュリオは言葉を詰まらせる。ぽりぽりと頭を掻くような気まずい間を作ってから、彼は諦めたように答えた。 『……うん、知ってる』 「あ、あのっ」  気が急いて、私は舌を噛みそうになりながら慌てて彼の言葉を遮る。 「い、言わないでください。知りたくないんです!」  嘘だ。聞きたくないわけじゃない。  ただ、今の家族を壊したくないのだ。私をかわいがってくれた父と、心から愛してくれた母と、かけがえのない兄に不安を持たせてまで、知りたくないだけだ。 『そうだね。君のママにも、訊かれるまで教えるなって言われてるし』  ジュリオはほっとしたように言う。その言葉に、私はたぶん彼以上に心を落ち着けた。 『でもね、さっちゃん』  教師としてではなくて、甘やかしてきた叔父としての穏やかな声に変わった。 『ママやパパのために、自分の出生を否定しなくてもいいんだよ』 「……」 『さっちゃんは、昔から遠慮ばかりしてる。もっとわがままでいい』  何だか美幸ちゃんに慰められているような気分になって、私は体が痒くなる。  ジュリオと美幸ちゃんは親子なんだと実感する瞬間だ。砂糖を掛けるように過剰なほど私を甘やかす態度も、ささやかな言葉で人の心を和らげてくれる穏やかさも、そっくりだ。 『美幸に遠慮して、ピアノを諦める必要なんてないし』  くすっと通話口の向こうで笑って、ジュリオは付け加える。 『他の誰に遠慮することなく、いい恋をいっぱいすればいい。幸い、今そっちに鬼のまーくんはいないことだし』 「……はぁ」  どうしても色恋沙汰に結び付けたいんだな、このイタリアン。 『夏はいいよ。どれも、特大の恋に思えてくる』 「ただの勘違いじゃないんですか?」 『その勘違いの中に本物があるから面白いのさ』  だから、いっぱい恋してね。さっちゃん。  よく理解もできないまま満足げに締めくくられて、私は顔をしかめる。 「……ふう」  それから適当な世間話をして、通話を切った。  時間にして十分に満たないくらいだったと思うのに、脳髄まで疲れた気分だ。 「樹里男って誰?」 「叔父さんだよ。変人で有名な……って、うわぁっ」  何気なく返事をして、目を見開く。  仰向けに寝そべったまま扉を細く開けて、入谷君がじぃっとこちらを見上げていた。 「怖いよ、君!」 「気づかない織さんが悪い」  熱中して話し込んでいたのは確かだけど、いきなりは怖い。疲労の極地に達した入谷君は、半眼で空ろだし。 「沙世ちゃん、時々は振り返ってあげなよぉ?」 「うん」  千夏ちゃんに諭されて、素直に頷く。それに、あいちゃんがちらりと一瞥を向けて付け加えた。 「そうだね、織部さんはドジなこと、あるから」  冗談かな、と思ったけど、あいちゃんが言うと深刻度が高かった。 「そーそ」 「織ちゃんらしいけどねぇ」  千夏ちゃんと浅間君が含み笑いをして、私から目を逸らす。伊沢君だけは微動だにしなかったけど、神経はこちらに向けているような気がした。  何なんだよ、みんなで。  サークル旅行も終わりがけ。一応は落ち着いたはずなのに、問題はまだ山積みのように思えてならなかった。  夕方になったら、天気は段々と回復してきた。  風も収まって、赤い夕陽が斜めに差し込んでくる頃、私はふらりと宿の外へと出る。 「ポチ、よく耐えたね。えらいぞ」  台風の中を犬小屋で耐え抜いたポチを労い、たっぷりの水と餌を補充してやる。それを見て彼女は、バウバウと喜びの声を上げて飛んできた。 「よーしよし。いっぱい食べるんだよ」  つやつやの長い毛で覆われた頭を撫でてやると、ポチは私の手を舐めて絡みついてくる。  こら、と非難の声を上げても彼女は楽しげに巻きついてきて、私も結局その場で座り込んでしまった。  私は動物を一度も飼ったことがない。私より先に死んでしまうのが悲しいからだ。 「ほら、私は餌じゃないってば」  じゃれてくるポチと一緒になって転がり、私はシャツが伸びるのも構わずに土の上で彼女と遊んでいた。乾いた空気に砂が舞う中、余計なことは何も考えないで笑っていた。  時間を忘れて、私は子供のようにポチとじゃれていた。 「あれ?」  陽の向きが変わって、長く影が伸びる。私はそれを辿って目を上げると、そこに見慣れた人物が立っていることに気づいた。 「浅間君。おかえり」  米袋とビニール袋を抱えて、彼は門の内側にいた。重そうだけど、長身の彼なら荷物はさほど大きくは見えない。 「浅間君?」  ぼんやりと立ち竦んでいる彼にもう一度声を掛けると、浅間君ははっとしたように動き出す。まるで、何か深い考えに沈んでいたようだった。 「あ、ごめん」 「お疲れだね。ゆっくり休んでてよ」 「んー、そうだけど」  彼は私の横から家の中に入り、そこに買い物の荷物をすべて下ろす。そして、くるりと私を振り返った。 「散歩でもしない?」 「え? あ、ああ。いいけど」 「ありがとね」  気安く言って、浅間君は夕陽の指す方向へと歩き出す。  どうしたんだろう、突然。  訝しげに彼の背中を眺めながら、私は何とかポチを引き剥がして立ち上がった。  道はもう乾いていた。サクサクと硬い地面を踏みしめて、先を歩いていた浅間君に追いつく。  横へ並んだと同時に、浅間君が歩くスピードを緩めた。私のペースに合わせたのを理解して、つくづく気の利く人だなと感心する。 「どこに行くの?」 「ちょいとそこまで」  そう言って、浅間君はポケットに手を突っ込みながらぶらぶらと足を進める。  