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1 絶対距離
私は窓の外をみつめてる。
誰も居ない、吊り広告もない、ゆらゆら揺れる白い列車の中で。
列車は止まらないんだ。だって出発駅もなければ、終着駅もない、線路がない無為なものだから。動かす人すらいないから、列車は揺れるだけで前に進むこともない。
だけど、ないない尽くしの列車にも良いところはあって。それは宙に浮かんでるということだった。空の遥か高くから、何でもある下の世界を、私はどこまでも見渡すことができる。
笑ってる人や、泣いてる人、走ってる人や止まってる人、そういうのを、私はぼんやりみつめてる。
でも私はずっと座ったままだった。
そんな他愛ない夢を見たのは、五月の始めの出来事。
からかわれるのは慣れている。
それに平静を保てるほど、まだ人間が出来ていないだけで。
「最近さぁ、夜に寮の女の子が近所のアパートに出入りしてるの知ってるか?」
学生寮の夕食は、七時台が一番混み合う。
背中越しの話題が聞こえたのは食事を始めて数分後のことだった。右も左もびっしり詰まった、テレビの音すら曖昧なほど騒がしい食堂で話が正確に伝わったのは、他ならぬその声が大きかったからに違いない。
前に座っていた一年生の男子も、味噌汁を取る手が一瞬だけ変な軌道を描いた。
「え、マジですか。どこのアパートで?」
顔は覚えていないが声だけは心当たりのある、二年生の先輩が続く。
「裏のアパートだよ。で、族の連中がたむろしてるとこに、いつも女の子が入ってくわけ」
最初の先輩の声が、再び耳につく大声で言う。がやがやと人の声に溢れる中で、私はぴたりと箸を止めた。
裏のアパートで、夜に出入り。それならば心当たりは大有りだった。
「先輩」
振り返って、周囲に溶け込む程度の音量で言ってみる。
「柄悪くて申し訳ないんですけど、あれは私の兄で。食料とか分けてもらってて」
話したことはなかったが、私は女子の先輩にするように表情を和らげた。手振りを交えながら、ちょっとばかり高めの声を出す。
男の先輩は面倒なので無視を決め込んでいたが、一度くらい媚売っておくのもいい。馬鹿な子になれば、素通りしてもらえて面倒がないから。
「苗字見てもらえばわかるんですけど、ほんと彼氏とかじゃないんで」
あ、そうだったの。へえ。
そういう反応を、私は期待していた。
「知ってるよ、織部さん」
先輩はさらりと答えた。なめくじのようにべたつく笑顔だが、目は笑っていない。
「だけど連れ子の兄さんと、すごい仲いいなって思っただけ」
今になって、このねっとりした黒い土色の目が気色悪いことに気づいた。
髪は流行の薄い茶髪を適度に立たせて、顔はニキビもなくそれなりに整っている。鼻も高くて筋が通り、やや大きめの口は女の子好きするような不遜な笑みが似合っていた。
センスのいいシルバーのアクセサリで統一して食堂に現れる。年下好みなのか、いつも一年生の女の子たちを引き連れているのに気づいたこともあったっけ。
そんなことをざっと思い出して、すべて不快感のダンボールに括り上げる。
……何だ。
知ってて単純に、私を笑いものにしたかっただけか。
「そうでもないです。上京したばっかりだったし、親にも兄がどうしてるか聞かせてほしいって言われてただけで。仲いいってほどじゃないですよ」
「へぇ」
期待していた言葉がようやく相手の口から漏れた。けれどそれは私の喉を引きつらせる、陰湿な響きを帯びていた。
「ま、知らない奴には誤解されるからね。気をつけて」
かっこいいなんて考えてなくて正解だった。こいつの目は気持ち悪いほど、ねっとりした厭らしい黒光りの、ゴキブリの色そっくりだ。
「はい」
にっこり笑って、相手の薄気味悪さに顔が歪まないように、親指を手の平に押し付けて耐える。
わかりやすくて結構。
名前なんて知ったことか。ゴキブリで十分だ。
ふとその横に座っている男の子に気づいて、私は目を留める。
何となく寮の風景に馴染んでいない、妙に小奇麗な人だ。ノンフレームの薄い青の眼鏡を引っ掛けて、メイクでもしてるんじゃないかというくらい白い肌の男の子。
感情の読めない無機質な顔で、目を細めた私の視線を受け止める。
誰だったっけ。たぶん一年生だけど、男は全然見てなかったからわからない。
興味が失せて、私は目の前の食事に戻った。
なぜかその後も私を凝視している視線を、私はたいていの男の子に対するのと同じように無視を決め込んだ。
