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春菜は、つかの間放心状態になった。しかし電話中であったことを思い出し、右耳に意識を戻す。
「もしもし」
通話はまだ途切れていないようだ。藤原が応答する。
「聞いてたよ。とにかく、普通に子守してればいいんだから、そんなに難しく考える必要ない。うちでも同じような仕事を十年近く続けている人がいるしね」
彼は、矢継ぎ早に話し続ける。
「もし困ったことがあったら、また電話かけてよ。メールを送ってくれてもいいし。じゃあ、あとはよろしく。頑張って」
反論する間もないままに、通話終了を知らせる音が鳴った。
春菜は、しばらくその場に立ちつくした。これでは、だまし討ちではないか。背中に注がれる視線を感じながら男を保育するところを想像してみるが、嫌悪感しかわかない。やがて考えるのも無駄に思えてきて、春菜は帰ろうと決心した。
部屋の引き戸に手を掛けたとき、背後で低い声が響いた。
「あれ、お姉ちゃん帰っちゃうの」
声を無視して、春菜は廊下へ出た。後手でそっと引き戸を閉める。
誰かに挨拶だけはしておいたほうが良いかもしれないと考えて廊下を見回すが、人の姿は見当たらない。どこかの部屋にいるのかもしれないが、どの扉をノックしたものか。
そう考えていると、引き戸の向こうで人の動く気配がした。畳を踏みしめながら、ゆっくりと近づいてくる足音。嫌な予感がして、そのまま玄関へと急いだ。
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