8 祭りの終わりに

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8 祭りの終わりに

 発表当日の朝、私はいつものように美幸ちゃんの病室を訪れた。  普段ならジュリオか、あまり嬉しくはないけれど叔母さんがいるはずの部屋なのに、珍しく美幸ちゃん一人だった。  花瓶に飾られたコスモスやジュリオのお土産で白い病室でも賑やかな空間だけど、美幸ちゃん一人だと妙に閑散として見える。  美幸ちゃんは黙ったままだった。体を半分起こしてクッションを背中に入れたまま、じっと何かを見つめている。 「美幸ちゃん?」  途切れがちな雑音が微かに耳に引っ掛かるけど、何かはわからない。  体調でも悪いのかなと不安に思った時だった。  コツンと足音を立てて後ずさると、やっと彼女は私に気づいたようだった。すぐにいつものような、温かな微笑みを零してくれる。 「見てみて、さっちゃん。パパに頼んでね、DVDにとっておいてもらった番組なの」  おいでと手招きされて、私は美幸ちゃんのベッドに腰掛ける。自然と、そこから少し高い位置にあるテレビを見上げる格好になった。  流れ出す光と音楽に目を細めながら言う。 「ニュイ・エタルナ?」 「うん。この間見逃しちゃった、特番の出演なの」  メンバーがめまぐるしく映る画面を、美幸ちゃんは楽しそうに見つめている。それを私は横目で一瞥して、何気なく言葉を零した。 「美幸ちゃん、エタルが好きだもんね」 「ううん」  彼女にしては珍しい否定の答えに、私は首を傾げる。 「イリヤ君が好きなの。とってもね」  美幸ちゃんは微笑んで、少しだけ困ったような顔になった。  私は彼女の表情の変化の意味がわからなくて首を傾げる。 「パパに聞いたの。有名なピアニストのユキさんの息子が、イリヤ君なんだって」 「……そうなの?」 「うん。パパとユキさんは昔お友達だったから」  どう反応するかを咄嗟に思いつかなくて、私は適当に頷くだけに留める。 「それでお母さんはね、昔ユキさんにピアノを習ってたの。とっても憧れてて、神様みたいに思ってて。だから子供のイリヤ君が芸能活動っていう、クラシックとは遠い世界に生きてることが気に入らないんだって」  パパが教えてくれたと美幸ちゃんは言う。 「でも私、イリヤ君の歌はクラシックより綺麗だと思う。新曲で披露してたピアノも、とても……」  そこで美幸ちゃんは微かに寂しそうな顔をした。  目を細めて、どこか遠い世界を仰ぎ見るように顎を上げて、すぐに目を伏せる。音のない素振りなのに、私はその静かな美幸ちゃんの変化が高貴なものに感じていた。 「私の名前ね、みゆきっていうけど」  自分の上手く動かない手をみつめながら、彼女は言葉を零す。 「それってね、ユキさんから取ったんだって。これはお母さんが言ってた」  はっと息を呑んだ。  彼女の顔に浮かぶ寂しさの意味が何なのか、私はようやく理解できた。  在りし日、ピアノの天才だった美幸ちゃん。  ……彼女は叔母さんが求めるピアノの天才には、もう決して届かない。 「み、美幸ちゃん、あの!」  私の中では、あなたは誰より素晴らしいピアニストだ。  入谷君だって、ユキさんだって、他の誰も敵わない天使のメロディを奏でた。それは今でも、私の心の中で途切れることなく鳴り続けてる。 「私は、えっと」  だけどそれを言って、どうなるというんだろう。  彼女はもう二度と、あの光溢れる舞台に立つことすらできないのに。 「さっちゃん。お饅頭食べない?」  言葉に詰まって目を逸らした私に、美幸ちゃんは声を掛けてくる。 「ね?」  やっとのことで顔を上げる私の前には、やはりいつも通りの優しい微笑みを浮かべた美幸ちゃんがいた。 「……うん」  私は子供のように頷いて、彼女が示す菓子箱を手に取った。  時にこうして気分が暗くなるのは私だけだ。いつだって美幸ちゃんは笑って、よしよしと頭を撫でるように私を慰めて、温かな空気で包み込んでくれる。  私はそんな彼女に、辛くないのかと訊くことすらできない。 「今日の発表、楽しみにしてるからね」 「うん」  それなら、私にできることは少ししかない。  言葉で伝えられないのなら、私は心そのものを示す。 「頑張るよ」  その形は、きっと音楽が一番だと思う。  美幸ちゃんが愛された、そして今も彼女が愛し続けている音の連鎖を、私に出来うる限りの最上の形で見せる。  音に向き合う瞬間は、何もかも忘れる。バンドメンバーのことも、家族のことも……由貴さんのことも。代わりに、見に来てくれる美幸ちゃんのことだけを考える。  音に対しては、ずっと誠実でありたい。余計なことを思っては、美幸ちゃんに失礼だから。 「じゃあ、最終調整に行ってきます」 「うん。