テンポがいいというよりは狂ってるんじゃないかと思う音楽の中で、私は食事を口に運んでいた。
今日の夕食はスパゲッティ。美味くもなんともない普通の味だけど、タダだと思えば重みは全く違う。
「食ってばっかだな、お前。よく太らねぇの」
窓が一つもない地下の薄暗い店内を潜り抜けて、一人の大男が水の入ったコップを私の前に置いた。
「太ったよ。受験でかなり」
「そうか? 相変わらずチビのくせに」
「そっちに比べればね」
大判のティーシャツの上に、店のロゴの入ったエプロンを引っ掛けている。そのバイトスタイルのままで、彼はどさりと私の向かい側に座った。
浅黒い肌に彫りの深い顔立ち、そして無駄なく筋肉のついた二メートル近い長身。普通に面と向かえば裸足で逃げ出したくなるような強烈な迫力だけど、私にとってはあまり関係ない。
だって私が生まれてから、親よりも長い時間一緒にいた存在なのだから。
「拓磨ー、酒はぁ?」
「んじゃ、ビール二本」
私はカルボナーラソースを口につけたまま、じろりと彼に照準を合わせた。
「未成年に飲ませるな。私、酒いらない」
「へいよ。やっぱ一本で」
「はーい」
間延びした声で、化粧の濃いお姉さんは奥に引っ込んでいく。
正確に言えば、それほど化粧なんて濃くない。その辺でイカれた音楽に乗ってる姉さん兄さんに比べれば、さっきのお姉さんは清楚なお嬢様に見える。
息が詰まるような狭い室内で、ほとんど裸の兄さんやら、ゴスロリみたいな姉さんが、ギラギラの光と騒音みたいな音楽で揺れている。なんだか古臭い水族館みたいで、少し息がつまりそうになる。
食べてるのは私だけ。パイプ椅子に座ってるのも私と彼だけ。元々ここは踊ったり歌ったりするクラブで、私みたいにがつがつ物を食べに来る場所じゃない。
「どうした、沙世」
深海の砂をすくいあげるような低く耳に響く声に、私はほんの少しだけ目を上げて呟く。
「……面白くないことがあった」
向かい側で、私の水を勝手に飲んでいる彼から乱暴にそれを取り返す。
「何言ってんだ。いつも苛々してるくせして」
「そのネタが増えたからもっと腹立つの」
店のエプロンをぞんざいに床へ放る彼へ、私はぶつぶつと今日あった出来事を話す。途中から彼はほとんど鼻で笑っていたけど、それでも言葉を遮ることはなかった。
「ああ、そいつ知ってる。ゴキブリみたいな奴だろ」
にやにや笑いながら、彼は適当に頷く。
「俺の高校ん時の同級生。とにかく年下好きで、中学の女の子とか引き連れてんの」
頬杖をついて、眉につけたピアスを指で弾きながら目を細める。
「気に入られたんじゃねぇの、お前。あいつ小生意気なタイプ虐めんの好きだし、むしろ自分のこと嫌ってる奴の方が対象だ、みたいなこと言ってたっけ」
「うわ、最悪」
げらげらと笑い、彼はだるそうに首を回す。
「面白がってんだよ。腹違いって、禁断っぽい響きあるだろ」
「だからって、何でそんな風に言われなきゃいけないの」
喉の奥のこってりした味が急に貼りつくような気持ち悪さを帯びて、私は水でスパゲッティを流し込む。
じっと上目遣いに睨みながら、私は拗ねた子どものように言い放つ。
「兄ちゃんは兄ちゃんじゃないか」
彼……私の兄はくだらないことのように薄く口元を歪めて、赤茶色の頭の後ろで両手を組みながら体を逸らした。
「世間なんてそんなもんだ。今更だろ、沙世」
宥めるように言われて、私は仕方なく口をつぐむ。
兄の言うことはもっともだ。ご近所間でも色々と噂されていたのは事実だし、小学校の頃は友達にも敬遠されたことがある。
兄は父の連れ子で、両親が結婚してから私が生まれた。いろんなドラマで使われてるネタだと思うのに、黙っていてもいなくても、人は面白がって勝手な想像に巻き込んでくれる。
好奇心に満ちた人の目には苛立つ。だけど他ならぬ兄がいつも軽く笑い飛ばしてくれることが、何より私の慰めになっていた。
「いいじゃん。お前の親父の方までバレてなくて」
……本当は、もっと噂話の種になる秘密を私は持っている。
母が父と結婚した時既に、母は父以外の子供を腹に抱えていた。それが私で、事情を知る父方の親戚には母共々かなり敬遠されてしまっている。
みんな表面上の腹違い、の言葉に騙されてくれてるおかげで、こちらまでは知られていない。その意味では冷たく私を拒絶する、父方の親戚に感謝するべきなのかもしれない。
「みんな暇だよね。馬鹿って羨ましいよ。尊敬したいくらい」
