9 ボーダーライン

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9 ボーダーライン

 文化祭が終わって一月が経った。十月は、木々が紅に染まる秋の盛りだ。  父は実家へ帰っていき、由貴さんは海外へ公演に出かけていったらしい。入谷君はますます忙しそうにしていて、浅間君も千夏ちゃんも、皆日常に戻っていった。 「今晩は、ジュリオ」 「あ、さっちゃん。ちょっとミユの夕食取ってくるよ」  でも変わったこともあった。  せいぜい月に一度くらいにしか戻ってこない、場合によっては半年くらい留守にするジュリオが、いつまで経っても美幸ちゃんの病室に出入りしていたことだ。 「最近、ジュリオをよく見かけるね」  文化祭で知ったことだけど、彼は私が思っていたより売れっ子の歌手だったらしい。由貴さんの知名度には敵わなくても、出身地のイタリアならかなりの仕事があると聞いた。 「まだ引退っていう年でもないのに」  私が何気なく言うと、美幸ちゃんが小さく頷く。彼女は背中にクッションを入れて、目を閉じたまま沈黙した。  まただと私は思う。  最近の美幸ちゃんはあまりしゃべらない。父親が大好きな彼女がこうしていつも側に父がいてくれるという事態を喜ばないはずがないし、私がお見舞いに来る度に優しく微笑んでくれたはずだ。  文化祭の後にお邪魔した時は私以上に興奮していて、繰り返しビデオを見て笑っていた彼女が、随分遠いように感じる。 「ねえ、さっちゃん」  一月という短い時間で、木々は真っ赤に染まる。 「明日からもうお見舞いには来ないで」  ……その時、美幸ちゃんも何かが変わった気がした。  息を呑む私の前で、彼女は瞼を開く。どこか空ろな眼差しで私を見据えた。 「辛いの。さっちゃんを見続けること」  言葉を発することのできない私に、美幸ちゃんは淡々と続ける。別の人格にすりかわってしまったように、無機質な声で言う。 「さっちゃんは元気に大学へ行けて、友達もいっぱいで……ピアノも弾けて。妬ましいと思うことが、最近多いの」  それはもっと前にぶつけられてもおかしくない言葉の数々だった。彼女の不幸な境遇を思えば、私は甘んじて受け止めなくてはいけないものだ。 「ずるい。私はこんな体なのに、さっちゃんばっかり」  ああ、でも覚悟が足りなかったんだろうか。  喉元で言葉が詰まって、指先が震える。膝の関節が壊れそうで、無数の長い針で体を何度も貫かれるような激痛が走る。 「さっちゃんなんて嫌い。出てって」  私はあなたの優しい以外の表情と言葉に、慣れてないから。 「……ご、ごめん」  口から漏れたのは、ぎこちない三文字だけだった。もう彼女の顔を見ることすらできずに、私は地面に足が付いているのかさえわからないような歩き方で病室の外へと出る。  扉を閉じても、私はまともに呼吸をすることができなかった。いつも気になる消毒液の匂いも、道行く看護師さんたちも、少しも私の心に留まってはいかない。  何が起こってるんだろう。  震える手首をもう片方の手で押さえても、両方が小刻みに震えだすだけだ。いつまで経ってもそれは続いていた。 「さっちゃん。ミユが何か言ったの?」  ふいに声を掛けられて、私は顔を上げる。  淡い茶色の癖毛に優しい紅茶色の瞳が私を見ていた。美幸ちゃんによく似た顔立ちの彼を、私は思わず縋るような目で見返してしまった。  一度ごくりと唾を飲み込んで、私は口を開く。 「もう来ないでって」 「そう」  病人食をトレイに持ったまま、ジュリオは静かに頷く。  点滴を腕につけた人がぎこちなく歩いていった。どこかでサッカーでも見てるのか、テレビの雑音と歓声が聞こえてくる。 「ごめんね」  ジュリオはただ立ち竦んでいた。その表情には疲れた、諦めすら映っていた気がした。  彼は目を伏せて小さく呟く。 「美幸はね、もう長くないから」  思考が止まった。  彼の言葉の意味なんてわからなかったのに、私の耳はしっかりとその声を捉えてしまったから。 「え?」  聞き間違いだ。純粋にそう思った。  だけどジュリオは一度言葉を切って、また囁くように言う。 「新年はボクらと一緒に、迎えられない。そう医師に聞いた」  新しい年と聞いて、私は停止した頭の中で計算する。  十月から新年の始まりまで、あと何ヶ月?  小学生でもできるような足し算なのに、私はなかなか答えを出すことができない。  私は床を見つめる。ぴかぴかに磨き上げられた、綺麗な青いタイルだった。それは蛍光灯に反射して白く輝く。  病院に赤色がないのは不吉だからだろうか。そう思い当たりながら、私は呟く。 「嘘だ」  人が歩いて行く。目の前を過ぎて、いつの間にかいなくなる。  四月に東京へ来た。それから七ヶ月経ったけど、あっという間だ。  十八年前に私は生まれた。それだって、記憶に残らないくらいめまぐるしく通り過ぎていった過去。  残り三ヶ月って一体、どれくらいの時間なの?  ……教えてよ、誰か。 「ミユが八歳で発病した時は、十歳まで生きられないと言われてた」  ジュリオは私の思いなんて関係ないように、淡々と言葉を紡ぐ。 「でも乗り越えた。次は十五歳で、やっぱりあの子は元気だったし。二十歳だと言われた時も、ボクより先になることはないだろうと。何度も何度も否定したし、その通りになったんだ」  独り言に違いなかった。彼自身も、自分で何を言っているのか理解していない様子なのだから。 「だから、嘘だよ」  目だけを上げて叔父を窺う。彼はそこで初めて顔を歪めて、口を引き結んで声を振り絞る。 「嘘なんだよ。今度も、次も、その次もずっと……終わったりなんてしないよ」  自分に言い聞かせるように告げて、彼は少しだけ笑ってみせる。 「ミユは優しい子だから。後何年って宣告される度に、『パパ嘘だよ』って言ってくれるんだ。ボクが出かける時いつも、お土産楽しみに待ってるって」  彼はトレイをきつく握り締める。 「今回も、待ってるんだ。きっともうすぐ、嘘だって言ってくれるはずだから」  ジュリオと私は彼を呼んだ。だけど彼は首を横に振って私から顔を背ける。もう話すことなんて何もないとでも言うように。  だから私もそれ以上言葉にしないで、その場を通り過ぎた。単調な白い廊下を止まらず歩いてエレベーターに乗り、やはり白い出口から外へ出る。  自動ドアを出たら、車と人の声が溢れ返った。紺色の空の下は眩しい程のネオンで、生ぬるい空気にけばけばしく揺れている。  ぽたっと頬に冷たい感触を受けて、私はそこへ手をやった。  ああ、濡れてる。  そう無感動に思った時には、もう片方の頬にも同じ感触。  雨だろうかと、空を仰ぐ。だけど二度と、水滴は降ってくることがなかった。だって空気は、喉が引きつれるくらいに渇いているから。  それなのに両頬には、二つの筋が流れていく。目から溢れて真っ直ぐ顎まで、そこで一度留まって、コンクリートの地面へ落ちる。 「通り雨か……」  無機質な言葉は、乾いた秋の空気へと静かに溶けていくだけだった。  自分に余裕がない時は、周りの人を気遣うこともできない。  誰かに助けを求めたい、縋りたいと願う時に限って他人に辛く当たるから、余計に孤独になる。それは理屈では大抵の人がわかっていることだ。 「入谷君、携帯鳴ってるよ。マネージャーさんからじゃないの?」 「……」 「入谷君ってば」  わかっていながら、どうしようもない。気を配ろうとしても上手くいかない。 「出たくない」 「駄目だよそれは。仕事なんだから」 「織さんには関係ないだろ」  棘のある言葉で返されて、私は眉を寄せる。 「色々あるんだよ、僕も。ほっといて」  ちょうど私と入谷君も同時にその時期に当たってしまったようだった。  サークル部屋に来るなり不機嫌な彼と鉢合わせて、押し問答のような不毛な会話をする羽目になる。 「わかった。けどそれならさっさと帰れば? 私も君の相手をしてる程暇じゃないんだから」  やっぱり私も冷たい口調で返してしまう。それがもっと彼を苛立たせるとわかっていても。  大体、浅間君も千夏ちゃんも今日は来られないと言っていたのだから、私たち二人だけいても仕方ないのだ。もう祭りは終わっていて大急ぎで練習することは何もないし、せいぜいちょっとキーボードをいじって雑談する程度。 「メンバーと上手くいかないこともあるんだ」  入谷君は立ったままベージュの壁に背を預けて腕組みをする。 「織さんにはわからないよ。芸能界、色々難しいんだから」  それなのにサークル部屋へ来てしまったのは、誰かに聞いて欲しい相談があったからに違いないのだ。入谷君も、私も。 「そう」  私は彼の声に負けないくらい、苛立ちを押し殺したような低い声を出す。 