午後からまーくんと見に行くからね」  決意を胸に、私は元気よく立ち上がった。  発表直前、午前の調整はこれ以上ないくらいに順調だった。 「よーし。あとは二時まで自由行動。さ、解散!」  いいのかというくらいの快調っぷりだった。いまだかつてない程ミスがなく、皆の機嫌もいい。  浅間君がギターを置きつつ、朗らかに笑って言ってくる。 「いいじゃん。俺らやっぱ最高だよ」 「あー、楽しみー。じゃあねー、また後でー」  千夏ちゃんも上機嫌で手を振って去っていく。  開け放した扉の向こうは、雲ひとつない爽やかな快晴が広がる。ひらひらと東桜大学の垂れ幕が、校舎の上で舞っている。 「……うー」  心地よい涼やかな風が流れていく。  がらんとしたサークル部屋にて、私と入谷君だけは浮かない顔をしていた。 「調子良すぎじゃない?」 「僕もそう思う」  額を寄せ合って、ぼそぼそと私たちは会話する。 「こういう時こそとんでもない失敗するんだよ」  悲観的と言うなかれ。  ボロボロの直前調整がいいはずはない。だけど良すぎるというのもかえって不安になる。人間の変な心理だ。 「ミセス・ゴンドーにお参りしに行こうか」 「うん。いっぱいお賽銭投げ込んでこよう」  お互いどうしてこんなに小心者なのかと情けなくなりながらも、こくこくと頷いて同意する。  そんなわけで、文系キャンパスの入り口付近にある家政科へ、二人揃って向かうことにした。  最終日だからか人も多く、喧騒の中を潜り抜けていく。普段はそれほど賑わうことのない家政科だけど、こういうイベントの時だけは最も観光客を呼び寄せるスポットがある。 「あ、見てみて。これがミセス・ゴンドーなんだって」 「へー」  反物を落としそうになりながら照れ笑いを浮かべている、どう見てもご利益のなさそうな能天気な娘さんの銅像。それが東桜大学名物、ミセス・ゴンドーだ。  しかし不思議と賽銭を投げ込みたくなる泉が前にあって、ちょうど余所の大学のカップルが興味津々で財布を取り出すところだった。  私と入谷君はその後ろに並び、自分の小銭入れを覗き込んで眉を寄せながら待つ。 「入谷君、五円持ってる?」 「いや。今は百円しか」 「私も」  私たちは同時にため息をついて、騒ぎながら去っていくカップルを見送りつつ前へと出た。 「仕方ないか」 「ん」  もったいないと思いながらも、私たちはそれぞれ百円を泉に投げ込む。まあこのお金が東桜大学の維持費に貢献できるんだと自分に言い聞かせて。  ミセス・ゴンドー。東桜の偉大なるお母様。  別に失敗しないで演奏させてなんて、無茶なことは言いません。  ……お願いですから、最後まで止まらずに発表できますように。  神妙に手を合わせてお参りを済ませると、おもむろに顔を上げた入谷君と一緒にその場を後にする。 「緊張するね」 「うん」  テンポのよい音楽が掛かる大学構内にて、私と入谷君はどうにも明るいとは言えない表情のまま歩く。 「君が緊張するっていっても全然説得力ないね。昨日も生番出てたくせに」 「何回やってもするものはする」  憮然とした調子でぼやいて、入谷君は眉を寄せる。  そのまま数秒間の沈黙があって、私たちは着ぐるみやピエロの格好でスキップしていく集団とすれ違いつつも、ただ顔をしかめたままだった。 「ちょっと座ろ。思うところがあってさ」 「ん?」  素晴らしい天気とは正反対に、どんよりとした空気。それを崩したのは、入谷君の方だった。  ベンチに座って一息つき、腕時計を見下ろす。時刻はそろそろ昼時だ。 「さあ、どこからでもどうぞ」  少しだけおどけて言ってみる。あまり大真面目に訊くのも気が引けて。  ごちゃごちゃと色々なものが立ち並ぶ東桜大学だけど、ここから見える一番のものは緑に囲まれた公園だ。天気もいいし、ちらほらと木々の間で追いかけっこをしている子供もいて、何だかほっと和んだ。  胸を占める苦しさもすっと落ち着く。風も光も、この場所はひどく心地よい。  私が目を細めた時だった。 「織さん、僕の父さんと何か関係ある?」  いきなり喉元に刃を突きつけられたような気がした。  どうして心の奥に仕舞っておいた考えがばれるのか。まさか、由貴さん本人が何か零したのか。 「え?」  頭の中は完全に混乱して真っ白だったけれど、私は少し眉をひそめるだけに留めた。心外な、とでも言うように。 「君、何言ってるの?」  あっけないほど普通の声が出た。自分でもよくやったと褒めてやりたいくらいだった。 「この間まで会ったこともなかったよ」  たぶん私はそれだけ、この言葉に命を賭けていたのだと思う。  絶対に他人には知れてはいけない問題なのだと、何度も心に誓っていたから。 「何でそんなことを?」 