君がくれたものの唯一。

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君がくれたものの唯一。

 よく見る「桜」がよく聞く「ソメイヨシノ」と知ったのは、恥ずかしながら、生まれて二十七年目の春だった。  君は「枝垂れ桜」が好きだと言った。  柳の木は嫌われていそうなのに、確かに、項垂れた枝に咲く桜の花はとても綺麗に見えた。  花見を好きかもしれないと思ったのは、多分、君に出会えたからだった。 「桜」  名前を呼ぶと、何? と振り返る。丁度桜吹雪が優しく舞い、君の長い髪と一緒に風に踊った。 「絵になる」とよく描写される光景はなるほど、こういう時のことを言うのかと静かに息を飲んだ。……うっとりと、息を吐くべきだったのかもしれない。けど、僕は息を飲んだのだった。 「……今年も綺麗だね」 「ふふ。ありがとう」 「君のことじゃないよ」 「また。そう言う意地悪を言う」  僕達は幸せにはにかんだ。  暖かな日和だ。お花見日和。少し離れたところから、子供が騒いでいるような声が聞こえる。  此処は、少し静かなーーー僕と彼女だけの、穴場だった。  人が誤って踏み外さないようにと人工的に設けられた、柵の向こう側。小さな池だったものが枯れて、立ち寄れるようになったーーーでも、誰も立ち寄らない、静かで少し薄暗い場所。  喧騒からーー現世から切り離されたようなこの場所で君と出会ったのは、やはり、此処がそう言ったものから切り離された場所だったからなんだと思う。   「此処に来るのは…五年目かな」 「一昨年は来なかったじゃない。四年目よ」  そうだったかな、と僕は忘れたふりをした。こういう狡猾なところがあるから「人間は嫌い」だと、また君に言わせてしまうだろうか。  言うべき言葉があるのになかなか言い出せず、空を見たり、桜の花を見たり、時々彼女の横顔を盗み見たりして、徒に時を浪費した。 「…………あのさ、」 「うん」  桜は静かに空を見ながら相槌を打った。  きっともう、僕が何を言おうとしているのかなんてわかっているのだろう。 「僕…………」  桜に出会った日の事を思い出した。  それからの日々に想いを馳せた。  最愛だと、そう感じて戸惑った。  君がいなければ、今、恐らく僕はこの世に居なかっただろうとーーーそう思うとつい、涙が出た。 「結婚、するんだ」  やっとのことで、絞り出した声は震えて頼り無かった。最後の最後で情けないな、と恥じた。彼女がこちらを見ていないのを良いことに、今の内に涙を拭っておいた。  一度唾を飲み込み、喉を整えた気になって「今までありがとう」と言えば、変わらず声は震えて掠れていて、情けなくて笑った。  そうしてやっと、彼女はこちらをもう一度振り返った。 「おめでとう」  本当に嬉しそうに、でも何処か、寂しそうに。  桜は笑った。  美しいなと、そう思った。  きっとこの先生きる何十年も、彼女のその顔を忘れる事はないだろうと。 「……ごめん」 「何で謝るの」 「……桜を一人にしてしまうから……」  彼女は此処から動けないのに。  僕は、この土地を離れる。 「……謝る必要が何処にあるの。お礼を言うのは私の方」  彼女はそっと、僕の傍に降り立った。 「私を見付けてくれて、ありがとう」  ぎゅっと手を握り、祈るように自身の額にその手を押し当てる光景には覚えがあった。  僕が初めて、彼女と出会った時だ。僕が、もう死んでしまいたいと思って此処を訪れた時だった。  それは奇妙な光景だった。  薄暗い沼の畔に、一本の桜の木がポツンと咲いていた。  何でこんなところに?と思ったら、その枝に、寄り添うようにして座る女性が居たのだから驚いた。  桜の精だと言われれば、「ああ、そうなのか」とすんなりと納得してしまったのは、その容姿の端麗さのせいもあったし、世の中どうでもいいと投げやりになっていたせいでもある。  それでも僕達は言葉を交わし、互いの存在をしかと認識した。  初めて、独りじゃないと思えたのは、紛れもなく彼女のお陰だった。  生きてみるかと思ったのも、そう。  彼女は寂しそうなのに、実に強かだった。 『枝垂れ桜に生まれたかったな』  いつかに彼女は徐にそう言った。  愚痴のようでも、そこに羨望が混ざっているようでも無かったので、「なんで?」と純粋に訊いてみた。 『だって、好きなんだもん』  そう言って今度は無邪気に笑うので、僕はすっかりその言葉を信じてしまっていた。 「私は、あなたに出会えて、じゅうぶん……しあわせ、」  見慣れた笑顔で笑おうとしたのであろう彼女の目から大粒の涙が零れて、僕はぎょっとした。  ああ、やだな、と彼女は両手で顔を隠す。彼女はシダレ桜のように俯くことが出来ない。  そういえば、枝垂れ桜の花言葉は「ごまかし」だったなぁなんて今、思い出した。 「………いつか、こんな日が来るって、分かってた………から、だから、上手く、誤魔化して、わたし、泣かないって、………決めてたのにっ……」  彼女が泣くのを見たのは初めてで、僕はひたすらおろおろとした。僕の婚約者もどちらかと言えば、ふわふわとした桜とは似ても似つかない姉御肌の年上女性だったが、あまり泣かない人だった。   「嬉しいって、そう思ってる。本当に。でも、それでも、やっぱり、会えなくなるのは、さみしい……」 「……うん」  僕はやはりどうすることも出来なくて、暫くの間泣き続けた桜の傍に寄り添って、その間必死にその頭を撫で続けた。 「……お願い」 「うん」 「私の事を、どうか、いつまでも……忘れないで……」 「うん。当たり前だよ。忘れられるはずがない」  何年でも何十年先でもいいから、いつかまた、会いに来て。  桜はそう言いながら、また泣いた。こんなに泣くはずじゃなかったのに、と笑おうとして、またボロボロと大粒の涙を溢した。 「約束」  僕達はまるで子供のように、指切りをした。  そうして、遂に別れた。  
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