「わからないね。君のことなんて、さっぱり」  きっと本当に困った事情があるんだろう。いくら入谷君に子供っぽい所があるとはいえ、今日の彼はまた随分と落ち込んでいる様子だったのだから。  ……だけど追い詰められてるのは、私だって同じなのだ。 「子供じゃないんだから、自分で何とかしなよ。バイバイ」  それができないから相談しに来たのだとわかっていながら、私は踵を返してサークル部屋を後にする。  入谷君は私を呼び止めなかったし、私も振り返ることをしなかった。お互い、そこまで自分は幼くないと意地を張りたかったのだと思う。  サークル棟を出てぬるい外気に触れると、不快感はますます募った。靴の裏に張り付いたガムみたいな、どこまで行ってもベタつき感が全身に付き纏う。  美幸ちゃんの余命。短いフレーズが頭の中を駆け巡り続けていた。  どうしようと考えても、私にはどうしようもない。誰に相談したからといって、解決してくれるわけもない。  それでも友達に話せば、少しは楽になる気がしていた。それは何の保証もない気休めだとわかっていても、じっとしているよりはましだと思って。  けどうまくいかないときは重なるものだ。  ここ一週間まともに千夏ちゃんやあいちゃんに会う機会がなかった。相談相手として何より頼りになる浅間君も、ほとんど顔を見ることすらない。電話やメールでわざわざ言うのも気が引けて、悶々とする日々が続いていた。  脆いなと思う。私が作り上げた立場の弱さを実感する。  何でも話せる友達なんていないし、独占していい男の子もいない。先輩や先生にそんな強い繋がりを作ろうともしなかった。  帰ろうとして、坂道の方へと入る。駅までは上り坂で、普段から慣れている道なのに酷く疲れを感じた。  ひとまず足を引き摺るようにして前へ進んだ。だけど数歩で止まってしまう。  携帯電話を取り出して、私は一つの番号を呼び出した。着信音が鳴って、やがて馴染んだ声が通話口に出る。 『何だ、沙世』 「兄ちゃん」  考える間なんてない。だけど自然と、言葉は私の口から零れ落ちた。 「遊びに連れてって。兄ちゃんのいつも行くとこでいいから」 『……は?』  困惑する兄へ、私は止まらずに続ける。 「多少危ない所でも何でもいいよ。兄ちゃんにしっかりくっついてるから」  思いつきだったけれど、言ってみてからいい考えかもしれないと思った。  誰かに気を遣うのは疲れていた。だからとにかく甘やかしてもらえる所へ行きたいと願った。楽しめるとか有意義とか、そんなことは必要ない、ただ落ち着く場所へ。 「邪魔しないから。とりあえず兄ちゃんのいる所がいい」  駄々っ子のように呟く私に、短いため息が返される。  馬鹿だなこいつ、と呆れたような間があって。 『わかった。来いよ』  兄はつまらなそうに言ってきた。 『とりあえず新宿まで迎えに行ってやる。そこで待ってろ』  私は久しぶりに自然と笑った。次いで、くるりと踵を返す。  いつもとは反対、帰り道とは逆方向にある駅へと歩き出した。  やっぱりというか、兄が連れて行ってくれたのは若者連中の派手なクラブだった。クラブと言えば聞こえはいいけれど、要するにやばそうな兄ちゃんとかけばいお姉ちゃんとかの溜まり場だ。  八十年代から九十年代くらいのディスコをイメージしたような、きらびやかでありながら古い雰囲気も漂わせる狭い店内で、無数の若者が飲んだり踊ったりしてひしめき合っている。  店に踏み込むなり、私は兄の袖を引いて尋ねた。 「私、踊れないよ。何してればいい?」 「だから来ても面白くねぇって言ったろ。隅で大人しくしてな。後でダチを紹介してやるから」  それでも帰れと言わないのが不思議だった。四月の上京したての頃だったら私を友達に会わせるのだって渋る兄だったのに、目の届く範囲内なら遊ばせてやろうという意思が見え隠れする。 「拓磨じゃん。あれ、そっちは?」 「これか? 連れてけってうるせぇんだよ。気にすんな」  何人かがすぐに兄に気づいて集まってきたけど、彼はぞんざいな答えを返すだけだ。それに却って興味を持ったのか、五、六人の好奇の目が私に集中する。  タンクトップから派手な花の刺青が覗いてたり、かなりきわどい場所にピアスやクリップがついてたりと、中々にファッションにはこだわりがありそうな人たちだった。強面ではないけど変に色白だったり痩せてたりして、正直なところカッコイイとは思えない人たちだ。 「へぇー」 「いいじゃん。初めて見る子だな」  きょとんとしている私を可笑しそうに見やって、彼らは含み笑いをしながら目配せする。それに、兄は軽く私の頭に手を置いて返した。 「見た通りチビだからな。唾つけんなよ」  彼らは何かを感じ取ったのか一瞬だけ表情を消す。私は首を傾げて、横に立つ兄を不思議そうに見上げた。 「俺の妹だからな」  兄は薄く笑っているだけだった。からかっているような雰囲気しかないし、怒り出すような口調でもない。 「わかってる。冗談だって」  それなのに彼らの表情に浮かんだのは畏怖に近い感情で、私は目をぱちくりとさせるだけだった。  見た目はやばい兄だけど、いきなり殴りだすような凶暴さはない人だ。何もそこまでびくびくしなくていいのに。 「大人しくしてろよ」 「うん」  面倒くさそうに私の頭をぐりぐりして、兄は側にあった椅子に座らせる。そのまま彼は友達か子分かさえ不明な人たちを連れて中央へと行くのを、私は黙って見送っていた。  広さはいつも行く兄のバイト先の三倍くらいで、奥まではちょっと見渡せない。わりと静かなテクノやポップが流れて、古臭い空気には良く似合う。  変に感傷的なメロディは敬遠したい時もある。普段の喧しくて怒号に近いパンクミュージックなら頭の感覚が麻痺するけど、今耳に入るのは思考を遮らない隙のある音楽だ。  無為な音楽は刹那的で、未完成だからこそ好き。  だけど至上のメロディが恋しくなることもある。入谷君の歌、由貴さんのピアノ、美幸ちゃんの……。 「沙世」  思わず顔を歪めそうになった時、いつの間にか兄が側に来ていたことに気づく。それに私はほんの少しだけ迷いを抱いた。  美幸ちゃんのことを兄に話すべきなのか。言うとしたらどうやって。  だけどすぐに兄が私より遅れて知ることなんてないはずだと思い直す。 「何?」  座ったまま顔を上げる私の目に、浅黒い輪郭以外のものが映った。ミラーボールが眩しく反射して、私は目を細める。 「は、初めまして。沙世さん」  まだ輪郭のはっきりしていない逆光の中、私の目の前で慌てて頭を下げた男の子がいた。  顔を上げると、声と同じく幼さの残る十台の少年だった。奇抜な髪型やファッションの入り乱れる店内では浮いてしまう、控えめな茶髪に小さなピアスだけが装飾品で、かなり貧相なジーンズとTシャツに包まれた細身の体だった。 「初めまして。拓磨の妹の沙世です」  なんとなく立ち上がって、私も頭を下げてみる。何をさせたいのかは不明だったけど、条件反射みたいなものだ。  子供みたいな挨拶を交わした私たちを、兄は笑いを噛み潰しつつ見下ろしていた。私はそれに顔をしかめて不機嫌に問いかける。 「どちらさん?」 「お前と同じガキだ。っつっても、ここではお前よりずっと先輩か」  兄は軽く少年の頭を肘でどつきながら、ふざけた調子で声をかける。 「馬鹿、頭下げんなよ。何恐縮してんだ」 「えっ、あ、すんません」  おろおろする少年が面白くて私も少し笑うと、兄は横目で私を確認してから彼に向き直る。 「テツ。適当に面倒みてやれ。年が近いし話も合うだろ」 「え?」  突然どうしたんだ、兄ちゃん。いつもガキだって言って私のこと蚊帳の外にするくせに。 「あ、はい。もちろんです。もちろん」  眉を寄せた私と兄を見比べて、テツ君とやらは繰り返し頷く。その上下運動はさながら振り子を思わせて、彼が兄に全く逆らえない立場であることが簡単にわかった。 「じゃあな」  ぞんざいに言い捨てて、兄はさっさと仲間たちの所へ戻っていく。そのまま談笑しながら飲み始めて、他と同じように音楽に揺れていた。  結局よそ者扱いされていることがわかって、私は口元を一文字に引き結んだ。確かに邪魔しないとは言ったけど、これじゃ完全に私は厄介者だ。 「テツ君」 「あ、はい!」  振り返って、動揺する少年へ顔をしかめたまま向き直る。 「遊んできていいよ。私はここでぼーっとしてるから」 「い、いや。そういうわけにも」  わかっていたけど慌てて反対してきた彼に、私は一つ頷く。 「じゃ、とりあえず兄の目が届かない所まで移動しようか。そこで解散」  先に立って、私は店の奥まで歩いていく。聞きなれない音楽が大きくなり、見慣れない人たちがちらちらと私を窺っているのは感じていたけど、別段それは気にすることがなかった。