「だって」  じっと目をそらさずに見てくる私に、入谷君も表情を変えないで言った。 「織さんって僕の父さんに似てるなって、かなり前から思ってたし。この間構内で見た織さんのお父さんってハーフっぽいけど、織さんは純日本人顔だし」  私は苦笑する。 ――とうちゃ。さよもおっきくなったら、かみのけ、きんいろになる? ――ん?  抱っこしてもらって、私が父の淡い色彩の髪を引っ張ると、彼は笑って返した。 ――たぶんな。でも、黒でいいやんか。さっちゃんの髪きれいな色やで。  父は嘘が下手だった。私の周りの優しい人は、みんなそうだった気がする。  父も母も、そして兄も、私が傷つかないようにと守ってくれた。だからなのか、私はまだ痛みに慣れることができない。 「お父さんは、私のお父さん。疑わないで、入谷君」  胸の奥が激しく痛んだ。  誰も触れないでほしいのだ。せっかく皆が作ってくれた私を守るためのガラスのゆりかごを、崩さないでほしい。 「ごめん、言いすぎた。織さんがそう言うなら、疑わないことにする」  私が顔を上げると、入谷君は困ったように首を傾けていた。微妙に目を逸らして、ひどく気まずそうだった。 「けど、そんなに嫌?」 「え?」  きょとんとした私に、入谷君は顔をしかめて続ける。 「いや、だから。もし僕の父さんが織さんの父親だったり、僕が実は織さんの兄弟だったりすること」  言っている意味がさっぱりわからなくて、今度は私が首を傾げる。  考えていた反応と全然違う。前々から不思議な子だとは思っていたけど、入谷君はやっぱり理解不能だ。  数秒の間があって、私はとりあえず質問に答えてみる。 「嫌とか、そういう問題じゃないと思うんだけど」 「そう?」  慎重に返したら、入谷君はぎこちなくも続けてくる。 「僕としては、『何だそんな面白いこともあるんだ、へぇー』……くらいに思ってるんだけどね」 「へ?」  変な声を出して、私は眉を寄せる。  呆れた目を向けて、私は言葉を継いだ。 「父親を疑っちゃ駄目だよ。万が一の場合には家庭崩壊の危機じゃない」 「でもさ」  理解できないとばかりに、入谷君は首を傾げたまま言う。 「昨日母さんに電話してみたら、『ああ、それは大いにありうる話ね。ふふ』って笑ってたし。それに母さんと結婚する前なら、父さんを責めても仕方ないし」 「い、いや。ちょっと待て」  私は混乱しながら止めにかかる。 「色々問題あるんじゃないの?」 「ああ、たとえば父さんの遺産はどうするのかとか? 非嫡出子とか習ったばっかりだったのに、いきなり現実に発生するとはね」  法学部のプライドにかけて思わず条文を頭の中で検索した自分が情けなくなって、私はふるふると首を横に振る。 「いや、そんな遠い未来の話じゃなくてさ」 「だろ? 織さん」  温かい風が私たちの間を通り過ぎて行った気がした。ざわめきに満ちた構内の音が一瞬消えて、しんと静まり返る。 「問題はあるかもしれないけど、それは起こってから考えればいいことで。僕らみたいな子供がどうこうしても関係ないことだよ、きっと」  足を開いて座りなおし、入谷君は言葉を零す。 「悪く考えることはないと思うよ」  訝しげな目をした私に、彼はちょっと笑って言う。 「別に何が変わるってわけじゃないだろ? 拓兄さんの過保護っぷりを見る限り、織さんが織部家から外へ放り出されるなんてありえないし」  ふっと体が楽になった気がした。  理屈で片付けられたわけじゃない。ただ何となく、大丈夫だと思えた。 「もちろん、今更僕が父さんの子供じゃなくなるわけじゃない」  入谷君の口調も気楽なものだった。  その程度で家族は崩れないと信じられる強さを入谷君は持っていて、私も……実は持ち合わせていたのだと今気づく。 「そんな二十年も前のこと引っ張り出して悩むのは、大人だけで十分だよ。僕らは普通に大学生活楽しんで、サークルやってればいいんじゃない?」  入谷君は私とは違う。彼は引け目なんて感じる余地もない場所に生まれて育って、私みたいに常に隠し事をして生きてきた子供の気持ちなんてわからない。  そう拒絶することもできた。だけど私が零した言葉は、あっけないほど単調なものだった。 「かもね」  次いでこくんと頷く。  自分が悩んだことはひどく無為な気がした。生物学上の父親がどこかにいるかもしれない、そしてそれが目の前にいる人の父親かもしれないとわかったところで、何が変わるということもない。 「君もたまにはいいこと言うね」 「たまには?」 「うん……あっ」  鞄の中から携帯を取り出して、私は届いたメールを開く。 「い、伊沢君からメールが!」  懐かしい方言混じりのメールに私は目を走らせながら、みっともないくらいにおどおどする。 「え、えと。あ、発表すること知ってたんだ。