口元についたカルボナーラを安っぽい紙ティッシュで拭う。その隙に、兄は私の頭をぐりぐりと手で押していた。
「やめてよ、何がしたいの?」
「いやぁ、優等生の方が実際は歪んでるってのは、お前のことを言うのかね」
振り払おうとする私を軽くいなして、兄は乱暴に私の頭を掻き混ぜる。
「細かいことは気にすんな、沙世」
紫やら赤やらに変化する照明の中で、浅黒い兄の顔は次々と別の色に塗れていった。それを私は顔をしかめながら見上げていたけど、手を振り払おうとはしなかった。
「拓磨、その子どっから連れてきたの?」
「未成年でしょー?」
ふいに数人の小汚い男が目の前にずらりと並んで、私をじろじろと興味深そうに見下ろす。
「でも可愛いじゃん」
「日本美人―」
兄の友達だとわかっていても一斉に眺められるのは不快で、私は気づかれないように口の端を下げる。
視線を浴びるのも、人の興味にさらされるのも私は嫌いだ。どことなく体を逸らしながら、喉の奥に力を入れて緊張させる。
「髪真っ直ぐだよね。きれー」
笑いながら手を伸ばされたことに、私は表情を消して硬直する。
「これは沙世ってんだ」
けれど頭に馴染んだ手の感触が触れた瞬間、私はほっと肩の力を抜く。
触れようとしていた男の手を無造作に払って、兄はごつごつした大きな手で私の頭の定位置をしっかりと掴んで引き寄せる。
「唾つけんなよ。なぁ?」
兄は私の頭の上に手と顎をのんびりと乗せながら、薄く笑う。
「俺の妹だからな」
脅しを鋭い眼光の奥に匂わせた兄と紫の光に、私は目を細める。
引っ込み思案で人付き合いが大の苦手な私を兄はずっと守ってきてくれた。
手から伝わってくる温かな感触に徐々に心を静めながら、私はいつものように無関心な表情に戻る。
軽く首を傾げて兄の手を払いながら、つまらなそうに言う。
「こんな兄に似なくてよかったです。死にたいでしょ、そうなったら」
どっと笑いが巻き起こって、私も笑った。先ほどまでの微妙な緊張も、それでようやく解ける。
「クソ真面目な顔して毒吐きだろ? こいつの顔に騙された野郎は山ほどいるんだ。こりゃあ、俺の自慢」
兄もふざけながら言って、耳障りな雑音が私を包む。
あまのじゃくな言葉しか私が送らなくても、いつでも私が兄を頼りにしていることくらい、幼い頃から彼は知っている。そうやって、育ってきたから。
「なるほどねぇ。最近付き合い悪いと思ったら、そういうことだったのか」
「はぁ?」
私の頭をぐりぐりと押しながら、兄は肩をすくめて心外とばかりに軽く返す。
「しょうがねぇだろ。こいつは本当にガキなんだから、俺が面倒みてやらねぇと」
けれど笑いの渦の中で、私は無意識に眉をひそめていた。
――しょうがねぇな、沙世。兄ちゃんがなんとかしてやる。
繰り返し、まるで暗示のように幼い頃から兄が私へ呟き続けた言葉へ、ふと淡い疑問を抱いたから。
……このままでいいのかな、私。
気にするなと兄は言うけれど、兄妹仲がいいことの何がいけないんだと信じられるけど、それでもいつまでも甘えていていいのかな。
急速に、何か焦りのような感情が私の指先から這い上がってくる。
「帰る。今度からアパートには行かない」
だから私はぽつりと口にしていた。全く、思考の一つも挟まずに。
「は?」
兄は変なものが私の顔に貼り付いていることに気づいたように、口の端を片方だけ引き上げる。
「沙世。お前、そんなに気にしてんの?」
怪訝な調子で訊かれてみて、私は自分の零した言葉の意味を考えた。
そしてすぐ、繕うように早口で答える。
「別に」
もう一月もしたし、いい加減こっちの生活にも慣れた。別に兄に案内してもらわなくても、新しい東京の友達にでも頼めばいい。
確かに、延々と兄の所へ出入りするのは不思議な状況だ。
「何となく」
理由なんてないんだ。それで十分じゃないか。
それが一番納得できる理屈だったので、私は皿を片付けるために席を立った。
目が覚めたのは、まだ午前四時だった。新聞配達の音が妙に耳に響いて、浅い眠りを新聞と一緒にどこかへ持ち去ってしまったらしい。
さて、どうしよう。そろそろ二週間だ。
ごろんと寝返りをうって、私はそこに置いてある白いうさぎと黒猫のぬいぐるみに目を細めた。
綿が所々から出かかっている、ぼろぼろの小さな猫。小さい頃から私が握り締めて傷みきっているから、いい加減怖くて洗濯もできない。
黒猫に手を伸ばしながら考える。
――織部さんは、お兄さんと仲いいんだって?