坂道は曲がりくねって、島の奥へと続いていた。左右に続くさとうきびが赤い陽に照らされて、さらさら音を立てながら揺れている。  派手ではないけれど綺麗なその光景に目を細めていると、浅間君がこちらを見たのを気配で感じた。  そちらを振り返った時には、もう浅間君は前を向いていた。 「何?」 「ああ、うん。で、これ」  後ろのポケットから彼が取り出したのは、薄いビニールに包まれた数枚の絵葉書だった。穏やかで美しい沖縄の風景が、色鮮やかに写っている。 「実家にさ、たまには手紙でも送ろうかと思って。織ちゃんもどうぞ」 「へぇ。いいね」  今頬に感じる優しいそよ風は送ることはできなくとも、その中で綴る文章はいつもより落ち着いた気持ちで生まれてくるに違いない。  故郷は今どうなってるんだろう。懐かしい清流は、まだ青いままだろうか。近所のタバコ屋さんを包み込む柳は、草木に埋もれた長い長い滑り台は、そして何より大切な、私の両親は。  上京したのはまだ半年前だというのに、ずいぶんと遠い昔のような気がしてくる。その間、電話だってメールだって山ほどしたのに、会えないということはそれだけで寂しい。  きっと側に兄がいなかったら、東京でやっていくことなんてできなかっただろうなと、今更ながらに思う。 「東京っ子のマコトとか千夏ちゃんは要らないかもしれないけどさ」  だけど、それだけじゃなかった。遠く故郷から離れたここでこうしてのんびりと歩いていられるのは、もっと色々な人に支えられていたからだ。 「いいじゃない」  ふと顔を上げた浅間君と、正面から目が合う。 「君のそういうお節介なところ、私は好きだよ」  ちょうど西日が私の顔を横から照らして、私は眩しさに目を細めた。  自然に浮かべてしまった笑顔と言葉にも、気づかなかった。 「……あ」  足を止めて硬直した浅間君に、自分が言った意味を慌てて振り返る。 「ご、ごめん!」  何してるんだ、自分。今のはとんでもない失言だぞ。 「違う違う! お節介で人を猫のように構いまくるのは君の美点だってことを言いたかっただけだよ」  こんなに焦ったことが今までにあっただろうかと思うくらい、私は大慌てでまくしたてる。 「いや、今のは忘れて! 私は君を何とも思ってない……わけじゃなくて、いい友達だと思ってる。ほんと。うん。だからあいちゃんとだって上手くいってほしいし、協力も惜しまない……よ!」  何を言っているのかわからないのが我ながら情けなかった。恥ずかしいくらいに、自分の零した言葉に赤面する。 「……ぷ」  がくりと首を垂れた私の前で、浅間君が軽く吹き出すのが聞こえた。 「はははっ。あー、いや、大丈夫。わかってるって。ね?」 「うー……」  ああ、穴があったら誰か入れてください。  そんなお馬鹿なことを考えながら、私は目を逸らしつつうめく。 「それを伊沢へストレートに言えればいいのに。なんで俺に言うかね、織ちゃんは」  口調に微かに苦味が入ったのを感じ取って、私はふと浅間君を見上げる。 「でも、ありがとね」  浅間君は笑っていた。いつもの狐目で口角がきっちり上がった、見る人の気分まで明るくしてくれるような、そんな表情だ。 「頑張るよ。ちゃんと振り向かせる」 「うん」  私が頷くと、浅間君はにっと笑って私の肩を叩く。 「それでも駄目だったら、織ちゃんに慰めてもらおっかな」 「ん?」  口調は、いつも通り。楽しい笑顔も、気安い言葉もそうだった。  だけど西日に照らされて、浅間君はいつもよりも表情が大人びて見えた。 「織ちゃんが恋に破れても、俺が責任持って慰めるから。おあいこでしょ」  一瞬、妙な動悸がした。  私は沈黙して、すぐに顔をしかめる。 「そういうこと言うから、いい加減な奴だと思われるんだよ」 「んー、ほんとのことだからねぇ」 「直しなよ。あいちゃん、軽ーい男は大嫌いだよ」 「はいはい」  浅間君の隣で、ちらりとその表情を窺う。  浅間君も私も、いつも通りだ。高校の頃から一緒に歩くことは多かったし、特別何を意識したことはない。  けど、一瞬本気で考えてしまった。浅間君は男の子だったと。  そんなことは以前から知っているし、あいちゃんを好きだということを聞いた時も、強く男の子だと意識して違和感を抱いた。  それとも違う、胸をつく疑問。  ……この惹きつけられる思いは、本当に「男友達」へ向けるものなのかと。 「なーに、織ちゃん?」 「いや」  ぱちぱちと瞬きをして浅間君を見上げてから、私は不自然に周りを見渡す。  無意識に兄を求めたことに気づいたのは、すぐだった。  友達でないなら兄への思いとの違いを見出そうとしたんだろうけど、それをやろうとしても不可能だったことに苦笑する。 「道、間違えてない?」 「え? 合ってるよ。まだ真っ直ぐ」 「そっか」  前を振り向いた浅間君をまたこっそり窺って、首を傾げる。  陽の角度はもう変わっていた。浅間君も肩まで影が落ちていて、暗がりの中だとかえってゆっくり見ることができる。  それはやはりいつもの浅間君だと確認して、私も前に向き直った。  夕方、みんなで夕食を取り、簡単に後片付けをした。毎度のごとくフットワークの良い浅間君がさっさと台所に立ち、皆の皿を順番に洗っていく。 「そうだ。あいちゃん」  洗剤をスポンジで泡立てながら、彼は皿を差し伸べてきたあいちゃんに何気なく話しかける。 「何?」 