うわぁ……」  落ち着いてやりよ、とか、後で報告してな、とか、朗らかに笑う伊沢君が文面の向こうに見えるような気がした。私はせわしなく手を動かしたり耳の上の癖毛をいじったりしながら、ベンチの回りをうろうろする。  ああ、心臓がばくばくする。伊沢君が見に来るというわけじゃないのに。 「何か緊張してきたよ。入谷君」 「うん」  ベンチの後ろから入谷君に声を掛けると、彼はゆっくりと立ち上がる。 「僕はやる気出てきたけどね」 「そう? よかった」  もう先ほどまでのどんよりとした空気はなかった。  些細なことで一喜一憂するのが私なのだから、難しいことはとりあえず脇に置いておこう。どうせ悩んだって、大して私にできることはないのだから。 「失敗する気も失せたよ。素直に受験勉強してればいいのに、暇な奴」  奇妙に低い声で言う入谷君に、私は首を傾げて視線をよこす。 「仕方ないじゃん。伊沢君だって、そうたくさんエールを送れるほど暇じゃないよ」 「……僕はエールがほしいんじゃなくてさ」 「ま、とりあえず返信は昼ごはんを食べながら考えるとして」  携帯を鞄に仕舞って、軽く埃を払いつつ私は言う。 「行こうよ、入谷君。今日しかお好み焼き売ってないよ」 「……うん」  他人から見ればくだらないことかもしれないけど、私にとってはとても楽しかったり心躍ることが、あちこちに溢れかえってる。 「いつまで拗ねてるの?」 「うるさい」  今はそれに夢中になっていればいいのかな。私は入谷君を屋台エリアに導きながら思った。  待ちに待った、私たち「シャ・ノワール」の演奏は、バンド発表の中でも最後の最後に組み込まれていた。  「走る権堂勇像」前にある野外特設ステージにて、クロージングイベントへ向かう人たちも加えての大人数を相手にしてのライブだ。高所から覗き込む観客を含めると、ざっと見積もって三百くらいの人数が確認できる。  時刻は午後三時ぴったりで、曲数は三つだ。  ガチガチに緊張して、前の発表者が終わった後に大急ぎでマイクや楽器をセットした。手が震えて、頭も真っ白で、喉も詰まって、ああもう駄目だと思ったりもした。  だけど千夏ちゃんが軽くドラムでリズムをとって、浅間君がギターを弾いて、入谷君がキーボードに触れた時……私は体を縛るすべてのものから解放された。  生まれ出る歌詞とメロディ。緊張で何もかも忘れたと思ったものが、当たり前のようにメンバーたちの奏でる音に溶けていった。  失敗はもちろんあって、だけどそれを別の誰かがフォローする。半年間の付き合いなのにどうしてこんなコンビネーションが生まれたのかと不思議なくらい、私たちは一つになっていたのだと思う。 ――美幸ちゃん、聞こえる?  そんな中、歌いながら私が考えていたのは、美幸ちゃんのことだけだった。  音楽の師であるジュリオも、父も兄も、由貴さんも、きっと皆どこかでこれを見に来ているのは知っていたけど、それでも美幸ちゃんを想っていた。 ――今はこの程度の歌だけど、来年はもっと上手くなるから。  幼い考えだと自嘲したくもなった。  誰かに見せたい、誰かに認めてもらいたい……それは結局美幸ちゃん一人が相手なんじゃないかと、自分で納得してしまったから。  ……それは最後の歌、エタルの「Lu-Na」を歌う時もだった。  終わりを待ち望むという、今あるものを何より守りたい私にはそぐわない歌だ。ずっとそのままでいてほしいと願う美幸ちゃんに対して送るにも、ふさわしくない曲なのは承知だ。  でも、臆病な私は知っている。段々と、何かが崩れ始めていること。  高校の頃まで、私はこんなに臆病じゃなかった。だって、今みたいにいろんな人と関わり合いになろうとはしていなかったのだから。  心もこんなに不安定じゃなかった。拠り所である家族の元に、ずっと括り付けられたままだった。  いつからこんな変化が始まったのか、今ならはっきりとわかる。  ……入谷君と会った瞬間から、何かが壊れ始めたのだ。  一際大きく千夏ちゃんがドラムを叩いて、曲を終えた。  一瞬の後に、歓声と喝采。飲み込むようなそれに包まれて、私は目を閉じながら立ち竦む。  音の余韻に爽快感と共に浸りながら、私は思う。ああ今一瞬、美幸ちゃんのことすら忘れてしまったと。  だけど次の瞬間には、私はすとんと理解した。私は音に触れる高揚感で、一瞬だけ何も見えなくなっていただけだ。  特別な時はすぐに過ぎる。祭りがたった数日しかないように、終われば後に残るのは甘くぬるい日常。  だから、大丈夫だ。  きっかけを作ったのは入谷君かもしれないけど、「何か」を壊すか壊さないかは私の手に委ねられているのだから。  ……そして私は今の状態でまだ揺られていたいと、願い続けているから。 「よっし、完璧!」 