兄の言う通り、自分が子供っぽく見えることは理解していた。  照明の落ちた壁際まで来て、私は立ち止まる。背を灰色のコンクリート壁につけて腕組みをすると、しっかりついてきた少年をじろりと見やった。 「しつこい」 「すんません」  謝りつつも去る気配のない彼に、私は深いため息をつく。 「……わかったよ」  テツ君にも立場というものがあるだろうし、ここは私が折れるべきなのかもしれない。そもそも、独りになりたくてこんな場所まで来たわけじゃないのだ。 「テツ君は年いくつ?」  話題を振ると、彼は私が話しかけてきたことにほっとした表情を見せた。 「二十歳です」 「嘘だ。十五くらいでしょ」  私より年上であるわけがないと確信を持って返すと、彼はちょっと困ったように苦笑した。 「十七です」 「高校は?」 「行ってません」 「そう」  私は横目で、私よりほんの少し背が高いくらいの少年を見やる。 「何でこんな所に来てるの?」 「楽しいからです」 「どうして?」 「質問ばっかりっすね。沙世さん」  君が質問してこないからだよとは答えず、私は黙って先を促す。 「楽しいに理由は要らないじゃないっすか。有意義とかより、ずっと単純」 「なるほど」  適当に頷いて、私はカマを掛けてみる。 「で、この道には兄に引きずり込まれたんだ?」  そう問いかけた途端、今まで緊張した面持ちで答えていた少年が顔を綻ばせた。 「そうです」  眩しいものを見るように兄がいる辺りを仰ぎつつ、テツ君は頷く。 「オレ、拓磨さんみたいになりたくて。すげぇかっこいいじゃないっすか」  自分のことをオレという言い方は、珍しくもないのにひどく幼く聞こえた。  崇拝の色合いが濃い彼の声に、私は呆れて首を傾ける。 「どの辺が? 図体がやたら大きいだけだよ」 「いや、カリスマっすよ、カリスマ。頼りになるとか以上に、何かこう、オーラが出てるじゃないっすか」  何だそれ、わからないな。  ますます眉を寄せる私に、少年は興奮した様子で続ける。 「沙世さんはわかんないっすか?」 「うん。さっぱり」  即答して、私はテツ君を振り返る。 「君が兄を好きだということしかわからない」 「……え?」 「男ということが一つの難関だね。その気は兄になさそうだし」 「え、あの、いやその」  淡々と言葉を紡ぐと、少年は私の言いたいことを察したのか慌てて首を横に振る。 「違いますよ! 男として憧れるってことに決まってるっすよ」 「ふうん」  ちょっと考えが飛躍しすぎたかと反省して、私は頷く。 「オレたちの兄貴分ですから。仲間内でも尊敬されてます」  そこまで言って、テツ君は少しだけ変な顔をして私を見る。 「でも、女から見るともっとすごいでしょ。沙世さんも思いません?」  いや確かに、兄は噂によればモテるらしい。  私はぷっと吹き出して、軽く答える。 「全然」 「え?」 「私が何か感じたらやばいじゃん」  どう頑張ったらあの趣味悪い兄がかっこよく映るんだろう。小汚いし、品が無いし、性格歪んでるし。 「さっきから考えてたことなんだけど、訊いていい?」 「はいはい。何でもどうぞ」  フロアのミラーボールの下くらいを指差して、私は尋ねる。そこにはふざけあっている男女の中心にいる、兄の姿があった。 「兄ちゃんの彼女って、どの人?」  これは先ほどどころか、四月に上京して以来の謎だ。 「入れ替わり立ち替わり、いろんな女の人と話してる気がするけど」 「あー……」  目を逸らして言葉に詰まる少年に、私はそっと付け加える。 「いや、答えにくいならいいよ」  上京してすぐ、私は深夜に兄のアパートから出て行く女の人を見た。  けど一週間後には別の女の人と街を歩いているのを目撃して、さらに兄の携帯に電話したらまた違う女の人に誤解されて怒鳴られたこともあった。  半年間、関係があると推定される女の人は二十人を超える。いくら交際経験のない私でも、兄がつくづく女癖の悪い男であることくらいは察しがついている。 「ただ、本命くらいいてもいいんじゃないかと思って」  遊びまくっているなら、却って特定の相手はいないのかと疑ってしまう。これは純粋な興味だ。  ……いや本当に、ただの興味だ。決して嫉妬なんかじゃない。 「いますよ。皆知ってます」  少年を振り返って見ると、彼は苦笑して頷いた。私はその即答に少なからず驚いて目を見開く。 「え、今日も来てる?」 「はい」 「あ、待って。当ててみせるから」  短く制して、私はきょろきょろと辺りを見回す。  あの派手な金髪の人は見覚えがあるなと思ったり、今兄としゃべってる人って大人しそうな人だけど以前に私を怒鳴りつけたことがあったと思い当たったり、とにかく色々と考えを巡らせる。 「んー」  どの人とも親しそうだけど、殊更誰が際立ってるということもない。普通にふざけて兄に甘えてみたりとか、一緒に踊ってたりとか、せいぜいその程度だ。  また別の曲に変わった時に、兄が何かに気づいたように移動する。数人の間を通り抜けて、ある場所で立ち止まる。  そのまま兄が頬に笑みを浮かべて手を伸ばすのを見て、私は何だか複雑な気分になった。 「……あの人だ」  ショートカットの黒髪で、すっきりした顔立ちの美人だった。普通の女の人より少し背が高くて、服装は他の人に比べてずっとシンプルなブラウスとスカートなのに、どこかドキリとさせるような艶がある。  その彼女が涼やかな目元を少しばかり歪めて、拗ねたように兄を見上げる。今頃私に気づいたの、と責めるような眼差しに、兄が困ったように肩を竦めるのが見えた。  今度こそ紛れもない胸の痛みを感じて、私は短くテツ君へ問いかける。 「あの人は?」 「絵梨さんです。まあ、拓磨さんとは結構長い付き合いっすね」  急にこの場にいるのが苦痛になってきた。  やだな。彼女くらい、いてもおかしくないのに。それを今知ったのは遅すぎるくらいなのに、訊かなきゃよかったと後悔する。 「でもあの人、ナンバーツーっすよ」 「二番目?」  暴走族じゃないんだからと苦笑しながら、私は半信半疑で続ける。 「じゃ、ナンバーワンはどこへ?」 「わかんないっすか?」  逆に問いかけられて、私はぐるりと辺りを見回す。光が取り巻いて音が溢れかえるその空間で、ふいに私は道に迷ってしまったような孤独感に沈んだ。 「わかんない」  子供っぽく呟いて、でも言わなくていいよ、と付け加える。  十年以上も一緒にいたけど、兄が大学へ行ってからの五年間は私の知らない空白の時間だ。それを追求しようとしても無駄なのかもしれない。 「沙世さん」 「うん?」 「拗ねてるんですか?」  からかうような口ぶりにむっとして、でも私は一瞬黙るだけに留める。 「別に」 「眉間にしわ寄ってますよ」  年下のくせに、変な所だけ鋭い。嫌な子だ。 「もう帰る。門限あるから」  今度は不機嫌を隠さずに呟くと、彼は少し吹き出して小声で言う。 「大丈夫っすよ。沙世さん、可愛いとこあるじゃないっすか」  適当なことを言って。部外者は気楽だからいいな。  私はメールで「もう帰る」とだけ兄に伝えて、その日はさっさと帰路についたのだった。  三日後、私は性懲りも無く同じクラブへと足を運んだ。 「今日は一人でいいよ。勝手もわかったから」  また誰か子分に面倒を見させようとしていた兄を振り切って、隅の方へと歩いて行く。その間私の顔を覚えていたのか何人かに挨拶されたのが、少しだけ嬉しかった。  壁に背を預けて、私は鉄骨の剥き出しになっている天井を仰ぐ。  何があったということもない。相変わらず浅間君や千夏ちゃんが忙しくて、入谷君は不機嫌だったという状況は全くそのままだ。  美幸ちゃんへのお見舞いにも行っていない。怖くてとても病院の門がくぐれない。 「あ、沙世さん。お久しぶりです」 「うん」  この間来たときに話し相手になってくれたテツ君に適当な挨拶を返して、私は携帯を開く。 「どうかしたんですか? 暗いっすよ」  さらに憂鬱なことといえば、おもいきって送った伊沢君へのメールに、返信が来なかったことだ。 「いや、何でもない」  それだって、だから何が変わったということもない。伊沢君だって忙しいし、メールを見逃すこともあるし、くよくよ悩むほどのことじゃないと思うのだ。  じゃあなぜここへ来たのかと考える。  ミラーボールに埃臭いフロア、揺れる若者に眩しい照明。私にとって、さほど愛着があるとはいえないものの数々。  それでも兄がここにいるのだと思うと、どうしても私は寂しさを紛らわすために足を運ぶのを止められなかった。 「あれ?」  ふと隣に立ったままのテツ君をまじまじと見つめる。 「な、何ですか?」 「ピアス、新しくつけたね」 「あ、はい」  彼の口元を指差すと、少年はにこやかに頷く。 