7 灰色の再会

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7 灰色の再会

 美幸ちゃんの病室にお見舞いにいくのは、既に私の日課になっている。  が、最近は少し気が重い。 「さっちゃーん。今日もほんとにキュートだねぇ」  病室に足を踏み入れるのと同時に横から抱きついてくる、この人がいるからだ。  くしゃっとした猫毛の赤茶色の髪に明るい茶色の瞳、いつも口元に笑みを絶やさずエセ日本語を操る我が叔父上だ。  いい年したおじさんがハグをしてくるのだ。純日本人の私にとっては、毎度顔をしかめずにはいられない。 「……ジュリオ。痛いです」 「ボクの愛が?」 「そういうことを言うこと自体が」 「はははは」  陽気に笑い飛ばして、体を離す。さりげなく頬にキスしていったのは、この際見逃してやることにしよう。  息をついて、私は私より少し背の高い彼を見上げる。 「いつまでいる気なんですか?」 「文化祭が終わるまでは。ほら、仕事もあるしねぇ」  よしよしと頭をなでる手を振り払いつつ、私は訝しげに問う。それにジュリオは白い歯を見せて笑った。 「そ。ボク、さっちゃんの大学の文化祭で歌うことになったから」 「……え」  初耳だった。私が眉を寄せて沈黙すると、睨むようにして彼を見上げる。 「ジュリオ、歌えるんですか?」 「やだねぇ。当たり前でしょ」  そうしたら美幸ちゃんがベッドの上から教えてくれる。 「パパはね、イタリアの地元では歌手なの。オペラが専門なのよ」 「そーだよ。ニホンじゃあんまり歌わないけどねー」 「……初めて知った」  トランペットとかバイオリンとか、はたまたアコーディオンとか無節操にいろんな楽器を操っていたから、てっきり演奏者だと思っていた。 「クロージングイベントで何曲かやるんだけど、面白くなりそうだよ」  彼は私の専属ピアノ教師だった。そんな呑気なことをしている暇がよくあったものだ。 「ま、ボクもすごいけど。今回は共演者がゴージャスでね」 「え、誰?」 「んー」  ジュリオは首を傾げて、へらっと笑う。 「知らない。そういう噂を聞いただけー。明日顔合わせだから」 「いい加減な……って、ちょっと」  私は壁にさがるカレンダーを指差して、ジュリオを睨むように見る。 「クロージングって、もう三日後じゃない。そんなのんびりしてる場合じゃ」 「いーのいーの。曲目はもうオーケーだから」 「いや、だから。練習とか調整とか衣装とか色々……」  腕時計を覗き込みながら慌てて言葉を挟みかけて、私は口をつぐむ。  考えてみれば、ここのところ時計を見てばかりだ。規則正しく時を刻む音がやたら私を急かしていたような気がする。 「ああ、そういえば」  ふとジュリオは目元を和らげて訊いてくる。 「さっちゃんのバンド発表も、最終日なんだって?」 「……うん」  いつだって甘えの対象であった美幸ちゃんに頻繁に会いに来てたのも……ジュリオの底なしの明るさに慰められたかったのも、考えてみれば焦っていたからだ。  半年間、練習してきた。ほんの数曲しか発表しない。でも自分だけの演奏じゃなくて皆のものだから、プレッシャーはかつてなく大きい。  私にできるんだろうか。そんな、不安で仕方のない思いに捕らわれた。 「ね、さっちゃん」  ジュリオは私の両肩に手を置いて、少し身を屈めながら顔を覗きこんでくる。 「音楽は好き?」 「うん」  鼻が触れ合うような至近距離で、ジュリオは顔全体で笑ってみせる。 「なら大丈夫。さっちゃんだからね」 ――大丈夫。さっちゃんならできるよ。  懐かしい中学の時のピアノコンクールと同じ言葉を掛けられて、私はくしゃりと顔を歪める。 「ボクも応援してるし……」  ジュリオはぽんぽんと私の頭を叩きながら、美幸ちゃんを振り返る。 「ミユも行くからね」 「え、美幸ちゃんが?」  私が驚いて声を上げると、彼女は父親似の淡い色彩の髪を揺らして頷く。 「さっちゃんの演奏が見たいなって言ったの。そしたらまーくんが連れてってくれるって」 「兄ちゃんが……」  身内、特に美幸ちゃんに対してはやたら親切な兄を思い出して、私は温かな気持ちになる。美幸ちゃんは私の頬が緩んだのを見て、柔らかく微笑んだ。 「明日から三日間。お祭り、楽しみね」  その言葉を聞いて、私は詰めていた息をやっと吐くことができた。 「お祭りか」  そうだ。祭りは、楽しむためにあるもの。  当たり前のことを思い出して私は笑った。ジュリオも満足げに頷く。 「さっちゃんはママに似てよかったねぇ」 「へ?」  不信感まるだしの声を出す私を、ジュリオはぎゅっと抱きしめて笑う。 「チャーミングで、キュート。将来はボクと結婚するって約束したもんねー」  美幸ちゃんの手前殴り飛ばすこともできないため、私は硬直したままその場に立ち竦む。  ふいに病室の廊下から近づいてくる足音が、やたら大きく響いて聞こえた。 「おい。何しとる」  扉を開くなり、その誰かは無造作にジュリオを引き剥がして私の肩を掴む。 「え?」  見上げるほどの長身、少し浅黒い肌に、力強い眉の男の人だ。  四十前後の彼は私を見下ろすなり顔を緩めそうになり……慌てて引き締める。そんなことしたって、嬉しそうな表情は隠しきれていないけれど。  兄にそっくりだけどピアスはなくて、ダークグレーのスーツ姿だ。側で見ると相変わらずガタイがよくて威圧感がある。 「お父さん。どうしたの?」 「あ、えっとな。出張ついでに寄ったんや」  きょとんとして問いかける私に、父はジュリオを睨みつける目を和らげて振り返る。  父は私を下から上へ眺めて、ふと心配そうな目になる。 「なんか、痩せとらん?」 