「あー……」  あいちゃんの訝しげな言葉に、浅間君はくしゃくしゃとスポンジを必要以上に丸めて手を泡だらけにしながら、困ったように言葉を探す。 「ライブがさ、あって」  唐突に言い出したことにあいちゃんは不思議そうな顔をして、浅間君は緊張した面持ちで頷く。 「ニュイ・エタルナのライブが、明日の午後からあるんだよ。ま、あいちゃんはあんまり興味ないだろうけど、イリヤの歌はなかなか良くて」  私は廊下の柱に寄りかかって、たぶん浅間君と同じくらいにどきどきしながら息を潜めていた。自分で言うのもなんだけど、どこぞのおばちゃん並みの見事な覗きっぷりだ。  洗面台からはまだ水が流れている。スポンジは十分に泡立ったというのに、食器はまだ洗いおけの中でぷかぷか浮いているだけだ。 「で、チケットが取れたんだ。偶然だけど、千夏ちゃんとか織ちゃんも行くみたいなんだよね」  頑張れ、浅間君。今のところあいちゃんはまだ、拒絶モードには入ってないぞ。 「それで?」 「それで……」  そっけないあいちゃんの言葉に一度目を逸らしてから、浅間君はちょっと睨むように彼女を見た。 「俺と一緒に、行ってくれませんか」  グッジョブ、浅間君。  私は物陰でぐっと拳を握り締めて、彼の勇気を心の中で褒め称えた。 「一緒に?」 「そう」  あいちゃんが眉をひそめたのにも怯まず、浅間君は真剣な表情のままで続ける。 「デートの誘いと受け取ってください」  散歩のついでに、私は浅間君にレクチャーした。自分が恋愛の知識なんて教えられる人間ではないのは重々承知だけど、あいちゃんというお人柄については私の方が理解しているつもりだ。  あいちゃんは見事な姉気質だ。人に何かを頼むのは慣れてないけど、頼まれると嫌とは言いにくいらしい。私がどんなわがまま言っても大抵は何とかしてくれた兄と同様、下手に出られると弱いタイプだ。 「……別にいいけど」  思った通り、あいちゃんは頷いた。 「え、ほんと?」 「織部さんとかも行くわけだし」  浅間君は満面の笑顔を浮かべて、持っていたスポンジを水の中へ放り投げた。 「ありがとあいちゃん!」 「わ」  彼女の首に腕を巻きつけて喜ぶ浅間君に、あいちゃんは一瞬で眉を寄せる。 「さっさと離れて!」  腹立たしげに飛んだ怒声にも、浅間君は目を細めただけだった。  強くなったね、浅間君。それに君って、こんなに純情だったとは知らなかったよ。素晴らしい青春だね。  しみじみと感慨にふけっていると、後ろから軽く肩を叩かれる。 「おーりーさん?」 「わぁっ!」  あいちゃんにばれないように小声で悲鳴を挙げて、私は至近距離に迫っていた貧弱少年に振り返る。 「なぜ僕が苦労して取ったチケットが、浅間君の青春アイテムに使われてるわけ?」 「そ、それは」  さらさらの黒い前髪が揺れて、黒い瞳が私を睨むように見ている。 「友情なんて所詮こんなもんだよね。薄情者―」 「い、いや、だから。ここは一つ穏便に」 「……織さん」  唐突に、入谷君が後ろへ引っ張られる。 「おつかれさん。後は引き受けるで、荷造りしとき」 「あ、伊沢君。うん、わかった」  どきどきしながら、私は彼にお皿を渡す。指先が触れ合うのを期待しつつも、そんなことあったら死にそうだと思い直した。 「……伊沢君。髪、引っ張ってる」  入谷君が睨みを利かせながら長身の伊沢君を見上げる。確かに、見事に入谷君の真っ黒な髪が掴まれてしまっていた。 「ああ、悪ぃ。肩かと思ったんや」  微妙に笑いを含んだ声に、私は苦笑して、入谷君は更に機嫌を悪くした。どうも伊沢君に悪意があるとでも思ったらしい。 「頭のてっぺんだろ。どうして肩と間違えるんだよ」  ああもう、この子面倒見きれない。  そう思いそうになりながら、私はぐっとこらえる。 「入谷君。また同じ失敗したいわけ?」  その言葉には、一応の効果はあったようだ。 「うう……」  入谷君はぐっと黙って小さく震えた後、にらむように私を見据えてこらえた。 「ちょっと来て」 「え?」  入谷君は客室に入っていって、そこで自分のバッグを開く。  そこからアルバムのように分厚いファイルを取り出してきて、彼は埃だらけのそれを手で払う。 「何か僕からお詫びができないか考えたんだけど」  両手でも持ちきれないそのファイルは、一度紐でぐるぐる巻きに縛られた跡があった。まるで、封印されてでもいたようだった。 「これ、父が母と結婚した時に、捨ててくれって言って渡したもの」 「おっと……」  困惑の声を上げる私に、入谷君は苦笑してみせる。  彼はファイルに手を入れて慎重に開く。さすが厳重に保存していただけあって紙は白いままで、描かれたそれも鮮明に残っている。 「……譜面?」 「そう。僕の父さん、ピアニストなんだ」  渡されたファイルはずっしりと重く、中にどれだけ大量の楽譜があるのかと私は呆然とした。  とりあえず床に座り込んで譜面を眺める。それはさすがピアニストと驚くような複雑な曲も、子供が作るような拙いものも混じっていた。たぶん何年も経て書き続けたものなのだろう。 「このファイル、あげる。完全な親の七光りアイテムだけど」 「え」 「父は捨てろって母に言ったのに、今度は母が僕に捨てろって言うんだ。でももったいないし、誰かに活用してもらえるのが一番いいんだよ、たぶん」  入谷君は私の前で同じように座り込んで楽譜を見ていた。電気をつけなくても明るい部屋の中で、どこか楽しげに楽譜を捲る。 