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第五話 てか、真澄さんに会いたいだけなんですけど
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家に帰って、というか、矢澤さんに送って貰って自宅である実家に着くと、矢澤さんの実家と僕の実家が、目と鼻の先にあるのだという事実が矢澤さんにバレてしまった。完全なる僕のやらかしでしかなかったのだけど、これは最早、覆水盆に返らず。僕は、腹を括って、いつでも遊びに来てね、と社交辞令を口にしてから、何度も此方を振り返って頭を下げる矢澤さんを見送った。
ファンとして、実家が近くにあろうとも、節度を持って生きて行こうとしてきたのに、こうまであっさりと、ご本人直々に距離を詰められてしまい、どうしたらいいか分からなくなる。しかも、極め付けは。
『これからは、細川さんの事、真澄さんって呼んでもいいですか?あと、俺の方は名前でいいんで。苗字で呼ばれても、返事しませんから』
あばばばばばば……なんで、どうして、そんな、天使発言ばかり繰り返すの。推しが尊過ぎて息が出来ません。元から人柄が良いのを分かっていた上でファンになっていたから、余計にクリティカルヒット。なんで、ちょっと上から目線なの。なんで最後頑張っちゃったの。頑張って無いかもしれないけど、本当はちょっとだけ意地悪というか、負けん気というか、所謂Sっ気があるだけなのかもしれないけど。だとしたら、普段の腰の低さと謙虚さとにギャップまで加わってしまって、これはもう、あかんが過ぎますよ。保護しなきゃ……どうしたらあの天使を穢れた現世から保護出来ますか……
「最近、ずっとスマホ胸の上に抱えて、棺桶の中に入ってんのかってくらい姿勢良く横になってるけど、どしたん」
「尊みを感じてるの。全身で」
「ふーん。なんか幸せそうな」
「うん。聞いてくれる?」
「聞くだけなら」
「今日ね、矢澤……律がさ、飼ってるワンちゃんの散歩中に一緒になって走ってたら、オーバーワークになってコーチでもあるお父様に叱られたんだって。だけど、散歩中に見つけた新しいカフェがワンちゃんも一緒に入れるお店だったらしくて……今度一緒に行きませんかって誘われた」
「へぇ、良かったじゃん。いつ行くの?」
「行かない」
「は?」
「いつ行くのかだけ聞いて、後は本人に許可だけ貰って、ワンちゃんと戯れてる律を遠くから撮影する。勿論何処にも流出させないし、後で本人にも確認して貰う」
「なんで」
「なんでって、なんで?」
「一緒に行けばいいじゃん」
「そしたら、純粋にワンちゃんと戯れてる律の邪魔しちゃうじゃん」
「いや、そこは純粋にお前と戯れてる律と戯れろよ」
あ、これ、平行線だ。所詮は推しを持たぬ者か……分かり合える筈も無し。
「お姉さんとお兄さんの問題はどうなったん」
「まだ、審議中だって。浮気の証拠はお互いに無いし、向こうの勘違いだ、の一点張りで、話が全然進まないらしいよ」
今のところ、再び僕を巻き込んで、という話には縺れ込んでいないから静観しているけれど、この先どうなる事やら。それでも、あの一件で僕が律のファンだという事実は本人に言わずとも伝わってしまったので、それからある程度砕けた関係性は築けているから、これから再び矢面に立たされる可能性は捨てきれないなと思った。それにしても、もしも、以前話していたお詫びのつもりが、ワンちゃん同伴OKのカフェだっていうなら斬新だな……そんな所も無邪気で可愛いな……
「なら、余計に律も、そんな距離感で接して来られたら困ると思うけど。ワンちゃん同伴OKカフェも、お前ともっと打ち解けたい律の気遣いかもしれないじゃん」