「ついでに穴も大きくして」 「へぇ」 「拓磨さんに開けてもらいました。どうっすか?」  違和感の正体はそれかと、私は照れる少年を見つめながら納得する。 「私ピアス嫌い」 「……容赦ないっす」  仕方ないじゃないかと思いながらも私は面倒くさそうに付け加える。 「でもそれは似合ってるよ。シルバーのやつ」  ぞんざいな答えだけど、テツ少年は満足したようだった。まだ高校生だからかもしれないけど、頷き方が随分と幼く見える。 「ピアスって面白いのかな」  何気なく訊いてみると、彼は指先で軽く新調のピアスを弾きつつ答える。 「面白いっていうか。男でイヤリングってのも変ですし」 「でも女の人もしてるね。流行なの?」 「そうっすね。皆やってるし」  言われてみれば、その辺で踊っている人たちの耳には男女問わずピアスが光っていた。兄ほど数多くはつけてないけど、ここではピアスは当たり前のようだ。  ピアスはきらきらとライトを反射して光っていた。熱帯魚の尾ひれのようにゆらりと揺れて過ぎていく、その一瞬で確かな存在感が目に映る。  嫌いなのは間違いないけど、ここの世界では常識だ。それを思うと、私は少しだけ眉を寄せた。 「あ」  ポケットの中で携帯が震える。私は伊沢君からの返信かと目を輝かせてそれを取り出し、すぐにがっかりと肩を落とす。 「入谷君か……」  正直な話、気分が落ち込んでいる時に一番話したくない相手だ。なにせ彼は私を不機嫌にさせる天才みたいなものだから。 『最近遅いけど、どこに行ってんの?』  ほっといてよと呟いて、私は即座に携帯をポケットに仕舞いなおす。  だいたい自分が頻繁に朝帰りしてるくせに、人がちょっと遅いくらいで変な顔をするのはよしてほしい。もっとも彼の場合は仕事なんだろうけど。 「え、沙世さん。今のは?」  露骨に顔を引きつらせたテツ君に、私はそっけなく答える。 「友達」 「あー……そうっすか。拓磨さんにばれないといいっすね」  テツ君は自分で勝手に納得する。  私は腕を組んで目を閉じてみた。もちろん居眠りをするつもりじゃなくて、少し考え事がしたかった。 「ねぇ」  何か足りない。確かな何かが、私は欲しい。  ……それをどうやって得るのかは、わからなくても。 「あなたが沙世?」  呼ばれて私は顔を上げた。目を開いて、正面に立つ女性に気づく。  品のいいブラウスにデニムのスカート、ここでは珍しい黒髪に、薄いメイクで整えられた、顔立ちも体型も綺麗な人だった。 「そうです。拓磨の」 「妹でしょ。もう何度も聞いたわよ」  棘のある遮り方に、私は眉を寄せる。一瞬で、この人が私にあまり良い感情は持っていないのが伝わってきた。 「何しに来たの? 場違いだとわからない?」  きつい口調だった。それは言葉も目つきも同じだったけど、不思議と私は怒りを感じることはなかった。 「わかります、絵梨さん」  ほとんど同じ高さから彼女を見返しながら、私は頷いた。 「でも隅で大人しくしてるので、大目に見てください。邪魔しないので」 「あなたがいるってことが邪魔なの」 「ちょっと。絵梨さん、失礼っすよ」  慌てたようにテツ君が止めに入ったけど、私はまだ彼女をみつめていた。 「拓磨が迷惑なの。わかるでしょ?」  たぶんこの人は兄が好きなのだ。  それを感じ取って、私はこくんと素直に頷く。 「はい。小さい頃から迷惑かけてます」 「なら……」 「だから」  自分で言葉にしてみて初めて、私は胸に溜まっていた思いに気づいた。 「兄ちゃんが出てけって言うまで、ここにいます」  私は今も子どものつもりでいる。  寂しくなるとずっとそうしてきたように、兄にくっつきたくて仕方がない。馬鹿だな、しょうがねぇな、と呆れられながらも甘やかしてくれるのを信じている。  ずっとそれに守られてきた。だから私は、自分からそれを断ち切れない。断ち切りたくない。 ――おにいちゃん、さよもいく。  いっぱいに伸ばした手を、決して彼は振り払ったりしなかったから。 「生意気なこと言わないで。すぐ飽きられるにきまってるのに!」  言葉を返した直後、乱暴に耳を引っ張られた。 「絵梨さん、ちょ、やばいっすよ」  痛いと思った時には、もう彼女の綺麗な爪が耳の後ろに引っかかって傷がついていた。  挑発したのは私だ。どうしても自分の思いを口にせずにはいられなかった。ここにいる理由を、自分の中で確かなものにしたかった。 「つ……」  だから抵抗せずにそれを受け止めたけど、やっぱり痛いものは痛い。すぐにテツ君が絵梨さんの手を引き剥がしてくれたけど、そっと自分で右耳に手を当てたら、少しだけど血が流れていた。 「何の騒ぎだ?」  周りがざわめいたのに反応して、兄がこちらを振り向く。私はさっと血のついた手を背中の後ろに隠したけど、兄は訝しげに絵梨さんの爪先に目を細める。 「血?」  おもむろに絵梨さんの手を取ると、彼はそれを掴んだまま平坦な声を出す。絵梨さんが何か言おうと口を開く前に、兄は素早く私の方へと目を移した。  その目つきが酷くぎらついて見えて、私は思わず後ずさっていた。 「沙世」 「ごめん」  こちらへ近づこうとした兄に短く返して、私は首を横に振る。  この静かな怒りは私に向けられたものじゃない。それはわかってる。 「見せろ。どこをやられた」  ……けど、怖いのだ。  私の馬鹿な甘えの感情は、時に酷い代償を払うのだと知っているから。 「何でもない」 「嘘言うな」  兄は手を伸ばす。私はそれを右手で振り払って、だけどその手首を掴まれてはっとなる。  赤い指先に兄は目を細めて、そして肩口へ移動した。私は思わず肩に血がついているのかと目を走らせてしまい、その動きで彼は目ざとく事態を察知して私の耳を掴む。 「切れてる。絵梨か?」 「違う」  否定したのに、兄はもう絵梨さんを振り返っていた。誰もが怯えるような獰猛な眼差しを向ける。  その場にいる兄以外の誰もが動けなかった。図体が大きいだけじゃなくて、圧倒的な気迫と存在感が、兄の周りを取り巻いていた。  だから兄が恐れられるのだと、私はその時やっと理解した。 「違うよ、違う!」  ぐっと兄の腕を掴む。  いけないと思った。このままじゃ、間違いなく兄は絵梨さんに手を上げると直感した。 「ちょっと引っ掛かっただけだよ。ほら、ピアス開ける時だって血くらい出るし!」  脈絡のない言葉を並べ立てて、私はぐいぐいと兄の腕を両手で引っ張る。  少しだけ兄が思考をめぐらせたのがわかった。その気になれば簡単に私を振り払えるはずなのに、彼はその場を一歩も動かなかったからだ。 「絵梨」 「な、何?」  兄は短く、本当にそっけなく言った。 「出てけ。二度と来るな」  その言葉で、私は絵梨さんが二番手だと言うことにようやく確信を持った。  皆の噂するナンバーワンは別にいる。これは本当のことのようだ。  それにほっとしたような、不謹慎にも更に興味が積もるような、そんな複雑な思いが私の中を駆け巡ったのだった。  一悶着起こした後ではさすがに居づらくて、私は早々に帰宅することにした。  兄のバイクの後部座席で、ぼんやりと考えに沈む。あんな騒ぎを起こすくらいならもう兄にくっついて行くのはやめようか、それともまだ決めるのは早すぎるのか。  上目遣いで前に座る兄を窺う。駆け抜ける風とテールランプの中、彼はいつものように黙って前を見据えていた。振り返る素振りも、何か言葉を発する気配もない。  パーッと、車のクラクションがうるさい。渋滞に引っかかって停車すると空気もぬるくて、疾走感の快さが一瞬で消える。 「おい」  なんとなく身を捩ると、兄がだるそうに振り返って言った。 「寝るなよ。落ちるぞ」  たぶん兄もじっとりした夜気がうっとうしくて、何かしゃべるのも億劫だったのだと思う。  でも、それだけだった。  馬鹿でガキで面倒な妹を責める言葉は、それ以外何一つ口にすることがなかった。  兄のアパートでシャワーを浴びた後、私はそのまま畳の上で仰向けに寝転がった。 「畳が濡れるだろ。頭拭け、頭」  あぐらをかいてテレビを見ていた兄は、伸びている私を見て顔をしかめる。 「もう拭いたよ」 「起きろ。水滴ってるっつーの」  軽く髪を掴まれて、私は渋々ながら体を起こす。ぶつくさと文句を零しつつも風呂場からタオルを取ってきて、ぞんざいにそれで頭を拭った。 「ほれ、ドライヤー」 「ありがと」  部屋の隅に転がっていたドライヤーを、兄が滑らせてよこす。  私はそれをキャッチしてコンセントに差し込み、温風を出したところで……ふと手を止めて兄を見た。 「兄ちゃん」 「あ?」  返事かどうかもわからない声を聞いて、一言問う。 「兄ちゃんって彼女いるの?」  