1.記憶喪失のふりをした

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1.記憶喪失のふりをした

   秋は戸惑っていた。  何故自分は後輩の男から手を握られ熱い視線を向けられているのだろうか、と。  しかし、こんな戸惑いはまだ序の口に過ぎなかった。  これからこの男から発せられる言葉に比べれば、手を握られている事など些細な問題だったのだ。 「俺は天杉夏、秋さんの後輩で──」 「へぇ、俺の後輩なんだ」 「──はい、それで……恋人なんです」 「へぇ、こいび……と…………は?」  病室に静寂がおとずれ、青年二人が見つめ合う。  呼吸音すら響かないのは、互いに呼吸の仕方を忘れているからだった。  露田秋は無気力な人間であった。  周りに関心が無く、プライドと言う名のものもたいして高くない。  必要最低限の事だけをこなし、その日その日をのらりくらりと生きているような男だ。  身長は平均、一度も染めたことの無い髪は黒で、近所の美容室でいつも無難な髪型に切ってもらっている。  将来の夢などもなかったのでとりあえず大学に通っている今年で二十歳になる無気力な青年、それが露田秋である。  そんな秋が交通事故に遭ったのはつい昨日の事。  命に別状はなかったが一時的に記憶喪失になったのだ。  家族の名前も自分の名前も分からなかった秋に家族は焦りの表情を見せた。  しかし医者から「その内思い出すかもしれないが、一生記憶が戻らない可能性もある」と言われた際に、 「へー」  と気の抜けるような返事をする秋を見て、 「あんたは記憶喪失になっても何も変わらないわね」  と家族は拍子抜けしたように呆れ顔で笑った。  そんな出来事から一日経って、家族の心配を他所に秋は記憶を取り戻した。  特に何かした訳では無い。  病院の食事は味が薄いなぁと思いながら出された昼食を食べている最中に、急に思い出したのだ。  階段から落ちた訳でもなく割れるような頭痛が襲った訳でもなく、思い出の写真をきっかけにした訳でもなかった。  ただ、何となく思い出したのだ。  良かった、これで面倒な事が避けられるとひっそり喜んでいる時にスマートフォンの着信が光る。  画面を開けばそこには大学の後輩からの連絡で「今からお見舞いに行きます」と言う簡潔なものだった。  この時秋は退屈していた。  頭を打っているから念の為動かないようにと言われているし、スマートフォンでの読書やゲームにも飽きていた。  だからだろう、秋に珍しく悪戯心が宿ったのだ。 「ちょっと驚かせてやるか……」  今から来るだろう後輩は家族ぐるみで仲がいいから、おそらく家族から自分が記憶喪失だと聞かされているはずだ。  だからこのまま記憶喪失のふりをしたらいったいどんな反応をするだろうか。  記憶が戻った事を伝えるのはいつでも出来るのだから、少し彼の反応を楽しんでやろう。  そんな、ちょっとした悪戯心だった。  連絡があって数十分間後に後輩である天杉夏がやって来た。  ノックの音で、今からいたずらを仕掛ける事を考えてニヤけていた顔を引き締め「どうぞ」と返事をすれば、神妙な面持ちをした夏が大きな袋をぶら下げて入ってきた。  明るい茶髪は短髪でツーブロック。それなりに整った顔に長身の彼はハーフパンツにTシャツと言うシンプルな服装であったが良く似合っていた。 「えーっと、ごめん……誰でしたっけ?」  秋は夏を見つめて、予め考えていた台詞を戸惑った風を装い言った。  そんな秋の様子に夏は少し目を見開いたが、すぐに笑顔を作ってベッドに近づき、近くのパイプ椅子に腰掛けた。 「ホントに……忘れてしまったんですね」 「すみません、日常生活に必要な事は覚えてるんですが人の顔はさっぱりで……」 「そうですか……」  そのまま口を閉ざしてしまった夏は、何故かじっと強い視線で秋を見つめ、秋はその視線の強さに居心地の悪さを感じ身じろいだ。 「あ、あの……」 「秋さん」 「へぁ、あ、はい!」  もしかしたら記憶が戻っている事を察しているのかもしれないと思い、やっぱりさっさと記憶が戻った事を言ってしまおうかと口を開いたタイミングで名を呼ばれた為に、返事の声は焦りから裏返る。 「俺の事も、忘れているんですか?」 「へ? あぁ、そう、だな……ごめん」  どうやら気づかれてはいないようだと内心でほっとして、申し訳無さそうに答えた。  すると夏はベッドに放っていた秋の手をそっと掴んできて、予想外の行動に驚いていたら夏は椅子から腰を浮かせさらに秋へと近づいた。 「……俺の、自己紹介がまだでしたね」 「そうだな……あの、この手は……」 「あなたと俺の関係を説明させていただいてもよろしいでしょうか?」 「あぁ構わないけど、それより手を……」 「秋さん!」 「はいぃ!?」  手を握られ、真剣な面持ちで妙に熱い視線を送られて戸惑う秋などお構いなしに、夏は更に口を開く。  そして、冒頭に戻る訳である。  
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