20人が本棚に入れています
本棚に追加
act.4 あの日の鳶が高く舞う
マーヤの家は、電車で一駅のところにあるマンションの5階だ。小学生の頃はしょっちゅう互いの住まいを行き来したが、中学校に上がってからは、自然に足が遠ざかっていた。久しぶりの訪問とあって、友子さんは早朝から張り切ってクッキーを焼いて、持たせてくれた。
「まー、美姫ちゃん、しばらく見ない間に背が伸びたわねー」
リビングに通されると、マーヤママがキッチンからまあるい笑顔で現れた。
「いえ、それ程でも。あ、これ友子さんからです」
「まぁまぁ、ありがとう。気を遣わなくていいのよ」
小さい頃から知っているせいか、親戚のおばさんみたいだ。
「美姫、こっちこっち!」
「え、なになに」
ギプスに包まれた左足をリビングのソファーから投げ出して、マーヤが手招きしている。
「一緒に見て欲しいの!」
隣のソファーに腰を下ろすと、マーヤはリモコンを操作した。45インチのテレビ画面に映像が出る。旧テレビサイズのカメラで撮されたものらしく、映像の左右に黒い帯が入り、画質も粗い。
『まぁ、キティったら、毛糸玉をこんなに解いて!』
栗毛色のロングヘアに青いリボンを付け、青いワンピースの女性が、大きなぬいぐるみの猫に話しかけている。
『どうしましょう! ここは、鏡の中の世界だわ!』
「……マーヤ、これって」
「そ、『鏡の国アリス』。お願いだから、最後まで付き合って!」
素人劇団の、お世辞にも上手いとはいえない芝居が続く。ルイス・キャロルの原作を辿りながら、舞台上の“アリス”は“赤の女王”や“ハンプティ・ダンプティ”などの鏡の国の住人と出会う。そして、クライマックスの宮廷でのディナーのシーン。女王になったアリスの前で、“料理”は逃げ、“食器”も“兵隊”もクルクル踊る。てんやわんやのステージ上で、アリスは赤の女王をむんずと掴むと――。
「ええっ!」
「「あーあ」」
勢い込んだのか、衣装を踏んだのか、アリスは赤の女王と一緒にスッテンコロリン、派手に転んだ。その瞬間、周りの出演者達の動きも止まる。驚き、戸惑う表情……これも演技なのか?
「あはは。参っちゃうわよねー、もう!」
いつの間にか側まで来ていたマーヤママが、丸い顔をぷっくり膨らませて笑う。
『さぁさぁ、宴を続けるのじゃ!』
“白の女王”がアリスの手を取って立ち上がらせると、一足先に起き上がって逃げ出した赤の女王を追う。クルクル踊りは再開され、赤の女王を捕まえたアリスは、彼女と踊り――場面は暗転する。
スポットライトが中央に落ちる。第1幕の再現、猫のぬいぐるみを抱いたアリスだけが立っている。
『ねぇ、キティ。これは、あたしの夢だったのかしら? それとも、この世界は全部、“赤の王様”の夢なのかしら?』
幕が下り、その前にライトが当たる。カーテンコールだ。次々とキャストが紹介されていく。
『赤の女王、北野星華! そして、アリスは、田辺海咲!』
まだ姫川を名乗る前、パパと離婚する前の若き日のママと、マーヤママ。2人は親しいと思っていたけれど……。
「恥ずかしいわねぇ」
目の前のテーブルに、湯気の立つ紅茶とお持たせのクッキーを置いて、かつての主役は笑う。
最初のコメントを投稿しよう!