和樹

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和樹

 これは、もう十年以上も前のこと。僕は大学受験を控え、受験勉強に追われる日々を送っていた。勉強以外のことには目もくれず、ただただ目の前に広げた参考書や問題集と格闘していた。  というのは建前で、僕は高三のクラス替えで同じクラスになった右斜め前の席に座る和樹(かずき)の姿を、来る日も来る日も見つめていた。彼は部活を引退するまでバスケ部の主将を務めていたスポーツマン。イケメンで爽やかで友達も多い、クラスの人気者。僕は彼のことが日に日に気になり始めていた。  だが、運動も苦手でただの帰宅部であった僕にとって、和樹は高嶺の花だった。友達と楽し気に談笑する和樹の姿を遠巻きに眺めては、彼の行動を逐一観察するのだった。和樹の爽やかな笑顔に胸をときめかせ、男子高校生らしいちょっとおバカで子どもっぽい仕草にキュンと来る。彼の姿を目にしているだけで覚える幸福感。これは恋だ。僕は自覚した。  だが、どんなに彼を想っても、彼は僕の想いを知ることはない。こんなにも近くて、もう少しで触れることの出来る距離に座っている和樹。だが、そのほんの数メートルの距離が、僕にとっては越えがたい深い谷として僕の前に横たわっているのだった。  そして、この心に抱いた淡い恋心を、僕は友達にも家族にも明かすことはなかった。和樹にも、周囲の人間にも知られることのない、僕だけが大切に胸に秘めたこの恋心。ああ、和樹。何て君は愛おしいんだ。あの艶やかな肌にほんの少しでも触れることが出来たのなら……。でも、友達でもなく、殆ど会話も交わしたことのない一介のクラスメートである僕が、どうして和樹の身体に触れることが出来るだろう。結局、僕は彼の姿をただひたすらに眺め続けるだけだった。  そんな日々の中で、僕が秘かに楽しみにしている時間があった。体育の授業の前後の着替えの時間だ。和樹はすぐそばに自分をこれほど卑猥な目で見ている同級生がいるとも知らず、無防備にその肉体を曝け出した。何も知らない和樹。その無防備さがまた愛おしくてたまらない。  和樹の裸になった身体は、そこはかとない色気を醸し出していた。バスケ部の練習で鍛え上げた美しい腹筋に、逞しい胸。その両胸の真ん中にそれぞれ、桜色の小さくて可愛い乳首が一生懸命その存在を主張している。パンツまで脱ぎ捨てた和樹の股間からは、大人になりかけの、頭の先っちょがちょこんと顔を出した性器が丸出しになっていた。そんな姿を晒しながら、裸足の足をペタペタと鳴らして更衣室を行ったり来たりしている。その足音も何とも官能的に僕の耳を刺激する。こうして、和樹の全てが僕の目の前で惜しげもなく披露されるのだった。  僕は家に帰る度、和樹の裸体を思い出しては自慰行為に励んだ。和樹の艶めかしいあの身体に触れた感触を僕は想像し、脳内で和樹を滅茶苦茶に犯すのだ。  無防備に全裸を晒す和樹に、僕は耳元でそっと囁きかける。 「和樹、君がどれだけイヤらしい存在なのか、思い知らせてあげるよ」  何も知らない和樹は、僕が彼に想いを寄せていることを初めて知る。彼は「僕」という存在を初めて意識し、恥ずかし気に顔をパッと赤らめる。そんな初心(うぶ)な和樹の愛らしい唇を僕はそっと奪い、その裸体に舌を這わせる。汗にしっとりとしめった和樹の身体はしょっぱくて、でも甘く官能的な感覚が僕の全てを支配する。 「ああん」  和樹の悩まし気な喘ぎ声が、その愛らしい唇から漏れ出す。和樹は身体をよがらせ、僕に口付けを要求する。そして、僕を狂おしいまでに求め、抱き寄せる。和樹の身体と僕の身体が直接触れ合う。全身に和樹の裸の身体を感じつつ、僕は幸せいっぱいに彼の身体を抱き締めるのだ。  だが、そんなものはただの妄想だ。あの逞しい腹筋はおろか、彼の手さえ握ったことのない僕に、和樹の裸体を現実に僕のものとする術などないのである。そして、今日も体育の授業の後、無防備に裸体を晒す和樹の姿をただただ目に焼き付けるのであった。和樹の姿を見ることのこの上ない幸福感と共に、僕の心には常に空虚感が漂っていた。  だが、夢のような時間はたったの数分で幕引きとなる。今日も和樹は服を着ると、鏡の前で髪型を弄っていた。僕は若干の心残りを感じつつ、自分も制服に着替えて更衣室を後にしようとした。季節は夏。夏服は半袖のワイシャツで、肘から先は外に剥き出しになっている。荷物を纏め、外に出ようとした僕は、いまだ着替えをしているあるクラスメートの裸体に自分の肘が直接当たるのを感じた。 「ごめん」  慌てて彼に一言詫びを入れ、足早に更衣室を後にする。身体の当たった彼とは普段、特段仲良くしている訳でもなく、一介のクラスメートに過ぎない。何となく彼にぶつかってしまったことに気まずさを覚えた。  だが、その時、僕はふとある考えが浮かんだ。そうだ。「うっかり」彼の身体にぶつかってしまったことを装えば、大して和樹と親しくない僕であっても、怪しまれることなく彼の身体に触れることが出来るのではないか。