「いや、父さんの方が痩せたような」 「んー……」  言葉に詰まる父に、ジュリオが意地悪く笑いながら呟く。 「ヒロ、外に出した娘が心配なんだよねー。ボクも食事が喉も通らないって気持ち、痛いくらいわかるよぉ」 「黙れや。お前にはわからんわ」  短く言い捨てて、父は美幸ちゃんへと向き直る。 「よう、美幸ちゃん。ウチの馬鹿息子が迷惑かけとらんか?」 「まーくんはいつも優しいよ。今度文化祭に連れてってくれるんだって」 「ほお。あいつも少しは役に立つもんやなぁ」  父は方言混じりに話して、鞄を持ったまま部屋の中を少し歩く。  何だか微妙な間がその場に流れた。 「あのなぁ、さっちゃん」 「何?」 「んー。えっとな、一週間こっちにおることになって、暇もわりとあって」  言いにくそうに顔を歪めて、父は一言告げる。 「……父ちゃんも文化祭、見に行けるんやけど」  一瞬の沈黙の後、私はぱちくりと瞬きをして不思議いっぱいに返す。 「ならせっかくだし、来ればいいんじゃない」 「そうやな」  明らかにほっとした顔を見せて、父はさっさと戸口へと向かう。 「じゃ、拓磨でもどつきに行ってくるわ。さっちゃん、気をつけて帰りよ」  そそくさと父は病室を後にする。  カツカツと革靴の音が廊下を曲がったのを聞き取った途端、ジュリオが吹き出した。 「ヒロはほんと、シャイだよね」 「何が?」 「娘が可愛くてしょうがないんだよ。でもボクみたいにオープンな愛を出せないんだねぇ」  ああ、なるほど。父さん、文化祭が見たかったのか。  私は納得して、一緒になって笑う。 「仕方ないじゃん。ジュリオみたいな父さん、怖くて付き合いきれない」 「えー、ミユ、そうなの?」 「ううん。パパはパパだもの」  ガタイがよいくせに、照れ屋で言葉足らずな所の多い、織部弘行(ひろゆき)。  ……でも私や兄を構うことが大好きな、正真正銘の親馬鹿だ。 「働きなよ、父さん」  そんな父がやって来た、文化祭の前夜の出来事だった。      初日の前夜祭では、私は謎の衣装を着て笑顔を振りまいていた。  肩からかける白い一枚布の衣装は、古代ローマ人風だ。これはうちの東桜大学の法学部棟前にたたずむ、創立者「悩む権堂勇像」のコスプレだった。  浅間君が文化祭の実行委員を引き受けて、私たちサークルメンバーもスタンプ係としてお手伝いすることになった。  面白い趣向だとは思うけれど、着慣れないものだから疲れる。草履みたいな靴だし、垂れ下がる布の衣装は意外と重いし、おまけにいろんな人に笑顔を向けなければいけない。日頃の私とは全然違うような、まさにお祭り仕様だ。 「さっちゃん。どうした?」 「ああ、父さん。いやちょっとね」  顔をしかめたまま裏門の方まで来ると、待ち合わせていた父がベンチから立ち上がって首を傾げる。 「靴擦れが。いやー、スタンプ係も楽じゃない」 「でもま、頼まれたもんやでな。頑張らないかん」  隣に腰掛けると、父はきりりとした眉を歪めて困った顔をする。 「足痛いんなら、案内はええよ。父ちゃん、勝手に歩くで」 「いいよ。心配ない」  母だったらあらあら貧弱な子ねぇと笑うところ、兄だったら馬鹿さっさと帰れと過保護にするところだ。だけど父は何とか頑張れと励ます一方で、実は誰より私を心配してくれる。 「昼飯には早いしな。ちょっと座っとろ」 「……ありがとう」  肩をおさえて座らせるので、私も苦笑してベンチに腰を下ろした。  人通りはぱらぱらとしたものだ。水のみ場へやって来る学生はいても、奥まった休憩所まで覗く人はそういなかった。  天気は快晴。日よけから覗く空は青くて、光が金色の筋をつけていく。  風が涼しくて、時々整髪剤とスーツの生地の香りが漂ってくる。それは独特の渋みがある、どこか恋しくなるような懐かしい父の匂いだった。 「母さんは元気? 喧嘩してない?」  小生意気に、でも少しだけ甘え調子に問いかけると、父は憮然とした様子で言葉を返す。 「さっちゃんは母ちゃんのことばっかやなぁ。薄情な」 「あ、ごめん。父さんは元気?」 「見りゃわかるやろ。仕事でくたびれた中年のおっさんや」  浅黒い肌の顔をしかめて、父はぼそりと言う。それに私が笑うと、父はますます眉間のしわを濃くした。 「夏は沖縄行ったんやって? さっちゃん、勉強しとるんか?」 「大丈夫だって」 「ふうん。まあ、さっちゃんが遊び呆けとるとは思わんけど」  受験期は、この父の心配癖にイラついたこともあった。けどそれだって愛情なのだと、最近は落ち着いて受け止められるようになった。  高校中退で就職し、私たちを育てるために懸命に働いてきた人だ。母と結婚した時もまだ若かったし、貧乏だった昔からこうして私や兄を大学に送るまでどれだけ苦労したかわからない。 「父さんの昼休み無くなっちゃうよ。歩こう」  短い父の空き時間を気にして、私は大学構内へと歩き出す。  ぼちぼち足を前へ踏み出しながら横を仰ぎ見る。百九十近い長身の父はいつだって見上げるほどで、それは今も変わってはいなかった。  無骨で、不器用で、優しい父。生まれた時からずっと、変わらず私の父でいてくれた人を嫌ったことは、一度としてない。たとえ血縁でなかったとしても、有り余るくらいに私へ与えてくれたものは、消えるはずもなかったから。 「で、権堂像はどこにあるんや?」 「今日は引っ込めてあるの。スタンプラリーのヒントになっちゃうから」 「ほお。可動式なんか」  適当な会話を交わしながら進む。母と違ってテンポは良くなかったけれど、やっぱり父と並んで歩くのは懐かしくて、嬉しかった。 「あー、沙世ちゃん。がんばってるー?」  動きにくい着物をものともせず、千夏ちゃんがスキップしながら近寄ってくる。彼女の江戸時代の町娘みたいな衣装は、家政学部前に立っている権堂さんの奥さん、ミセス・ゴンドーがモデルだ。 