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「お、いい匂いだなぁ」
リビングに、赤いキャリーバッグを持った中年男性が現れた。トレードマークのチャコールグレーのスーツの下に、今日のYシャツはライトブルー。それに小紋柄の濃緑のネクタイを組み合わせている。ママのマネージャーの杉本新司は、どんなに多忙でもお洒落に手を抜かない。
「しんちゃん、来てたんだ」
「女王様は、向こうのテレビ局で用意した衣装にご不満でね」
ママの劇団エトワールは、現在全国7大主要都市を巡る旅公演の真っ最中だ。確か、先週は名古屋で公演していた筈。テレビ局ってことは、移動先のローカル局を1日「番組ジャック」して、舞台の宣伝をするんだろう。うちの看板女優はイメージをなにより大切にするから、僅か3分程度の出演でさえ、1ミリの妥協も有り得ない。用意された衣装が舞台の世界観に合わないと判断すれば、適したものをうちの衣装部屋まで取りに行かせる――それが、マネージャーに深夜の新幹線移動を強いることになるとしても。
「次、どこだっけ?」
「明日から10日まで大阪。そのあと広島に行って」
「あー、いいよいいよ、ごめん」
有能マネージャーは、全スケジュールを暗唱する勢いだ。軽い気持ちで聞いただけだから、慌てて止めた。
「そうだ、しんちゃん。ママの舞台に『アリス』ってある?」
「ルイス・キャロルの? 『不思議の国』と『鏡の国』があるけど、どっち?」
「え、2つあるの?」
「あるよ。『アリス』がどうかした?」
「今年の文化祭で、うちのクラスがやるんだよね。『不思議』だか『鏡』だか忘れたけど」
「へぇ、そりゃ観に行かなきゃな! お嬢の役は……」
「小道具係。来なくていいって。ママにも言わないで」
口元に苦笑いを浮かべたしんちゃんは、友子さんと素早く視線を交わす。あたしは、湧き出したモヤモヤを投影するように、バスケットの中のバターロールを掴んで一口大に千切る。
「おっ、ヤベッ! じゃ、またな、お嬢!」
赤いキャリーバッグを右手に、無作法にバスケットから失敬したパンを1つ左手に、彼は慌ただしく玄関に消えた。
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