第四話 きっと、たぶん、重いよなぁ

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第四話 きっと、たぶん、重いよなぁ

・ 駅前の喧騒から離れた住宅街の路地裏に、その店はあった。大きな看板を構えるでもなくひっそりと佇むその店は、3畳程のスペースにカウンター席と一見さんお断りの半個室のテーブル席しか存在せず、オーナーシェフ自らが厳選して仕入れたその日の食材を、その日の内にメニューにしたためて提供している事で、予約の取れない店として地元雑誌やメディアでも取り上げられていた。 存在は知っていても訪れるのは敷居を高く感じていたその予約の取れない店に、飛び込みで入れた事に僕が驚いていると、野崎先生は、オーナーシェフである西川 徳馬さんがカウンターの向こうで黙々と作業をしているその間に、こうして飛び込みでこの店を利用できたその理由を、ひっそりと僕に教えてくれた。 「実は今日、付き合っている彼女と来る予定だったんだ。一応、記念日でさ。だから、ちょっと一人でいるのが辛くて……無理言って、ごめんな」 「そうだったんですか……いえ、僕じゃ代わりは務まりませんけど、良ければお付き合いさせて下さい」 「真澄は真澄だろ。それに、代わりに、なんて気持ちで誘ってないし。本当はずっと、真澄とこうして飲みたかったんだ。だから、寧ろ、いい機会だと思ってるよ」 さっぱりとした口調には、何の含みもなく、野崎先生の人柄が良く現れていた。先生には、地元のクライミングスクールで出逢った長年付き合っている彼女がいるのは、僕も知っている。その人を、どれだけ大切にしているのかも。だから、先生がこうして記念日を独りぼっちで迎える状況にならなくて済んで、僕自身もホッと胸を撫で下ろした。 「目鯛とアサリのアクアパッツァ。熱いから、火傷すんなよ」 噂に違わず美味しそうな料理が、手際良く目の前に並べられていく。西川さんは、食前酒に選んだ白のスパークリングワインに合わせた料理でおすすめは無いか、という野崎先生の漠然としたリクエストに、いとも簡単に応えてくれた。しかも、このアクアパッツァは、この後、二人前のパスタに変身するらしい。その料金は別途に取らないという話で、何ともお財布に優しいお店だなと思った。先生の奢りだから、それを口にはしなかったけれど。 「……本当はさ、知ってるんだ。あいつには、他に好きな相手がいるんだって。きっと、こうして段々と距離を置いて、自然に関係が消滅していくのを待ってるんだろうって」 お互いの共通の話題であるスポーツクライミングに関する和やかな会話がひと段落し、お酒が進み、程良くお互いのお腹が満たされた辺りで、野崎先生は、ぽつり、ぽつり、と彼女と自分の関係性についての悩みを打ち明けていった。僕は、何となくこうした話の流れになるのを察していたから、静かに頷きを返して、傾聴する態度を取り続けた。先生に受けてきた恩は、こんな程度では返せない。この人から多くを得て、多くを知り、僕は、今の自分を好きになれた。だから、これからどれだけ先生が正体を失おうとも、誠心誠意を持ってして相対そうと、心に誓った。 「脱サラして、この仕事を始めるって言った時は応援するなんて言ってくれたけど、それも最初だけで。収入が安定しなくなると、途端に冷たい態度を取る様になった。噂だけど、相手は既婚者らしいよ。それでも、そっちを選ぶって事はさ、そういう事なんだよ……そんな、女だけど……俺は……」 赤ワインで満たされたワイングラスを抱え込む様にして項垂れ、野崎先生は嗚咽しながら、段々と背中を丸めていった。その背中を摩るのは、出過ぎた真似だ。敬語を使う事を固辞した僕が、簡単にしていいものではない。そして、本気で誰かに恋をした経験がない僕には、芯からの共感を示す事も難しい。だから、僕に出来るのは、ただ黙って先生の隣にいる事だけだった。