二 説明一 簪と亀甲屋

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二 説明一 簪と亀甲屋

 文月(七月)下旬。夕刻。  馴染みの小間物売り与五郎が簪を持って鍼医の室橋幻庵の家を訪れた。 「御内儀様にはおちついた物が良いかと・・・。やはり金細工でしょう」  与五郎は上り框に風呂敷包みを置いて包みを解いた。現われた小間物箪笥から見本の簪が入った浅い引き出しを上がり框に並べて簪見本を示した。 「そうだな。それならこの二本軸の藤子町の平打簪と赤珊瑚の玉簪を金で一本ずつ。  そして、こっちの二本軸の蝶の平打簪と瑪瑙の玉簪を、金と銀で一本ずつ造ってくれまいか」 「よう、ござんす。  金が、藤子町の平打簪と赤珊瑚の玉簪、蝶の平打簪と瑪瑙の玉簪の四本。  銀が、蝶の平打簪と瑪瑙の玉簪の二本。  しめて六本。  あさって葉月一日のこの刻限にお持ちします」 「そんなに早くできるのか」 「幻庵先生の御内儀様のためだ。あっしもがんばりますんで。はい」 「では頼んだぞ。このこと、おさきには内密にな。驚かせたいのじゃ」 「わかりました。今日、御内儀様はお出かけですか」  そういって与五郎は簪見本の引き出しを小間物箪笥に戻して風呂敷で包んだ。 「息子たちと公徳寺へ出かけておる。まもなく戻ろうぞ。  おお、そうじゃ。葉月一日は夕刻から往診に出るゆえ、夕七ツ半(午後五時)に届けてもらえると都合が良いのだが」 「ようござんす。では葉月一日の夕七ツ半に」  与五郎が風呂敷に包んだ小間物箪笥を背負って、立ちあがろうとすると、幻庵は懐から財布を取りだして与五郎に二両を渡した。 「では、これで」 「先生。二両は多すぎます」 「私の気持じゃよ。これまでも与五さんから簪を安く融通してもらった。  与五さんの簪は良い物ばかりだ。  あさってはおさきに気づかれぬように、私が家を出たその時に簪を受けとりたい」  幻庵は目配せしている。 「ようござんす。遠慮なくいただきます。では葉月一日の夕七ツ半(午後五時)に」  与五郎は礼を述べて二両を受けとった。  葉月(八月)一日。  夕七ツ半(午後五時)前。大八車引きの六助が風呂敷包みを届けた。 「おさき。薬が届いたゆえ、堀出雲守様の上屋敷に届けてまいる」  幻庵は妻のおさきにそう伝えて懐に入る鍼治療の道具を懐に入れ、六助が届けた風呂敷包みを持って家を出た。  和磨は幻庵の後をつけようと思い、少しばかり夕涼みに出てくると母のおさきに断って家を出た。和磨は、毎月一日に六助が届ける風呂敷包みが気になっていた。見た目は菓子折りらしいが、痛み止めの薬湯の甘い匂いがする。御禁制の阿片のように思えたからだ。  幻庵は家を出てまもなく小間物売りの与五郎と落ちあって注文の簪を手に入れ、本舟町から小舟町へ橋を渡った。  和磨は与五郎に声をかけ、父が簪を買った経緯を教えられた。 「先生に口止めされてますんで、内密にしてくださいまし」 「わかりました。この話は聞かなかったことにします。母がこれではないかというので、調べようと思います。私のことも内密に頼みます」  和磨は与五郎に小指を見せて、父の幻庵を尾行する理由をごまかした。 「へい、承知しました」  小さく笑いながらそういう与五郎の言葉を聞き、愛想笑いしながら和磨は幻庵の後を追った。  本舟町から小舟町三丁目へ橋を渡った幻庵は、堀江町三丁目から堀江六軒町へ橋を渡って、元大坂町の通りを南へ折れて、堀出雲守上屋敷の門をくぐった。  四半時もたたぬうちに幻庵は堀出雲守上屋敷から出てきた。そして元大坂町の通りを、家へ向わず東へ歩いた。住吉町の大通りへ出ると北へ歩いて、田所町で廻船問屋亀甲屋の暖簾をくぐった。 暮れ六ツ(午後六時)すぎだった。  父は何のために亀甲屋に来たのか・・・。往診か・・・。そう思いながら、和磨は自宅へ戻っていった。
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