「あれ? お兄さん、二人いるの?」  褒め言葉と受け取りながら、私はぷっと吹き出す。 「ううん。お父さん」 「えー、若ーい」  千夏ちゃんが割り込んできて、父の前に進み出てにっと笑う。 「沙世ちゃんの友達の、遠野千夏でーす。初めましてー」 「おお。聞いとるよ。ウチの娘と仲良くしてくれとる、元気な子やな」  さすが商社に勤めているだけあって父が瞬時に営業スマイルを見せると、千夏ちゃんは満足げに頷いてみせる。 「背高いし、たくましーし、拓兄さんにそっくりー」  千夏ちゃんの言葉に、私は一瞬だけ表情を歪める。  兄は完全に、父親似だ。体格も、顔立ちもそっくりだ。  だけど私は母親似ではなくて……当然だけど、父にも似ていない。 「そやな。拓磨は見た目、俺にそっくりやけど」  言葉に詰まった私の代わりに、父は私の肩を叩いて言う。 「沙世は性格が似とるって、よく言われるよ。親子って怖いなぁ」  その言葉は、私をほっと落ち着かせてくれた。 ――さっちゃんは、父ちゃんの子やよ。  父は私を自分の子ではないと、一度も口にしたことがない。私が自分の出生を疑った時も、本当の父の存在を教えてくれたのは母と兄で、父自身は私の親であることを主張し続けた。 「ん。私、父さん似だからね」  心の底で私と兄に区別をしていたとしても、いいのだ。そんなことを感じることがないほど、父は私を可愛がってくれたのだから。 「じゃあねー、沙世ちゃん。三時には終わっていいらしいから、あたしはそれから彼氏とデートなんだぁ」 「はいはい。楽しそうで何よりだよ」  手を振って、二人と別れる。横を歩く父のぬくもりを、離れていながらも意識し続けながら。 ――とうちゃ、とうちゃ。  昔のことは、はっきりした記憶はない。だけど思い出の断片の中に残っているものは、両手を広げてよちよち歩きの私を受け止めてくれた広い胸だったり、肩車をしてくれる度にしっかりと私を支えてくれた大きな手だったり、その時に見た、今眼前に広がるような……高く澄み切った空だったと思う。  いつも側にいてくれた兄より、ほんの少し離れた所で静かに待っていてくれた父。目を細めながらそれを思い出して、私は胸が熱くなる。 「じゃ、午後から仕事がんばって」 「おお」  この父の慈しみを受けて育ったことは幸せだった。それを今更ながらに実感していた。  夕方近く、生協前のワゴン車の中で私は焦りに焦っていた。 「看護師さん。速く溜まる方法ってないでしょうか」 「いいから寝ていなさい。貧血気味の人は出にくいんですよ」  ついいつもの癖で献血を始めてしまった私が悪かった。  夕方五時からこの大学でエタルのライブがある。絶対見ててよ、と念をおした入谷君の手前、何としても行かなくてはいけない。  ここは野外ステージより少し高い場所にあるから見えないこともないだろう。けど献血車から見ていたというのは入谷君に申し訳ないような気もする。  赤い夕陽が段々と遠くなっていく。それと同時に、刻一刻と時は迫ってくるのだ。  少し気持ちを落ち着けようと、私は目を閉じて体を楽にする。  視界が暗くなると腕から流れ出る血液の動きをはっきりと感じて、私は小さくため息をついた。 「織部さんって、珍しい血液型ですよね」 「ああ、らしいですね」  私はO型のRhマイナスという呼び方をされるらしい。詳しい話はわからないけれど、マイナスというのはプラスに比べて圧倒的に少ないそうだ。 「何百人に一人という割合ですから。もらえる人は幸運ですよ」 「はは。私もよくもらっていたので」  何気なく話題を振ってきた壮年の看護師さんに、私は苦笑して返す。  幼い頃は病弱だったから、数え切れないくらい入院した。散々血を貰った側としては、健康になった今くらいお返しをしなければという思いになる。  それに、もう一つ大きな理由がある。誰かが血をくれないと自分が困るという理由だ。  ……家族の中で、私と同じ血液型の人はいないのだから。 ――ねえ、お兄ちゃん。  目の前に、フラッシュバックのようにある情景が蘇る。懐かしい自宅で何かのテレビを見ていた時、何気なく母が言い出したことがあった。 ――お兄ちゃんとお母さんは血液型が一緒だから、何かあったら血を分けて助けてあげるからね。 ――母さんに何かあることの方が多いんじゃないの? ――もう。人を年みたいに言わないの。  まだ幼稚園だった私は、二人を見比べてむっとした。 ――だいじょうぶ。おかあさんがこまったらね、さよがたすけてあげるの。  ふざけあいながら笑っている二人が羨ましくて、私は間に走っていって母に飛びついた。お母さんは私のものだと言わんばかりにしがみ付いた。 ――無理だよ、沙世は。 ――なんで? ――母さんと兄ちゃんはB型だからいいけど、お前は違うんだから。  兄は何気なく返したつもりだったのだろうけど、私はむっとして地団駄を踏んだ。幼い子供というのは、とかく母親を独占したがるものなのだから。 ――うー。ちがうもん。さよもできるもん。 ――無理無理。 ――ぶー。さよも、さよもー。  兄に飛びついて腕をぐいぐい引っ張ったけど、彼は苦笑いするだけでそれ以上何も言わなかった。私の年では血液型というものが何かなんてわからないのだと、察したのだろう。 ――おとうさん……。  仕方がないから、私はその夜ぽてぽてと父の所へ向かった。半べそをかきながらやって来た私に、父は心配そうに顔を覗きこんでくれた。 ――ん? どした、さっちゃん。 ――さよ、なかまはずれなの?   私は父にあどけない問いを向けた。自分がどんなことを言ってしまったのかわかっていなかった。 ――さよ、おーがたっていうんだって。おかあさんと、おにいちゃんといっしょじゃないの。だからね、だれもたすけてくれないの。  