口惜しい気持ちになる。だけど、どうする事も出来ない。恋さえしていれば、と思えない自分も含めて、僕はなんて頼り無い存在なのかと、唇を噛み締めた。 「……ちょっといいか?」 隣で激しく嗚咽する野崎先生には聞こえない声量で、ひっそりと尋ねてくるその声に、僕は、一枚板の深い胡桃色のカウンターに寄せていた視線を上げた。するとそこには、さっきまで黙々と作業をしていた西川さんが、作業を手放して佇んでいた。 「男性とはいえ、こうした事情を抱えてるお客さんを一人で帰らせるのは危険だと思うんだが……知り合いなら、家を知っていたりするか?」 確かに。自分自身も、この後どうしたらいいのかと思っていた所だった。だから、こうして相談相手が名乗り出てくれたのは、はっきりと有難いと思った。 「いえ、自宅の場所までは……」 「なら、他の知り合いで、当たりが付けられそうな奴は?」 その質問に対しても、分からない、を告げる為に首を横に振る。スマホを勝手に見る訳にもいかず、クライミングスクールに問い合わせるにも開店時間はとっくに過ぎていて頼れず、途方にくれてしまう。改めて考えてみなくても、野崎先生と僕の共通点は、当たり前の様にあのスクールの枠組みの中にしか共存していないのだから当然なのに、僕は自分の立場も弁えず、それを申し訳なく思ってしまった。僕が、先生の申し出を受けて、もっとフランクな関係を築いていたら、違った今があったのかもしれないけれど。それは、後の祭りというか、何というか。 「仕方ない、最終手段を使うか……あんた、野崎さんが教えてる所の生徒さんだろ?」 「え……は、はい、そうです」 「じゃあ、これから野崎さんの知り合いを一人ここに呼ぶけど……そいつと野崎さんの関係性ついては、余り目を向けないでやってくれると助かるんだ。いけるか?」 色々と複雑そうな事情を抱えてる人物をこの場に召喚する自体になってしまったのは、この状況を踏まえると致し方ないか。これ以上はお店にも迷惑が掛かってしまうし、僕は、西川さんに向けて静かに頷き、了解を伝えた。 西川さんは、店に備え付けてある固定電話ではなく、自分のスマホを使って電話番号を呼び出すと、迷いなく電話を掛けた。数コール置いて、電話口に相手が立つと、久しぶり、と前置きをしてから、西川さんは気を遣わない砕けた口調で会話を始めた。 「悪いけど、野崎さん回収してくれ。あと、多分アパートの階段上がれないから、二人掛かりになると思うけど、俺はこの後予約が入ってるから動けないんだ。もう一人野崎さんの知り合いがこの場にいるから、その人と協力して部屋まで連れて行ってくれ」 目線だけで『それでいいよな?』と尋ねられて、一も二もなく頷くと、西川さんは口の端だけを微かに上げて笑った。その笑みは、西川さんの懐の深さを如実に表していて、僕は西川さんに対する親近感を、これまでになく、グッと感じた。 電話が終わると、その直後に、隣にいる野崎先生の大きないびきが、ぐう、と聞こえた。それを聞いた僕と西川さんは、二人して顔を見合わせてから、同じタイミングで笑った。 「………まぁ、野崎さんは困った癖が無い訳じゃないが、良い奴だよ。話によると、同い年らしいじゃないか。教室以外では付き合いはないのか?」 「はい、特には。飲みに誘われたのも、今回が初めてで」 「そうなのか?なら、あんたはだいぶと、野崎さんに気に入られているみたいだな。野崎さんは、この店の常連になって長いのに、この店を他の人間には教えたがらないからな」 「そう、なんですか……」 そんな風に、自分の大事にしている特別な場所に招いてくれた野崎先生に、僕はハッキリとした罪悪感を感じた。開襟を開いて、間口を広く取ろうとしてくれていたのは、他の人に対しても同じだと思っていたから。もしも先生が、僕だからこの場所に連れて来ても構わないと思ってくれていたのだとしたら、僕はなんて冷たい対応をしてしまったのだろう。 