――あたしもこの間見ちゃった。
最近は女子の先輩まで、からかい口調で私へと壁を作ってくれる。生真面目に見えるはずの私が、パンクな兄と仲良しなのは実家の方でも意外な顔をされたけど、こんな大都会でも人は不思議な顔をするものなのか。
……単純に、私の中でそのことが負い目になって神経過敏になっているだけかもしれない。
気にするくらいなら兄から離れればいいと簡単に割り切れないのが、私の昔からの馬鹿な所だ。
黒猫のぬいぐるみに触れた途端、ベージュに塗られた味気ない壁に、幼い日の光景が映し出された気がした。
――んしょっ。
たぶん、私が三つか四つか、そのくらいの頃だ。
懐かしい実家の近くにあった、裏山の崖。真冬で辺り一面が雪に埋もれる頃に、どうしてか私はこのぬいぐるみを持って裸の木に登っていた。
けれど、雪で滑りやすかったんだろう。小さな私はあっけなく木から落ちて、十メートルはある崖の下まで転がり落ちてしまった。
ただ、そんな私に微かな声が届いた時からのことは、よく覚えている。
――沙世ー、帰るぞー。
それは間違いなく、私が待っていた声。毎日この時間になると、必ず迎えにきてくれた大きな存在だった。
――うわぁーん! おにいちゃーん!
小さな私はもう、何も考えずに泣き叫んだ。ザクザクと雪を踏み越えてくる音が近づいてくるのに安心して、また一際大きく泣いた。
遥か頭上で覗き込む兄の顔が涙でぼやけていた。木に引っ掛けてできた切り傷も、痛む足も遠いものでしかなくて、頬の水滴だけがチリチリと肌の上で爆ぜた。
――そ、そこ絶対動くなよ。すぐ行くから。
動揺しながらもすぐに下りてきてくれた兄に、私は力いっぱいしがみついて泣きわめいた。視界を埋め尽くす銀世界の中で、それだけが頼りとでもいうように。
――いたいの、いたいの。
――大丈夫だ、沙世。もうすぐ病院だからな。
幼い頃の私は極端に体が弱くて、今よりずっと内気で、とにかく体格が立派で面倒見のいい、近所の中でもリーダー的だった兄とは正反対だった。
……助けを求めて手を伸ばしても、ただ黙って後ずさるだけでも、兄が庇ってくれないことなんて、なかったのだ。
ぎゅっとしがみつくと、そこにはちゃんと温かな背中があった。私は泣きながら、でも胸のどこかで安心していた。
――って……。
――おにいちゃん?
じわりと兄の肩口を赤く染めるものが何なのか、私にはわからなくて。
――なんでもない。兄ちゃんにしっかりつかまってな。大丈夫だから。
本当に、馬鹿な私は知らなかったのだ。
私を崖下から救い出してくれた時、兄は上から落ちてきた雪と石の塊をもろに受けてしまったこと。
……右肩に血が滴るくらいの深い傷を負っていて、私を背負うどころじゃ、なかったこと。
――えっぐ。いたいよぉ。
――すぐ良くなるから。もうちょっとだから。
実際は兄の方が酷い怪我だったのに、弱音も涙も零さなかった。歯を食いしばってこらえて、私を宥めながら雪道を下り、病院に連れて行ってくれた。
年の差があったとはいっても、兄だって十歳程度の子供だった。私を放り捨てて泣いて帰っても、誰にも責められる筋合いはなかったのに。
――拓磨君、よく頑張ったね。痛かっただろう?
