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5
教会の周囲には防塵用のフェンスが張られ、すっかりただの銀色の箱のようになってしまい、趣も何もかも消えてしまった。
それでも私は彼女の姿が見つかるかも知れないと、足繁く通ったが、一度もその姿を見かけることはなかった。
私は彼女だけでなく、作曲のヒントを得る為の場所も失ってしまい、仕方なく土手に座り込み、スマートフォンに入れた彼女の為に作った曲を聞いていた。
曲には人の想いが込もっている。それを製作していた頃の気持ちや出来事や、ちょっとした彼女とのやり取り、歌詞のヒントを貰う為に好きな食べ物や苦手なもの、色だったり、風景だったり、そんなものを教えてもらったこと、それに彼女の笑顔と歌声。そういった諸々がすっと蘇っては川面に消えていく。
傾いた日差しが反射し、キラキラとしてるのが、今日はどことなく寂しいのは、やはりもう会えないということを体が実感しているからだ。
そう思っていると背中を誰かに突かれた、ような気がして、振り返る。けれどそこに彼女はいない。
――本当に、もう会えないのだろうか。
曲そのものはバラード調なのに、後半は転調をさせて無理矢理に盛り上げていく。私の作曲の悪い癖だ、と思いつつも、今はそれが何だか自分自身の体に力をくれた。
深月さん。
その名前とかつて声楽をやっていたこと。それに徒歩で買い物に行ける距離に住んでいること。ここが彼女の生活圏の一部なら、引っ越したとか、何か事件や事故に遭っているとか、そういう事情がなければ、どこかに彼女はいるのだ。
私は立ち上がると、歩き出す。
彼女は自分の名前以外に、何か言ってなかっただろうか。そういえば何故いつも彼女はあの黄昏時しか教会に訪れなかったのだろう。普段どんな生活をしていて、一人暮らしなのか、それとも家族と一緒なのか。それすら私は知らない。
土手沿いには住宅街が広がっていて、同じような屋根、同じような構造の建築が並んでいる。表札はあったり、なかったり。やや古い、木造の平屋建ても混ざっているが、三階や四階建ても不意に現れる。そんな地域だ。
主婦だろうか。三人が立ち止まって楽しげに話している。
その先には保育園があった。小さな庭で、それでも元気いっぱいに園児が走り回っている。迎えに来た保護者の、おそらくは母親と先生が最近手足口病が流行っていて困っていると話していた。
深月という名前を探しながら、結局宛てもないまま路地を歩く。そんなことをしても見つからないのは分かっている。たぶん、こういう作業をすることで彼女への気持ちに何かしらケジメをつけようとしているだけなのだ。
一歩一歩が徐々に重くなり、彼女と会えないという事実が体に刻まれる。
そういう作業を経ないと、失恋が理解できないのだ。
結局一時間以上も歩き回って、また元の土手に戻ってきてしまった。
遠くの空はやや茜色に変化をし、もうまもなく日が落ちてしまうだろうと教えてくれていた。
河川敷にはジョギングをしているランナーの姿もぽつぽつと目立ち、下校する学生たちの賑やかな声が私の前を通り過ぎていく。
何故こんなにも、この時間の空気は心に虚しさをもたらすのだろう。
と、そんな落ち込んでいた私を惹きつける声が、聞こえてきた。
見れば土手に、一人の女性の姿がある。
その歌声は彼女だった。
何故? ――という疑問を抱いたのは、そんな場所で出会えるとは思っていなかったからだろう。
私は慌てて駆け下りて、彼女の許に急ぐ。
「あら、飯山君」
「あの」
何を口にすればいいか、分からなかった。
「もう、会えないかと思って」
だから今自分の心の中の大部分を占めていたその言葉を吐き出した。
「あの教会、壊されちゃったものね。せっかく気に入ってたのに」
走ってきたから、という訳ではなく、私の心臓はどうしようもなく高鳴っていて、隣に立った彼女の横顔を何度も確認しながら、何から話すべきなのかを考えていた。十二月の冷たい風がそんな二人に吹き付ける。私は黒いパーカーを着て、それほど寒い訳ではなかった。彼女の方はカジュアルなワンピースに短めのダウンジャケットを羽織っていて、ただそれでも寒いらしく、自分を抱くようにして腕を胸の前にしている。
「曲」
久しぶりに会った時に色々と話そうと思っていた言葉たちは全て霧散し、私が口から取り出したのはその一言だった。
「うん」
とだけ、彼女は頷く。
「これ」
私は彼女にイヤフォンを渡すと、それを耳に付けるのを見守ってから、音楽の再生ボタンをタップした。彼女は黙って目を閉じ、その曲に聞き入る。歌詞はボーカロイドに歌わせたもので、普段そういう曲を聞き慣れない人にとってはどう感じるか分からない。自分の声を録音するという方法もあったが、私よりもずっと、機械の声の方が上手く歌ってくれる。当然、彼女の生歌には叶わないけれども。
五分間、一言も話さなかった。一度聞き終えると彼女は「これ、歌声のないものはある?」と尋ねたので、私はスマートフォンを操作し、曲だけのものに切り替え、それから「いくよ?」と再生を押した。
すうっと空気が吸い込まれ、ピアノの単音のメロディから始まるそれに彼女の歌声が乗る。
どうして黄昏は綺麗なのに、こんなにも私の心は冷えているのだろう。
土手から見下ろすキラキラとした川面は綺麗なのに、私が流すものは汚れて見えるのだろう。
自分が嫌いだった。
才能という言葉に憧れて、何度も挫折して、それでも諦めきれず、打ちのめされて。
この気持ちはあれに似ている。
失うものはいつだって尊くて。
だからこそ、大切な出会いは、その煌めきは私を変える。
黄昏の空に響く歌声は、誰のものでもない。
透明で、綺麗で、どこまでも澄み渡っていく。
黄昏の帳にかかる声は、女神の歌声。
私の心を包み込み、優しく温めてくれる、唯一の魔法。
じっと、彼女の声を聞いていた。歌い終えても、しばらくの間、二人して、土手に座っていた。
徐に口を開いた彼女は曲の感想ではなく、こんな告白を私にしたのだ。
「実はね、子どもが病気になったりして、どうしてもあの時間に教会に行けなかったの。そうこうしている間に取り壊しが決まって。本当に、もう会えないんだと思ってた」
「お子さん、もう大丈夫なんですか?」
「ええ。手足口病が直った後も体調がなかなか戻らなくて。もともとあまり体の強い子ではないのだけれど、今回は一週間ほど入院しなくちゃならなかったから」
「結婚、されていたんですね」
うん。という頷きは声にはならなかった。後ろめたさがあった、という訳ではないのだろうが、それでもわざわざ口にすることではないと判断したのだろう。
ただショックがなかったかと問われれば、正直そうではない。
「この曲、いただいてもいい? もうちょっとちゃんと歌いたいなって」
「あ、はい。あの、どうぞ。こんなので良ければ」
「こんなの、じゃないわよ。とても素敵な曲。それに歌詞も」
急に距離が開いた気がした。
私は彼女のスマートフォンに曲を移すと、その日は用事があるからと言って、逃げるように帰ってしまった。
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