「やったー! みんなおつかれー」  舞台袖に降りてきて、皆それぞれ汗を拭う。  私はタオルを持ったまま空を仰いで、青く広い空だけを瞳に映していた。  クロージングイベントは立見席すら満員で、私は入谷君と会場の外で足踏みすることになった。 「席取っておけばよかったね」  東桜大学は無駄に広いキャンパスと、比類なき生徒数の多さを誇る。だけど他学生まで見学に来ては、一番広いゴンドーホールでも収まらなかった。 「君のお父さんのせいだと思うよ、入谷君」 「そう?」 「ほら、一般の人が多すぎるし」  混乱を避けるために直前になってからYUKIが出演を明かしたとはいえ、どこからか情報は漏れていたらしい。パンフレットを持って双眼鏡を首に下げたおばさんとか、どう見ても大学の文化祭にはふさわしくない人が大勢並んでいたりする。  しかし残念ながら交通整備のおじさんが、「定員オーバー」の札を持って入り口に待ち構えている。今から並んでも、どう頑張ったって私たちは中には入れない。 「ちゃっかり席取りを済ませておいた浅間君ってすごい」 「だね。いつの間に」  先ほどにこやかに手を振りつつあいちゃんと会場へ走りこんでいった狐男を思い返して、私はため息をつく。 「由貴さんのピアノもだけど、ジュリオの歌を聞いてみたかったんだけどな」 「姪なんだし、頼めば歌ってくれるんじゃない?」 「そうだけどさ。ピアノ伴奏つきって面白そう」  ゴンドーホールのレンガ壁に額をつけると、それだけで中のざわめきは伝わってくる。生徒たちや一般の人たちの興奮に満ちた喧騒は、外にいる私を余計にがっかりさせた。 「あーあ」 「仕方ないよ。アイスでも食べよ、アイス」 「うー……うん」  肩を落としてうめく私を、入谷君が慰めてくれる。一緒に残念がる友達がいるというのはありがたいとちょっと思った。  自販機でアイスクリームを買って、壁にもたれつつそれを口に運ぶ。背中ごしに伝わる振動で演奏が始まったのを感じて、私は諦め気味に空を仰いだ。 「祭りの終わりか。早いよね」 「何、織さん。その年食ったような言い方」 「いや。何となく」  飛行機雲が長く尾を引く。しゅっと勢いよくスプレーを吹きかけたように鮮やかな白を残していく。  バニラアイスの口当たりが気持ちよかった。発表で火照った体に染み渡るようで、けだるさもましになった気がする。  美幸ちゃんと兄、それからお父さんもどこかでライブを見ていてくれたらしいけど、どこにいるのかは結局わからなかった。 「クロージング、見たかったな」  何となく終わっていく祭り。それでもいいけれど、最後はしっかり盛り上がりたいと願うのが日本人だ。  未練がましくうめきつつ、アイスを食べ終わった時だった。 「織ちゃん、マコト! ちょっとちょっと」  ホールの裏口から浅間君が走ってきて、息を切らしながら私たちの前で立ち止まる。 「どうしたの? まだ演奏中なんじゃ」 「そうなんだけど。すごい困った事態になってさ。あー、もー」  ぜーはーと息を慌てて整えながら、浅間君は顔を上げる。 「最終の曲目でさ、選抜されたウチの学生がパイプオルガン弾くことになってるのは知ってる?」 「え? ああ」  頷いて、私はそれについての曖昧な情報を口にする。 「確か全日本で金賞取った、すごい連弾ペアがやることになったんだっけ」 「うん。その二人にさ、逃げられたんだ」  唐突な言葉に、私と入谷君は絶句する。 「何で?」 「超有名ピアニストの由貴さんに恐れをなして」  思わず納得してしまった自分に顔をしかめつつ、私は呆れ調子で呟く。 「確かにプロと共演っていうのは緊張するけど。まさかそんな」 「怒りたいのは実行委員の俺たちも同じだよ。でもさ、本当に切羽詰ってるんだ」  浅間君は時計を確認して眉を寄せる。 「あと二十分。何とか代役を立てないと」  彼はじっと私と入谷君をみつめてくる。  また一曲終わったのか、盛大な拍手が壁を通じて背中ごしに聞こえてきた。 「で、これ楽譜なんだけど」  示してきた楽譜じゃなくて浅間君の顔を眺めつつ、私と入谷君は硬直する。 「え?」  つまり浅間君が何を言おうとしているのか察したからだった。 「パイプオルガンなんて私、触ったことないよ」 「僕も」  ふるふると同時に首を横に振って、楽譜を受け取ることを拒否する。 「大丈夫。そう難しい曲じゃないから」 「いや、あのさ。練習ってものが必要だし」 「舞台裏でちょっとだけできるよ」 「連弾もしたことないし」 「いつもサークルで似たようなことしてるじゃん」  交互に入谷君と抵抗しながら、私たちは後ずさりする。  足の裏の土が動いて、背中に当たる固い壁に頭まで付ける。横を見ると、入谷君も同じ体勢になったところだった。 「頼む。