うぐぅ。そんな角度から斬り込まれたら、何も言えないじゃないか、幼馴染よ。確かに、あんな気遣い屋で気の優しい律なら、そう考えついてもおかしくない。ワンちゃんがいれば、会話の途中で無言になっても間が保つし、万が一、二人の話がどんな具合に進んでいるのかの話になったとしても、あまり深刻なトーンにならずに済む。だとしたら、やっぱり、律は、僕ときちんと話がしたいと思って、敢えて気さくに声を掛けてくれてると見た方がいいのだろうか。なんてこった……やっぱり天使じゃないか……
止めよう。律は、お詫びする場面を何処に設定するかで真剣に考えてくれているだけなのかもしれないんだから。あの一件以降、野崎先生と顔を合わせるのが気まずくて、クライミングスクールを休み続けているのは、当然向こうも知っているだろうし。だとしたら、余計に気を遣わせている可能性だってある。こんなんじゃ、どちらの方が大人なのか分からないな……
「受けた方がいいのかな、この話」
「まぁ、ただのデートのお誘いの可能性もあるけどねー」
「デート?………何の話?一体何処の誰の話ですか?オリンピック強化選手に最年少で選ばれた努力する天才に、そんな暇あると思ってるんです?」
「おっと、よく分からない地雷を踏んでしまったぞ?」
口を滑らせた幼馴染の歩に向けてぎらりと鋭い眼差しを向けると、彼はすぐさまハンズアップの態勢を整えた。その殊勝な態度には反省の色すら感じ取れたので、許して進ぜよう。
デート……恋愛ね……律の隣にいても納得の出来る相手なら問題ないと思わなくもないけれど、ファンとしては、どうしてもまだ、恋愛に生きる段階ではない、ただただ勿体無いと感じてしまう。恋愛をするにしても、それはまだ未来の話だ。律は今現在、競技者としてピークを迎えたばかりの一番大事な時期を過ごしている。オリンピック強化選手に選ばれた者として国の威信を背負い、日々、与えられる課題に向かって直向きに努力を積み重ねてきた。その血の滲む努力と時間の蓄積を無駄にする様な、理解の足りないパートナーと、無理に歩調を合わせて、天から与えられた才能を食い潰して貰いたくはない。これは、ハッキリとした第三者のエゴでしかないのだけど。スポーツにはどうしても年齢という目に見えたリミットがあるのだから、そこは耐えて貰えるだけの相手を自分自身と周囲とで話し合って選んで行って欲しいと、勝手ながらに思っていた。
偉そうだよね……どちら様ですか?最近はご親戚でも男女の関係に口を挟みませんが?ってな話だし。だから、普段はあまり口にはしないけど。そう思ってしまう自分自身の気持ちだけは、変えることが出来なかった。
血縁でもない、友人知人でも、ましてや恋人でもない相手に向けるこの感情の原動力って、何だろう。自分自身が、相手とどうなりたい訳でも、相手をコントロールしたい訳でもなく、ただ幸せでいて欲しいだけなのに。周りの人間関係や私生活にまで目を向け、眼差しを鋭くしてしまう。この執着心は、身体の何処から湧いてくるのだろう。
「普通に友達に誘われたのと同じ感覚で行ってさ、もしも深刻な話になったら真面目に聞いてさ、律の気持ちだけでもスッキリできたら良いよね」
「……うん」
僕は、矢澤 律という存在を知るまで、自分自身が、こんなにも傲慢な人間だとは思ってもみなかった。こんな風に、自分自身を省みない人間だとも、思っていなかった。他人に完璧を望むなら、僕自身もその発言や価値観に応じた、それ相応の努力をしなければならない。自分自身の虚弱体質に振り回される人生を変えてくれた大恩人相手に持っていい感情では決して無いのに。自分の至らなさを棚に上げて、恋愛はまだ先の話、だなんてどの口が言うのか。
幸せでいてくれたら良い。ただただ、僕の知る誰よりも。本当は、それだけだけど。それしか望む所はないのだけど。
貴方が。
高みに臨む姿。
高みを頂く姿。
栄光を勝ち取る姿。
その全てに、全身の血が沸騰する想いを抱いてしまうのも、本心なんだ。
律の中にある感情的な揺れ動きや、悩みや葛藤、家族間の問題なんて、早く雲散霧消するといい。その為に、僕の力が助けになるのだとしたら、いくらでもサポートしてみせる。
理解ある相談相手が欲しいというなら、いくらでも。僕は、律にとって、誰よりも信頼が置ける第三者(赤の他人)になろう。