「これは身内自慢だけど、父はそれなりに有名なピアニストだよ。使い道は大いにあると思う」 「いや、だけど。君だって歌手なんだし」  エタルの曲にでも利用すればいいじゃないかと続けようとした私に、入谷君は先読みしたように頷いた。 「父はこの中から一曲だけ選んで、母の歌のために作曲した。それが大ヒットして、母は成功したんだ。だけどそれ以前の物はこうして封印して母へ渡すことで、自分の見えない場所へ追いやりたかったらしい」 「何で?」  大成功のきっかけとなった幸運のファイルなのに、どうして捨てる必要があるんだろう。 「まあ、たぶん」  目に疑問を浮かべた私に、入谷君は苦笑して言った。 「父さん、恋にでも破れたんじゃない? その中の曲、バラード系が多いし」 「はぁ」  どう返答するか困ると、彼は目を伏せて続ける。 「ここだけの話、父には他に好きな人がいたらしい」  さらに答えに迷うことを言い出す入谷君に、私は息を詰める。 「けど、当時売り出し中だった母の人気にかこつけて、成功する必要があったんだろうね。息子が言うのも何だけど、父さんって見栄えだけはいいんだよ」  かなり人目の憚られることをさらりと言う入谷君の考えを量りかねて、私は何度か言葉を挟みかけた。 「ごめん。悪いんだけど聞いて、織さん」 「……いいよ」  だけど入谷君が寂しげな表情をしたから、私は最後まで聞こうと思い直す。悲しいかな、私は情にはそこそこ脆い。そこそこ、だけど。 「でもやっぱり上手くいかなくてすぐ離婚したんだ。正直なところ、小さい頃は父が大嫌いでさ。父さんに、ビジネスの関係なら母さんと結婚なんてしなきゃよかったのにって怒ったけど、何にも弁解しなくて。余計イライラして」 「……」 「結局、自分が生まれたのが悪いのかって、最後はそれに落ち着いてさ」  私も考えたことがないかと言えば、それは嘘だ。 ――おかあさん、さよのことすき?  なぜか何度も問いかけた時期があった。実父のことなどまだ知らない頃のはずなのに、湧き上がるように不安がこみ上げてきた。  私がいなければ、母はどれだけ楽な身だったことだろう。父と結婚するのも親戚中に反対されなくて済んだ。 「でもさ、蓮の母さんと再婚する時、父さんに言われたんだよ。『私の一番大事なものは、お前と琉花だ』って。『だからお前の母さんと結婚したのだって、間違いだったなんて思ってない』と言ってくれた」 ――お母さんの一番大事なものはね、さっちゃんと、お兄ちゃんよ。  優しい人だと思った。私の母も、入谷君の父も。 「嬉しかった?」 「……うん」  手書きで描かれた黒い五線譜を指で辿りながら、私は小さく微笑んだ。 「思えば、僕っていう子供で結ばれてた人たちだったんだよね。やたら甘やかしてさ、欲しいものは何でも買ってくれたりして」 「だから君はそんなに子供っぽいんだね。大人扱いされないから」 「容赦のないお言葉、どうも」  ため息をついて、入谷君は軽く瞬きをしてから続けた。 「その代わりというか、琉花はいつも僕を叱る役目だったんだ。小さい頃は時々、今はほとんど毎日で嫌になるけど。でもそれって、両親がするべき役目を意識的に背負ってたのかなと思う」  私は苦い表情を浮かべる。  兄とルカさんは、似ているかもしれない。両親は私を甘やかしてくれたけど、時に憎まれ役に徹する兄がいたからこそ、今の自分がいるのだと思っている。  愛してくれる人は大切だ。けど、突き放したり叱ったりする人の方がむしろ深い思いを抱いていることだって、あるに違いないんだろう。 「最近、織さんと拓兄さんを見ていて思ったんだけど」  入谷君は譜面をめくる手を止めて、床に腹ばいになった。 「僕は今でも、琉花に大事にされてるのかもしれない」  ふっと私は口元に笑みを浮かべて、同じように腹ばいになった。 「今頃気づいたの?」 「うるさいな」  むすっとしながら言う入谷君は、やはり幼かった。ルカさんの思いを汲もうとしながらも、まだ受け入れることに拗ねているように。  にやにやと笑う私に、入谷君は鼻を鳴らして不機嫌に言う。 「で、僕は織さんに頼みごとをしようとしてるんだよ」 「え?」 「これ使って、何か曲作って」  頬杖をついた私にずいと譜面の束を押し付ける。  文脈がさっぱり掴めない。君、もっとわかりやすく話してくれよ。 「だからさ、曲作って。琉花だけが歌うやつ」 「君がやりなよ」  何で私がやる必要があるんだ。要するに、エタルの曲を作りたいんだろう。 「織さん作曲好きだろ?」 「うん、まあ……って」  頷きかけて、私は訝しげに目を上げる。 「素人にやらせないでよ。エタルの作曲はレンさんという話だし、お兄さんに頼みなさい」 「レンと琉花には秘密にしたいし、駄目」 「なら君が」 「……だからさ」  言いにくそうに、入谷君は迷いながらも口を開く。 「父さんが成功のきっかけを掴んだ譜面だし、織さんにも何かのご利益があるんじゃないかと」  入谷君はふと真剣な表情になる。 「父さんが言ってた。夢を追うのは、終わりのない線路の上で列車に揺られているようなものだって。降りた時に初めて、それにどれほど夢中になっていたかに気づく」  譜面を指先で叩きながら、彼は目を伏せる。 「また同じ線路を辿ることはできる。だけど、同じ列車には二度と乗れない。不安でも、怖くて仕方なくても、絶対にしがみついていなければならない時はあるんだってさ」 「……それが今だと? だけど、私は」  音楽を専門に学んだわけじゃないし、これからもそのつもりはない。