泣いても笑ってもこれが最後の演目だから」  ぱんっと景気のいい音を立てて手を顔の前で合わせて懇願してくる。そんな浅間君を見下ろしながら、私は考えた。  最後か。  それがどうしたなんて文句をつけようとは思わなかった。祭りの最後、そのフレーズだけが私の胸を熱くした。 「入谷君」 「うん」  同じことを考えたのかどうかなんて、私にはわからなかった。けれどちょうど入谷君もこちらを振り返るところだった。  涼しくなってきた風が、勢いよく髪をかきあげて天へと上っていく。高く高く、飛行機雲の見える空の向こうまで。 「ま、いっか。やろう」  入谷君と一緒なら、不思議と何でもできるような気がしたのだった。    クロージングがどうなったのかは、とにかく間違えないようにと必死だったのでほとんど覚えていない。 「織さんー、僕ら、さいこーだったよねぇ」 「はいはい」  ただ満足感と、それを入谷君と共有できたという事実だけが残った。 「あー、あたしも沙世ちゃんの演奏見たかったよぉー」 「千夏ちゃん、イッキ飲みはそこまで。ほらマコト、麦茶飲んで」  その夜、東桜大学生ご用達の飲み屋にて、私たちサークルメンバーは打ち上げパーティをやっていた。  甲斐甲斐しく世話を焼く浅間君と、面倒を見られる千夏ちゃんと入谷君。それを傍観しつつも、結局絡まれて巻き込まれる私。今日は他に大学生の団体客はいなくて、騒ぐ私たちは明らかに目立っていた。 「沙世ちゃんーあいしてるよぉー」 「わかってるよ、千夏ちゃん」 「僕もー」 「君は飲みすぎ、入谷君」  たまにはこういうのもいいかなと思った。  年に一度の文化祭だ。普段は自重を何よりにしていたい私でも、時々はこうして皆とふざけあう機会が欲しい。最近はサークルの飲み会で騒ぐ機会もなかったし特別感もある。 「織さん冷たいー」 「君が熱くなりすぎなんだよ」  首に手を回して圧し掛かってくる入谷君も、特殊な時だから許してやることにする。  ……もちろん、明日になったらグーで殴る。 「ん。浅間君、そろそろ帰ろうよ」 「はいはい。お疲れ様、織ちゃん」  無駄なほど酒に強い男、浅間君が立ち上がって、あらかじめ集めておいたお金で支払いを済ます。その間、私は絡んでくる入谷君を宥めつつ、ぼんやりとジョッキに残ったサワーをみつめていた。 「あー、千夏ちゃん寝ちゃったね」 「ほんとだ。寝顔可愛い」  既に寝息を立てている千夏ちゃんを見て、私は苦笑する。  疲れていたのは皆一緒だ。ずっと自分のことばかり気にしていたけど、千夏ちゃんだって随分緊張したに違いないのだから。 「仕方ないか。家は知らないし、とりあえず千夏ちゃんは彼氏君のバイト先まで送ってくよ」 「ああ、お願い。私は入谷君送ってから帰るから」  今までにも酒に弱い入谷君を寮まで引き摺っていったことがあるし、それくらいの面倒は見て当然と思っている。  だけど浅間君は露骨に眉をひそめて言った。 「織ちゃんだけじゃ危ないよ。どうせ俺も寮に戻るんだし、ここで待ってて」 「大丈夫。意識はしっかりしてるし、あまり遅くなると終電が無くなる」  軽く笑って手を振る。浅間君は少し渋ったけれど、寝てる千夏ちゃんを送るのは浅間君しかできないと説得したら、何とかわかってくれたようだ。 「ふう」  心配されるのに悪い気はしない。だけど女の子扱いされることには抵抗を感じる。浅間君が相手だと余計だ。  つい頼りたくなる優しさは心地いい。あいちゃんは浅間君のそういうところは嫌いみたいだけど、私はそれに魅力以外のものを感じない。 「織さん、それ何のため息?」  だから最近は、ちょっとだけ息苦しいのだ。あの優しさを独占できるあいちゃんがひどく羨ましく思う時があるから。 「疲れてるんだよ」  入谷君の問いに適当な答えを返して、私は彼を首に巻きつけたままテーブルに突っ伏す。 「で、頼むから入谷君、どいて。重くて立ち上がれません」 「やだ」 「コアラじゃないんだからさ」  くだらない会話をしつつ、私はぐったりとする。  ああ、眠い。だけど入谷君を送る一仕事が残っているし、こんな場所で力尽きるわけにもいかない。 「マコ。帰ろう」  だるくて起き上がれない私を助けるように、急に入谷君の重みがなくなった。私は額をテーブルにつけたまま横を向いて、声の主を確認する。 「あ」 「どうも、ご迷惑をお掛けしております」  ぺこりと頭を下げて、由貴さんが申し訳なさそうにそこで立っていた。クロージングイベントの時のような黒いスーツ姿じゃなくて、ラフなトレーナー姿に財布を持っただけの格好だ。 「いつの間に?」 「ええと、その」  眠たげに瞼を閉じかかっている入谷君を座らせて、本日ジュリオの次に輝いていた名ピアニストは言いよどむ。  私はその困り顔をみつめながら起き上がって、何気なく尋ねた。 