――ううん。
病院の先生にそう褒められても、兄は首を横に振って答えた。
――兄ちゃんだから、俺、泣いちゃいけないんだ。兄ちゃんは強くないと駄目なんだ。
その言葉は、傲慢で、ませていて、思い込みに満ちていたけれど。
それでも確かに、私を思ってくれているのは真実だったと思う。
――おにいちゃんはおうち、かえらないの?
痛々しいほど包帯に右腕が巻かれていた兄に、私はしがみついてやっぱり泣いた。
――おにいちゃんもかえるの。さよといっしょなの。
入退院を繰り返す病弱な母を身近で見ていた私は、入院という言葉の意味は知らなくても、しばらく帰ってこないことは理解していた。
――やだ! さよも、さよも。
いつ何時でも側にべったりくっついていたから、兄がいないということはそれだけで不安で仕方なかったのだ。
――さっちゃん。あのね。
ふと耳に温かな声が蘇って、私は懐かしさに頬を緩める。
――お兄ちゃんはね、ちょっとお泊りして、遅れて帰るだけなの。
屈みこみながら、そっと諭してくれる優しい表情の女の子が、目を閉じれば目の前に浮かんでくる。
――みゆきちゃん。
ふわふわの髪と、紅茶色の瞳と、きゅっと私の手を握ってくれた温かな感触。包み込むようなその優しい存在を、私はじっとみつめる。
――さっちゃんはおうちで待ってようね。すぐ、お兄ちゃんも帰ってくるから。
――……うん。
私がわがままを言う口をつぐむと、彼女は微笑んで私の頭を撫でてくれた。
――いい子いい子。じゃあ私のうさちゃん、さっちゃんに貸してあげようね。
そう言って、彼女の白い肌と同じくらい優しい輪郭で彩られた、白ウサギのぬいぐるみを握らせてくれた。
枕元には今も、その白ウサギのぬいぐるみが置いてある。黒猫のぬいぐるみと同じくらい私のお気に入りで、上京する時にも鞄に詰めて持ってきたから。
「美幸ちゃん……か」
黒猫と白ウサギの、二つのぬいぐるみを横に並べて、私は起き上がる。
何だか急に、顔が見たくなった。
彼女に会いに行こう。私と兄の間に唯一入り込むことのできた人。
大好きな、彼女の元へ。
施錠された寮の門を勝手に開けるのはためらいがあったけど、幸いなことに鍵はもう外されていた。先にもう、外へ出た人がいたらしい。
そっと、喉が痛いような朝の空気の元へ繰り出す。白けた空を見上げて、彼女はもう起きているだろうかと考えながら、早足でコンクリートを踏みしめていく。
「……あ」
灰色の世界に金色の光が輪郭として浮かび上がるのを仰いで、私はふと足を止める。
ちょうど、太陽が昇るところだった。無機質なコンクリートで覆われた東京でも、太陽はきちんと金色を帯びていて、濁った雲に一つ一つ光を与えている。
光の筋は細く長く空に走り、夜を押しやって朝を導く。
そして家々の屋根から完全に宙に浮かぶようになると、太陽は急に輪郭を消して空に溶け込む。朝の壮大なショーを終えて、幕の内側へと微笑みながら引っ込むように。
ああ、綺麗だ。こうして外気を胸いっぱい吸い込めば、狭い部屋の中でうじうじ悩んでいた私なんて、所詮ちっぽけで馬鹿な子どもだと、実感する瞬間だ。
「いつもすみません」
「いいんだよ」
町外れに来てから、私は白く無機質な建物の前で止まった。裏口に回って馴染みの守衛さんに声を掛けると、彼は快く従業員専用のエレベーターに私を乗せてくれる。
コツコツと静まり返った病棟を歩いて、やはり馴染みの看護師さんに挨拶をして病室に入れてもらう。
そっと音を立てないように扉を開いて、私は白づくめの個室に足を踏み入れた。
彼女、羽島美幸は安らかな寝息をたてて、白いシーツに包まっている。幼い頃から変わりのない柔らかいウェーブの髪を枕に散らして、ますます白くなった頬を微かに上下させながら、静かな安息についていた。
折れそうなほど細い腕にいくつものコードが出て、それらはすべて隣の機械に繋がって、彼女の命を苦しみと共につなぎとめていた。
――さっちゃん。お人形遊びしようね。
美幸ちゃんは幼い頃から、物語の中に出てくる天使のように柔らかくて、綺麗で、優しかった。もちろん今だって変わらず綺麗だけど、その温かい生命の光は、もう蝋燭の残り火のように小さく儚い。
――みゆきちゃん、こんどはいつかえってくるの?