ただ音楽に触れていたくて、側で感じていたいだけ。 「とりあえず行けるところまで行こうっていう気持ちだけで、僕はいいと思うんだ。そのための指標だと思って、一曲作ってみない?」 「君は……」  わからなかった。なぜ入谷君が貴重な父親の宝と思いを示して、私を淡い夢へ導こうとしているのか。 「理由というほどのものは、ないけど」  それは言葉にしなくても、入谷君に伝わったらしい。彼は笑って私を真正面から見た。 「たぶん作れると思うんだ。すごくいい曲」  目を見張る私に、彼は頷く。 「僕がピアノで負けたと思ったのは、父と織さんだけなんだからさ」  私はその言葉に違和感を覚えた。 「わからない?」  入谷君が目を細めた素振りは、どこか懐かしむような感情が垣間見えた。 「三年……四年前、かな。中学生の頃」  私が唯一ピアノコンクールに出た時のことを、記憶に呼び覚ます。  それは入谷君の絶対的なピアノを見せつけられて、私がピアノを諦めた瞬間でもある。 「でも、あの時は君が優勝したじゃないか。私なんて」 「特別賞をもらってた」  たいしたことはないと続けようとした私に、入谷君は苦笑して遮る。 「知らないだろうけどね。あのコンクールは、特別賞の方がずっと大きな意味があったんだよ」  彼は目を伏せて黙りこくった。それは少し悔しそうで、でも楽しそうでもあった。まるで私が美幸ちゃんのピアノを羨んで、ひたすらそれに負けていた自分の悲しさと、それでも途切れない憧れを抱いていたように。 「僕は期待してるよ。織さんの作曲」  そう言って、入谷君は微笑んだ。  旅行の最終日は文化財などの建物をざっくりと回り、水族館でイルカを見るというシンプルな観光をし終わった。  観光客でにぎわうビーチのパラソルの下、皆でアイスを食べながらまったりと時間を潰す。 「考えてみれば、まともに観光したの初めてじゃない?」 「あ、そーかも」  千夏ちゃんはショッピングばかりだし、あいちゃんや伊沢君は基本的に勉強で、浅間君は宿の手伝いをしていた。 「織ちゃんが一番楽しんでたような気がするなぁ」 「そう?」  私はというと、入谷君と散歩したりトランプしたりポチの餌を買いに行ったりと、何だか普段でもできるようなことばかりしていた。つまり余りもの二人組で行動することが、すっかり日常になっていたのだった。  私は腕時計を確認した。ライブまで、あと二時間だ。 「だから最後くらい、皆で騒ぎたいなと」 「いーじゃん。あたしも一人でライブより、皆の方が楽しいしー」  千夏ちゃんがけらけらと笑って、あいちゃんも少しだけ表情を崩す。  数日間一緒に過ごしたけれど、全員揃うことは滅多になかった。  立ち見だから、席の番号は指定されていない。皆で適当な場所に集合して、最終日の思い出にする。  もちろん一番忙しかった入谷君も同じ場所で同じ空気を体験できる。あの内気少年が最も輝く時というのを間近で確認できることに、私は密かに楽しみを抱いていた。  レンさんから電話が来たのはそんな時だった。 「え、入谷君が?」 『はい。そちらにいませんか?』  本島の野外ステージの会場前で、私はサークル仲間たちから少し離れながら首を傾げる。 「今日は朝から練習だと聞いてますけど」 『ええ。でも一時間ほど前から姿が見えないので』  私はあからさまなエタルファンが続々と集まってきているのを見ながら、彼女らに聞かれないように声を潜める。 「一度も会ってませんよ。それに、半日観光してから向かうと言ってありますし。私たちの場所なんて知らないはずです」 『そうですよね……あ、こら琉花。タバコは止めなさい』 『うるさい。あんた、あたしの母親にでもなったつもり?』  不満げなルカさんの声が向こうで聞こえて、レンさんは受話器から少し離れながら言う。 『あなたの母親以上にあなたのことは知っているつもりです。証明しましょうか?』 『……わかった。ガム噛めばいいんでしょ』  ためらいなくセクシーボイスで言うといやらしく聞こえないから、たいしたものだ。  逃げるようにルカさんの声が去っていくと、レンさんはようやく通話口へと戻ってくる。 『失礼しました。まあ、マコがいないならそれで結構です』 「え、探さなくていいんですか?」 『はい』  時間としてはもう会場入りしていないといけないはずなのに、レンさんの声は落ち着いていた。 『マコはいつもギリギリにならないと来ません。直前は一人になりたいらしいんですよ』 「はぁ」 『仕事はきっちりやる子なので、必ず戻ると信じてます』  そう言って、レンさんは通話を切った。 「織ちゃん、どうかした?」 「私たちに出る幕はなさそう。あ、列入れて」  行列から訝しげに話題を窺っていた皆は、私の言葉にとりあえず一安心という顔をする。私もレンさんが言うのならと、携帯を仕舞って長い行列に戻ってくる。 「二時間前からこれだけ並ぶっていうの、すごいよね」 「まーね。だってさ、野外の指定なしだから、いい場所取れないと目視じゃ確認できないくらい小さくしか見えないもん」  今日はまだましな方だよと物知り千夏ちゃんに聞いて、私たちはパンフレットで顔に風を送りながら開演を待つ。  ジリジリと足元から伝わってくる熱は、さすが南の島だ。だけど東京のコンクリート熱と違ってじっとりとしたものではなく、帽子を被って長袖を着ていればそれほど辛くない。 ――直前は、一人になりたいらしいんですよ。  レンさんの言葉を思い出して、私は空を仰ぐ。  飛行機雲が、鮮やかな白色を青い空に塗りたくっていた。天候は完璧で、観客のざわめきも満ち足りた見事なライブ日和だ。まあ私がこんなにぎやかな場所へ出てくるのは久しぶりなのだけど。  眩いほどの明るい光に、私はふと中学三年生の時のピアノコンクールを思い出す。スポットライトというのを間近に感じた、一番大きな経験だった。 ――お母さん、お父さん、お兄ちゃん。みんな、頑張るからね。  たくさんの人たちに囲まれて発表するというのは、私にとって稀有な体験だった。どきどきした悪くない楽しみに満ち溢れて、私は自分の出番を待っていた。  その時の胸の高鳴りと……底知れない不安を思い出した時、私は思わず顔を伏せていた。 「織さん?」  入谷君は、もう何百回とライブを経験してきた人で、テレビにも出演している。私のような素人とは、考え方もまるで違うはずだ。  だけど、時に私に近いものもある。私は猛烈に嫌な予感がしてきた。 「……ごめん、荷物預かってて。ちょっと抜ける」 「え、沙世ちゃん!」  今から列を外れたら、皆と一緒にライブが見られない。会場に入ることさえ、危うくなるかもしれない。  それでも私は迷うことなく踵を返していた。 「もしかしたら」  できるなら、この不安が的中しないことを祈りたい。  私は焦燥感を胸に、入谷君がいるであろう場所へ向かって走り出していた。  辿り着いたのはライブ会場から十分ほど離れた浜辺だった。ビーチというには人っ子一人いなくて、だからこそ私はすぐに目当ての人をみつける。  私が後ろに立つと、入谷君は少しだけ顔を上げて目を見せた。息をひそめて、まだ地味な姿のままで私を窺う。  どうして来たんだよという非難と、少しだけの安心を浮かべた顔だった。  波が打ち付ける音が響く。 「入谷君、さ」  私は彼の横に座って、軽く背中に手を添えて言う。 「ライブ、緊張してる?」  その肩が震えているのがわかった。入谷君は黙りこくって、苦々しげに目を伏せる。 「……あがり症なんだ」 「そっか」  入谷君は膝をかかえて体を小さくする。 「何で慣れないかな。もう人前で歌うことくらい散々経験したのに、震えが止まらなくなる」  それはきっと、レンさんやルカさんも知らないことなのだろう。  可哀想なくらい弟が青ざめて震えているのを知っていたら、たぶん一人にはさせたがらないはずだ。 「レンさんだけにでも言えばいいのに。一人でいると、余計緊張するよ」 「嫌だ。僕だけ子供みたいじゃないか」 「そうじゃないよ」  私は苦笑して、顔を伏せたままの入谷君に話しかける。 「電話ごしだからよくわからなかったけど、ルカさんだってタバコがどうのこうのって言ってたし、レンさんの声もテンポが速かった。いくらプロだって、緊張しないはずがない」  目だけを見せて、入谷君は横に座りこんだ私を見やる。 「どうして来たんだよ。僕だって、見られたくないから隠れたに決まってるだろ」  非難を帯びた眼差しに、私は軽く頷いて立ち上がる。  ま、そうだよね。これくらいにしとこう。 「じゃ、先に会場行ってるから。頑張って来なよ」  そう言って足を踏み出すと、後ろに引っ張られて私は前のめりに倒れそうになる。 「うわ!」  慌てて体勢を立て直すと、私のジーンズを片手で掴んだ入谷君とばっちり目が合った。 「せっかく来た人を追い返すほど、心は狭くない」  むすっとしながらの言葉に、私は首を垂れて再び腰を下ろす。 「わかったよ」  素直じゃない奴め。心細いならそう言えばいいのに。  私は入谷君の隣に座り込んで、仕方なしにバッグから適当な箱を取り出す。 「はい、チョコクッキー。お腹に何かいれた方がいいよ」  今から飲食店に行く余裕はないし、栄養云々はこの際考えなくていいだろう。 「……うん」 「こっち、お茶ね」  ペットボトルのお茶も渡す。入谷君は素直に頷いて、右手にチョコ、左手にペットボトルを持った。  クッキーをかじる音が静まり返った空間に響く。  自分が不思議だった。甘えてくる千夏ちゃんのような子を好むことはあっても決してお節介ではなかった私が、どうしてこんな場所まで駆けつけて好きでもない男の子に要らぬ世話を焼いているのか。  それはちっとも理解できない自分の精神構造だけど、不思議と悪くはないと思った。  ふと苦笑して入谷君を振り返る。 「……入谷君」  ぼろぼろと零れ落ちているのはクッキーの欠片ではなくて、涙だった。 「どうしたの?」  透明な雫は膝を抱え込んだ彼の指に落ち、手を伝って小指から砂浜へと染み込んでいく。その動きを目で追いながら私は呟いた。 「君、本当に涙もろいね」  だからといってそれを無視して通り過ぎることはできない自分にも気づいていた。  私は鞄からハンカチを取り出そうとして、無いことに気づく。チケットを探すために中身を出した時に、どうやらトランクの方へと移してしまったらしい。  入谷君を見たけれど、彼はまだぽろぽろ泣いていた。  綺麗だ。だけど、悲しい。  そう思ったら、無意識に手を伸ばしていた。 「ほら、泣き止みなよ。もう私の前で泣くの、二度目じゃん」  長い袖口を指に引っ掛けて、入谷君の目元を拭う。されるままになっている彼に顔をしかめて、私はもう片方の頬へと袖を伸ばす。 「……二回目じゃない。三回目」  そう言って私の手首を掴み、入谷君は私へ振り向く。 