「もしかして、ずっといました?」 「……まあ、少々気になって」  隅の方で、陽気に酒を煽っている愛息子をはらはらしながら見守っていた彼を想像して、私は苦笑する。ちょっとだけ、可愛い人だと思ってしまった。 「マコ。歩ける?」 「うー……」  父親を確認してむっとしながらも、抵抗する気力はもうないらしい。大人しく肩を支えられて、少し左右に揺れながら文句を呟く。 「自分で帰る……」 「ああ。わかったわかった。一緒に帰ろうな」  適当に宥めながらも、由貴さんは手を離す気はないらしい。  親子っていいなと、ここにいない父を思いながら私は席を立つ。 「じゃあ、私はこれで」 「待ってください」  だけど呼び止められて、私は首を傾げながら振り返る。 「車なので送っていきます」 「いいですよ、そんな。慣れた道です」  すぐさま断ろうとした私に、由貴さんはわかっていたとばかりに頷く。 「ジュリオに頼まれてますから」  そこまで言われて抵抗する気にはなれなかった。 「では、お言葉に甘えて」  私は頷いて歩き出す。そのまま、外にあった車に三人で乗り込んだ。  入谷君は後ろで寝かされていて、由貴さんは運転。そうなると自然に私は助手席に座ることになる。  発進してからしばらくは何も会話はなかった。私も眠くて頭の回転が遅かったし、私たちの仲を取り持つべき入谷君はすぐに眠ってしまったから。  だけど何度目かの信号で止まった時、由貴さんが口を開いた。 「びっくりしましたよ。最後の演奏、織部さんと真が担当するとは聞いていなかったので」 「あ、ああ。それはですね」  瞼が重くなっていた私ははっとして、苦笑しながら事情を説明する。信号待ちで振動するシートに背を預けながら、由貴さんも頷いて聞いていた。 「どうなることやらと思ったんですけど、意外といい出来で。入谷君と笑ってた所なんです」  終わった直後には、ジュリオにも褒められた。さすがボクの弟子と言われて抱きしめられて、私も照れながら彼を抱きしめ返した。  観客はじっくり見る余裕もなかったけど、喝采を聞く限りでは悪くなかったと思う。賭けみたいな演奏でも、私は十二分に満足だった。 「良い出来どころではありませんでしたよ」  ハンドルを握り締めて、由貴さんは前を見据えたまま呟く。 「どうしてピアノをやめたんですか?」  その問いかけに、私は不思議な思いを抱いて彼を振り返った。由貴さんは静かにハンドルを指先で叩いて、規則正しいテンポを刻む。  この仕草はやっぱり入谷君に似てるなと、私は沈黙しながら思った。 「ピアノを真剣に学ぶ環境がなかったからだというなら、惜しいことです」  由貴さんの指摘は、きっと間違っていない。  母は私がピアノの道に走っていくことは望んでいなかった。私もどこかでそれを感じ取って、外へ出るのを拒んでいた。 「……違いますよ」  だけどこれだけははっきりと言える。 「ピアノをやめたのは私の意思で、他の何かが悪かったわけではないんです」  作曲を心に秘めたまま誰にも言えなかったのは、結局のところ私に執念が足りなかったのだと思う。美幸ちゃんやお母さんのせいにして、逃げてばかりだったけれど。 「じゃあ」  急に由貴さんが切り出した。 「もう一度自分の意思で、戻ってくる気にはなれませんか?」  息を呑む私の横で、由貴さんは車を発進させる。相変わらず、前を見据えたままだった。  ピアノに生涯を捧げた者としての強い言葉だ。それがどれだけ重いかを理解しておきながら、彼はためらうことがなかった。  どうして私にそこまで勧めるのか、私は聞き返すことができない。由貴さんもそれ以上言葉を続けることがなくて、車は止まることなく走り続けた。  いつしか見慣れた道に入って、間もなく寮の裏側に到着する。 「どうもありがとうございました」  頭を下げて、私は鞄を持ってシートベルトを外す。酔いで体はだるかったけれど、これ以上長居をするまいと奇妙に素早い動作だった。 「織部さん」  彼は財布から小さな四角い紙を取り出す。そこには名前と連絡先が書かれていた。 「私、若い頃の名残でまだピアノ教師をやっています。よろしければどうぞ」  差し出されたそれを、私は信じられないもののようにみつめる。  誰もが憧れるピアニスト。目の前に現れることすら奇跡みたいなものなのに、その人が私にピアノを教えてくれるという。 「もったいないです」  心が揺れたのは、悔しいけれど私が弱いからだとわかっていた。その甘すぎる誘いに、つい乗ってしまったのだから。 「ありがたく」  頂こうとして、手を伸ばす。  私はどうしてもこの人と繋がりを絶ちたくないのだと、今初めて自覚した。  だけど私の手がその名刺に触れた瞬間、由貴さんはふいに私から目を逸らしてフロントガラスを眺める。  