野崎先生と彼女さんが、複雑な事情にあるというのなら、これから先も、こうした場面に遭遇する事は少なくないかもしれない。だとしたら、僕に出来る事は出来るだけしていきたい、とそう思えた。 ぐっすりと寝入ってしまった野崎先生の肩に、冷え性対策で持ち歩いているブランケットを掛けてから、西川さんと和やかに談笑していると、カラン、と来客を告げるドアベルが鳴った。カウンターの中にいて視線をドアに向けていた為に、僕よりも早くその存在に気が付いた西川さんは、よう、とその来客に向けて気さくに声を掛けた。 「悪いな、忙しいのに。まぁ、座れよ。ノンアルコールで良ければ、一杯くらいは俺から奢るから」 僕もその存在を背中越しに確認する。予約のお客さんだと申し訳ないな、という気持ちで、恐る恐る。しかし、常連客や予約しているお客さんにしては、素直に席にもつかないし、余りにも無言の間が長かったので、思わず僕も、ドアの前に佇んでいるその存在に、視線を移して。 そして、そのまま、思考も呼吸も、ぴしり、と硬直させた。 モコモコとした黒のダウンジャケットに身を包み、頭にはすっぽりと、これまた黒のニット帽を被った全身真っ黒のその人は、それでも僕の目には光り輝いて見えた。 『生ける国宝』 ……何故此処に、今現在、世界的に注目を浴びている、希代の天才クライマー、矢澤 律選手が? 「嫌ですよ。その人と一緒に並んで飲みたくない」 「気持ちは分かるけどな、野崎さんはお前の義理の兄貴になるかもしれないんだから、少しは冷静になれよ」 「ならないでしょ。姉さんがどれだけその人に泣かされてきたと思うんですか」 「だからって、浮気は無しだろ。何があっても、理由にはならない。それはお前もわかってるだろ?」 「……だって、先に浮気したのは」 何故、愛くるしいどんぐり眼をきりりと鋭くして、彼は僕を睨み付けてくるの? 「貴方ですか?『マスミ』って名前の人」 そして、何故、僕の名前まで知っているの。そして、口にするのも嫌だとばかりに、苦々しくその名前を呼び捨てにするの。 「……そう、です、けど」 興奮して思考停止していた頭の中が、今度はすっかり冷え切って。やっとの思いで肯定を口にすると、その人は蔑む様な目を向けて、はっ、と鋭く失笑した。 「やっぱり、そうだと思った。姉さんが体調不良で来れないからって、この店にまでのこのこ現れるなんて、本当に最低ですね。それに、何ですか、そのブランケット。やってる事がソッチだと、気遣いまで女々しくなるんですか?」 グサグサと、胸に突き刺さる、身に覚えの無い言葉の数々に。言われずとも気が付ける、冷たい感情を露わにした厳しい視線に。 憧れて止まなかった対象に、心の底から憎まれている事実に、唖然とするばかりで。 「徳馬さんが仕事さえなければ、貴方になんて頼らないのに……図体だけはデカいからな、この人。アパートの鍵の場所くらい知ってるだろうけど、二階に運んだら後はそれだけやってくれたら、帰っていいですから。俺は、姉さんを傷付けた貴方の手は、出来るだけ借りたくないので」 何か、言葉を尽くして誤解を解こうだとか、自分自身の弁明をしようとか、そんな気持ちには一切なれず。ただただ、静かに。 ぼろりと、落涙した。 「律。お前、野崎さんの大事な生徒さんに、何て口を聞いてんだ」 「単なる生徒な訳ないでしょ。ああ、確かに、ある意味で大事な生徒かもしれませんけど」 「いい加減にしろ。勘違いしているにしても、言っていい事と悪い事がある。いくらお前が俺の幼馴染の弟でも、これ以上俺の大事な客を傷付けたら、今後一切出禁にするからな」 「……勘違い?」 誤解を解きたいとか、話し合えば分かるとか、こんなにも鋭い感情を憧れの存在から向けられてしまっては、そんな事を自分の口から話せる訳がない。見開いた眼から、止めどなく溢れていく涙を拭う事も出来ず、ただただ惨めに泣き続けるしかなかった。 