「最初は、中学のコンクールの時だから」  靄のような残像が目の前を過る。 「覚えてない? 舞台裏で泣いてた奴」  私は彼の言葉に驚きを抱きながらも、記憶の欠片が蘇るのを感じた。 ――どうしたの、君?  薄闇の中にあった控え室の洗面所。そこでうずくまってって、ぽろぽろ泣いてた男の子がいた。 「……ああ」  映画のフィルムのように、一瞬だけ確かに輝いて目の前を通り過ぎる。 「あれ、入谷君か」  苦笑して、私は目を閉じる。 ――何だよ。子供はあっち行ってろよ!  確かそう怒鳴られたのが始まりだった。当時まだクラスで一番のチビでとても中学生に見えなかった私に、その男の子は観客とでも誤解したのだろう。 「あっち行けって言っといて、君、私を引きとめたよね」  遠い記憶に首を傾けて彼を見ると、入谷君は気まずそうに目を逸らす。 「私が『緊張してるの』って訊いたら、違うって答えるし。でも『どうしたら気持ちが落ち着くか教えてあげようか』って言ったら、黙ったよね」 ――まずね、何か食べるといいって、お兄ちゃんが言ってた。  ポケットに入れていたキャラメルを差し出すと、彼はつまらなそうにそっぽを向きながらも、一応受け取った。今思えば、随分と高慢な中学生だった。 「もう一つは、ええと……」 「全部忘れろって言った」  私が思い出す前に、入谷君が呟く。  目を細めて、懐かしむように彼は苦笑した。 「『余計なこと考えてるから、緊張が解けない。観客のことも曲のことも、全部忘れちゃえばいい』とか。それで、次に……」  波の音が静かな音楽を奏でる中で、入谷君は私を振り返る。 「『たった一人、その音楽を届けたい人のことだけ考えていれば、私は平気だよ』って。織さんは言ってた」 ――私にとってそれはね、すごく綺麗で、すごく優しい、憧れの人なんだよ。 「そうだったね」  無邪気に笑った自分のことを思い返して、私は頷く。 ――さっちゃん。今回は見送ろうか。  練習に熱中しすぎて、私はコンクール直前に手首を故障してしまった。課題曲の幻想即興曲も、自由曲のテンポの速い曲も満足に弾けなくなって、私はジュリオに出場を止められた。 ――また次があるから。諦めよう。  ずっと練習してきたのに。そう食いついて、でもジュリオは教師として許してはくれなくて、私は泣いた。  ジュリオにも応援してくれた両親にも、もちろん電話ごしに相談に乗ってくれた兄にも応えることができないのだと思うと、もうどうしようもなかった。ピアノしか取り柄のなかった私にとって、ようやく巡ってきたチャンスを無為にすることは、何より辛いことだったから。 ――さっちゃん。じゃあ、この曲にしてみよう?  そんな時に美幸ちゃんが私に勧めてきたのは、元々予定していた曲に比べて随分と易しい曲だった。テンポもゆっくりで、小学生の頃に既に弾いていた、明らかにコンクールにはふさわしくないものだった。 ――これは確かに、コンクールには不向きね。でもさっちゃんに一番合った曲だと思うの。  好きなピアノ曲ではあった。何度も弾いていて、練習の期間が少なくても本番に臨める仕上がりでもあった。 ――だけど、賞は取れない。  それは確信で、私は酷く沈んだ気持ちで当日を迎えた。華やかな曲を次々と披露する人たちを眺めながら、高まっていく緊張に耐えていた。  だけどある一瞬、その体を縛り付ける重みからすっと解放された。 「捨て身だったんだよ。私、今回は誰のことも考えなくていい。応援してくれる人はたくさんいたけど……それすら、忘れればいいんだって」 ――美幸ちゃんにだけ届けばいい。  それだけでいいじゃないかと、素直に思うことができた。  俯いた私に、入谷君は小さく頷く。 「舞台に戻って驚いた。小学生だと思ってた女の子が、自分の前に弾いてたから」 「失礼だな。同い年だよ」 「すごかったよ。空間がそこだけ、切り離されてるみたいだった」  実際、私自身はその最中のことをほとんど覚えていない。  ただ終わった後にスポットライトの中で礼をした。そして顔を上げて仰ぎ見た客席で……車椅子の美幸ちゃんが満足げに笑っていたことだけ、心に残っている。 「入谷君のピアノには負けたけどね。天才っていうのはこういう人のことを言うのかって」  だからなんだろう。ほんの数分前には頼りなげに震えていた、舞台裏の少年と一致しなかった。  今この場で教えられて初めて、同一人物だったと気づく。それくらいに、舞台の上の入谷君は圧倒的な才能を見せつけていた。 「僕は織さんに負けたと思った」 「何で? 優勝したのは君だよ」  私は練習の甲斐あって特別賞をもらえた。それでも優勝者の入谷君とは、天と地の差があったはずだ。 「織さんが誰かのことだけ考えたのを見習って、僕もその時たった一人のことしか考えてなかったんだ」  訝しげに言った私に、入谷君は満足そうに笑った。 「……コンクールの主催者だった、父のこと」  私ははっと息を呑む。 「僕との関係は伏せてたし、本審査には関わってない。だけど特別賞だけは父一人の裁量で与えられるものだったんだ」 「君は……」  ためらいがちに切り出した私に、入谷君は微笑みを崩さないまま頷く。 「父は音楽に関しては私情もなく、公平な人だ。だから父に賞をもらえるのが、僕にとっては一番価値あることで……それが得られなかった僕は、やっぱり負けたと思った」  首を横に振って、入谷君は私を見る。 「でも全力を尽くしたっていう満足は残ったよ。