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「た、ただいま。ごめんね、その、遅くなっちゃって」
「気にしてないよ。お疲れ様」
随分遅くなったものの女は部屋へと帰ってきた。どうにか平静を取り繕おうとしているがあからさまに挙動不審な彼女に、彼はいつも通りに微笑んでなにも言わない。
出来合いのものでなんとか夕食の体裁を整えてちゃぶ台を挟んで向かい合うと、彼は穏やかに手を合わせて「いただきます」と呟いた。
いつも通り。あまりにもいつも通りだ。だからこそ昼間に見続けていた光景の違和感が膨らんでいく。
静かな食卓だった。
女は非常に気まずい気持ちだったが、しかし今日は一日男を見張っていたので自分から切り出せる話題がなにも無かった。そこで女はまたひとつ気付いてしまう。
男からなにかの話題を振られたことが一度も無い、ということに。
茶碗から恐る恐る向けた視線はまるで狙いすましたように男と合ってしまった。不自然に目を逸らしながら焦りからぽろりといつもの言葉を口走ってしまう。
「き、君は今日はどんなだった?」
「特になにも。いつも通り穏やかな一日だったよ」
いつも通りの返事だったが、そのあとにもう一言続いた。
「お前もずっと見てたじゃないか」
あまりの驚きに呼吸が止まった。微塵も変わらず穏やかな男の表情が、女にとってこの上なく恐ろしかった。
「な、なにを……」
絞り出した問いに男が目を細める。
「気付くともさ。お前が見ているからこそ俺がある。俺とはそういうモノだ」
なにを言っているのかわからない。女は震えながら後ずさる。
「お前が居なければ俺は俺で居られない。だがそれはお前もだろう?」
男は迫ってくるでもなく立ち上がるでもなく、恐ろしい声色を出すでもなく今まで通りに穏やかだ。
「俺が居なければお前はお前で居られない。だから共に生きよう? 俺にはお前が必要なんだ」
優しく、穏やかで、理性的な声。
「……じゃ、ない」
「なんだい?」
「あんたは、彼じゃない……」
「んー、あー」
男は困ったように眉を寄せて笑う。
「いやいや、そんなことはないだろう。どこをどう見たって俺は本人そのものじゃないか」
「違う!」
女が拒否するように叫び、俯いて嗚咽を漏らし始める。
「違うの……彼は、そんなじゃない……顔が、声が同じでも……全然違うの……どこ? 彼はどこなの? せっかくまた会えたと思ったのに……うぅ……」
「ふむ?」
独白のような嘆きに男が首を傾げた。
「またもなにも……お前の男ならずっとそこにいるが?」
「え……」
困惑した女に示すように、男は小さな押入れを指差した。
女はそこで初めて押入れの存在に気が付いた。なぜ今まで気付かなかったのだろう。一度も開けた記憶の無いその戸を震える手で開くと、そこには膨らみのあるトートバッグがひとつだけ置かれていた。
微かな腐臭が漂う。
振り返ると男が微笑んで頷く。
まさか、まさか……。
トートバッグの端を掴んでそっとなかを覗き込んだ瞬間、女はこの世の終わりのような金切り声を上げた。
そこにあったのは錆の浮いたサバイバルナイフと、乾いた腐肉が僅かに付着した頭蓋骨。
奥底に押し込めていた全ての記憶が鮮明に蘇る。
大学の新歓コンパで知り合った男。同棲を始めた男。甘やかされ慣れて自分勝手に振る舞う男。酒が過ぎてたびたび暴力を振るうようになった男。
女はそれでも男を見放そうとはしなかった。自身もまた男に依存するようになっていたからだ。
そして見放しはしなかったが……七年目の記念日デートを約束していた朝、深夜まで呑み歩いて起きられなかった男を、女は……。
「いやあああああああああああああああああああああああああああっ」
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