ぐじぐじと泣く私に父が沈黙したのは、ほんの一瞬だったと思う。 ――大丈夫やよ。  軽々と抱っこして、頭を撫でながら父は笑ったのだ。 ――さっちゃんに何かあったら、絶対父ちゃんが助けてやるでな。 ――おとうさんが? ――ああ。  大きな手でぽんぽんと私の頭を叩いて、父は迷いなくその言葉を紡いだ。 ――さっちゃんは、父ちゃんの子やで。  それは中学で資料集の端に描いてあった血液型表を必死で解読して、AB型Rhプラスである父から私が生まれることなんてないのだと確信を抱くまで、私がずっと心の拠り所にしていた、父の優しい嘘だ。  目を開けて、私は白い天井を仰ぐ。  科学はどうして幼い子供の淡い期待を裏切ってしまうんだろう。たとえ父とどれだけ似ていなかったとしても、私はその優しい嘘を信じていたかったのに。 「そういえば、今日同じ血液型の方が来ていたそうですよ。珍しいですよね」 「へぇ」  看護師さんの言葉に、私は苦笑することしかできない。  何百人に一人という血液型でも、何万、何億の世界の中では、いくらでも「同種」が存在する。  どうしてそれが、父でなかったんだろう。誰よりも私の父である彼に、その印を与えてくれなかったんだろう。 「案外、親戚だったりして。珍しいのなら」  恨みがましい気持ちになって呟いた自分の言葉に、私は嫌気がさす。  気にしても仕方ないものだ。所詮、体の中の管を通っている液体のことなんだから。  もっと大事なことは、父が私を可愛がってくれたこと。何にも代わらない、この愛おしいという気持ちだ。  脱力感に従っている内に、段々と眠気が押し寄せてきた頃だった。 「あの、すみません」 「はい?」  ふいに献血車の扉が開いて、ついたての向こうで誰かが中に入ってくる影が映る。私はその人の声を、うたたねのような淡い意識の中で聞いていた。 「二時間ほど前に忘れ物をしてしまって。鞄なんですが」 「ああ、はい。お預かりしています」  物静かな男性の声に悪い気はしないのか、女性看護師さんはにこやかに奥から茶色の革鞄を取り出してくる。 「結構重いんですね。お仕事の書類ですか?」 「ええ。あ、献血カードもお願いします」  淡々とした、穏やかな声だった。耳に響く音は低すぎず、だからといって女性的なところは微塵もない。  いい声の人だ。声楽とか、やっているんだろうか。 「よく献血されるんですか?」 「ええ。珍しいといわれて、ありがたがられるもので。つい」  何だか、どことなく……聞き覚えがあるような気もする。 「あ……」  ついたての向こうで、看護師さんが短く声を上げる。  一瞬の沈黙の後、四十台の看護師さんは若い女の子のように興奮した声で問いかけた。 「も、もしかして、ユキさんですか?」  私は押し寄せる眠気の中で、その名前に微かな感情を抱く。 「ほら、ピアニストの! え、私、CD全部持ってるんですよ!」  年頃の少女のような黄色い声に、私自身も思考が停止するのを感じた。  ピアニストのYUKIのことなら、私だって知っている。日本人で初めて某国際ピアノコンクールで優勝した。そして今でも、そのコンクールの審査員を任されている。  もちろん私もCDを持っている。というより、ピアノを学ぶ人間なら誰だって知っているはずだ。  気だるさの中で、私は意識が浮上していくのを感じる。  ……今の日本で最も高名なピアニストが、ここにいる? 「ああ」  ついたての向こうの男性はその綺麗な声で呟いた。 「ありがとうございます。でも、来ていることは内緒にしてください」 「ええ、もちろんです!」  本当に本当の、本物なの?  硬直した体を叱咤して、私は眠気を振り払おうと瞬きを何度もする。 「どうしてこちらへ?」 「子供がこちらの大学に通っておりまして。どんな様子なのか知りたいと」 「まあ……それはまた。素敵な帰国理由ですねぇ」  感極まった声で看護師さんが引き止めてくれるのが幸いだ。  私は震える手でバッグを引き寄せて、何とか書くものを探す。いやもう、ノートでも何でもいいから、いっそこのバッグにサインしてもらおうかと考えた。 「では、そろそろ失礼します」  そう言って去っていくのを名残惜しく思って、目を伏せる。  そこで、私は自分の隣にある献血機材を見てはっとした。 「あのっ! 看護師さん」  私は急いで看護師さんを呼び寄せる。 「血、溜まりました! この管、早く外してください」 「え? ああ、はいはい」  適当な動きで管を外す看護師さんに苛立ちを感じながらも、私は何とか献血から自由になる。  袖を戻してバッグを手に取り、大慌てで献血車の外へと飛び出そうとする。 「あ、織部さん。献血カード」  そんなのどっちでもいい。そう思いながらも一応受け取って、私は素早くそれをバッグの外ポケットに突っ込んでから走り出す。 「いきなり走ると危ないですよー」  後ろから叫んでくる看護師さんに申し訳ないけれど、今の私は足を止めるつもりはなかった。 「は……!」  なぜだろう。胸騒ぎがする。  YUKIは、憧れのピアニストだ。だけど何より、先ほどの声が耳から離れない。  低くはない、けど女性的でもない。穏やかで少し掠れていて、甘くはないけれど尾を引く響きだった。  ……とても身近な誰かの声に、よく似ていたような気がする。 「あ」  足に力が入らなくて転んだ。  貧血だと思った時にはもうタイルの上に尻餅をついていて、私はめまいを抑えるために顔を覆う。  生協の二階ベランダという奥まった場所だから、誰も人はいない。それを幸いと、私はガンガンと響く頭痛や脱力感と戦うことにする。 「……動けない」  いきなり走ったのは私だから、自業自得だ。視界が霞んで、辺りを見ることもおぼつかない。  