それに気が付くと、その試みを実行に移したくてたまらなくなる。一方で、そんなことをして怪しまれたらどうしようという不安もあった。二つの相反する感情がせめぎ合う。  そうこうする内に、次の体育の時間になった。和樹は僕よりも先に更衣室に来て、着替えを既に始めている。僕はドキドキしながら更衣室の中に入る。もし、あの試みを実行に移すのであれば、出来るだけ「自然な」形で彼にぶつかる必要がある。彼よりも更衣室の入り口側で着替えれば、大回りをして彼のそばを通らなければならない。それはあまりにも不自然だ。僕は和樹よりも奥のロッカーを陣取った。  だが、そこまで来たものの、なかなか行動に移す勇気が出ない。もし、怪しまれたらどうしよう。そんな不安から、一歩がどうしても踏み出せない。彼が裸を晒しているのを横目でチラチラ見ながら、もどかしい時間が過ぎていく。その内、彼は体操着に着替えると、友達と連れ立って更衣室を出て行った。  僕は大きな溜め息をついた。やっぱりだめだ。こんなこと、成功する訳がない。  僕は和樹の身体に触れることを諦めて、体操着に身を包むと更衣室の外へと出て行った。  しかし、だ。彼に触れるチャンスは一回きりではない。体育の授業が終わった後、もう一度着替える時間がある。僕が更衣室で着替え終わった時、和樹は裸の身体を晒したまま、友達と談笑している。僕はもう制服に身を包み、更衣室を後にするばかりだ。どうしよう、どうしよう、どうしよう……。心臓がバクバクと大きな音を立てて鼓動を始める。僕は思い切って、彼の近くを通って更衣室の外へ出ようとした。彼にぶつかりに行く決心はまだつかず、当たるか当たらないかの微妙なラインを通って。  その時だ。僕の肘に、温かく、弾力のある何かに当たる感覚を覚えた。 「え?」  見ると、僕の肘は和樹の裸のお腹に当たっている。和樹が驚いた顔で僕の方を振り返る。 「ごめん」  和樹の顔をまともに見ることすら恥ずかしくて出来なかった僕は、俯きがちに彼に詫びると、一目散に更衣室を駆け出した。更衣室を出ると、僕は、先ほど和樹に触れた自分の肘を手で触った。触れた。あの和樹の裸の身体に、僕はとうとう触れたのだ。何となく、和樹に触れた肘の部分が温かい。鍛え上げられて無駄な脂肪の一切ない、一見硬そうな和樹のお腹は、驚くほどしなやかで柔らかでとろけるような温もりがあった。これが、和樹の感触だ。愛おしくてたまらない。和樹の温もりを僕は肘の先から身体全体へと染み渡らせていくのだった。  その後、僕はもしや、和樹に自分の恋心を勘付かれたのではないかとビクビクしていたが、特段変わった様子はなかった。放課後に至るまで、彼はいつも通り、友達とのバカ話に笑い声を上げ、授業中にはペン回しをしながら僕の右斜め前に座っているのだった。  それからだ。僕は体育の授業に合わせ、和樹よりも先に更衣室で着替えを済ませ、彼が裸になる瞬間を狙って、その身体に自然とぶつかってみせた。毎回彼に当たるのは、さすがに怪しまれる。だから、和樹の身体を触れられるのは、何回かに一回に限ると自分で決めた。それでも、和樹のあの温かなお腹に自分の肌が直接触れる感覚が幸せだった。僕は次第に大胆になり、肘だけではなく、腕全体を彼の裸体と触れ合わせることもあった。腕全体に残る彼の体温を、僕は何物にも代えがたい愛しいものとして、優しく片方の手でさするのだった。  ところが、だ。そんなことを続けて暫く経った頃。和樹が友達と話している会話が耳に飛び込んで来た。彼らは僕の名前を出しながら、こんなことを言っていた。 「あいつ、ホモなんじゃね?」  とうとう、僕の行動に和樹は疑念を抱いたのであった。そして、「ホモ」を侮蔑的に笑う彼らの会話に加わる和樹を見て、僕は自覚した。彼への想いが実ることは決してないことに。僕の初恋は、儚くも散っていったのである。  それからは、体育の時間に和樹の身体に触れることはなくなった。季節は巡り、冬服になると、手首まである制服のために、肘や腕で彼の肌を直接触れること自体が出来なくなった。僕の行為がなくなったためか、和樹たちが僕を「ホモ」として疑いの目を向けることはなくなった。僕は和樹と、ただの一介のクラスメートに戻ったのである。  そのまま、僕と和樹は碌に会話を交わすこともなく、高校を卒業していった。卒業する時、もう二度と和樹の愛しい姿を直接目にすることが出来なくなることに一抹の淋しさを覚えた。だが、その淋しさも、新たな地での大学生活を送る内に薄れていき、とうとう思い出すこともなくなった。  数年後、僕はとあるソーシャルメディアで和樹の個人アカウントを発見した。成人した和樹は髭を生やし、あの頃の爽やかで愛らしい面影は何処にも残ってはいなかった。それでも僕の記憶の片隅には、あの無防備に裸体を晒した和樹の姿が焼き付いている。今でもふとした瞬間に、彼の愛おしいあの姿を思い出す。高校生の和樹は、僕の青春の一ページに大切に刻み込まれている。
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