自分自身の立ち位置を明確にして、うんうん、と頷いていると、ブブ、と胸の上に置いていたスマホがカトクを受信した。その相手は今正に話題の中心となっている律で、タメ口混じりの愛嬌たっぷりな内容で僕の返事を催促していた。
『もし一緒に行かないなら、明日散歩の途中に真澄さんの家に突撃しますからね』
『あ、でも明日土曜日だけど仕事あります?てか、休み知らない……そもそも、いつが会社休みなの?』
『犬の遊び相手になって下さいよ。他のみんなだともう飽きちゃってるんですよね』
『てか、真澄さんに会いたいだけなんですけど』
『マジで休みいつか教えて』
動悸、息切れ、気つけに見舞われ、ゔごぁ、という低い呻き声を吐き、スマホを持ったままその場に突っ伏す。可愛い。意味が分からんくらいに可愛い。相手は僕の何倍も身体つきのがっちりした成人男性なのに。無邪気過ぎて、ただのシ○タ。大丈夫なのか、これは。本当に保護しないと大変な騒ぎにならないかな。天使過ぎやしませんかね……悪い大人って知らないだけで沢山いるから、気を付けないとですよ。僕が二十四時間体制で見張るかな……だけど生きて律を守っていく為にも仕事は辞められないな、クソ……
『休みは、土日祝日だから、明日は休みだよ』
『ワンちゃんの遊び相手くらいなら、いつでも』
『あと、出掛けるならさっき教えてくれたカフェもいいね』
ピコン。……え、思った以上に返信早いな。待っててくれたのかな。でも土日もがっちり練習あるよね?時間配分どうなってるの?練習の邪魔してないかな、僕。と、悶々と頭を悩ませながら、通知をタップすると。
『さっきはカフェの話しましたけど、良く考えたら他にも犬いるからあんまり落ち着いて話せないよなって思って。だから、犬と遊びながらちゃんとゆっくり話すなら、真澄さんの家か俺の家にしませんか?』
あれ、ワンちゃんも入れるカフェの話は、あまり重要じゃなかったのかな?歩の話だと、気まずくなってもワンちゃん達を間に挟めて都合が良いとか、そんな風に気遣いとして思ってるんじゃないか、って話になってたのに。ちら、と横に座る歩に目を向けると、クッキー生地にチョコレートをコーティングした細いお菓子を一本齧りながら漫画を開き、僕に『どったの?』という目線を向けてきた。リラックスモード全開だ。マイペースなのは変わらないですね。お菓子の屑、漫画に落としたら暫く出禁にするからな。
「なんか、ドッグカフェの話が律の中で消えてて、いつの間にかどっちかの実家で話そうって話になってる」
「わぁ、間挟めなかったかぁ」
「うん。なんかゆっくり話したい話があるんだって。やっぱり二人の話かなぁ……何か進展あったのかも。思いの外深刻だから、とか?」
「………うーん、間に挟めなかったのは、ドッグカフェデート自体の話なんだけど、まあいいか。我慢の効かない歳だよな、まだ二十歳そこそこだもんな……」
「ねぇ、お前はさっきから何の話してるの?」
「え、俺?一から十までお前の心配しかしてない」
「僕の?……何の?」
「それは……まぁ、相手も一応色々と算段があるんだろうし、横から態々口出してそこ崩すのは、フェアじゃないよね。だから、言わない」
「何だよそれ、良く分かんない」
「………猫いるから見に来ません?の犬バージョンじゃん。何で相手が律だといつもの鋭さが無くなっちゃうのお前。相手が天使だからなの?言っとくけど、律だって一応は生身の人間だからね?あんまり隙ばっか見せてると頭からぱっくり行かれるよ?」
「???」
「あ、はい。もう、本日は営業終了です。ありがとうございました」
歩の言ってる意味が、半分も理解出来ないけれど、人間関係のいざこざに巻き込まれてしまった僕を心配しているのは、恐らく間違いは無いだろうから。
「いつもありがとう、歩。はいコレ」
感謝だけは口にして、新しいお菓子を口に放り込んでやった。
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