「会話の中にも、俺なりに多少のカマを掛けたりしたけど、この人は、本当に野崎さんの教室に通っているだけの生徒さんなんだと分かった。野崎さんが浮気をしているかは俺には知ったこっちゃないが、その浮気相手かもしれないマスミって女と、この細川 真澄さんは、全くの別人物だ。それは、カウンターの内側から二人を観察していた俺が保証する」 自己肯定感なんて、元から地を這っていた僕だけど。だから、誰かから蔑まれる存在であったり、裏で貶されたりする存在であったりする自分は、当然受け入れて来たけれど。 だからといって、今の自分を漸く好きになれてきた自分の感情や、自分自身までを蔑ろにはしたくない。でも。 それが、憧れて止まない貴方であるならば、僕は。 今の自分を構築してきた礎である、貴方であるならば、僕は。 「……本当に、違うんですか?」 自分自身の名前すら、捨ててしまいたい。 「ぼ、くは……細川 真澄です。野崎先生とは、教室で知り合って、今日、は、はじめて、こうして、外で会いました。だから、もしも先生が、彼女さん以外にも好きな人がいたとしても……人違いだと、おもいます」 しゃくり上げながら、やっとの思いで自分自身の弁明をすると、僕の目の前にいた矢澤さんは、ひくり、と喉仏を強張らせて、言葉を失ってしまった。何か、とんでも無い思い違いをしていたのだと、漸く気が付いてくれた矢澤さんは、みるみると顔から血の気を失わせると、見る間に狼狽えて、自分の口元を手の平で覆った。 「………ッ、すみません。本当に……すみません。あの、俺、いや、この場所は、俺達にとって特別な場所で。そんな場所に、兄貴が初めて他の人を連れて来たって聞いて、絶対に浮気相手だって思い込んで、頭に血が……言い訳にもなりませんよね。本当に、すみませんでした」 感情で動いてしまう、口を滑らせてしまう、そんな経験は、誰にだってある。だから、この悲しい偶然を前にした矢澤さんの立場を考えれば、ある程度は仕方ないとして片付けてしまえる結果ではあった。大切な人を傷付けられ、大切な場所を汚されるという逆の立場に立った時、自分は冷静で居られるかと聞かれたら、それは難しい事だろう。だからこそ、僕は、自分自身の深く傷付いた気持ちには蓋をして、大人になろうとした。 大人になった、フリをした。 「大丈夫です。良い大人が、吃驚して泣いて言葉が出てこないなんて、それこそ勘違いを招く行為でしたよね。此方こそ、誤解させる様な態度を取ってしまって、すみませんでした」 「そんな……いや、その、謝らないで下さい。俺、本当に酷い事ばかり言って……」 「平気です。女々しいのは、自分でも自覚していますから、慣れっこです」 「…….ッッ、本当に、すみませんでした!!」 あくまでも『フリ』だから、こんな風にして綻びもある。だけど、僕はそれに対して、それ以上の言葉は尽くせなかった。それだけ深く傷付いたから、ではなく。 単純に、全てがどうでも良くなったんだ。 「細川さん、大丈夫ですか?やっぱり、俺が野崎さんを……」 心配そうに僕の様子を見守ってくれていた西川さんが、気遣いのある口調で僕に尋ねてきた。けれど僕は、その気遣いにやんわりと蓋をする様にして、ふわりと微笑んでみせた。 「いえ、僕はもう酔いも覚めてしまっているので。矢澤さんと一緒に、野崎先生を御自宅まで運びます。矢澤さん、道案内をお願いしてもよろしいですか?」 「は、はい。それは、勿論」 慌てた様子で、一転して僕に最大限の気遣いを見せる矢澤さんを見ても、心になんら、目立った感情が湧いて来ない。 鈍色にも、まだらにも、赤にも、黒にも、白にも、ならない。 無色透明の感情を他人に抱くのは初めてで。きっとそれは、僕の心を守る為の、ある種の防衛本能なのだと思えた。 会計は良い、という西川さんと押し問答をし、結局、自分の分の支払いだけを済ませる事で折衷案を取って店を出ると、冬真っ只中の一月の冷たい風が、野崎先生を間に挟んだ僕達の前髪を撫で上げていった。