実は兄に訊くのは生まれて初めての質問だった。噂でならたくさんあったけれど、私は一度も兄の口から「彼女」という言葉を聞いたことはない。  それに、訊く必要もないと思っていた。知ったところで、私には関係ないと信じていたかった。 「ほら、ドライヤーなんて兄ちゃんが自分で買うわけないし」  兄はテレビを眺めていた。特に面白くもなさそうなバラエティー番組で、画面から漏れ出す黄色の光が目にチカチカする。  わぁっとテレビから溢れる笑い声と、緩いドライヤーの電動音が重なる。その中で私たち兄妹の間にだけ、一瞬の沈黙が流れた。 「沙世。耳はどうなった」  普段通りの顔で兄が振り返り、私の右耳を掴んだ。少し乱暴に親指と人差し指でそれを挟み込み、耳の裏側を覗き込む。 「やっぱ切れてるな。何か貼っとくか?」  顔をしかめる兄に、私は適当な答えを返す。 「痛くないよ。要らない」 「消毒しとけ」  兄は座ったまま畳の上を滑るようにして移動する。  言い終わらない内から傍の棚で消毒液を探している、この行動の早さは何なのだろう。 「動くなよ。目に入るぞ」  そうするのが当たり前のように私を座らせ、消毒液を染み込ませたガーゼを押し当てているのも、この年の妹にするのはいささか過保護な気がしてならない。 ――しみるのいやー。さよ、しょーどくきらい。 ――わがまま言うな。化膿したら大変なんだぞ。  何かと転んだりして兄に世話を焼かせた私に、原因があるのはわかってる。人見知りの激しかった私は兄に対してはとことんわがままで、そして兄はそれを叱りながらも甘んじて受けてきた。 ――擦り傷でよかったな。傷は残らなさそうだ。 「深くは切れてない」  独り言のように呟く兄と、怪我が大したものでないとわかる度にあからさまに安堵した、幼い頃の彼の声色が重なる。 「別に。耳の後ろなんて気にもならないよ」  横目で窺った浅黒い腕には、細かいものからスパッと切れた刃物のような傷まで大小様々だ。誰に付けられたかなんて、たぶん本人すら覚えていないのだろう。  兄の腕は太く、筋肉もしっかりついてる。スポーツや喧嘩に耐えてきただけあって、いくら私だって彼が強い人間であるのは疑ったことがない。  同年代どころか年上の男にも簡単には負けない。だけど自他共にそう認められている兄は、意外だけどめったに自分から手を出すことはなかった。  それは兄の余裕の証であり、同時に人からも慕われる理由になっているのだと、今でも信じている。 ――おい。お前か、沙世にケガさせた奴。  けど、まだ兄でさえ十歳程度だった頃に、私を突き飛ばした従兄の誰かを平気で……何のためらいもなく殴りつけたことを思い出す。  従兄にしてみればふざけてちょっと突き飛ばしただけで、小さな私が勝手に転び、額にささやかな擦り傷を負ったに過ぎなかった。 ――沙世、擦るな。傷残ったらどうするんだ。  幼い頃から、兄は私が怪我を負うことを異常なほど気にする。それこそ自分は腕を血まみれにしてもせせら笑って帰ってくるくせに、小さな私が転んで膝を擦りむいて泣くと本気で痛そうな顔をする。  私は手当てから解放されると、再び仰向けに寝転びながら考える。  私は幼い頃ひどく体が弱かった。病気もたくさんしたし、チビだったし、めそめそとよく泣く内気な子供だった。両親に手を上げられたこともないし、同年代の誰より立派な体格と気の強さを持っていた兄とは、まったく同じ生き物には見えなかった。  たぶん一番そばで私を見ていた兄が、誰よりもそう思っていた。それは理屈に合ったことで、変でも何でもない。  タンクトップの上からでも筋肉の動きがわかる背中をみつめながら私は納得して、そして息苦しくなる。  ……私はずっと、兄とどこも似ていない生き物でいていいのか。  拓磨の妹だからと、大抵のことは大目に見てもらえる。ダンスもできない、軽い恋愛ゲームも楽しめない、変に生真面目で堅い私のままでも。 「ねぇ、兄ちゃん」  そもそも違う世界の人間として、ただ珍しがられるだけの私。  救急箱を棚に押し込んでいた兄が、何だよ、といい加減に返事をした時だった。 「私もピアスしてみたい」  ……よそ者は嫌だ、仲間はずれは嫌だと、そんな縋るような幼い思いで口にした言葉だった。 「は?」  私の言動がよほど意外だったのか、兄は棚を閉めるのも忘れて振り返る。 「何だよ。お前、ピアスは趣味悪いって言ってただろ」 「確かに言ったよ。でも」  口元を歪めて、私は拗ねたように言う。 「なんとなく、やってみたくなった。それだけ」  言葉を紡いでから理由を考えた。  たぶん私は、兄のいる世界に溶け込みたい。全然違う、ただ守ってやらなきゃいけない弱い生き物じゃなくて、そこに元から受け入れてもらえるものになりたい。 「ダメって言ってもするからね。もう決めたんだから」  ただ、その世界へ入りたい理由が、兄の側に自然に居られて、守ってもらえて安心だからという、ひどく矛盾したものでしかないけど。 「沙世」 「やだ」  駄々っ子のように兄の言葉を遮って、私は寝転んだまま彼をにらみつける。  証が欲しいと純粋に思った。たとえそれが趣味の悪いものでも、決して私が好きになりそうにないものでも、確かに目に映る形が欲しいと。 「ピアスがいい。イヤリングとかじゃなくて」  そしてそれは、はっきりと後に残るものでなければいけなかった。兄が決して私に許さなかった、私の体に傷をつけてしまうもの。  心が急いている。落ち着けと内部で止める声も聞こえる。たかがアクセサリーだけど、それがどれだけ今までの私を否定するのかも、頭の冷静な部分では理解している。  それでも私は、困惑顔の兄から一度も目を逸らすことができなかった。兄はやめろという意思を表情から隠しもせず、無意識に自分のピアスを弾いていた。  だけど先に顔を背けたのは兄で、短くため息をついたのも兄の方だった。 「しょうがねぇな」  棚を元通りに閉めて、兄は私の真横に座りなおす。その拍子に、耳に下がるピアスが一斉に揺れ動いた。 「小せぇのにしろよ。親父が泣くぞ」 「兄ちゃんに言われたくない」 「あと」  兄は軽く屈みこんで私の右耳を指先で挟み込む。先ほどと違って、それは奇妙に優しい動作だった。 「俺にやらせろよ。穴あけんのは」  一瞬、ぞくりとした。  耳に触れる冷たい指先と、どこか楽しげな兄の表情が、まったく他人のもののように感じた。  ……それはまるで、性を孕んだ誘惑のようなもので。  頭に鳴り響く警鐘と、包み込まれるようなぬるい安堵感。かつてない緊張感と、心に染み渡る熱さ。 「もちろんだよ」  その狭間で、私は目を細めて深く頷いた。  天井からぶら下がる電球が眩しい。背中に当たる畳は柔らかすぎて肩が沈む。洗濯ロープに掛かった色の抜けたジーンズは小汚くて、安物の冷蔵庫が立てる電動音は耳障りで仕方ない。 「兄ちゃん」 「ん?」  でも、ここが本来私のあるべき場所だと思うのだ。 「美幸ちゃんの病状のこと、知ってる?」  何気なく問いかけた私に、兄は眉一つ動かさずに頷く。 「ああ。だが俺らにはどうしようもねぇだろ」  あっさりした答えだった。  だけどそれを、私はずっと兄に言ってもらいたかったに違いない。 「穴あけんのはこの怪我が治ってからだな」  次の瞬間にはもう、耳の話に戻っている。私もそれを望んでいた。  私は目を伏せて、変わらず耳を掴んだままの兄の指先を感じながら言う。冷たくも熱くもない、心地よい体温だった。 「彼女いるの? 兄ちゃん」  気負いなく呟いた言葉だったから、口調も淡白なものでしかない。 「皮膚薄いな、お前。血管透けてるし」  だから兄が何も答えなくても、私は苛立つことはなかった。 「怒るんじゃないの? いつも馬鹿で面倒な妹の面倒ばっかりみてちゃ」 「お前くらいのガキにも合いそうなピアス、見つけといてやるよ」  会話はまるで噛み合ってなかった。  それでも、兄との絶対距離が急速に縮まっていくのを、私は心の中の冷静な部分で感じ取っていた。  耳の怪我はすぐに気にもならなくなって、三日もしたら薄く乾いたかさぶただけになっていた。  夕食後に自室で宿題をやりながら軽くそれに触れても、傷を探すのが難しいくらいで、私はほっと頬を緩める。  明日にはかさぶたも取れるだろう。そうしたら夜にでも店へ行って、ピアスをあけてもらえる。  アクセサリーには何の興味もなかった私が、ここまで楽しみにしているのがひどく可笑しかった。 「あ」  ペンケースから消しゴムを取ろうとして、ふと机の上にある携帯が点滅していることに気づく。  最初に考えたのは入谷君からのメールだった。しばらく顔を合わせていないけれど、メールは相変わらず定期的に来ていた。  