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「ふふ、旦那?…うん、一応いるよ。でも、ちょっと遠くにいるの。」
夕涼みを求め、訪れた小さなバー。そこには、いまにも爆ぜてしまいそうな怪しい火種が疼いていた―。
『 熱帯夜 』
9月も半ばに入ったこの日、上野は程よい疲労感を抱きながら家路についていた。
「あー、疲れた。よく頑張りました、私。」
思い返せば、この一週間はやけに忙しく、いつも以上に曜日感覚がなかった。今朝も、慌ただしく出社してから今日が金曜日であることを知ったぐらいだ。
「…もっとゆとりある生活をしたいものですなぁ。」
そう、ため息交じりに呟きつつ無意識に左手の薬指をさする。そこにはかつての感触はなく、あるのはただ言いようのない後悔だけ―。
「よっし!今日は飲むぞ。」
目に見えない何かを吹っ切るかのように拳を突き上げ、上野は無理に口角を上げた。―と、その時。視界の端に映り込んだ赤い看板。
「熱帯夜…?」
その瞬間、何かが擦れる音と甲高い金属音、そして眩しい光が上野の視界を奪った―。
「いらっしゃい。」
気が付くと、”いつもの”カウンター席に座っていた。渋く甘い声に導かれ顔を上げると、”いつもの”仏頂面が私を見ている。
「あ、あれ…?やだな、私疲れてるみたい。…マスターいつもの。」
苦笑交じりに注文すれば、ニコリともしない頷きが返ってくる。毎度のことながら、よくこれで接客が成り立っているものだ。再び広がった苦笑のまま、そういえばとスマホを取り出そうとして、やけに身軽なことに気が付いた。
「え、あれ?カバン…がない?」
おかしい、確か仕事終わりに立ち寄ったはず。サッと血の気が引くのを感じた。もしや何処かに置き忘れたのだろうか―。
「ねぇ、名前は何て言うの?…ううん、下の名前。」
瞬間、ビクリと肩が跳ねた。声のした方に視線を向ければ、奥の席に男女が1組腰かけているのが分かった。なんだ、私の他にもお客さんがいたのか。思わず安堵ともつかない息が漏れ、私は一時の間カバンの存在を忘れた。
「そう…ノブヒト、さん。」
別に耳をそばだてている訳でもないのに、妙に明瞭に聞こえる2人の会話は、はっきり言って淫靡な空気をまとっていた。
敢えてなのか、そうでないのか。”ノブヒト”と”さん”の間に生じた小さな間が、無関係な人間すらも赤面させてしまう程の威力があったのだ。気付けば腰を浮かせ、彼ら側に身を寄せてしまうほどに―。
「ふふ、旦那?…うん、一応いるよ。でも、ちょっと遠くにいるの。」
その瞬間、なぜか”知ってる”、そう思った。―と、目の前にスッと細身のグラスが差し出された。
途端、鼻腔をくすぐる甘い香り。琥珀色の液体は、無数の小さな水泡と共に蠱惑的な揺らめきを魅せる。私は、しばらくの間じっと見つめていたが、意を決して口元に寄せた。その途端、口内を駆け抜けていったジンジャーの香り。次いで訪れた白ブドウの酸味が、まるで仕上げとばかりにキュッと味を締め上げる。
「ああ、美味しい。」
自然と言葉があふれる。そうそう、この味。彼に教えてもらってから、よく飲むようになったんだっけ。
”私は”、薄らとピンク色に染まった彼の横顔を見つめ、意を決して口を開いた。
「ねぇ、旦那なんて捨てて一緒になろうって…言ってくれないの?」
息を飲む音がした。グラスについた水滴が、彼の無骨な手を伝っていく。
「ねぇ、2人でどこか遠く、誰も知らない場所に行こうよ。日本、ううん…外国もいいよね。あたし外国って行ったことないの。」
彼は、”信人さん”はその後なんて言ったんだっけ。
ああ、そうだ。
”旦那さんを大切にしないとね”って言ったんだ。
だから私は―。
「本日未明、○○市の繁華街にて暴走車が店に突っ込む事故が起きました。この事故で、上野ますみさん(41)が巻き込まれ、その場で死亡が確認されました。事故の経緯などについて、詳しく調査中とのことです。
先日、○○県の山間部より一部白骨化が進んだ遺体が見つかった事件に関し、司法解剖の結果40代~50代の男性であることが分かりました。また警察の発表によりますと、死後2年ほど経過しているとのことで…」
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