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「おはよう、もう朝だよ♪」
決まった時間に声をかける女に薄く微笑みながら「おはよう」と返すところから男の日課が始まる。
「もうすぐ朝ご飯出来るから、ほら早く歯を磨いてきて!」
男がユニットバスの鏡の前で歯を磨く間にも安いワンルームの小さなキッチンでは女がせかせかと立ち回りちゃぶ台に料理を並べていく。
朝食の支度が終わるのと歯磨きを終えて部屋に戻るのはいつもほぼ同時。ふたりは毎朝向かいに座って手を合わせる。
「お昼はいつもどおり冷蔵庫のなかにあるものを温めて食べてね。今日は少し残業があると思うから、お腹が空いたらお夕飯はあるもので先に食べて貰ってもいいから」
「ああ、わかったよ。ありがとう」
男は朝食を取りながら女の予定を聞いて段取りを把握し、食後すぐ仕事に出ていく女を見送って食器を洗い部屋を軽く掃除して一日を過ごす。
近隣の住民はその部屋に男が住んでいて部屋から一歩も出てこないことを知っていたし近しい者との間でくらいは噂話にもしたが、それ以上ふたりに関わろうとはしなかった。
低劣な治安で有名なこの街は、選り好みしなければなにかしら仕事があり金さえ払えば身元を証明出来ずとも部屋を借りられる懐の深さがあった。中年と言うにはまだ少し若い年頃の男女がそんなところに住み着いたのだから、良くない連中に追われているのか多額の借金でも拵えたか、なんにせよ訳有りに決まっている。
そして、ここでは誰も彼もが少なからず脛に傷を持っているのだ。
誰からも詮索されず愛する男とふたりで生きていけるこの街を、女はとても気に入っていた。
収入は決して多くは無いが家賃も同様に大した額ではない。男は贅沢を望みも女を置き去りに遊び歩きもせず部屋に戻ればいつでも優しく接してくれる。
ふたりで働けばもう少しは良い暮らしも望めたが、女は男が働きに出るのを望まなかった。むしろ彼が他人と接するようになれば、いつか自分を蔑ろにし始めるのではないかと根拠の不明瞭な不安を抱いていた。
ときどき映りの悪くなるテレビと週に1冊2冊の雑誌、そしてふたりの睦言と交わりだけが娯楽の質素な生活でも女に不満は無かったし、男も不満を訴えなかった。
女にとってはそれで十分で、それが全てだった。
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