衝突してから数日間は本当にイライラして返信もしていなかったけど、ここ数日は事務的ながらもメールしていた。ただお互い愚痴を零してしまいそうになるのを必死でこらえているような、イマイチ乗りの悪い内容だった。  そういえば入谷君の不機嫌の原因は何だったんだろう。少し気持ちの落ち着いた今、私は何の気なしに携帯をホルダーから抜き取った。 「え?」  だけど、それは入谷君からのメールじゃなかった。  差出人は伊沢君だった。一週間前に送ったメールの返信にしては遅すぎて、向こうが何気なくメールしてくるには間隔の狭いペースだった。 『今、東京に来てる』  そう始まって、次の文章で終わりの短い文面だ。 『話をしたいからすぐ出てきて』  違和感が一瞬、胸を掠めた。  だけどそれはすぐに忘れて、私は慌てて立ち上がる。  待たせてはいけない。だけど、こんなくつろぎスタイルで会うのは嫌だ。  だって、伊沢君なのだ。幼い頃裸同然で一緒に水遊びをしていたことなどは置いといて、私は簡単に着替えて外へ出る。  裏口から一歩扉の向こうへ踏み出すと、頬をひやりと秋風が撫でていった。  寮の裏手にある駐車場まで歩いてくる。時計を確認したらもう日付が変わっていて、道理で寒いはずだと私は上着の前合わせを引き寄せた。  伊沢君の姿を探しながらゆっくりと歩いていくと、住宅街の屋根の隙間から月が覗くのが見えた。中途半端に欠けた下弦の月で、それは薄い雲が通り過ぎる度に消える。  また灰色の雲が流れていって、辺りから光が失せた時だった。  ポケットに押し込んでいた携帯が震えて、私は素早く通話ボタンを押す。 「はい、もしもし」 『織さん、よかった!』  思った通り電話の主は伊沢君だったけど、彼の声色はひどく急いていた。 「どうしたの?」  懐かしい声に微笑みそうになりながらも、伊沢君の次の言葉ではっとする。 『織さん、俺の携帯から変な電話か、メール来とらんか?』 「変……って、伊沢君の携帯から?」  どういうことだろうと私は首を傾げる。  変と言われても、伊沢君からメールが来たから私はこうして外へ出てきた。彼のこの電話も、それに直接つながったもののはずだ。  でも先ほどのメールの文面を思い返す。  話をしたいから出てきてと書いてあったメールだった。普段伊沢君はもっと方言混じりで、柔らかな口調の文面を送ってくるはずだ。  メールを読んだ時は、きっと伊沢君は焦って打ったんだろうと気にも留めなかった。 「今、どこから電話してるの?」  月はなかなか再び姿を現してくれない。光は地上に届かず、薄闇の中に沈んだままだ。 『家や。俺の家の電話』  耳鳴りがする。胸騒ぎがどんどん大きくなる。 『今は俺の携帯から来るもんは、絶対信用せんといて』  どうしてと私はほとんど無声音に近い言葉を漏らす。 『俺の携帯、あいつが取ってったんや。だから』  伊沢君の言葉はそこで途切れた。  彼が話すのを止めたわけではなかったのだと思う。単純に、私が電話に向ける意識がそこで切れた。 「沙世ちゃん」  私の背後に誰かが立つ気配がしたのに、私は反応することさえできない。  手が震えて、足もがくがくして、喉もひどく渇いていて、本当に私は何もできなかった。 「……捕まえた。僕の、沙世ちゃん」  後ろから抱きすくめられて、私は全身から冷や汗が吹き出すのを感じた。  覚えのある甘ったるいにおいに、覚えのある骨ばった腕の感触が取り囲む。 「やっとみつけた。探したよ」  奇妙にゆっくりとした、甲高い猫撫で声だった。  その声とかさかさに乾いた左手の指先が、私の小刻みに震える首筋を這うように上へと辿っていく。 「ちっちゃい、かわいい沙世ちゃん。僕の大事な妹……」  それはかつて幼い私に触れた人間だった。私に決して癒えない心の傷を負わせた男だ。  いくら体は大きくなっても、私の内部に残る絶対的な恐怖は消えるはずもなかった。 「もう大丈夫だよ。啓司兄ちゃんが一緒にいてあげるからねぇ……」  うっとりとそうささやいて、啓司は私の肩に顔を埋めた。  伊沢啓司。昔は啓司兄ちゃんと慕っていた人がここにいる。  逃げなきゃと思うのに、体は凍りついたようにどこも動かなかった。頭の先から足の指まで冷え切って、ただガタガタと勝手に震え続けるだけ。  唯一、頭のほんの僅かな部分だけが熱を帯びていた。  ……助けて、兄ちゃん。  嫌だ、怖いよ、兄ちゃん助けてと、私の頭はただその幼い悲鳴だけを上げ続けていたのだ。 「織さん?」  唐突な声に、私の胸の内部が微かな反応を示す。 「そこで何して……」  それは私の兄じゃない。だけど私に閃くような安堵を与えたのも確かだった。  熱が指先に灯る。奥歯に力が入る。  金縛りから瞬間的に解放されて、私は啓司を振り払った。  空中に私の携帯が飛んだ。そんなどうでもいいことだけくっきりと見える。  そしてまだ声すら出ないまま、私は救い主……入谷君の腕を無意識に両手で掴む。 「え?」  その行動に入谷君が怪訝な表情を見せたのは一瞬で、すぐに彼は不規則に震え続ける私から、この異常事態の深刻さを察したようだった。  私の携帯を呑気に拾い上げている啓司を注意深く監視しながら、入谷君は言ってくる。 「大丈夫。大丈夫だから、中に入ろう?」  余程私は酷い顔をしているんだろうか。入谷君は何だかとても痛ましい表情で私をみつめて、落ち着かせるように肩を繰り返し叩く。 「へーぇ」  棒のようになった足をなんとか裏口へ向けようとした私に、くすくすと不快な笑い声が追ってくる。 「沙世ちゃん、いーっぱいメールしてるんだねぇ」  愉快で仕方ないといった様子で、啓司は私の携帯のボタンを押す。まるで携帯が私そのものであるかのように糸目で見つめるから、私は身を震わせた。 「入谷君ってコが、一番多いねぇ」 「だから何? 変態」  冷ややかに言葉を遮ったのは、当の入谷君だった。 「痴漢だかストーカーだか知らないけど。今晩中に警察に突き出してやるから覚悟しなよ」  啓司はその言葉に微かな反応を示した。  ゆっくりと目を上げて、濁った瞳で入谷君をじっと見つめる。 「ふうん。そお」  口調はまだ、笑いに満ちていた。まるで入谷君の脅しなど効果はないのだと笑うように。 「なるほど。君が入谷君なんだ」  なぜかはわからないけど、啓司は確信をこめて呟く。 「ねえ、沙世ちゃん」  絡みつくような視線で再び私を捉えて、啓司は言ってくる。 「ダメでしょ? お兄ちゃん以外に甘えちゃ。ほんと、イケナイ子だねぇ」  侮蔑も何も含んでいなかったのに、私は心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。 「お兄ちゃんがいなくて寂しいからって」 「織さん、聞いちゃいけない。こんな奴の言うこと」  入谷君が不機嫌に言葉を挟んだけど、私の思考は既に停止していた。 「……違う」  ロボットのように私は機械的に言い放つ。 「私の兄ちゃんは一人だけだ。お前じゃない」  私は歯を食いしばって啓司をにらみつける。  誰にも譲らない。誰にも汚させはしない。  ……兄ちゃんは、私のお兄ちゃんだけは、最後の聖域なのだから。 「ふふ」  啓司の目の奥に、暗く淀んだ光が宿る。それを私はにらみつけたままで、入谷君は微かに身を震わせた気がした。 「そおだね。沙世ちゃんは、拓磨お兄ちゃんが世界で一番だいすきだもんね」  子供のようにこくこくと頷いて、啓司は続ける。 「僕もダイスキ。優しくて弱くって、とーってもおばかさんな拓磨君」  ゆっくりと紡いだ言葉に自分で満足したようで、啓司は楽しそうに笑う。  私が湧き出る怒りに眉を寄せると、彼はそれにも頷く。子供の反応を慈しんで見守ってあげるのだと、変に優しい声で。 「ね、沙世ちゃん」  啓司は一歩私へと近づく。  月明かりと駐車場の一つだけの灯り、そのどちらのせいかわからないけど、啓司の影は長く伸びて私の足元にまで届いていた。 「ダイスキな拓磨お兄ちゃんと、ずーっと一緒に居たいんでしょ?」  狂人の、理屈も文脈も通らない言葉だった。  だけどその囁きは悪魔のように甘くて、どこか神がかった響きがあった。 「カワイイ沙世ちゃん。拓磨お兄ちゃんのもっとステキなところ、啓司お兄ちゃんが教えてあげようか?」  射竦められて、私は動けない。冷静になれと自分に何度も言い聞かせるのに、その声は決して私の奥へと響いていかない。  私の知らない兄ちゃんのことだって?  そんなの知りたくない。私には要らない。  今以上に何を望むんだ。こんな奴の言うことなんて聞くな。啓司は狂ってる。  やめるんだ。やめろ。 「……教えて」  私の口は勝手に動いた。必死で考えたこととは、全く別の言葉を零して。 