しばらくその場で座り込んでいると、下の方で大歓声が上がった。そういえばこの真下が野外ステージだったと思い出して、エタルのライブが始まったのを理解する。 『今日は新曲を披露します』  レンさんの言葉に、どっと黄色い歓声が重なる。それを追うようにして、大学中を覆うようなイントロが始まった。 「……え?」  そこで私は思わず硬直した。  この高く音域の広いメロディを、私は知っている。 ――幻想即興曲をモチーフにしたやつ? うん、いいじゃん。僕がちょっとアレンジしてから返すよ。  驚いて当然だ。  なぜってこれは、私が作曲して、夏休みに入谷君に渡した代物なのだ。  ちょっと待て、入谷君。返すって言ったじゃないか。  メロディは留まることなく走り抜けていく。現代風にアレンジされたテンポの速い曲調に、ルカさんの高く柔らかな声が重なる。 「うそ……」  こんな歌詞や綺麗なアレンジをつけて、本気で発表するなんて聞いてない。  恥ずかしいやら困ったやら、ついでに嬉しいやらで、私は本来の目的を忘れて呆然とする。  甘美で華やかな歌だ。さすが入谷君がアレンジしただけあって、素人の私が作った原型をかなり変えて、彩り豊かなものに仕上げている。  だけど違和感を抱いて、私は首を傾げた。  何か欠けている。そんな気がして、私は這うようにしてベランダの端まで向かう。  鉄柵の隙間から野外ステージを見下ろすと、中央でルカさんが白い衣装を纏って歌っていた。その横でレンさんがバイオリン、ミサキさんがギター、そして……どうしてか、入谷君はピアノを弾いていた。  なるほど、違和感の正体は入谷君だった。  圧倒的な華を持つイリヤの声がないから、不思議だった。あえて彼がボーカルから外れたこの曲は、随分と冒険心に溢れたものになっている。 ――感想、聞かせて。  今日見に来るように私に勧めていたのはこれだったんだろう。勝手に私の作った曲を使ってしまって、そしてルカさんの歌う曲を作ってみたから。  いや、私は構わない。いい出来だし、作り手としても嬉しい。  だけど私としては入谷君に歌ってもらいたかったし、ファンもそう思うんじゃないだろうか。  そんなことを考えている内にその新曲は終わって、いつものようにイリヤが前へと進み出てくる。他のメンバーも元の配置へ戻って、ダンスパフォーマンスを混ぜたエタルのライブが再開する。  ほっと息をつく私の側に、ジャリを踏みしめて誰かが立つ気配がした。  生協の人かな。そう思って、私は慌てて立ち上がろうとする。 「あ、すみません。ちょっと立ちくらみで、今出て行きますから」 「こんなところにいたら危ないですよ」  だけどその人は私を助け起こして、側にあるベンチに誘導する。 「ど、どうも」  くらくらする視界を何とか定めようとするけれど、上手くいかない。ちょうど太陽が沈む頃で、辺りが暗くなり始めているのも効いている。 「いや、お気になさらず。もう治りますから」  ローマっぽい衣装で生協のベランダに座り込んでいるなんて、どう見ても変人だ。それを自分でわかっているから、ただ早くこの親切な人が去ってくれるのを祈るのみだ。  あれ、でも、この人。 「……あの?」  どうして、すぐに立ち去ってくれない?  私が顔を手で覆って恥ずかしさに耐えているにもかかわらず、その人は私の目の前に立ったままだった。それを不思議に思って、私はゆっくりと手を顔からどける。 「織部さんですね」 「え?」  通りのいい男性の声と共に、彼は立ったまま私に赤いカードを手渡す。 「あ、私の」  それは、私の愛用である献血カードだった。氏名と生年月日、そして血液型などが記載されている。 「でも、どうして」  おかしい。写真はついていないのだから、織部沙世が私であることは、見ただけではわからないはずなのに。 「とりあえず、私のカードを返していただけませんか? 献血車で代わりに渡ってしまったみたいなんです」  丁寧な口調に、私は警戒を解いて鞄を漁る。そこから同じような赤い献血カードを取り出して、薄い紙を確認のために捲ってみた。  背筋がひきつるような感覚が走る。  O型の、Rhマイナス。私と同じ血液型だった。  それだけなら、ただ珍しいと思うだけで済んだ。  だけどその下に書かれた名前を見て、私は絶句する。 「ああ、私のですね。ありがとう」  彼はひょいとそれを取り戻して、鞄へと仕舞う。スローモーションのように、私はその動きを目で追う。  オレンジ色の夕陽が、真っ赤に染まる頃だった。  なぜか献血した腕が痺れている。体を流れる血液の流れを、痛いような動悸と共に強く感じる。 「YUKIさん?」 「はい。本名は、入谷由貴といいます」  顔を上げるのが怖かった。どうしてかは、自分でもわからないままだった。 「真に……息子に話は伺っています、織部さん」  夕陽の中に浮かび上がったのは、とても繊細で綺麗な、男性の姿だった。  黒髪に、切れ長の黒い瞳。優しいようで鋭利なその目に、私はなぜかぎくりとする。  奇妙な動悸が体を震わせる。  次の瞬間には、私は立ち上がっていた。そして数歩、後ずさりする。 「あの、私、これで」  入谷君にそっくりのお父様で、しかも憧れのピアニストだというなら、私は動揺するどころか喜んで近づいただろう。でも、それだけじゃないのだ。  逃げたい。この嫌な予感を見ないで、通り過ぎたい。 「待ってください」  だけどベランダの入り口の方に彼は立って、私の進路を阻む。それはますます、私に得体の知れない恐怖を引き起こした。  優しい、穏やかな声だ。入谷君の義兄であるレンさんみたいに、物腰だって柔らかい。  ……でも、この人は全然違う。 「さっきのはいい曲でしたね」  世間話のようで、何か様々な感情がそこには織り交ぜてあった気がした。 