病名ははっきりしていない。一つだけ私が知っているのは、彼女の病気は治しようもなくて、ただ悪くなっていくだけということだけだった。
神様は大馬鹿だ。こんな不自由な体を着せる人間なんて、もっと他にいくらでも候補があったはずなのに……たとえば、私とか。
美幸ちゃんを見る度に、無意味だと思いながらも運命とやらに文句をつけたくなる。
ぴくんと緩やかな弧を描く睫毛が動く。彼女はゆっくりと静かな眠りから浮上した。
「ごめん、起こした?」
「ううん……」
ふわりと微笑んで、美幸ちゃんは最上級の紅茶みたいな、澄んだ赤茶色の瞳で私を捉える。もう二十台の半ばなのだが、その瞳は透明で、生まれたばかりの子供と同じ光の色を保ち続けていた。
「来てくれたんだ。ありがとう」
「いや、私のただのわがままだよ。こんな朝っぱらに迷惑な」
パタパタと手を振って、ごめん、ともう一度繰り返す。
守衛のおじさんに言って、彼女が眠る直前に会いに来るのが日課だったけれど、こんな早朝に訪ねたのは初めてだった。
だけど美幸ちゃんは迷惑な様子は見せず、ただ少しだけ心配そうな目をする。
「どうしたの、さっちゃん。何か困ったことがあった?」
「はは。隠せないなぁ」
乾いた笑いを零して、私は俯く。
自力で起き上がれない、誰かの助けが常に必要な病人であるのに、彼女はいつも私のお姉さん役だった。学校にもほとんど行ったことがなく、言動も小学生のように幼くとも、私にとっては誰よりも眩しい導き手だ。
「人間関係に、ちょっと困ってて」
「うん」
ぽんと私の頭を撫でるように、優しく相槌を打つ。
「私ってそれに真っ向から立ち向かう勇気もないし、気にしないで通り過ぎるような毅然とした態度も取れない。何だか……情けなくて」
正直に、何の飾りもない言葉をつらつらと零す。カーテンを閉め切った薄暗い病室に、その言葉は本当に惨めな音だけを響かせた。
これはただの愚痴なのだ。自分でどうにかしないと解決なんてしようもないのに、私は誰かに救い出してもらうことばかり考えている。
チチ、と窓の外で雀が小さく鳴きながら飛び立つ。
「さっちゃん」
「うん?」
「さっちゃんはね、何にも悪くないんだよ」
あどけない言葉遣いで、美幸ちゃんはゆっくりと確認するように言う。
「さっちゃんは優しいもの。私はいつだって、さっちゃんが大好きだよ」
「……」
「いつだって味方だからね。だから大丈夫よ」
とりとめのない言葉に、私はぎゅっと胸の奥を掴まれたように感じた。
求めていたのは解決の言葉なんかじゃなかったのだと、やっと気づく。
ただ彼女の浮かべる優しい響きと、私を見つめる光を帯びた瞳が欲しくてたまらなかった。だから、幼い甘え心に引き寄せられてきた。
朝が来たのと同時に淡い輪郭に変わってしまう太陽のように、何より輝く存在でありながら後ろに引いてしまう謙虚さと、それでも漏れてしまう優しさと労わり。ほんのりと照らし出す温かみだけで、それは地上の誰にも出来ない偉業を、何の気負いもなく成し遂げる。
「平気」
手も伸ばせない彼女なのに、私はよしよしと頭を抱きしめられたような気分を感じた。
つまらないことで私は悩んでる。いつ病気が悪化するかもしれない恐怖に耐えている美幸ちゃんに比べて、私は一体何をしているんだろう。
「ねえ、さっちゃん。疲れたら、素直に疲れたって言えばいいのよ」
黙ってしまった私の代わりに、美幸ちゃんは言葉を続ける。
私は口元を歪めて、困ったように眉を寄せる。
「そうかな。立ち向かわなくていいの?」
「うん」
こくこくと幼い仕草で頷いて、美幸ちゃんは一生懸命に言ってくる。
「いつも頑張ろう頑張ろうってするから、くたくたになっちゃうの。ええとね、だからね。そうなったらご飯を食べてね、ゆっくり寝ないといけないんだよ」
その言葉は、私の核心を突いていたのかもしれない。