「いいコ」  啓司はすべてわかっていたように、奇妙に優しく囁く。 「ついておいで、沙世ちゃん」  伸ばされた手を、私は乱暴に振り払う。  だけどその手にあった携帯は受け取り、そして……歩き出した啓司の後を、迷いなく追い始める。 「織さん!」  温かな手が強く肩を掴んで、一瞬だけ私は我に返る。 「いけない。あいつの目はおかしいよ」  行っちゃ駄目だと入谷君は強い口調で言う。 「わかってる」  私は空ろな調子で、平坦な声を返した。 「だから、放っておいちゃいけないんだ。私が何とかしないと」  もっともらしく呟いて、私は正常な思考を打ち切る。  前を見たら、啓司が微笑んで手を差し伸べていた。ほとんど影に埋もれているのに、手だけは真っ白に輝いて。  ああ、今日はいつかのように白く月が出てる。  次の瞬間には辺りが濃い闇に沈んだのに、私は構わず地面を蹴って前へと歩み出していた。  終電で都心部まで行って、華やかなネオンの輝く街を歩いた。道行く人は皆自分の商売に夢中で、私たちには目もくれなかった。 「どこまで行くの?」  有名な風俗街だということは私も知っている 「すぐだよ。とってもステキな所」  じきに街灯すら壊れていて足元の危うい細い路地に入った。疲れ果てたように地面にうずくまる若者や、目だけギョロリとした老人が、灰色のコンクリートの隙間に見え隠れする。ゴミと汚物と、異臭とアルコールに満ちた中で。  ここで立ち止まったら私は殺されるかもしれない。そんな物騒なことを考えて、私は無意識に前を歩く啓司との間を狭めた。  そんな荒れ果てた空間で、啓司だけは笑いながら立ち止まることができた。 「このビルの、地下三階」  彼が示した先には、もう何年も放置された廃ビルがあった。ガラスはあちこち割れて窓枠は曲がり、今にも崩れてしまいそうな匂いを感じさせる。 「拓磨お兄ちゃんのお気に入りの場所」  ……引き返したいと強く思った。  パラパラと埃の舞う音と、どこからか聞こえる音楽。鳴り響く頭痛と喉を圧迫する息苦しさに私は眉をよせた。  化け物の口のようにぱっくりと開いている地下への階段を見つめる。石で出来たそれはところどころ欠けていて、踏み外したら奈落の底へと真っ逆さまに転がって行きそうな気がした。  でも兄ちゃんはこの中にいる。私の知らない兄ちゃんかもしれないけど。  私は無言で最初の一歩を踏み出す。その横で、啓司が深く笑みを刻むのが見えた。  真っ暗な階段はあっという間に私の足元を過ぎていった。微かな振動だった音楽が次第に大きくなる。 「さ、行こうか」  気づけば足を止めていた私を笑うように、啓司は重そうな鉄の扉をこじ開ける。促されて前へ進み……私はそこに広がる光景の一部となった。  溢れ出す音楽と意味をなさない無数の声。フロアに転がるビンや倒れた椅子、逆さまのソファー、赤い裸電球。  崩れた世界の中には様々なものが散らばっていた。物も人間も、雑多な空間に溶け込んだ。  拓磨君と、啓司は私を守るように後ろへ隠して言った。彼の背中ごしに何かが動いたのが見える。 「何だ、啓司」  兄の声だった。ひどく平坦で冷静で、まるでこの狂宴になど興味のない口調だった。 「いい加減に消えろよ。てめぇの幻覚は見飽きた」  酔っているのは確かなようで、疲れたようなため息が続く。 「拓磨ぁ、何こいつ?」 「キショいよ、マジ」  女の人の声も聞こえる。私はそれに身を固くした。  どうやって啓司がこの場所を突き止めたのか、彼が私に何を見せようとしているのかはまるで謎のままだ。 「会えて嬉しいよ、拓磨君。だから」  そこで初めて啓司は私を前へと押しやった。 「このコ、僕のお気に入りなんだけど。……拓磨君に、あげるね」  兄はただソファーに座っていた。周りに二、三人の女の人たちがいたけど衣服に乱れはなくて、ただテーブルに頬杖をついているだけ。  近くの酒ビンから、アルコールに染まっているのはわかる。それでも女の人たちの誘惑に乗る様子もなければ、まるで楽しそうでもない。 「何? ガキじゃん」 「拓磨を馬鹿にしてんの? 失せろっつーの」 「……黙れよ」  だけど兄が静かに私の姿を目で捉えて女の人たちに投げつけた言葉は、どうしてか私の芯をぎくりと緊張させた。  あっけなくテーブルを蹴り倒して、兄は座ったまま彼女らを見る。 「失せな。いい子にしてればまた遊んでやる」  冷笑した表情にも侮蔑をはらんだ言葉にも、まるで甘い響きはなかった。ただつまらなそうに口元を歪めて、面倒とばかりに言い捨てた。 「あ……うん」  それでも彼の目から、女の人たちは目を逸らすことができなかった。飼い主に従順な猫のように身を縮こまらせて、どこか切ないまなざしで見つめながらもその場を去る。 「おいで、チビ」  短い呼びかけに、私は顔を上げる。  視線が絡んで、兄は目を細めてゆっくりと笑みを刻んだ。  ……その瞬間、私はやっと理解する。  横柄な素振りの中の強さ、抉るような視線の凶暴さ、薄い笑みから零れ出す底知れない残酷さ。  それらをこの男はすべて持っていて……そして女がどれだけそれに引き寄せられるかということを、私は今初めて自身で感じた。 「怖くねぇよ、な?」  おいでとまた優しく言われる。いつの間にか、周りには啓司も誰もいなくなっていた。  人がいたとしても、今の私は彼から目を逸らすことはできない。  兄が私を妹だと認識できないからこそわかった。これは男という名の、美しい獣だと。  ……そしてこれに私という小動物は喰われたいのだと、確かに願ってしまっていた。 「いい子だ」  ふらりと近づいて、促されるままに彼の膝へ横座りする。長く太い腕がすぐさま回されて、私は簡単に彼の胸の中に収まってしまった。 「冷えてるな、ちっこいの」  軽く肩を擦られて、私はコトンと彼の胸に体を預ける。耳を胸に押し当てたら規則正しい鼓動が聞こえてきて、私は静かに目を閉じていた。  喧しいほどの音楽も、人の乱れる声もこの空間には溢れてるはずだ。それなのに私の意識はすべて、今私を包み込んでいる人だけに向けられている。 「怖かったろ? 妙な連中ばっかいやがるんだから」  つんと鼻をつくアルコールの匂いがするのに、私はただその中にある懐かしい香りを追って頬を緩める。  温かい。ずっと昔は毎日のように感じてた兄ちゃんの匂いだと、こんな状況にあるのにひどく安堵した。 「誰に連れてこられたんだか知らねぇが」  大きな手で顔を上向かせられて、私はじっと彼の顔を見つめる。 「俺んとこ来いよ、チビ。死ぬほど甘やかしてやるから。なぁ?」  その不遜で冷たい笑みを見て、私は引き寄せられるように彼の首に腕を回していた。  煙草とアルコールと、男特有の体の匂い。それにぎゅっとしがみついて、私は口元を歪める。  ここへ来た目的なんて忘れていた。ただ、今は流されてしまえと思う。 「拓磨、俺にも後で」  誰か近づいてきた気配がしたけど、兄はそれを側にあった椅子を蹴倒すだけで黙らせる。ガラスの何かが砕ける音だけが響いた。 「触るんじゃねぇよ」  私の頭を抱いてゆっくりと撫でながら、彼は低く笑う。 「これは俺のだ」  言葉が終わる前に、デニムスカートの中に手を突っ込まれた。同時に上着を簡単に剥がされて、Tシャツをお腹の上までたくし上げられる。  寝る前だからブラもつけてなかった。ごつごつした手が直接素肌に触れて、私はその初めての感覚に身を捩る。 「ちっせぇ胸」  笑いを含んだ声にも、不思議と嫌悪感はなかった。体をいいように弄ばれている、そのむずむずした変な感じも全然嫌じゃない。  私はくすぐったさに、無意識の内に彼の肌へ自分の体を押し付けながら思う。 「白いな。血管透けてて、食い破りてぇよ」  彼は感心したように私の首筋に顔を埋めながら呟く。 「匂いもあいつに似てる。ガキくせぇのに、女の匂いだ……」  手の動きはそのままに、顔を首からだんだんと上へと辿らせて、彼は笑いを含んだ声に呟く。 「変な所にケガしてんな。ピアスでも失敗したのか?」  ぺろっと猛獣が獲物の最初の味見をするように、彼は私の右耳の傷を舐めあげた。  兄が私を自分の彼女に間違えてるなら、それでいいやと思うのだ。  彼と一緒にいたい、離れたくないと切望するなら、私はこのアンダーグラウンドに身を置かなくてはいけない。  ……それだったらいっそ、最初に私の世界を壊すのは兄であってほしい。  ヤられちゃっても、もしかしたらボロボロに壊されてしまっても、他の人にされるくらいなら、ずっと彼の方がいい。  ねぇ、兄ちゃん。私がここにいてもいいという、証をちょうだい。どんな時だってどこへだって、私が頼めば連れて行ってくれたように。  そうしてくれたら私は兄ちゃんの風景に溶け込んで、もう二度と出しゃばらないと誓うから。 