「今のはあなたが作ったものだと琉花に聞きまして」 「い、いえ。入谷君がだいぶアレンジしたもので、私はちょっとしか関わっていなくて」  責められている口調じゃないのに、私は後ずさりすることしかできない。 「ところで、あなた……」  耐えられずに、少しだけ顔を上げた。  怖いのだ。この綺麗な男性は、微笑みながら私を射るように見るから。  ……まるで、敵と恋人を同時に見るような瞳で。 「あ、さっちゃん! ちょっとすごいコトがわかったんだけど」  馴染みの声に、私ははっと恐怖から目覚める。  赤茶色の輪郭に、垂れ目で明るい表情をした彼が、私を見てすぐに声のトーンを落とす。 「どうしたの、真っ青になって」 「ジュリオ……」  ジュリオは心配そうな顔をしながら、私の後ろにいる由貴さんに気づく。 「久しぶり」  長身からそっと切り出してきた言葉に、ジュリオはぴくりと反応する。  そして瞬時にジュリオに動揺が走ったことも、私は顔を見ていないのに理解できた。 「ユ、ユキ……まさか君がピアノを引き受けてくれるなんてびっくりだよ。先に教えてくれたらよかったのに」 「息子の大学だからね。少しは貢献しようかと思ったが、あまり騒ぎにしたくもなかった」  淡々と答えて、由貴さんは少しだけ目を細める。 「それに友情出演すると何度も誘ったのに、今まで一度も実現することがなかったしな、ジュリオ」 「……日程が合わなかったんだよ。君と共演できるなんて光栄さ」 「ふうん」  薄く笑って、由貴さんはあまり納得していない様子ながらも言葉を打ち切る。 「さ、調整に入ろうか、ジュリオ」 「あ、ああ。じゃあね、さっちゃん」  明らかに戸惑いを隠せないまま、ジュリオは私から手を離す。私から目を逸らし、何だか奇妙に落ち着かない様子で。  気まずい空気の中で、由貴さんはゆっくりと踵を返す。 「……その子」  間が、ほんの少しだけあった。  背を向けたまま、由貴さんは呟く。 「親戚?」  奇妙な響きの問いだった。友人のことだというのに少しも喜ぶ素振りがなくて、何だか忌々しささえ感じるような調子だった。  ジュリオはなぜか一瞬の間を空けて、あいまいに答える。 「まあね」  その言葉に対する反応はなく、由貴さんは足音も立てないで静かにその場を後にする。父のように生活感のある渋いスーツの匂いじゃなくて、雨上がりの森のようなどこか現実味のない香りを、少しだけ漂わせていた。  こんなお父さんもいるんだ。その感想に重ねて、自分で自分に問いかける。  どうして、父と比較したんだろうかと。 「さっちゃん?」  私はただそこに立ち竦んだまま、じっとジュリオをみつめる。 「ねえ、ジュリオ」 「ん?」 「友達なんですか?」  どこか心細げな言葉に、ジュリオは笑って頷く。 「そうだよ。ちょっと気難しいけど、悪い奴じゃないんだ。若い頃のフレンドでね」  若い頃のというフレーズが胸をひっかいたけれど、私は無視することにした。 「じゃあ、私は友達との約束があるので」 「ん。一日ご苦労様」  ジュリオの横を通り過ぎながら、私はまだ頭のネジが何本も取れたまま何とか洗面所まで駆け込む。  なぜか由貴さんを見た瞬間から、胸が苦しくて、痛いくらいに辛い。  血が惹きつけられるというのか、怖いのに目が離せなくて、同時に……彼も私を睨むように見ながら、動いてくれなかった。  こんなことは、前にもあった。確か、入谷君と知り合って間もない頃だ。親子なのだから、雰囲気が似ていてもおかしくはない。  だけど違う。今回はもっと強烈で、異質だ。  長身、切れ長の瞳、黒く細い髪、鋭利なくせにどこか幼い表情。入谷君と由貴さんは、本当によく似ている。  そして今までどうして気づかなかったのか自分でも不思議だけど。  鏡に手をついて、青ざめた私の顔と見つめあう。 「まさか、ね……」  思えばその特徴は私にも当てはまるのだということを、今初めて気づいたのだった。  文化祭一日目の夜、私は美幸ちゃんのお見舞いに行かなかった。  ジュリオに会ったら入谷由貴さんについて何も訊かない自信がなくて、同時に彼が私に何も教えない保証もなかった。  由貴さんに出会った瞬間に感じたのは、他人というにはあまりに近い雰囲気だった。  思い当たるのは、私がずっと曖昧にしてきた、「本当の父親」の存在だった。どこかに必ずいる、けれど一度もその影すら掴んだことのない男性だ。  馬鹿なことを考えるなと自分を笑いたい。  ……それでも、私はその疑惑を一人では晴らすことができなかった。 「お、さっちゃん来たか」  兄のアパートに入るなり、父はテーブルの前に座ったまま顔を上げて私を見た。正面に、タンクトップとジーンズのボロい部屋着の兄を据えている。  時刻は、そろそろ七時を過ぎようとしている頃だ。  電灯の光が舞い上がる埃を照らし出し、小汚く整頓のなっていない部屋で、浅黒く力強い輪郭を持った大男二人が、なにやら真剣な様子で向かい合っているのだ。  ちょっと笑いを誘う光景だ。私は口の端を歪めながら父に問いかける。 「何してるの?」 「腕相撲や。恒例のな」  カッターの袖をまくって、父は兄を見やりながら言う。 「耳や顔に穴空けて、腑抜けになっとらんかと確認をな」 「うるせぇな。リーゼントやってた奴に言われたかねぇよ」 「バカタレ。俺はお袋にもらった体に傷は付けとらん」  くだらない言い争いをしながら、父子は目を細めて鼻で笑い合う。  その仕草は意図している訳ではないのにひどく似ていて、私はちょっとだけうつむいた。 「どうなんだよ、中間管理職。首切られねぇだろうな?」 「阿呆。どうなってもお前なんぞに残してやる金は一銭もないで。さっちゃんに全部やる」  二人の間に座ると、もう睨み合いが始まっている。