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今私は国立劇場の舞台に立っている。
観客席には1500人の聴衆が、主役である私を食い入るように見ている。
物語がクライマックスに差し掛かるところで、私の一人芝居が始まる。ここがこのお芝居の最大の見せ場だ。この場面だけを楽しみに来ている人も少なくない。
観客の視線は私に釘付けで、クライマックスまで目が離せないといった雰囲気だ。歌舞伎だったら大向こうから待ってましたと聞こえてきそうなくらい、観衆の高揚感が伝わってくる。
しかしそんな中、客席後方の通路で全身黒尽くめの男がゆっくりと歩いているのが見える。彼一人だけ私の芝居に興味がないようだ。無理もない。芝居を観ていると終盤疲れて寝ている人もちらほら出てくる。その点で言えば、今日はその男以外の全員が舞台に集中しているのでとてもありがたく役者冥利に尽きる。
私はこれから大声をあげて悔しがる芝居をする。国立劇場の外を歩いている人にも聞こえるくらいの大声を張り上げておいおいと泣くのだ。そんなことを知ってか知らずか、黒尽くめの男はゆっくりゆっくり舞台に近づいてくる。よく見ると右手には包丁らしきものを持っている。気のせいだろうか。
そんなことより芝居に集中だ。私は思い切り大声を張り上げて泣いた。観客はその演技に心を打たれたのか、悲しげな表情をするもの、もらい泣きするもの、この先の展開を見守っているものなど様々だ。
しかしその男だけは無表情でゆっくりゆっくり舞台に、いや、私に近づいてくる。私にはわかる。男の、私に対する殺意が。演じていても全身にビリビリ伝わってくる。
警備員や関係者は何をしているんだ?
客席を監視し舞台を守る立場にある警備員は皆私の演技に圧倒されて、体は客席を向いているが顔は舞台の方を向き、私の芝居に引き込まれている。気持ちはありがたいが仕事をしてくれ。
マネージャーだ。マネージャーは何をしている?劇場の一番後ろの壁の前にいる。なぜ泣いている?お前は泣いている場合じゃない。お前だけは。お前はこの舞台を何回も見ているだろう。練習も含めたらかなり見ているくせになぜ初見のように号泣できるんだ。
その男がかなり近づいてきて右手に握りしめている物は包丁であると完全に断定できる位置まで来ている。
舞台袖の横山は?舞台袖でセットの手伝いをしているアクション俳優の横山は。あいつはガタイもしっかりしていて柔道だか何だかの有段者のはず。横山はどこだ?いた。横山は袖で私の演技を盗もうとメモを取っている。なんて真面目な奴だ。私の芝居なんてどうでもいいからしっかりと客席を見ろ。目線を送っているが横山は全く気がつかない。
ああ、こんなに動揺しているのに自然とセリフがすらすら出てきて観衆を魅了してしまう。こんなに動揺しているのに終演時間を計算して芝居を進められている。これは役者病だ。
そうこうしているうちに、男は私の足元まで来ていた。この状況でも誰一人この男に気付かないのか。つくづく自分の飛び抜けた演技力に嫌気がさす。そして芝居を中断できない役者バカな自分に呆れてしまう。
思えば小学生の頃、初めて観た映画に魅了され、芝居というものにのめり込み役者を志し、役者になって気づけばもう50年の歳月がすぎた。映画やテレビドラマの主役を数多く演じてきた役者バカが舞台上で死ぬのは本望ではあるが、舞台上で殺されるのはごめんだ。
その時ひらめいた。
アドリブだ。観客が待ち望んでいるエンディングにはならないが、アドリブによって、皆が黒尽くめ包丁男に気づくように仕向けよう。そして上手くエンディングを迎える。誰かが男を取り押さえて、緞帳が下りさえすればこっちのものだ。
私は大泣きしながら芝居を続けた。「なぜだ。なぜ足元に見知らぬ男がいるんだ。この男は何者だ。もしや、私を地獄に引きづり落とそうとしている悪魔ではないか。嗚呼神よ。あなたはこのような状況でもなお私を苦しめるというのか」
すると客席からどよめきと感嘆の声が上がった。アドリブがうまくいきすぎて、ストーリーをさらに盛り上げてしまった。これでは観客の集中は途切れるはずもなく、当然足下の男に全く気付かない。舞台装置担当者。緞帳を下せ。今最高の決め台詞を放ったぞ。数秒間を置いてみたが緞帳が降りてくる気配がない。失敗だ嗚呼緞帳よ。このような状況でもなお私を苦しめるというのか。
観客には、私の大量の冷や汗はあたかも私の熱演による汗かの映っていただろう。
そして、恐怖で顔が強張っている私を観客は、「悪魔を心の底から怖がっている悲劇の主人公」と見ていたであろう。
私は目の前にいる包丁を持った悪魔に恐怖しながら芝居を続けていた。すると男は案の定包丁を持っている手を振り上げた。
しかし悪魔の攻撃を受けてこそ、この物語の主人公たりうるのだ。ここまでの流れで主人公が悪魔の攻撃を交わすという不自然な行為はできない。私は本当に役者バカだ。私は全身に力を込めた。
男が振り上げた包丁は私の太ももを切り裂いた。痛すぎる。予想以上に激しく太もも付近を斬りつけられた。太ももから血を吹き出しながら私は「悪魔め」と声を張り上げた。
男は舞台に上り、私の芝居には気にもとめず、大声を出してさらに切りかかってきた。私は男の攻撃を1回、2回と交わし、3回目をあえて体で受け止めた。包丁は私の胸の辺りを捉え、血が吹き出した。それでも芝居のために倒れそうなのを堪えてどうにか踏ん張っている。出血も含めて芝居だと思っている観客は、静かに私のセリフを待っている。この空気に応えるように私は言った。
「戦争と平和、どちらにしても選ぶのは私ではない、民衆だ。民衆の声なのだ」
私がセリフを言い終わるや、男は発狂して包丁を自ら自分の胸に刺し舞台上で倒れた。
私も舞台の上で倒れた。私は、胸を刺されてもなお芝居を続けた伝説の俳優として、名を残すのだろう。
私はこれで永遠の眠りにつける。
「竹田さん。竹田さん。竹田さんのセリフですよ。あれ?竹田さん、え?ちょっと、呼吸してないよ。救急車呼んで。場所は阿佐ヶ谷商工センターの小ホール。人が呼吸してないって。演劇ワークショップで芝居の稽古中急に呼吸が止まったって」
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