どうしたんだろうと私も視線をよこすと、夜道の向こうから誰かが歩いてくる所だった。暗くて良くは見えないけれど、由貴さんはそれに目を細める。 「そういえばジュリオには、美幸という名前のお嬢さんがいましたね」 「え? はい」  突然の話題の転換に、私は名刺へ手を伸ばしたまま頷く。 「由貴さんの名前から取ったらしくて。ジュリオの奥さんは由貴さんの崇拝者ですから」 「懐かしいですね。彼女にピアノを教えたのはずいぶん前です」  軽く由貴さんも頷いて、前をみつめたまま呟く。 「私の名前、本当はヨシキと言いますが、皆ユキと呼びます。自分では女の子の呼び名のようであまり好きではなかったのですが、ある時、呼びやすいので芸名にしようと」  耳に新しい話題に、私は緊張を解いて答える。 「いいですね、海外にも通用しますし」 「ええ。そう教えてくれた人がいて、初めてその名前が好きになりました」  由貴さんはそこで私を見た。 「でも、ユキと呼ばれる人はとても多いんです。だから、やはりこんな芸名にするものじゃなかったなと思うこともあって」  私はその視線に身が竦む。ただの軽い話題のはずなのに由貴さんの口調は真剣だった。 「どうしてですか?」  ためらいがちに問いかけた言葉に、由貴さんはふっと笑った。それはひどく苦々しい笑みだった。 「大事なものを取られたことがありまして。やはりユキと呼ばれていた人に」  彼は再び前を向いた。その視線の先に、浅黒い輪郭が浮かび上がる。  私は声を洩らすところだった。暗くてあちらはまだ気づいていないようだったけれど、その姿は見間違えるはずもない……私の父だったから。  会社帰りらしく少しよれたスーツを着て、兄のアパートの階段を上ろうとする。それを、私は息を詰めて窺う。 「あちらが、織部さんのお父様ですか?」 「はい」  多少慌てて答えた私に、由貴さんは沈黙する。横目で窺うと、彼は表情を消して暗がりを見つめたままだった。 「じゃ、じゃあ。これで失礼します」  私は素早く名刺を彼の手から抜き取ると、由貴さんに背を向けて車の扉を開く。 「織部さん」  だけど小さくため息をつく気配がして、私は中途半端に足を車の外へ出したまま振り返る。 「……それは、本当に?」  何もかも足らない言葉だった。文脈すら、曖昧なままだった。  だけど何となくわかってしまった。この人は、父と私に血縁関係がないことを見抜いてしまっていると。  ……そしてそれはたぶん、ずっと前から。 「本当です」  だから一言呟いて、車の扉を閉めた。そのまま、アパートの兄の部屋の前で立っている父の元へと走る。 「お、さっちゃん」  振り返った父の前で、私は一度足を止める。その日本人離れした長身を、静かな思いでみつめる。 ――おかあさん。このしゃしんのひと、だれ?  古い記憶を目を細めて思い出す。もうあの写真はどこにあったのかすらわからない。 ――ユキって、みゆきちゃん? ――ううん。違うわよ。  確か母は笑いながら言ったのだ。 ――ひろゆき。お父さんをね、お母さんはユキって呼んでたの。  もしかしたらお母さんは悪女かもしれない。お腹に私を抱えて結婚したのに、私の実父のことはほとんど口にすることがなかったから。  そしてお父さんは、私の実父のことを頑なに否定し続けた。  だけど今の私にとっては、そんなことどうだっていい。 「さっちゃん? 今どこから来たんや?」 「裏道からだよ」  そっけなく答えると、父は眉を寄せて顔をしかめる。 「危ないで、ちゃんと大通りから帰らないかんよ」 「はいはい」 「あー、拓磨まだ帰っとらへんな。鍵開けて入っとろ」  ぼやきつつ、父は鞄の中から合鍵を探す。私はその背中をじっと見つめて、そして無意識にそれに縋りついた。 「な、何や、さっちゃん」  背中に貼りつく私に、父は困惑顔で振り向く。私は相変わらずくっついたまま、目を閉じて言った。 「父さん。お祭りは終わっちゃったよ」 「ん?」 「ぜーんぶ、もうおしまい」  くしゃりと手の中で由貴さんに貰った名刺を握りつぶす。 「ただいま、父さん」  ごわごわするスーツの感覚を頬に受けて、私は笑う。 「さっちゃん、酔っとるな?」 「うん」  にこにこと頬を緩ませて、私は頷く。それに父は口元を歪めて、くしゃくしゃに私の頭を撫でた。 「とうちゃ、だっこ」 「……さすがにそれはちょっと勘弁してな。父ちゃん、年やし」  酔いが覚めたら、私はこんなに素直にはなれない。だから今の内にたっぷり甘えて、明日からは日常に戻る。  大切なものはここにある。だからもう祭りは必要ないのだと、私はその夜心に誓った。
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