「なんであいつは、俺と全然違うのにこっちへ来ようとするんだろうな」  彼は思い出したように言った。  うわ言のように、彼は耳元で呟く。 「甘い匂いさせてよ……もう十八だろ。気づけよ……」  どこか苦しげに、うめくように兄は続ける。 「そろそろ誰かに……いや、それだけは許さねぇ」  血が出るくらいにきつく、彼は私の耳たぶに噛み付く。  悲鳴を上げそうなその痛みに、私が眉を寄せた時だった。 「許さねぇ。お前は俺のもんだろうが……沙世」  その名前を彼の口から聞いた時、私は急に目の前が晴れた気がした。  それは私の名前だ。私……彼の妹の名。  理解した途端、私は今自分の置かれている状況を初めて直視する。露出した胸、足の付け根まで外気にさらされ、弄ばれている現状を。  嫌だと強く思った。  私は妹だったはずだ。彼女とか女とか、そういう括りじゃないたった一人の存在。  ……それを兄は抱けるのだと知って、私は激痛に近い吐き気を覚えた。 「おい、どうした」 「……ぁ」  力を振り絞って、私は兄を引き剥がそうとおもいきり胸を叩く。痺れた腕と拳で、大人の男にしてみれば幼すぎる程の抵抗を。 「チビ」  違うよ、兄ちゃん。違う、違うんだ。  せり上がってくる息苦しさと共に、私は顔を歪める。  私だよ。ここにいるのは私。  私は、織部沙世。 「……やだ……ぁっ」  壊さないで。私のたった一つの居場所を。  血を吐くような思いで、私は力の限り叫んだ。  兄の動きが止まる。ごくりと喉仏が上下する。 「その声」  何か恐ろしいものを見たかのように、兄の表情から笑みが抜け落ちた。 「まさかお前、本物の……」  やっぱりと思った。  沙世と彼がうわ言のように呟いたのは、間違いなく私のことだとわかってしまったのだ。  そう理解した瞬間、赤紫の照明も何もかも見えなくなって、視界が反転する。  私の世界が崩れ落ちていく。  ずっと信じていた。何より大切で、決して手放せなかったもの。 「沙世、お前なんでここに? 誰に連れて来られた? おい!」  激しく揺さぶられても、それが馴染んだ声でも、今の私には恐怖しか与えない。  ……怖い。  私を絶対に守ってくれる人なんていなかったのだ。すべてを委ねて寄りかかれる存在なんて、もうどこにもいない。 「沙世?」  壊れたロボットのように私は全身で震えだす。  どうして私は、こんな所にいるの。  私をいつも迎えにきてくれた、守ってくれた、あの人はどこに行ったの。  頭の中でかろうじて保ってきた理性の糸が、あっけなく千切れた気がした。  ねぇ、目の前にいる、この人は誰? 「い、や……ううう!」  力の限り全身を動かして、私は浅黒い腕の檻から飛び出す。 「沙世、おい」 「やだやだ! いやぁ!」  すぐさま伸びてきた二つの手から逃れるように後ずさって、勢いよく踵を返す。 「待て、沙世!」  だけど瞬時に腰に巻きついてきた腕が、それ以上離れることを許さなかった。暴れる私をフロアに倒して、ぐいと肩を床へ押し付ける。  のしかかられて感じる体温に、私の頭は鋭い拒絶信号を発した。 「いやぁぁ!」 「落ち着け、違う! 襲おうってんじゃねぇよ!」  誰かは努めて私の混乱した神経を鎮めようとするけど、まるで耳に言葉として留まらない。 「あ、やぁぁ!」 「しっかりしろ! 沙世、本当に何もしねぇから暴れんな!」  頭に触れようとするのを、意味を成さない声で拒否する。  がむしゃらに腕を振り回して足をバタつかせた。とにかく、私の上にいる恐ろしいものから逃げられるなら何でもよかった。 「沙世、沙世! 落ち着け、頼むから落ち着いてくれ……!」  懇願する声でさえ恐怖しか感じない。  嫌だ、離して、出して、ここから出して。  願いはそれだけ。押さえつけられる体の圧迫感も胸の内の激痛も、ひたすら私を狂乱へと沈めていく。  おもいきり右手を地面に叩きつけた時、ガシャンという音と鋭い痛みがその手に走った。 「馬鹿! 何てことを!」  右手のじんじんした痛みと血の流れ出す感触に、ビンの破片が刺さったらしいとわかった。  それに気が逸れた誰かに、私は勢いよく手足を波打たせる。ドスっという鈍い衝撃が膝に走って、彼は少し仰け反った。 「ぐっ!」  短いうめき声と共に体を押さえつける力が一瞬緩んで、私は誰かの下から必死で這い出して立ち上がる。 「待て!」  男はそれでも私の左足首を掴んできて、走り出そうとした私は引き戻される。 「お前、怪我……血、出て、傷が……。動くな、動くんじゃない!」  執念を叩きつけるような言葉に、一瞬脳が正常な動きを取り戻す。  止まってしまえと私の中の誰かが優しく宥める。彼はお前を心配してくれてる、守ってくれようとしてるんだと。  ……だけど、走れと叫ぶ狂気の声の方が、ずっと大きかった。 「い、やだぁ……っ!」  力いっぱい、掴まれた左足を前に引いた。  靴が脱げて靴下があっけなく破れて、その下にあった足首を変な風に捻ってしまう。激痛が走ったけど、解放された喜びに比べれば些細なものだった。 「沙世……っ!」  血を吐くような呼び声を背に聞きながら私は駆け出した。地下を抜けて漆黒の空の下へ、灰色のコンクリートの世界へ。  痛くて、体のあらゆる部位が悲鳴を上げていた。擦り切れて露出した肘も膝も、破れたシャツから覗く肩も、破片が刺さった裸足の指や手の平、どこからも血を流しながら。  それでも走るのをやめなかった。喉が切れても息ができなくても、とめどない涙で全く前なんて見えなくても、それでも立ち止まりたくなかった。  がむしゃらに、どこへ行きたいのか、何から逃げていたのか、それすら思い返すことができなくなった頃だった。 「あ……」  紺色の空の下を、眩しい光が近づいてきていた。  気づけば明け方になっていた。私は心も体もボロボロのまま、古びた歩道橋の上に立っている。  その下には線路があって、始発らしいけだるい走りの電車が規則正しくて懐かしい振動音を響かせて走っている。  私はその光に目が釘付けになっていた。  緩く揺さぶられる意識の中、淡い思いが心に灯る。 「……帰りたい」  私は、何か間違えてしまったんだ。本当にダメだとわかっていたのに、踏み込んじゃいけない所に突っ込んだ。兄でさえ、今までずっと私を入れないようにと、拒絶することで守ってくれていたのに。  ごめん、ごめんね。私、馬鹿だから。  ……だから、おうちにかえりたいよ。  いますぐ、おかあさんのところへ。 「でんしゃなら、すぐだよね……」  濁った目で、近づいてくる列車をみつめる。ぐっと手すりに力をこめて、足を地面からゆっくりと離して体を浮かせる。  あの電車に乗れたなら、次に目が覚めた時には家に帰ることができる。  ……きっとお母さんとお父さんと、兄ちゃんが側にいてくれる。  口元に歪んだ笑みを浮かべた時だった。 「沙世ちゃん!」  後ろから抱きしめられて、私は人の香りにぎくりとする。 「何してんの!? ねぇ、何しようとしてた!?」  空ろな目で振り返ると、そこには小柄で泣きそうな顔をした女の子が……力いっぱい私の袖を握り締めて立っていた。 「……千夏ちゃん」  ざぁ、と音を立てて歩道橋の下を電車が走り抜けていく。  彼女は上がった息を必死で整えながら、食い入るように私を見つめて顔を歪める。 「そのカッコ、何があったの? 血出てるし、顔も……沙世ちゃん、誰にこんなひどい……」  瞬時に全身を強張らせた私を見て、千夏ちゃんは何かに気づいたように口をつぐむ。 「と、とにかく。あたしんち、すぐそこだから。ね? おいでよ」  私は彼女を見たくなくて、ぎゅっと口を引き結んで目を背ける。  首を横に振る私に、千夏ちゃんは無理やり笑ってみせた。 「おいでよ」  肩にそっと触れて、体を緊張させた私を構わず引き寄せる。 「怖がらないで、沙世ちゃん。大丈夫」  繰り返し、大丈夫、と彼女は呟いて肩を叩く。 「誰にも言わないよ。何にも心配いらない」  小さな体で精一杯私を抱きしめて、彼女は震える声で言う。 「あたしが、守ってあげるから。だから、だから……そっちはダメ。ダメだよ。絶対、行っちゃダメ……」  まだ言葉が終わらない内だった。  千夏ちゃんは私に縋り付くようにして嗚咽を漏らし始める。必死で声を押し殺して、聞いている私の心をギリギリと強く締め付ける。  私はまだ明けゆく空の下を走り去る列車を眺めていたけど、やがて目を閉じて……小さな友の体を、弱弱しく抱きしめ返していた。  最後の一線を越える直前。  彼女のおかげで、私はかろうじて正気に戻れたのだった。
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