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数日後の朝、女はいつもと変わらぬ素振りで家を出て、しかし職場には向かわず付近のビルにある非常階段のなかほどに身を潜めた。
そこは何日も前から調べておいた、自室の窓と出入りに必ず使う階段が一望出来、かつ高角度で向こうから気付かれることはほぼ無いであろう場所だ。
すっかり馴染んだとはいえ身元の証明も保証も無しに雇ってくれるような職場だから社会保険はもちろん有給休暇などという気の利いたものも存在しない。それでも上司に頼み込んでまる一日の休みを確保した。
今日消える一日分の収入が質素な生活に落とす影は決して小さくないとわかっていても、女は自分がいない部屋のなかで男がどう過ごしているかどうしても確認せずにはいられなかったのだ。
荷物を脇に置いて腰を下ろしスーパーで買った安物のオペラグラスで自室を覗く。カーテンは空いていて部屋のなか半分ほどが見て取れる。毎朝開けているカーテンだが、思えば帰ったときに閉っていたことはない。ずっと開けっ放しなのだろうか。
少し待っていると、キッチンで洗い物を終えたのだろう、男が部屋へ戻ってきた。そのまま部屋の隅にある掃除機を手にして掃除を始める。カーテンを閉めたり窓の外を気にする様子はない。
その手付きは特別丁寧でもないが杜撰とも言えず、まるでロボット掃除機の動きでも眺めているような気分だ。
特に何事もなく掃除が終わり男は窓を背にした定位置へ腰を下ろした。小さめのちゃぶ台にはテレビのリモコンが置かれているが手を伸ばす気配は無く、転がっている雑誌を手にするわけでもない。
十分……三十分……一時間……二時間……微動だにしない。
突如、なんの前触れもなく男が立ち上がった。
よどみない動作で部屋の奥へ消え、数分後には昼食を持って戻ってくる。時計を見ると正午を過ぎたところだった。
元の位置へ腰を下ろすと手を合わせたような動作が見えて食事を始める。早くもなく遅くもない淡々とした所作。
食事を終えると暫し部屋を離れ、戻ってきてまた元の位置へ腰を下ろし……それから、結局日が傾き始めて部屋に電気が灯るまで男は微動だにしなかった。
『特になにも。いつも通り穏やかな一日だったよ』
女の手と背中はじっとりと嫌な汗で濡れていた。既に辺りは暗くなって、普段ならもう帰っている時間なのに足が動き出さない。
信じられなかった。どう考えてもあんな一日を、それも毎日のように過ごせるとは思えない。
男は嘘を吐いていなかった。本当にいつも通り穏やかな一日を過ごしていた。けれども……見てはいけないものを見てしまった。そんな気持ちで頭がいっぱいになる……。
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