全く、男同士というのはどうしてこんなに軽口の叩き合いが好きなんだろうと思うくらいだ。 「もう脛かじって生きてねぇだろ。要らねぇっつーの」 「何じゃその口の利き方。ひょろこい東京モンになりおったな、お前」 「はぁ?」  大きな足を投げ出して、兄は目を細める。 「じゃあ沙世はどうなんだよ。方言の抜け方はこいつの方が早ぇよ」 「さっちゃんはええんや。東京男のしゃべり方が勘に触るだけやから」  壁にもたれかかって体を伸ばしながら、父は何気なく零す。 「それに母ちゃんも元々東京の人やしな」  たぶんその言葉に私が顔をしかめたのは気づかれなかったと思う。  兄と実母である安城さんが東京に住んでいた時、父は一時期だけど東京にいた。兄は三歳で父に引き取られて二人暮らしが始まるけれど、それからまもなくして母と出会い、私が生まれることになる。  経緯としてはそんなことを聞いているけど、その実詳しいことは何も知らない。どんな出会いだったのかとか、私はどこで生まれたのか、そのことを……私の実父が知っているのかなどは、全く謎のままだ。 「さっちゃん、そろそろメシ食いに行かんか?」  知りたいと思わなかったわけじゃない。  ただ怖かっただけだ。その問いかけが、父と母を傷つけてしまわないかと。 「あ、いや」  意味もなく数回瞬きをして、私は父に笑いかける。 「様子見に来ただけ。ご飯はもう終わってるんだ。明日も早いからさ」 「何や、しょうがないなぁ」  よっこいしょとまだ四十なのに年寄りみたいに掛け声をあげて、父は立ち上がる。 「拓磨はどうや?」 「何が楽しくて、こんなむさいオヤジと飯食いに行かなきゃいけねぇんだ」 「これだから男坊は嫌や。苦労して産んでも何もいいことあらへん」 「てめぇが産んだわけじゃねぇだろ」  兄のぼやきに、父はふっと笑う。 「ま、ええか。俺も同感や」  あっさりと父は納得して、歪んだスーツを直しながら鞄を拾い上げる。 「さっちゃん」  軽く屈みこまれると、慣れた父の匂いがした。年頃になっても決して毛嫌いすることのなかった、懐かしい香りだ。 「明日は文化祭行けんけど、頑張り」  優しい手つきで、父は私の頭を軽く撫でてくれる。  顔を上げた私に、少しだけ目を細めて彼は頷いた。 「はよ寝るんやよ」  ぽんと一度弾みをつけて、父の手が離れる。私はその節くれだった大きな手を、名残惜しい気持ちでみつめていた。  子供扱いするなと、父に対して苛立ちを抱くことはない。私が小さくて弱い頃からもう父は大人で、さっちゃんは大丈夫か、風邪引かないかと、心配そうに見守っていてくれた目を今でも覚えているから。  父は玄関でだるそうに靴を履き、鞄を抱えて出て行く。部屋の中心にぶら下がる裸電球が、その広い背中を明るく照らし出していた。  扉が閉まると、ぬるい静けさが戻ってくる。  ぼんやりと畳に座り込んだままの私に、兄は胡坐をかいてペットボトルのキャップを捻る。 「飯食いに行くか」 「え?」  お茶の中身を一気に飲み干して、兄はカラになったそれをテーブルの上へ放り投げる。 「親父がいるとやりづらい相談なんだろ?」  はっとして顔を上げる。兄は頬杖をついて、私を横目で見ていた。 「何だよ、しけたツラして。あれじゃ鈍い親父にも伝わったぞ」 「……わかるの?」 「当たり前だろ。あの親父も馬鹿じゃねぇよ」  瞬時に困った顔をする私から一旦目を逸らし、兄は片膝を立てて財布へと手を伸ばす。 「どうせ飯だって食ってねぇんだろ。ほら、行くぞ」  後ろポケットに財布を突っ込んで、兄は立ち上がろうとする。畳が擦れて小さな音を立てた。  浅黒い輪郭が、白い電球の光に沈んでいく。それを見て、私はほとんど無意識に手を伸ばしていた。 「沙世?」  ぎゅっと、破れた大判のジーンズを握り締める。迷子にならないよう、力いっぱい兄にしがみついていた幼い頃と同じように。 「……あのね」  両手でジーンズを掴んだまま、私は顔も上げられずに小声で呟く。  小さく息を吐く気配がして、兄は足を投げ出して座った。その動作に耳を傾けてもらえるのがわかって、私は服を掴む力を少しだけ緩める。 「どうした」  問いかけに私は甘えの気持ちがむくむくと沸き起こるのを感じた。  畳に横向きに寝転んで、額を兄の膝につける。猫のように体を丸めながら、手で兄の腰辺りをしっかりと掴んだ。 「ダチと喧嘩……ってのは違うみたいだな」  幼い頃から全然変わらない。心細い時はいつも、私は顔を隠しながらこうやってくっつくのが好きだった。  焦らせることなく私が話し出すのを待つ兄に、その体勢のまま言葉を零す。 「ねぇ、兄ちゃん」 「ん?」  喉を鳴らして、私は思いきって切り出した。 「……私のお父さんって、どんな人なんだろう」  さっきまでいただろなんて茶化す様子はなかった。  兄を仰ぎ見ると、彼は黙って口元を引き締めていた。何かを真剣に考え込んでいるようだった。  電灯が眩しかったけど目を逸らすこともできなくて、私はじっと待っていた。何より私にとって影響力の強い、兄の反応を知りたかったから。  迷った末に、彼はゆっくりと口を開く。 「会いたいのか?」  零れたのは一つの問いかけだった。  いろんな意味に取れたかもしれない。今の父親が不満なのかとか、それとも実父のことを清算したいのかとか、何とでも受け止められる言葉だった。 「わからない」  だけど私はそれを質問のままに受け取って答えた。兄はきっと、私を責めるつもりで言ったわけじゃないのを、理解していたから。 「でも、もう遅いのかも。会っちゃったかもしれないから」  小さく言葉を洩らして、兄の反応が返ってくる前に私はぎゅっと彼の膝にしがみつく。ここだけは決して失うことのない私の居場所だと信じていたかった。 