「お兄ちゃんのまーくんになでなでしてもらったり、お母さんにいい子ねって言ってもらったりすれば、きっとさっちゃんは元気になるの」
美幸ちゃんはそっと笑いかけてくれる。
私は乾いてひび割れた胸に、温かな栄養源を流してもらった気がした。
「うん。そうかも」
そうだ。弱いなら、強い人と同じようにする必要なんてない。
害虫を追い出すことができなくて、無視することもできないなら、とりあえず部屋を出て考えればいいじゃないか。
もしかしたらその間に虫はいなくなっているかもしれないし、気晴らしに外を歩く内に虫なんて怖くなくなってるかもしれない。部屋の中で泣きそうな気持ちに耐えることはないんだ。
気づけば、私は久しぶりに頬を緩めて笑っていた。
寮へ帰る途中の公園で、私は五月晴れの空の下、ベンチで横になってみた。空腹がちょうど気持ちいいくらいで、きっと今日の朝食は美味しく食べられるだろうと期待できた。
寮の玄関から滑り込んだ時、ちょうど外へ出て行く男の子とすれ違った。
「……あの」
私が靴箱からスリッパを取り出そうと手を伸ばした時、その男の子が小さく呟くのが聞こえた。
「おはよう」
私は気分が良かったから、少しだけ目を上げてそう挨拶した。普段に比べればきっと、格段に柔らかな表情で。
視界に映った男の子は逆光の中でよく表情も見えなかったけど、とても白い輪郭をしていることだけはわかった。
「……」
男の子は一瞬沈黙してから、不自然に目を逸らした。
「おはよう」
そっけなく返して外へ出て行った彼に私は一度首を傾げてから、けれど後は考えに沈むことなく、のんびりと食堂へと足を進めていった。
「ねぇ、兄ちゃん」
夜も深くなった頃、私はやはりいつものように兄のアパートにいた。
「土曜日、店行っていい?」
「はぁ?」
私が常に人の間に持つ距離は決まっている。友達はこれ、先輩はこれ、男の子にはこれだけ、と。どんな人にも、特定の距離以上は遠ざからず、近づかないようにしている。
「確認することかよ。いつも来てるくせに」
「そうだけど」
それより近い距離を持つのは、家族だけと決めているから。だって家族はどれだけくっついていても、苦痛じゃない。それだけはこの十年来で実験済みだ。
「迷惑じゃない?」
ごろんと畳に横になる私を見下ろしながら、兄は彫りの深い顔立ちに笑みを上らせる。
「迷惑だ。当たり前だろ」
「……」
頭の後ろで手を組みながら、彼はつまらなそうに言う。
「けどお前は追い出せねぇ。お前は俺の妹だからな」
私は目を閉じる。閉ざされた視界の中、髪をくしゃりと掴む兄の大きな手を感じながら。
「兄ちゃん。眠い」
「じゃ、寝ろ。俺は出かける」
遠のきそうな意識の中で毛布をお腹の上に乗せられて、私は猫のように体を丸くしながらそれに包まる。
「沙世……寝たか」
答えるのも億劫な私に、独り言のような声が兄から漏れる。
私はもう半分以上眠りに沈んでいたけど、かろうじて兄の手のぬくもりを感じていた。
私は他人と関わることは、怖くて仕方ない。
家族と、兄ちゃんがいればいいんだと、安らいだ気持ちで思う。
共働き両親だから、家族の中でも特に私は兄と親しかった。正反対だろうが素行が悪かろうが、ずっと一緒にいた存在は年ごとに大きくなりこそすれ、小さくはならない。
兄と私の距離は生まれた時から同じ。それは彼女とか友達とかが間に挟まるものじゃなくて、空中に繋がっているものだから変わらない。
私はそんな兄との空中絶対距離を、誰にも乱されたくなかった。どうしようもない臆病者の私にとって、それは何より大切な絆だった。
宙に浮かんだものは、外から見ればとても不安定なものであったけど。
たとえその兄と血縁上全く繋がっていないとしても、崩れるものなんて何もないと信じていた。
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