先生の自宅はここから歩いて10分程の場所にあるらしく、普段は徒歩で店に通っているそうなのだが、こうして酩酊してしまった以上は徒歩という移動手段は取れない為、矢澤さんは、実家から乗用車を借りて野崎先生を迎えに来たのだそうだ。しかし、車から下ろしても、二階に部屋があるアパートの階段が難所としてある為に、そこを突破するには、少なくとも男手が二人は必要なのだった。 こうした機会は稀にあるらしく、周囲は早く別の場所に引っ越せと促し続けていたらしいのだが、お金が貯まったら、という理由でこれまで野崎先生は逃げ回っていたらしい。今まで付き合ってきた中では、先生の人の良さばかりが目に入っていたけれど、深く付き合うと、やはり人には其々、思わしい所もあるんだなと思い、他の誰にも分からない様に、胸の中で苦笑した。 だけど、やっぱり、どう考えてみても、僕みたいに、自分自身の欠点を複数持っていると自負している人間には、先生みたいな太陽みたいに明るく朗らかな人とは、友達だなんて釣り合わないと思うから。幼馴染の真澄という、特別枠の人間でもない限り、僕は僕の領分という物を守って生きていこうと改めて心に決めた。 「今日は、本当にお世話になりました。後日、改めてお礼とお詫びをさせて欲しいので、厚かましい限りですが、ご連絡先を教えて頂いてもよろしいですか?」 上半身を矢澤さんが、下半身を僕が支えて野崎先生を担ぎ上げ、アパートの二階に進んで、鍵のある場所の指示を矢澤さんから仰いで扉を開ける。そして、先生を自室にあるベッドに靴を脱がせてから横にさせ、落ち着いて会話が出来る様になると、先程まであった矢澤さんの高圧的な態度は消え失せ、代わりに、生来からある生真面目で誠実な性格が現れた。矢澤さんは、僕の顔を真剣な眼差しで真っ直ぐに見つめながら、きりり、と表情を引き締めると、シングルベッドの隣にあるテーブルの前に三角座りをして休んでいた僕に、ずい、と詰め寄った。 「……いえ、誤解が解けたなら、僕はそれで」 ただ、話を複合的に考えれば、矢澤さんのお姉さんと野崎先生との間で、何らかの勘違いやすれ違いが起きている可能性が高いので、そこの話し合いは必要だと思えてならない。でも、それを口にするのはあまりに出過ぎた真似なので、口にはしなかった。矢澤さんは、僕の目から見て、本当に聡明な人だと思ってきた人だから、敢えて僕から何か言わずとも、二人を自然に促すだろう。 それに、こんな機会があったとなれば、二人の間にあった問題も、これ以上見て見ぬフリをしては置けないはずだ。だとしたら、矢澤さんも板挟みにあって、これから大変な時期を過ごす事になるだろうとは思うのだけど。悲しいかな、その未来を慮る必要性は、今の所、僕にない。 突き放しているつもりはない、ただ、入り込めば良い問題じゃないと分かっているから。そして、自分自身の中にある、無色透明な感情を、持て余していたから。 でも、恐らく僕は、今後この三人に、西川さんも合わせて、四人か……の人間関係のいざこざに巻き込まれてしまうんだろう。それは、確信として僕の中に存在していた。憂鬱で仕方ない。でも、乗りかかった船だ、一応は成り行きを見届けないといけないだろう。 まさか、憧れていた存在の家族関係の内輪揉めに巻き込まれてしまうだなんて、夢にも思わなかったけれど。登場人物全員の距離の詰め方が想定外過ぎて、頭がついて行けていなかった。 「そうはいきません。それだと、俺の気持ちが収まりませんから。せめて、連絡先だけでも教えて下さい。お願いします」 嗚呼、憧れていた、自分自身のモチベーションにしていた、生きているだけで丸儲け気分で応援してきた推しに、頭を深々と下げられながら連絡先の交換を迫られるって、一体どんな状況なのだろうか。