賞はなくても父はよくやったと褒めてくれたし、それからは歌の方に専念できたしね。あのコンクールは、いろんな意味でターニングポイントだったと思う」  私は黙ってその視線を受け止めた。入谷君にしては随分と素直な、私にとっても嬉しい賛辞を噛み締めた。  だけど腑に落ちないことはある。 「サークルで初めて会った時、君はコンクールにはさして執着なんてないって感じだったじゃないか」  入谷君のピアノはすごかったとはしゃいでいた私と違って、入谷君は淡々とした態度だった。そんな高い評価をしていたなんてちらりとも見せなかった。 「私のことだって、まさか覚えてるとは思わなかったよ」  ガチガチに緊張していた少年も、ピアノの天才も、私は覚えていたのに。ちょっと悔しいような気がする。 「そこが織さんの悪いところでさ」  苦味を帯びた口調で、入谷君は切り出す。 「初めてって織さんは言うけど。本当の初めてはいつだったか、全然覚えてないだろ」 「え?」 「寮に入ったのは四月だよ。僕も、織さんも。きちんと自己紹介したことはなくても、顔くらいは何回か合わせたことがある」  そうだったかなと考えながらも、全く記憶に糸口が掴めない。 「言ってくれれば思い出したよ」 「舞台裏で泣いてた奴です、とか? まあコンクールの優勝者です、なんて言うよりは嫌味がないかもしれないけど」  確かに言いづらい自己紹介ではある。納得しながらも、私は困り顔で頷く。 「幸いなことに、優勝者だったことは覚えていてくれたみたいだけど。それがなかったら、織さんとは全く縁がなかったよね」 「はは。泣き虫君ってわかった方が、親しみは湧いただろうけどね」 「あのね」  思えば妙な縁だったかもしれない。  同じ寮、同じ大学、同じ音楽への執着。それらと無数の偶然が重なったから、きっと今がある。なぜか菓子を片手に愚痴りあうような、そんな変な仲に。  ……でも、悪くない。そう思ってしまう私は、嫌いじゃなかった。 「さ、落ち着いたなら急げ。ライブまであと一時間」  メイクとか衣装とか色々あるのだ。まったりしている時間なんかない。  立ち上がって焦りだした私に、入谷君も立ち上がって頷く。 「ね、織さん。僕って変わったかな?」 「へ?」 「変わったから、わからなかったんだと思う?」  不思議な問いかけに、私は首を傾けながら答える。 「いや、特には」 「あっそう」 「……でも」  ふと見上げて、私は入谷君の前髪に軽く触れてみる。 「心なしか背は伸びたよね。入谷君」  確かサークル部屋で出くわした時は、同じだった気がするのだけど。 「さ、無駄話は終わり」  どうでもいいやり取りをして、私は踵を返す。  軽く後ろから肩を掴まれた。その拍子に、するりと肩掛け鞄が砂の上へと落ちる。 「ん? ちょっと、何」 「今日はさ」  私の鞄を拾い上げて差し出しながら、入谷君は笑う。 「織さんのために、頑張るから」  それを笑うことができず、ただ嬉しいと思ってしまった自分が不思議だった。 「千夏ちゃんと浅間君のことも考えなよ」 「いいんだよ。僕のこと放っておかないのは織さんくらいだし」 「……」 「だから織さんも、ちゃんと見ててよ」  身勝手だな。私の都合も考えてくれよ。 「仕方ないな」  だけど私の口から零れたのはその一言で、返したのは照れくさそうな、笑顔でしかなかった。  ライブでは、結局サークル仲間たちと合流することができなかった。  だから仕方なく、ほとんど最後列で見物することになったのだけど、案の定というかステージはまるで見えなかった。  人混みの中で高い位置に掲げられた巨大なスクリーンを、たった一人で見上げる。開演の瞬間を、静かに佇みながら待ち続ける。  歓声と共に、スポットライトが眩いばかりにきらめいた。  レン、ルカ、ミサキが順番に映って……最後にイリヤにすべての照明が当てられる。  私には慣れない姿、表情、空気。関わり合いになんてならないとわかっていた遠い人であるのは、少しも変わらない。  それから目を逸らして、私はふと微笑む。  ああ、そうだ。少しも変わらない。  私も入谷君も、他の誰だって、見間違えたりはしない。  皆、私の大好きな人たちだ。そしてそのすべての上に、絶対者として兄が君臨していることだって、何も変わらないのだ。  ……でもそれはまだ、私が揺られているだけなのだろう。曖昧な掴み所のない、感情の中に。  「Lu-Na」のイントロが始まる。画面にたくさんの人々が手を挙げて、その歌が始まるのを待つ。最初の一声が、画面の中央で上がるのを。  ふと再び画面を凝視する。この曲のメインテーマは確か、終わりを待ち望むということだった。すべて壊し尽くした後に生まれる、何かに出会うために。  私も待っている。  この言葉にならない感情が何なのか、そしてどこに終わりがあるのか。  絶対だったものが、崩れる時は来るのか。私はそれを望んでいるのか、恐れているのか。自分では、身動きすることもできずに。  ぎらりと太陽の光が顔に当たって、視界を遮った。同時に歌が始まる。  その瞬間に、私はすべてのことを考えるのをやめた。友達も、好きな人も、家族も、何より大切な人たちのことも。  閉じた瞼の奥深くを感じる。  ……その次に誰の顔が浮かぶのかを、私はじっと待ち続けていた。
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