「怖いよ、兄ちゃん」  顔も上げることができないまま、私は絞り出すように言う。 「ただの誤解だと思うんだ。世界は広いし、早とちりだって、笑いたいくらいなんだ。けど……」  言葉にすると認めてしまうことになるから嫌だった。 「もしどこかにいるはずの存在なら、この人以外にいないんだって……そんな馬鹿な考えまで持っちゃったの」  雲を掴むようなものなのに指先が瞬時に凍りつくような、あの強烈な感覚。  血液型なんて、いくらでも同じ人はいる。顔立ちが似ていたって、その程度は証拠にすらならない。 「嘘だって信じたいのに」  それでも、直感してしまったのだ。ジュリオの反応がなくても、由貴さんは私と何かの関係はあると思った。 「どうして嘘だと言い切れる」  ジーンズを強く掴む私に、兄は切り出してきた。 「俺に産んだ母親がいるのと同じで、お前にだって親父がいるはずだろ?」  動きを止めた私に、彼はゆっくりと続ける。 「なんでそれが怖いんだ、沙世」 「……だって」  私は眉を寄せて、俯いたまま呟く。 「もう結婚してるし、子供もいる人だよ。私の存在がばれたら、そこにヒビが入るかもしれない」 「だからどうした。それはあっちの問題で、お前がどうこう言われるもんじゃない」  冗談に流れる様子もなく、兄は淡々と返してくる。 「隠れるなよ。会いたければ会えばいい。罵倒したいならすればいいだろう。それも許さないって言うなら、俺が首根っこ掴んでも連れてきてやるよ」  私は顔を上げた。  電灯の逆光で最初は浅黒い輪郭だけで、徐々にそこから馴染んだ顔が現れていく。落ち着いた、ずっと頼りにしてきた兄の顔だ。 「どうして?」  兄は私を引き合わせたいんだろうか。それは、もしかしたら私を家族から外すという意味なのか。  それは、それだけは、私は絶対に嫌なのに。 「理由が要るのか?」  不安に取りつかれそうになった私に、兄は鋭く返してくる。 「お前が実の親に会いたいって希望を、俺も母さんも……たぶん親父でも、潰すことはしない」 「でも」 「沙世。どうして俺たちが妨害できる?」  顔を歪めた私の頭を、兄は軽く叩いて言った。 「……お前は俺たちの家族だろうが」  その言葉は私の心のどこかに響いた。  家族だから。私が、一員だから。 「家族一のチビのわがままを怒るほど、俺たちが心の狭い奴だと思うか? お前と一緒にするんじゃねぇよ」  罵るようで甘い言葉と同じで、くしゃりと私の髪を掴む手は優しかった。  そのまま頭をぐしゃぐしゃにされたけど、私は目の奥の熱さをこらえるので精一杯だった。  私は目を伏せてそっと呟く。 「話したいとか、私のこと知ってほしいとかじゃ……ないんだ」 「それはむしろ嫌なんだろ?」 「うん。怖いから」  俯いたまま、私は拙い言葉でわがままを言い続ける。 「ただできるなら、誰にも知られないで、遠くから……今度は穏やかな気持ちで、見てみたい。本当のことなんてどうでもいい」  ぐっと兄の袖をたぐりよせて、しっかりと握り締めた。 「証拠なんてもの、ないんだよ。誰もわかるはずないんだ。私も、母さんやジュリオに問い詰めたいとは思わない。それに、それにね。兄ちゃん」  言葉に詰まった私に、兄は一瞥をくれて問う。 「親父のことか?」 「……うん。父さんに私がこんな願いを持ってるなんて、知られたくない」  言い当てられて、私は口元を歪める。それに兄は少し沈黙して、ぽつりと零した。 「親父は確かに面白くないだろうよ。けどな、あんまり買いかぶるな」 「え?」  訝しげな声を上げた私に、兄は静かに返す。 「お前が思うほど親父は立派な奴じゃねぇ。元は族の人間だし、ガキの頃から学校もろくに行ってねぇし、やべぇ喧嘩や女にも、俺にさえ必死で隠すくらいに経験した奴だ。だが」  くしゃっと私の髪をまた掴んで、彼は続ける。 「そんな褒められたもんじゃない親父が、普通に結婚して普通以上に娘をべたべたに可愛がってんだよ。俺から見りゃ奇跡みたいなもんだ」  一度息を吐いて、兄はぼやきのように言葉を零す。 「母さんはそんな親父の過去、全部知ってるしな」 「そうなの?」 「結婚する時、とりあえず残らず吐いたらしいぞ。女関係も、過去の因縁も。当然俺を産んだ安城のこととかもな」  それは、つまり母が偉大だったということか。父が隠し事さえ憚られたほどに迫られたのだろうか。  顔を歪めた私に、兄は小さく笑って言った。 「母さんがすごかったのかもしれねぇな。でもな、俺は違うと思う」 「どういうこと?」 「たぶん、全部明かしたのは母さんが先だったんだよ。お前の実父についても」  はっと息を呑む。そんな私を見下ろして、兄は穏やかに頷いた。 「そこまで母さんが信頼したんだ。お前も蚊帳の外にしないで信用してやれ。馬鹿な親父だが、ちょっと寄りかかったくらいで倒れやしねぇよ」  私を起き上がらせて、私の前髪をぐしゃぐしゃにする。つまらなそうな手つきのくせに、兄はなかなかそれをやめようとはしなかった。 「俺は二十年近くこのめんどくせぇ妹をおぶってきたけどな」  少し強めに頭を叩いて、兄は私から手を離す。 「親父はお前が母さんの腹にいる間から、母さんごと背負ってきてんだよ。どっちが重いと思う?」  普段は父への敬意なんてまるで見せない兄だから、その言葉には強さがあった。 「うん。わかった」  しっかりしなきゃ駄目だ。  私にとって何より辛いのは、両親と、そして兄が私のことで、悲しい思いをすることなんだから。  ここにいてくれる、確かな存在と輪郭。それにしがみついて、絶対離したりなんてしない。  そう心に決めて、私も軋む畳から立ち上がった。
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