トリッキー過ぎて、これまでの人生経験が何の役にも立たない。しかも、この感じは……後日また改めて会って、お詫びも兼ねて何らかの品物を渡されたり、もしくは今後の待遇を考えられたりする感じだよね。僕は、野崎先生に矢澤さんの大ファンだって話はいつもしていたから、いつか野崎先生の口から、実は真澄はお前のファンで……なんて情報が伝わったりして。どうしよう、そしたら間違いなく死ねる。どんな感情が爆発してそうなるのかは分からないけれど、間違いなく僕の命に関わる。 貴方に、謝って欲しい訳じゃ無いんです。 貴方に、いつも笑っていて欲しいんです。 だけど、それも重いのかな。 きっと、たぶん、重いよなぁ。 それでも、僕の選択が、貴方の笑顔を取り戻す一助になるのなら。 「分かりました、連絡先を教えます。ただ、改めて謝罪に来る様な行為は必要ありません。矢澤さんの誠心誠意は、充分伝わっていますから」 自分自身のファンとしてのポリシーなんて、どうでも良い。 「……それなら、今日のお礼だけでもしっかりさせて下さい。細川さんのご都合の良い日に合わせますから」 「お礼なんて……僕は、その、充分頂いている様なものですから」 「え?それは、どういう事ですか?」 「あ、……いえ、矢澤さんは、それこそ大変な有名人ですから、連絡先を交換しただけで、充分過ぎるくらいに、お礼になっているというか。でも、自慢したり、誰かに教えたりはしません。ぜ、絶対に」 あれだけの暴言を吐かれても、僕の中にある矢澤さんへの憧れの感情に翳りは無い。ショックはショックだったけれど、それだけ大切な人を守ることに一生懸命になれる人だという証拠にもなるのだから。 西川さんは言い過ぎだと言っていたけれど、傷付けられた人の代わりに刃となれる存在が居てくれなれければ、傷付けられた相手ばかりが痛い想いを抱えたままになってしまう。罵り合いの中に平和はないけれど、心の平穏を奪った相手に対する、此方にだって刃を持つ人間はいるんだぞ、という示威行為は必要だと思っていた。その意味では、矢澤さんはお姉さんの為に、大切な人や場所を守る為に、自分自身の出来るだけの事をしたんだと思う。 そうと納得がいく様になると、僕の心の中にあった無色透明な感情に、徐々に色がつき始めていった。少しずつ積み重ねた時間や、折り重ねられた矢澤さんの真摯な謝罪が、僕の中にある止まってしまった時計の針を動かしてくれたみたいだ。 だから、自分自身が、いま、本当は一体どんな感情に支配されていたのか、漸く自分でも理解出来たんだ。 悲しみからでも、怒りからでもなく、僕は再び、止めどなく泣き始めた。 「よかっ、た……よかったぁ……良かったよぅ」 深い、とても深い、安堵。 「矢澤さんに……嫌われて、なくて、……良かった……っ、よかったぁ……」 そんな、安堵からくる涙を流し、泣き噦る僕を、矢澤さんは、口をぽかんと開き、呆気に取られた様にまじまじと見つめた。年下のその人を困らせてしまっているのを分かっているのに、僕の涙は一向に止まる気配を見せず、僕は、ごめんなさい、ごめんなさい、と必死になって謝り続けながら、頬や目元を自分の掌でゴシゴシと拭った。 「あの、そ、そんなに強く擦ったら、頬っぺた赤くなるから……ティッシュ、使って下さい」 矢澤さんは、テーブルの上にあるBOXティッシュを掴んで、大量にそれの中身を抜き取ると、恐る恐る、という表現が一番似つかわしい態度で、それを僕の目の前に差し出した。しかし、それから直ぐに思い直したかの様に、自らの手で僕の顔を優しくそっと拭い始めた。 「溢れて無くなっちゃう。折角、こんなに可愛い目なのに」 ぶつぶつ、と口の中で呟きながら、僕の顔をそっとそっと拭う矢澤さんの表情は、どこまでも穏やかで。決して文句を言っている人の表情には見えなかった。
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