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こころざしぐらぐらな春
最寄りの駅までチャリで五分。初日だからって気合を入れたら早く着きすぎた。来た時には人影は二、三人ほどだったが徐々に増えて、今やすっかり通学ラッシュの様相を呈している。こんな田舎の無人駅がテレビで見るような混雑ぶりになるとは知らなかった。ただ、やっぱり田舎なだけあって線に沿って並んで待つとかいう概念はなく、青空の下のホームのあちこちに仲間同士で小さな輪を作って待つ奴が多い。中には見知った顔もあるけれど、ぼくは敢えてそれらとは距離を取って、一人で駅の向こうの国道の更にその向こうにある潰れた商店の駐車場を見ていた。黒っぽい車が一台停まっている。隅の自販機のところで太っちょのサラリーマン風の男が缶コーヒーらしき物を飲みながらこっちをじーっと見ているっぽい。凝視されているようだが目が合っている気がしない。また視力が落ちたのかな。そろそろ眼鏡を買い換えなきゃいけないかもしれない。こないだ本屋で散財してしまったばかりなのに、どうしよう。
なんて考えている間に警笛が鳴り、四両編成の小型の「電車」(だいぶ後になってからこれが「ディーゼル車」であることを知った。どうりで線路沿いに電線が一つもないわけだが、以後も便宜上「電車」表記を続けることとする)がホームへと滑り込んできた。窓という窓がぼくと同じモスグリーンの制服で埋め尽くされていて、その壮観ぶりに感嘆せざるを得ない。
流れに従って先頭車両に乗り込んだ。ステップを上がると既に全ての席が埋まっており、ボックス席の間の通路にも窮屈そうに人々がひしめいている。真ん中に詰めろという車内アナウンスと背後からの圧に押され、鞄を胸の前に抱いてすみませんすみませんと謝りながら進んだらつんのめってよろめき、たたらをふんだ。
「わ!」
ぽふん。
うっかり誰かの胸に飛び込んでしまった。
「すみません!」
やばい、おっかない先輩だったらどうしよ。と、慌てて一歩下がって見えたのは緑のストライプの入ったネクタイ(よかったぼくと同じ学年だ)で、
「よ、おはよ」
「なんだぁ、堀越くんかぁ」
一週間ぶりに会った友人の顔を見て安堵したけれど、なんだかほんの短い間に更に身長差が開いたような気がしてちょっとイジケた気持ちにもなった。
ゆっくりと電車が動き出し、身体が前後にゆさゆさと揺れ、またも人にぶつかりそうになったぼくに、堀越くんは片手で吊り革をしっかり握ったままもう片方の手でぼくを引き寄せた。それはほとんど「抱き寄せた」と言ってよいほどの距離感で、傍目からみればだいぶ恥ずかしい絵面になっていそうだが、車内全体が寿司詰め状態だからか誰もこっちを気にしている感じはしなかった。ていうか、堀越くんの半径一メートル以内に入るといつもこう謎のバリアーに守られているような安心感があるのが不思議だ。
次の駅で別の高校の生徒がどっと降りたがそれ以上にぼくらと同じ学校の生徒たちがどしどし乗り込んで来た。車内はより一層窮屈になる。終点の降車駅までぼくらは生きていられるのだろうか?
そんなんだから電車を降りた時の開放感ったらなかった。駅舎からロータリーに出て、一方向へと続々と歩いていく同じ色のブレザーの背中の後を堀越くんと一緒に着いていく。ぼくはこの道を一人で歩くものとばかり思っていた。高校入学を機に一人で未知なる道を歩んで行くのだと。
そんな事を考えていたら周囲で「わあっ」と歓声が上がった。神社の境内から桜吹雪がこの細い裏道の上空に流れてきたのだ。お調子者の男達が花びらに向けて手を伸ばす。意外なことに堀越くんも手を伸ばした。
「取った」
ぼくの目の前で開かれた堀越くんの手のひらから、まるで手品のように数枚の花びらが舞い上がり、風にまかれて空に高く高く上がっていく。
「俺ら、桜運にだけは恵まれてるよな」
「確かに。入学式といえばいつも桜が満開だもんね」
春だ。希望に満ちた春だ。思わず浮かれ気分で新生活への期待が高まってしまうけれど、今この時からあの恐怖の大王が空から降りてくるという1999年の七の月まで、あと一年三ヶ月ほどしかないという。ぼくたちは絶望の縁に向かってあとちょっとの所を実は歩いているのである。まるで誰も憂いなど感じていないかのように振る舞っているけれど。
堀越くんはどうだろう。見上げてみれば、堀越くんはシンプルになんか用? といった感じで首を傾げた。「なんでもない」とぼくは笑顔で応えた。
住宅街の中をくねくねと何度も曲がり角を曲がって辿り着いた高校の正門の、入ってすぐのところにクラス分けが掲示されていた。堀越くんは掲示板を左から順繰りに見るつもりらしいが、ぼくは反対に右端から見た。たぶん七組……やっぱりそうだ。掲示板をまだ見上げている堀越くんのそばに駆け寄る。
「何組だった?」
「おー、三組。増田くんは?」
「七組」
「進学クラスか。すごいじゃん、おめでとう」
おめでたいのかな。でもまあ、この学校から大学に進学するとしたら進学クラスに入るしかないっていうから。入学オリエンテーションの時は満を持してって感じで書類の進学クラス希望のところにチェックを入れた。なのに先週堀越くんに偶然再会してからというもの、なんでだろう、ぼくの志は早くもグラついている。
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